第12話 黒宮桃の恋唄


貴女の温かさが恋しい。

貴女の笑顔が愛おしい。



◆ ◆ ◆



最後の公演は17時という時間帯にも関わらず、粗々満員御礼という人の入り様だった。


「演劇ってーのは、演者だけの力じゃなくって、演出音響照明脚本、それ以外にももっと沢山の、そーゆー全部の人の力でお客さんに見てもらうもんだからね。今回の学園祭、最後の公演も頑張りましょう!」


円陣を組み、部長のその掛け声で、私達は士気を上げる。


広い舞台上。

それより何倍も広い客席。

そして、そこで公演を楽しみに待っている沢山のお客さん。

少しだけ騒めきが立っていて、空気が何処か甘い匂いがしている気がする。


私はポケットに入れていた飴玉を一つ取り出した。

小袋のカラーは緑色で、それはメロン味を意味している。

袋を裂き、掌の上に出して、口内へ放る。

うん、ちゃんと甘い。

メロンの味がちゃんとする。

味覚は一種の指標だ。

味がするなら、私は緊張していない。


もうあと五分程で最後の公演が始まる。

私は舞台袖から、再びコッソリと客席を見てみた。

さっきも見たし、その前も見てみた。


「落ち着き無いわねー黒宮」

「黒宮って呼ばないで下さいよ!」


無理もない。

こうして私は何分置きにだろうか、客席を眺めては俯いてを、何度も繰り返していたのだから。

先輩の言いにそう返して、私はまた立ち居を正した。


客席に、彼女の姿は見受けられない。


「……三月場さん、遅いなぁ」


不意に口を吐いたその言葉が、私の胸中に嫌な思想を駆け巡らせる。


もう、開演まで三分を切っていた。

時計の一秒を刻む感覚が妙に早く感じる。


願わくば、三月場さんが私の出番を観て、そして笑っていてくれたらば、どんなに良いかと、そう思っていたのだけれど…………。



私は今、一体何味の飴を舐めているのだろうか…………。



◆ ◆ ◆



台詞は一言だけれど、舞台上には三分程の出番がある。

公演が始まっても、舞台の袖で先輩達の動きや台詞、表情を一つずつ噛み締めて、自身の出番を待つのだ。


大丈夫。


今日ももう三公演目だ。

初回と二回目も上手く出来た。

最後だって同じだ。

きっと、私が舞台上に立てば、客席には三月場さんがちゃんと居る。


段取り。

舞台進行は変えられるものではない。


舞台中盤。

私達の出番の段取りとなる。

舞台袖から主役の先輩が舞台へ出て行き、それを追いかける様に私達五人も舞台へと駆け入る。


「もう止してくれないか!」


その台詞を皮切りとして、主役の先輩は舞台中央へ。そして、客席に向かって主役は少し長い台詞を言う。


私達五人は心配そうな表情でその先輩の背中を見つめる。

の、だが……。


私は視線だけで客席を見渡した。

気付く人は私のその行為に気付いて仕舞うかも知れないけれど、私はそうするしか無かったし、そうせざるを得なかった。


見渡す客席。


生徒、教師、来賓、来客。




その中に、三月場さんの姿は無かった……。




その瞬間、背中に冷や汗をかく。


昼前、私は『観に来てくれたら嬉しい』と言った。三月場さんは『絶対に観に行く』と言っていた。

それなのに、三月場さんの姿は見えない。



…………まさか、倒れた?



三月場さんが倒れた?



……そんな、だって、お昼はあんなに元気だったのに……。


背中の冷や汗が急速に私の体温を奪っていく。


そういえば、私は三月場さんの身体の事を殆ど知らない……。


身体の中の血が少し足りなくて、それがどういう風に、どの程度、彼女の身体を苦しめているのか、私は詳しくは知らない。


人混みは大丈夫なのか?


騒がしい場所は?



