第16話 黒宮桃の肯定

貴女の幸せが、私の幸せでありますように。


◆ ◆ ◆


この前の事は怖かったけど、今は、何となく星波さんがどうしてそういう事をしたのかが気になるの。


初めこそ『大丈夫』とか『何でも無いよ』とかそういう言葉で躱してはいたけれど、とうとうハルちゃんの気迫に押され、サヤちゃんはポツポツと先日の事を吐露し始めた。


途中、少し涙ぐむ場面もあったけれど、サヤちゃんはそれを堪えて言いを続けていた。


「……私ね、奥海さんの事が好きなの……。それでね、奥海さんも、私の事を好きだって、そう言ってくれてるの……」


サヤちゃんはそう言っていたけれど、私もハルちゃんもその事には薄々気付いていた。

中学からの付き合いで、大体三年くらいの期間だけれど、こうして友達として一緒に過ごしてきた日々は、私とハルちゃんにそれを気付かせるには十分な年月だった。

ハルちゃんが美術部に入って再び絵を描き始められたのも、きっとそういう事が直接の影響としてあったのだと思う。時たま、放課後に校内とか校庭とか、色んな場所で絵を描いているハルちゃんの隣には、決まって隣のクラスの殻梨さんが居た。


何となく、二人の事は知っている。


事情とか、ハルちゃんが、殻梨さんが、誰の事を好いているか、とか。


……私の事を、サヤちゃんとハルちゃんはどれだけ知っているのだろうか?


友達として知っていて欲しい気もするし、知っていて欲しく無いという気持ちもある。


私は何方でもかまわなかったけれど、私から進んでその話をしようとも思わなかった。


でも、もし星波さんに迫られていたのが私だったら?


もし、星波さんに迫られていたのが冬乃だったら?


私には、何が出来ていて、それをどう感じただろうか……。


「星波さん、私とハルちゃんには普通に接してくれるよ。サヤちゃんにも、傍目から見たらそう見えると思う。……けど、そういうのが本当なら、……なんて言うか、良く無い事だから――」


そこで私が言い澱むと、ハルちゃんは「星波さんから嫌がらせを受けてるなら、それはやめてもらわなくちゃいけない」と、ほんの少しだけ語気を強くしてそう発した。


ハルちゃんは続ける。


「良いとか悪いとかで見たら、それは絶対に悪い事だから。これは私がクラス委員とか、そういう立場だからじゃなくて、友達として沙耶がそういう嫌がらせを受けてるんなら、やっぱりやめて欲しいと思うし、それは誰に対してもやっちゃいけない事だと思うから」


ハルちゃんの言葉は力強かった。

断固とした反旗の意思があり、星波さんが編入生だとか、そういう事には関係が無いと言い切った。


……けれど、サヤちゃんの言いは違った。


「……あのね、確かにそういう事はあったけど、そういう事をされたのは一回だけだったし。別に、無視されてるとかでもないし。他の子がそういう嫌がらせを受けてるなら辞めさせる理由もあるけど、……そうじゃないなら、ね?」


言って、サヤちゃんは少しだけ困った様に苦笑いを浮かべて見せた。

何だか頼り無く、悲しいのだろうか、それとも不安なのだろうか……、それなのに、星波さんを気遣う様な、心配する様な、そんな表情で……。


サヤちゃんのその様子を受けて、ハルちゃんはサヤちゃんに気付かれない様に奥歯を噛み締めて、サヤちゃんから見えない位置で拳を強く、爪痕から血が滲むのではというくらい握り固めていた。


