第21話 黒宮桃のお願い
……お願い、何処にも行かないで。
◆ ◆ ◆
「……怒ってる?」
「……怒ってないよ」
「…………ごめんなさい」
「…………謝らなくて、良いよ」
そう言って、冬乃は少しだけ困った様に、薄く笑んでくれた。
保健室の暖房は設定温度が24℃。
寒くもないし、暑すぎもしない。
室内の隅っこで微細の稼働音を発しながら、加湿器が空間内の湿度を必死に保っている。
三学期が始まって三日目。
昨日は休んでしまったけれど、流石に今日は登校する事とした。
……けれど、教室には行っていない。
……私が足を向けたのは、ここ、保健室。
朝、着園からその足で保健室に向かい、扉を開けて入ったところでは体調不良という名目にしてはいたけれど、迎え入れてくれた保険医の朧先生には、なんだか色々、それこそ何もかも見透かされていた様にも思う。
冬乃は心配してくれた。
サヤちゃんもハルちゃんも心配して来てくれたけど、まだ顔を合わせる気にはなれなかったので、なんとなく、寝た振りなんかで躱してしまった。
放課後には、きっとまた来てくれるだろう。
その前に、きっとお昼休みの時間にも様子を見に来てくれるだろう。
だから、その前に、私は意を決しておかなければならない。
一つの答えを、自分の中で。出しておかなければならない。
「起きてる? 桃?」
問われ、私は頭まで被っていた布団をどかして、冬乃の横顔を視界に入れた。
この場所には冬乃の机と椅子がある。
保健室という場所で自習をする事が許されるのが白海坂の校風だ。
申請し、認可がおりればそれが許容される。
履き違えていない自由な校風が、白海坂の良いところだと誰もが言う。
学習スタイルでも、屋上の使用でも、部活の新設でも、それ等は例外では無い。
「……起きてるよ」
言ってベッドから身体を起こすと、冬乃は「あぁ、本当に起きていたのね」と、自習の手を休めて私のベッドへと腰掛けた。
「……朧先生は?」
「今は、席を外してるよ」
時計を見やると、時刻は大体四時限目が始まったくらいの時間。
「桃、今日は、どうしたの?」
「――っそ…………。あぁ、うん……」
不意に掛けられたその言葉が、私の心に少しだけ痕を残す。
贖罪というか、罰というか、所謂そういう……。
「……私、ズル休みしちゃったよ」
冬乃の顔が見たかったけど、なんとなく見れなかった。
冬乃が大切なら、私が一番しちゃあいけない事なのに……。
「……昨日、ズル休みして、それで、今日もズルしてここに居るの」
あぁ、駄目だ…………。
「……怒ってる?」
「……怒ってないよ」
「…………ごめんなさい」
「…………謝らなくて、良いよ」
言って、冬乃は私の手を握ってくれる。
その手がほんのりと温かくて心地良く、自分の手が如何に冷たくなっていたかを自身に分からせた。
一体、いつから私の手は冷たかったのか。
今朝から? 昨日から? それとも、一昨日教室で啖呵を切った時からか?