…………この感覚、最近何処かで感じた気がする。


……あれだ。この前、三月場さんのクラスに行った時だ…………。



私は……。



私は…………。



何だろう、何となくだけれど、このままもう三月場さんに会えない様な、そんな漠然とした不安が、私の内側をどんどん蝕み始めている…………。


もう会えなくなるなんて嫌だ。

当たり前の様に会えていた今までを、これからも私は、当たり前として、三月場さんと……。



そこまで考えて、漸く私は辿り着いた。


……そっか。もう『かも知れない』じゃあないんだ…………。

トクベツな事に、大きな理由なんて無いんだ。


だから、こんな事で不安になりたくないのに……。


それなのに、私の中で一等輝いていた三月場冬乃という存在が、手前の思想が生み出した不安と蝕みに飲まれ、どんどん暗がりに埋もれていって仕舞う…………。



待って?


もう少し……、もう少しだけ、私の側に居て?

そして、願わくば……、私のお願いを聞いてくれるなら、私の我儘を聞いてくれるなら、ずっと、ずっと私の側に…………。


……嫌、嫌だ。

待って! もう少しだけで良いから!





舞台上、先輩の台詞が終わり、走る勢いを付けて舞台袖へと掃けようとする。


私は、その背後に向けて台詞を言うだけだ。


「――っひぃ……」


…………声が出ない。


不安と、彼女がトクベツだと自覚して仕舞ったら、私は、もう自分の涙をどう止めようとも、それを如何にかして、彼女の近くに居たくて、だから……、一分でも、一秒でも早く…………。


舞台袖から部員の仲間や先輩が私を不安そうに見つめている。


拭う涙は、一体誰が流すべきものだったのか?



「――っいかないで、ください!」



お願い、三月場さん。

やっぱり私、今すぐ貴女に会いたい。



◆ ◆ ◆



「黒宮さん迫真の演技だったわね!」

「良かったわよ! 今回の学園祭で一番気迫が籠ってたんじゃない⁉︎」


本当なら、そんな言葉を掛けられたら飛び上がる程に嬉しい筈なのだけれど、今の私にはいつもの半分程も響いてこない。

それよりなにより、私は、だから、一刻も早く。


「すみません、私ちょっと、今すぐ行かなきゃならなくなりました」

それを聞いて、出番の待機をしていた部長が、私に不思議そうな表情で顔を向ける。


「それは、どうした?」

「ごめんなさい、今すぐに行きたいんです」

「それは、この最終の舞台よりも重要だって事になるけど、そういう解釈で良いんだよね?」

「はい、そうです。ごめんなさい」

「舞台はまだ続いてて、色んな人で成り立ってるこの演目を、自分の出番が終わったから途中で抜け出すって事だな」

「そうです。ごめんなさい」

「可及的な要件で緊急を要するんだな?」

「そうです」

「黒宮じゃなきゃダメなんだな?」

「そうです」


「明日は休みで明後日の朝練は無いから、次の部活は明後日の放課後な。他の奴には私から言っとくから。明後日遅刻するなよ。お疲れ」

「お疲れ様です!」


「黒宮あがりで!」舞台袖で部長がそう言うと、各方面から「お疲れ様です!」「お疲れっす!」と声が飛んでくる。

私はそれを聞いて、「お疲れ様でした」と一言。衣装の着替えもソコソコに、会館から出て駆け出した。


可愛い衣装も、綺麗に結った髪も、ぜんぶ観て欲しかったけど、今はそれすらどうでも良い。


貴女が観に来れないのなら、私が貴女に会いに行けば良い、ただそれだけの事だ。


思えば、三月場さんに会ってから、舞台の練習が毎日楽しかった。

これまでも楽しかったけれど、それがより楽しくなった。

三月場さんが観に来てくれると言ってくれた日から、私は、貴女に観て欲しくて、私のカッコいい姿を、舞台で台詞を喋る私の姿を……。だって、三月場さんは『凄い!』って言ってくれたから……。私は貴女に、私は貴女の事が……。