ハルちゃんの気持ちは分かった。

私もハルちゃんと同じ気持ちだった。


サヤちゃんは優しいから、傷付いてるのが自分だけなら、自分じゃない誰かを守ろうとしたり、手を伸ばそうとしたり……。


星波さんは、サヤちゃんの笑顔に影を落とした。


奥海さんの事を好きだと言ったサヤちゃんの笑顔から灯りを奪っている星波さんの事が、私とハルちゃんは許せないのだ。


大切な人の笑顔を奪っている奴が許せない。


中学からの三年間。

友達としての三年間。

それは、私とハルちゃんが、星波さんに対して憤りにも等しい苛立ちを募らせるのに十分な、サヤちゃんとの年月だった。


◆ ◆ ◆


別に、ただの気晴らしよ……。


そう言って、星波さんは視線を逸らした。




放課後。

演劇部の活動がある今日は昼から曇りがちになり、一日の修学が終わる頃には細かく雨が降り始めていた。

幸い演劇部は屋内での活動が多いので、雨天で部活が中止になる事はない。発声練習で台詞を一回噛むとグラウンド二周が腹筋三十回になるだけだ。

運動部が屋内練習でやり場の無いスタミナを筋トレで発散してるのを横目に、私は講堂への廊下を進む。講堂奥にある一室が演劇部の部室になっているのだ。


と、その道中。

中庭を解する吹き抜けの渡り廊下を通っているところで、だ。

雨の降る中庭で傘を差して、雨粒が池の表面に作る波紋を眺めている女の子がいた。



何か、居るのかな?