「手、少し冷たいね。桃」
「……うん」
「話、聞くよ? 桃」
「…………うん」
少しだけ、心を落ち着かせて。
これまで与えるのが当たり前だと思っていたし、それで良いと思っていた。それが当然だとは言わないけれど、そうする事が、私にとっての冬乃の愛し方だと思っていた。
だから、こうして冬乃から温かさを貰う事が、私には嬉しく、そして、同時に申し訳なくも思う。
彼女の温もりが、私に安らぎと、ほんの一握りの不安を……。
一度だけ、私は小さく深呼吸した。
「新聞部の掲示で、ハルちゃんが泣いてた……」
実際に泣いていたところを見たわけではない。だけど、何故だか私にはそう見えたし、サヤちゃんもきっと同じだっただろうと思う。
私達には、それをそうだと感じさせるだけの付き合いがあった。
冬乃は、黙って話を聞いてくれる。
「クラスの中も、学年中も、掲示の話で持ちきりで、面白がる子と、不快に思う子と、不安を感じる子と、色々いて……」
だから、私が、言ってやったの……。
「『アレは私の事だ』って」
少しだけ視線をあげて冬乃を見遣ると、彼女はやはり、少しだけ困った様に笑んでいて……。
「……それが、桃の言ってた、考え?」
問われ、私は首肯する。
「桃は、それが正しかったと思う?」
「…………」
「桃は、それで安西さんが喜ぶと、思った?」
「…………」
問われるけれど、正しいか正しくないかは、この際もうどちらでも良い。
ここで、重要なのは、私がどうしたかったかだ。
ソレをしようと思った、そしてその考えに至った当初こそ、私はハルちゃんの隠れ蓑として、それ以外にも沢山いる誰かの隠れ蓑として、私は自身を差し出す様にと、そう思っていた……。
「……冬乃、あのね――」
「…………?」
「私、冬乃の言う通り、そうするのが一番良いと、そう思ってたの。私が、ハルちゃんとか、他の誰かとか、そういう人の、隠れ蓑になれるなら、それで良いと、思ってたのね……」
だけどね、違ったの……。
「結局、私は自分本位だったんだなって……」
「……桃?」
冬乃に握られた手を、私は少しだけ強く握り返す。
心臓が脈打つ。
体温が上がる。
恥ずかしくて恥ずかしくて、彼女に吐露する本心が私を辱めで殺すとしたら、それは今この時が、きっと最適だろうと、そう思う。
「好きよ、冬乃」
「うん……」
「好き」
「うん。私も、桃が好き」
足りない。
何度言っても、言い足りない。
あの日……。
中庭で星波さんに会った日。
《もし、私は、彼女が男の子に恋をして、男の子を好きになるとしたら。寂しいと思うかも知れないけど、それ以上に、何だか嬉しいかも知れない》
私はそう言った。
《あの子が他の人と違うなんて事は無いんだ。真っ当に大学も行くし、就職もするし、男の子を好きになるかも知れない。あの子は、他の子と同じなんだよ》
私は確かにそう言った。
《私はあの子に、ただただ普通に、他の子と同じ様に幸せになって欲しいから。それが私との幸せならそれ以上の事は無いけど、それが私じゃない他の人との幸せだったとしても、私は嬉しい》
……私は確かに、そう言ったのだ。
「……冬乃」
嘘は言っていない…………。
だけど、それは私の本心だったの…………?
「……私、冬乃の事が――」
あぁ言ったのは、嘘じゃない。
だけど、私は、冬乃を誰にも、取られたくない…………。
「涼しい顔をしている積りで、やっぱり私も不安だった……」
「…………うん」
「新聞部が悪意の有無しに関わらずあぁいった文書を掲示して、それが自分の事ではないと分かっていたとしても、好奇の目で自分を見られたり、冬乃がそういう目に晒されたり、やっぱり、そうなるのが、とても不安だった……」
「…………うん」
「怖かった……」
「…………うん」
「誰かに、冬乃を取られるのが怖かった……」
「…………うん」
「今であれ、未来の誰かであれ……」
「…………うん」
「いつでもひんやりと少し冷たい冬乃の手の平が、自分のものでは無くなるのが怖かった……」
「…………うん」
「冬乃は誰のものでもないのに……」
「…………うん」
「冬乃は自分の好きな人を自分で決める権利も意思もあるのに……」
「…………うん」
「私は我儘で、独占欲も強くて……」
「…………うん」
「少しでも長く、貴女の側に居たくて…………」