「廊下は走らない! 貴女なま――」

「1-Cの黒宮です! 今度お話をお聞きしますシスター!」


先生に呼び止められるが、私は足を止めなかった。

私立ではあるけどただの女学園なので、先生をシスターと呼ぶ慣例も特には無い。

ただ、今はそう呼びたい様な、そんな気分だった。



◆ ◆ ◆



「失礼します」


走って来た呼吸を整え、二度のノックの後私は保健室の扉を開ける。

学園祭は来客もあるので、保健室にはもしかしたら、体調の不良を起こした来客の方が居るかも知れないと思ったけれど、入った室内には、デスクに向かう保健医先生の姿だけだった。


「やぁ、黒宮。演劇部の舞台はもう終わったのかい?」

「……いえ、この時間なら、まだ続いている筈です」


言うと、保健医先生は「そっか」とだけ言って、詳しく話を掘り下げる事は無かった。


「……あの、三月場さんは」

「所定のベッドで寝てるよ」


それを聞いて、身体中の力がドッと抜けた。

不安が安心に変わったのだと、そう自身で自覚したのだ。


「ちょっと体調が優れなくってね、わたしが止めたんだよ。悪かったね、あの子を行かせてやれなくて」

「……いえ、無事ならそれで。……えぇ、良かったです」


落ちる様に丸椅子へと腰掛け、私は胸を抑えた。


良かった。

倒れたとかでは無かった。

…………本当に良かった。


「心配だったか?」

気が付くと、保健医先生はデスクから顔を上げて、身体ごと私の方に向いてくれる。

私もそれを受け、気持ち俯けていた顔を上げてから、「えぇ、とても」と言いを返した。


「……あの、三月場さんの事、少しだけ聞いても良いですか?」


「なに?」


「三月場さんは、どのくらい、身体が悪いんですか……?」


問うと、保健医先生は「別に、特に悪くは」と肩を竦める。

そうして、言いを続けた。



「ただ、人より少しだけ身体が弱くて、人より少しだけ血が少なくて、人より少しだけ泣き虫なだけだ」


「…………はい」


「あの子を否定的な視点でトクベツ扱いしてやるな」



「…………」



「あの子は黒宮達と同じ、普通の女の子だよ。トクベツ悪いところなんて無い。ほんの少しだけここに居る事が多いだけだ」



「…………はい。ありがとうございます」



「っはは、何の御礼だよそれは」

言って、やはり保健医先生は肩を竦める。

そうして、「丁度良かった」と椅子から腰を上げ立ち上がった。


「ちょっと所用で職員室の方に行かなきゃならんのだ。その間三月場の事を見ていてやってくれ。他には誰も居ないから。積もる話もあるだろう」


そんじゃよろしく。


そう言って、保健医先生は保健室を後にして行った。



積もる話……?