中庭の池には魚と亀がウロウロしていて、生物部がそれを世話している。なので、何かが居るのは確かなのだけれど、彼女がそこで何を見ているのかは不鮮明ではある。


少しだけ身を乗り出してみると、彼女は落としていた視線をあげる。

必然的に彼女の視線と私の視線がかち合う事になったのだけれど、まぁ、何というか……。


星波さんは私に気付いてこちらに手を振ると、ペタペタという音が聞こえる様な足取りで歩み寄ってきた。


「何か居たの?」

問うと、星波さんは「特に何も。亀は何匹か見えたよ」と、そう答えて薄く笑んで見せた。



「黒宮さん、これから部活?」


「ん、そうだよ」


サヤちゃんの件があり、星波さんには何となく警戒心が湧いてしまっている。

それでも、それを表に出さない様、なんとか抑え込んで、私はそう応じた。

『黒宮』呼びについての訂正を忘れていたけれど、それは私の問題なので、星波さんは特にそれには構う事もなく、先を続ける。


「私も、そろそろ何か部活に入ろうか考えてるんだけど、なんとなく入って行き辛いのもあるのよね。もう十一月だし、大体どこの部活もコミュニティが出来てると思うし」


言って、少しだけの苦笑いを浮かべる星波さん。


やはり、それだけ見たり、話し方だったりを聞いているだけでは、到底星波さんが『そういう人』には思えなかった。


「じゃあ、演劇部なんてどう? 私も演劇部だし、ほとんど三年生は学園祭の舞台で引退しちゃってるし。全体活動に近いからコミュニティもあって無い様なものだし」


言うと、星波さんは「演劇部かぁ」と少しだけ思案し、傘を畳んで屋根のある渡り廊下へと雨宿りした。


「……演劇部は、難しそうだなぁ。私、そういう経験無いし。多分演技とかにも疎いし」


「そっか。まぁ、向き不向きとかもあるしね。うちの学園の部活は、入ったらずっとそこに居なきゃダメって訳じゃないから、色々入ってみるのも良いかも知れないよ」


「えぇ、ありがとう」

星波さんは言うと、「じゃあ、美術部とか、良いかも知れないなぁ。今度見学に行ってみようかしら」と、そう続けて、笑顔を浮かべて見せた。


星波さんの笑顔はとても可愛いらしい笑顔で……。


だから私は、余計に……。




「…………駄目」




考えるより先に言葉が出ていた。


慌てて口を押さえるも、星波さんは目を丸くして私に視線を投げてきている。


「…………あの、違くて」


言うが、それ以外の弁解の言葉が後を続かない。

薄氷にヒビが入り、星波さんの「……何で?」の言いで、それが割れた様な気がした。


「美術部は、駄目なの?」


「……そういう訳じゃ――」


「じゃあどういう訳なの?」


「…………それは――」


何を……、何を言えば良いんだろう……。

サヤちゃんの件が頭を過る。

ハルちゃんの気持ちが内側に湧き上がる。

憤りと苛立ちが、私の中で浮き沈みして、私に何方を選択させようとしているのかが……。






「…………殻梨、さん?」





「………………」





「…………それとも、安西さん?」






雰囲気が、変わった。



少なくとも、私にはそう思えた。






「ハルちゃんは、私の友達だよ」


「知ってるよ」


「サヤちゃんも私の友達」


「それも知ってる」






「……私の大切な人、虐めないでね?」



言うと、星波さんは眼を細めて、大きく一つ、ため息を吐き出した。



「みんな、女の子が好きなのね?」


「……みんなな訳じゃ、ないよ。他校の男の子と付き合ってる子もいるし、男の子のアイドルグループが好きな子もいるよ」


「黒宮さんは?」


「………………」



私は……。


私は…………。




「……私の、好きな子は…………。女の子だよ」




それを聞いて星波さんは、再度大きくため息を吐き、「変なの」と、一言零した。



「……なんでこんな事してるの?」


「それ、みんな同じ事私に聞くのね?」


「聞くよ。同じ事。……だって、分かんないもん。なんで女の子を好きな子を虐めるのか……」


「そんな事言ったら、私だって、なんで貴女達が女の子を好きなのかの意味が分からないわ」

星波さんの目は冷たかった。

まるで犯罪者を見る様な目で、憐れみとか忌避とか、理解の範疇にない暗がりを見つめている様な、そんな視線を私に突き立ててくる。


星波さんは続ける。


「高々、十六歳とか、そんな年齢で、同性に本当の愛を見付けたみたいな……。そんな高貴だと勘違いしてる幻想を有難がって……、それが本物だと信じて疑わない……。滑稽じゃない? 私は滑稽だと思う。何があるの? 何も無いでしょ? ただ目の前にある快楽とか、そういうのに溺れるだけの、汚れた愛情にしか思えない。私には」


星波さんは声を荒げる事は無かった。

ただ淡々と自身の言葉を吐き出すだけで、そこにそれ以上の感情があるのか、若しくははなから感情など込めていないのか、そんな、聞き様によっては台本をなぞっているだけの様な台詞を吐いて、私の視線に視線を合わせる。


……けれど、私にはそれが何だか不自然に思えた。

不思議で、そして不自然で、星波さんの言わんとする事はなんとなく分かるけれど、なんと言うか……。


「……焦ってる? ……星波さん、躊躇ってる?」


「…………そんな訳無いでしょ」



そう言うが、私は今、星波さんに彼女の表情を垣間見た気がした。

淡々と言葉を吐き出していた時の能面ではなく、ちゃんとした、焦りでも躊躇いでも、私にはそれが何かは分からなかったけれど、間違いなく、星波さんの持つ表情の内のどれかを見た気がした。

雰囲気が変わる前の星波さんを見た気がした。


「同性に感じる愛情なんて偽り以外の何物でもないじゃない。今が幸せでも、高校を卒業したら? 大学に進学したら? 就職したら? その先はどうなの? ずっと女の子の事が好きでいられる? 貴女がもしそうだとしても、相手の子はどう? 結局男の子を好きになるかも知れないのよ? 一時のあての無い感情がその先何処まで続くの? 他人と違う事をしてるって事で優越感に浸ってるだけよ」



黒宮さんは、どう思ってるの?



続け様、星波さんはそう言ったけれど、なんと言うか、私はその言葉の端々で、色々と思うところもあった。

この星波さんの言葉を受けて、サヤちゃんはどう思うのだろうか? ハルちゃんは?


冬乃は、どう思うのだろうか?


そして、私は?