「…………うん」
私が…………。
だから、私は…………。
「……お願い、冬乃」
「……ん?」
「……少しだけで良いから、私を抱き締めて……」
言うと、握られていた手が解かれ、冬乃の腕が私の背に回され、抱き寄せられる。
今日は冬乃の頬が温かい。
腕が、胸が、首が、頬が。
冬乃の肌が、温かい。
「…………っうぅぅ、冬乃、好きぃ」
「……桃は泣き虫さんだね」
頭を撫でられ、髪を梳かされ、そうされるのが気持ち良くて、保健室の匂いとか、冬乃の匂いとか、冬乃の心臓の音とか、自分の心臓の音とかーー。
「……ごめんなさい。冬乃、好きなの。貴女の事が……。好き。誰にも取られたくない……。冬乃の事が好きなの……。私、……ごめんなさい。ごめんね。好きなの……。冬乃が好きなの……。私、好きなの、貴女の事が…………」
恥ずかしかった。
だけど、言わずにはいられなかった。
貴女の事を私が愛しているという事を、知って欲しかった。
これまでに、何度も言っていた筈なのに。
それでも、何度言っても足りない。
知って欲しい。
伝えたい。
あぁ、駄目だ……。
もぅ、気持ちが抑えられない…………。
「……冬乃、ごめん。ごめんね……。もう駄目……。ごめんね……。もう、分かんないけど、いつからか分かんないけどね、なんだか、もうずっと、貴女の事を考えると……、お腹の辺りが凄く切なくて……、お願い。お願い冬乃…………」
それがあっているかは分からないけれど、何となくそう感じたという確信があって。
私の初めてのキスは冬乃の味がした。
自分から求めて、彼女にキスをしてもらって、本当についこの間まで『そういう事』に興味など全く無かったのに、初めてされたキスで、もう冬乃の事しか考えられなくなった。
冬乃の唇が柔らかくて、舌が柔らかくて、口内が温かくて、頭が何の信号を受けたのか、若しくはソレ以外の信号を全て遮断したのか、何も考える事が出来なくなって、冬乃の事しか考えられなくて、冬乃との気持ちの良い事しか、考えられなくて……。彼女の背に回した腕に自然と力が入り、それなのに全身の力が抜け、いつもは非力な冬乃に押し倒され、組み敷かれると体格差から私が冬乃に敵う筈も無く、今が授業中という事に罪悪感を覚えるけれど、何故だかソレが辞められなくて、内側から登ってくる何かに、私は抗えなくて…………。
「――っ!! っぷぁ…………、はぁ、はぁ…………」
解放された唇からは唾液が糸を引いて、俯瞰して見ている自分が『あぁ、こういう風になるのか』と明後日な感想を述べているのに反して、現実に冬乃を目の前にする私は更に強く彼女を求めていて――。
「…………桃の唇、柔らかくて、甘い、貴女の味ね」
そう言って、頬を紅色に染めた冬乃が笑んでくれるから、私は、私はもう――。
「……ごめんね。ごめん、冬乃……。切ないよぉ…………。お腹も、胸も……。お願い、冬乃…………。ごめんね……。ごめんなさい…………」
お願い、冬乃……。
貴女に、静めて欲しいの…………。
「好きだよ、桃。私も、桃の事が好き…………」
言って、冬乃は頭を撫でてくれて、優しく頬を合わせてくれて、私のブラウスのボタンを、上から一つずつ、丁寧に外していく。
死ぬ程恥ずかしかったけれど、これ程幸せな事も無いとも思った。
◆ ◆ ◆
お昼休み。
ハルちゃんには泣かれて、サヤちゃんにも泣かれて、そしたら私も泣いてしまって、それが少しだけ可笑しかったから、この話はもうここで、この場所で終わりにしようという事になった。
二年生に進級するタイミングで私は教室に戻る。そういう取り決めで、三学期中は保健室での学習をする事への認可がおりた。
今回の新聞部の件。
誰も傷付かないという方法はあったのだろうか?
そういう選択肢はあったのだろうか?
私がやらなかったら、誰かしらが何かしらをやったのだろうか?
考えても詮無い事は、もう考えない様にした。
それに、私がこうして出しゃばった結果として、私は冬乃と過ごす三学期を得る事が出来たから。
きっと、私はどうしようもなく自分本位で自分勝手なのだろう。
保健室内で彼女と机を並べて勉強しながら、私はそんな事を漠然と思っていた。
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