言われ、三月場さんの所定のベッド。仕切られたカーテンを少しだけ開けると、彼女は身体を起こして少しだけ顔を俯けていた。



「……起きてたんだね」

言うと、三月場さんは首肯するだけでそれに答える。


三月場さんに近い位置のベッド端に腰掛け、何とは無しに、「どう? 調子は?」と、問いを掛けた。


「……もう、大丈夫」


「……そっか。それなら良かった」




少しだけ沈黙が流れた。

保健室の雰囲気。

気にならない程度の薬品の匂いと、シーツの匂い。

遠くで聞こえる学園祭の終わり掛けの賑わいと、窓から差し込む日暮時のオレンジ色。

三月場さんの息遣いが、一定で優しく、私はその微かな所作が、とても美しく尊いものに感じて……。


「……ごめんなさい」


沈黙を破ったのは三月場さんだった。


「……謝らないで。誰にでもあるし、私だってあるもん」


「でも、私はその頻度が人より多いの……。ほんの少しだけ多いとしても、人より多い事は事実なの……」


私、絶対観に行くって、約束したのに…………。


言って、三月場さんは自身の目元を拭った。

それでも、拭うのが追い付かない程に、ボロボロと涙が溢れて来て、布団に点々と落ちていく。


「……ただ観に行くだけなのに、こんな、歩いて三分も無い距離なのに。……こんな簡単な約束すら、私、守れてない…………」


もう三月場さんは涙を拭わない。

ながれる涙を拭うのではなく、布団をキツく握り締めて、白い頬が涙で濡れて……。


悲しいのではなく、彼女は悔しいのだ。


伴わない力なんて何処にでもあるし、それを得られない事も珍しく無い。


だから、私は、彼女の手を取って、言う。




「私、三月場さんの事が好き」




もう『かも知れない』じゃない。

私は三月場さんが、好きだ。



「貴女と一緒に居たい。貴女ともっと話をしたい。貴女の笑顔が見たい。貴女の事を、もっと知りたい」


言うと、キツく握り締めていた掌が緩み、漸く三月場さんは、溢れて落ち続けていた涙を、再度拭った。


「……ダメだよ」


三月場さんは首を横に振る。


「今日の事で分かったの……。私、ダメなんだ。約束も守れない……。満足に何処かに行く事も出来ない……。誰かの足枷に……、貴女の、モモちゃんの足枷になりたくない……」


鼻をすすり、声をしゃくり上げ、涙を拭い、三月場さんは、続ける。


「……私が、誰かの……。モモちゃんが、会いに来てくれるのが、嬉しくて……。それなのに、私、モモちゃんに会いに行った事、一度も無いんだよ……? ダメなんだ。だから――」


「……ダメなんかじゃないよ」


「…………」


言うと、三月場さんは、俯けていた顔を少しだけあげてくれた。

鼻の頭が少しだけ赤らみ、頬も紅色に染まっていて、三月場さんは泣いているのに、彼女にはちゃんと血が通っているというその事実が、私には、何だかとても、嬉しく感じた……。


「私が三月場さんに会いたいから来てたんだもん。私、三月場さんに会ってから、何だかいつも楽しいの。心がね、何だか凄く、ドキドキするの。お友達と一緒に居る時とはさ、違うドキドキなんだ」


三月場さん、私と一緒に居て?


「私、貴女と一緒に居たい。私、貴女に会いに行くもん。何処にも行けない事なんて無いよ。私、直ぐ車の免許取るから。そしたら、何処にでも行けるよ。海でも映画でも、三月場さんの行きたいところ、何処でも一緒に行けるから」


だから、だからね――。




「私、三月場さんの事が好きなんだ……」




それで、さ――。




「……お願い、私の事を、好きになって……」




……あぁ、ダメだ。

私も涙が――。




「…………ったしも」


「…………?」



「…………私も、桃ちゃんの事が、好き……」

鼻を赤くして、頬も紅色に染めて、耳まで真っ赤にして、三月場さんは……。


「……私も桃ちゃんが好き。……ずっと。……もっ、桃ちゃんの、事が……。桃ちゃんの事が好きぃ……」




それを聞いた瞬間、身体が勝手に動いて、私は三月場さんの事を抱きしめていた。


腕を彼女の背中に回すと、三月場さんも私の腰に腕を回して抱き締めてくれる。


……あぁ、温かい。

三月場さんにも、温かい血がちゃんと流れている。

彼女の温かさをほんの少しだけ貰って、私の温かさを沢山三月場さんにあげて……。



「……一つだけ、三月場さん。それだけでいいから、一つだけ約束して」


「……?」


私の事を……。




「私の事を、好きでいて。それで、ずっと私のトクベツでいて、私を、貴女のトクベツでいさせて……」




「…………うん、そうだね。……それなら、約束、守れそうだよ。私でも……」




それ以外の約束なんて、今はどうでも良い。


私が三月場さんの事を好きでいて、三月場さんが私の事を好いていてくれれば……。




「桃ちゃんも、一つだけ、私のお願い、聞いてくれる……?」



「なに?」



「私、貴女に、名前で呼ばれたい……」





「……冬乃?」


「……うん」




「…………冬乃」


「…………うん」




「何だか、変な感じ」

と、そう言って冬乃は笑ったので、私は「変でも何でも良いよ」と、そうとだけ返した。





三月場冬乃。


彼女は私の事を好いてくれた。






黒宮桃。


私は、女の子の事を好きになった。






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