…………あぁ、そうか。



それが真理では無いと思う。

けれど、なんとなく、一つ何かが、不意に脳内をかすめた気がした。





冬乃は、もしかしたら…………。





「……なんだろう。私は、星波さんの言う事は、否定出来ないかも知れない」

言うと、彼女は虚を突かれた様にたじろぎ、息を飲んだ。なので、私は直ぐに「――あぁ、肯定はしないし、私が女の子を好きな事に変わりはないけどね?」と弁解してから、直ぐ様言いを続けた。



「私達は、他の人と違うなんて事は無いよ? 確かに色んな意見とか見方とか、人によっては星波さんと同じ様に思う人もいる沢山いるけれど、自分が高貴だとか特別だとか、そんな事は思ってないよ」


私の中で高貴で特別なのは、私の好きな子だけで十分。

これは、男の子でも女の子でも、変わりは無いでしょ?


「でも、星波さんの言う事も間違いじゃないかも知れなくて、今が幸せなら、あんまり先の事は考えてない気がするし、考えてなかった気もする」




なんとなく、私は冬乃との事を考えていた。

優しいけれど、人より貧血になりやすくて、泣き虫で、抱き締めると暖かくて、一緒にいる事が嬉しくて、彼女とのお話は楽しくて。


……冬乃は自分の未来を悲観している節があったけれど、そっか。そうなんだよね。


「卒業もするし、大学も行くし、仕事もするんだよね」


私の言いの意味が分からないといった風に星波さんは表情を顰めるけれど、それは別にどうでも良い。これは今、私と冬乃の話だからだ。


「……もし、私は、彼女が男の子に恋をして、男の子を好きになるとしたら、ね。なんていうか、寂しいと思うかも知れないけど、それ以上に、何だか嬉しいかも知れない」


「…………はい?」


「あの子が他の人と違うなんて事は無いんだ。真っ当に大学も行くし、就職もするし、男の子を好きになるかも知れない。あの子は、他の子と同じなんだよ」



だから、私はそれが嬉しいかも知れない。



「……黒宮さん、泣いてるの?」


問われ、目元を拭うと、指先が微かに涙で濡れた。

寂しいかもと言ったけれど、心は何だか温かい気がする。



だから、これは多分、『寂しい涙』じゃない。



「星波さんの事は肯定しない。だけど、私は否定もしない。私はあの子に、ただただ普通に、他の子と同じ様に幸せになって欲しいから。それが私との幸せならそれ以上の事は無いけど、それが私じゃない他の人との幸せだったとしても、私は嬉しい」





「…………変なの」






変で良いよ。


私は自信を持ってそう返した。


「でも、他の人、女の子を好きな子を虐めるのはやめてあげて。みんな今が一生懸命で、みんな今が大切な筈だから」



「……貴女には、関係無いでしょ」



いつの間にか雨は止んでいた。

どうやら小雨のうちに雨雲は解散してしまった様だ。

薄雲の隙間から夕暮れ時の光が差し込まれて、少しだけ眩しい光がオレンジ色に帯を作っている。



「……私にも、一個だけ教えてくれる?」


「…………なに?」






何でこんな事してるの?






問うと、星波さんはあからさまに嫌そうな表情を浮かべる。

けれど、少しの間を置いて、彼女は自ら口を開いた。







……別に、ただの気晴らしよ。

そう言って、星波さんは視線を逸らした。


そして、「……よくある様な話だし、別に珍しい話でも無いけど」と、先を続け……。







私の好きな子が、私を選んでくれなかった。

……その気晴らし。

……ただ、それだけよ。







…………馬鹿みたい。







雨の止んだ中庭を抜けて、星波さんは傘をくるくるとまとめながら背を向けて行った。





その日を境に、誰かが星波さんから嫌がらせを受ける様な事は無くなった。



それと同時に、私達が星波さんとお昼ご飯を食べる事も無くなった。






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