第7話 殻梨千里の約束
私は、貴女の好きな色になりたい。
◆ ◆ ◆
見上げた空は緑色ではないし、太陽も紫色ではない。当たり前だ。空は青色だし、太陽は金色の明かりを振り下ろして私達の肌を焼き付け焦がそうとしている。
「そのワンピース似合ってるね、安西さん。可愛いよ」
「……バカな事言わないでよ、全く……」
「そーかな?」
「そうだよ」
「ん? 安西さん日焼け止め塗ってるの?」
「塗ってるよ? あんまり日に焼けたくないし。なに? 殻梨さん塗ってないの?」
「……いや、なんかさ、どれが肌に合うのかがよく分かんなくてさぁ……」
言うと、安西さんはため息一つ吐いた後、「私の使って良いよ。合う合わないは分からないけど、肌弱くても大丈夫なやつだから」と、カバンから取り出した日焼け止めを渡してくれる。
「あんまり沢山塗るとペタペタになっちゃうから、少しだけで良いからね」
言われ、私はうんうんと頷いてから、日焼け止めクリームを少しだけ掌に出し、腕に薄く塗り付けた。
安西さんが使っている日焼け止めというだけで、もう今日の太陽はへっちゃらな気がしてくるから、私も随分単純なんだなと思う。
結局、海の色は私が塗った。
安西さんにはブランクの期間が長過ぎたから、大事な絵だと指先が震えると言った。
それでもあの絵に塗った海の色は安西さんに作ってもらった。
強過ぎず弱過ぎず、そういう塩梅の、私の海に相応しい綺麗な黄金色。
『……私にも、まだこんなに綺麗な色が作れたんだね……』
そう言って、安西さんはまた泣き出しそうに表情を歪めた。
だから、私には責任があるのだ。
もう、彼女にそんな表情をさせない様に。彼女の手に取る筆と作り出す色が再び喜びになる様、そういう手伝いをする責任が。
差し当たって現状で一つ目標を作るとしたら、『まず何でも良いから絵を描いてみる』という事で、それは私と安西さんの総意でもあった。
一度吹っ切れて仕舞えば心が大分と軽くなった様子だった。今では『兎に角早く何かが描きたい』と、それは安西さんの意見。
だったのだが……。
一年間とは思ったよりも長い期間で、その間ずっとクローゼットの奥深くに埋葬されていた安西さん愛用の道具達は、殆ど息をしていなかった。
絵の具は固まり、筆は毛羽立ち、パレットはヒビ割れ。とても満足のいく仕事が出来る状態では無かった。
『自分勝手に投げ出して、また使うから最高のポテンシャル引き出せなんて、そんなの、都合が良過ぎるよね……』
苦笑いを浮かべて頬を掻く安西さん。
『私の道具貸そうか?』とも提案したけれど、彼女は、『もう一度踏み出せる初めの一歩なら、自分の仲間と一緒が良い』と、なんとも詩的にそう意気込んだ。
私もそれが良いと思った。
線一本にしても筆の一振りにらしても、それの積み重ねが今後の安西さんを作り重ねていくのなら、一番下の土台は肝心だ。彼女にとってその土台は、人から借りた道具ではダメなのだ。新品のクレヨンを使うなら、人の画用紙ではダメなのだ。二ページ目からでは、きっと彼女の心がそれを良しとしない。
そうして、この土曜日に私と安西さんが向かった先は画材店。
水曜日に終業式で、木曜日からは夏休みに入る。だから、ギリギリ一学期の内に、安西さんは新しい初めの一歩を踏み出す事が出来た事となる。漸くの事、一年振りの最初の一歩目。
「画材って、一年離れてても、根っこの部分では何も変わってないのね……」
これまでの自身を振り返る様に、それまでの自分を懐かしむ様に、安西さんはそう言って大きく息を吸い込み、吐き出した。
「前はどんな画材を使ってたの?」
「特に珍しい物は使ってなかったよ。普通のやつ。拘りはあったけど、それも今となってみればって思わなくもないね」
「そっか。じゃあ、まずは筆から見てみようか」
「うん」
◆ ◆ ◆
安西さんはどんな絵が好き?
私? 私は風景画かな。写実的なのも好きだけど、殻梨さんが描いてたみたいなやつも好き。あれってなんてやつ?
んー? 分かんない。オリジナル?
途端にバカっぽくなったね。
そこはほっといてよ。
それで? 殻梨さんはどんな絵が好きなの?
私はねー、何でも好きだけど、人物画かなぁ。
へぇ、珍しいね。
そう?
私の周りではあんまり居なかったから。
じゃあ私が初めてだね。
そうだね。
人物画って好きなんだよねぇ。観るのも描くのも。人物画って、その人と、その人の表情を描くじゃない?
うん、そうだね。
そんでさ、描く人によって、表情って微妙に違う感じになるのよね。目尻がほんの少し下がったり、口角がほんの少しだけ上がったり、それだけで全然違う表情に見えてくる。なんて言うか、楽しいし、愛おしくなってくるのよねぇ。
へぇ。あぁ、でもなんとなく分かる気はする。自画像とかでも、自分の描きたい表情とかに寄せちゃったりするのに、人に描いてもらうと全然違う表情で仕上がったりするし。
愛おしく思う?
んー、まだ分かんないかも。
まぁ、その辺りはね。
っはは。でも、これからまた絵を描いてれば、私も、そういうのが愛おしくなるのかな?
◆ ◆ ◆
筆を三本と、12色の水彩絵の具。それに、アルミパレット。
『最初はこれくらいが良い』と、安西さんは特別高価な物でもなく、別段安価な物でもなく、只々、『普通』に絵を描く為だけの画材を揃えた。
そうして画材屋さんを出て、照りつける陽の光が暑いのにも関わらず、少しだけ街を歩いて、私達はなんとなく白海坂の門をくぐっていた。
安西さんはワンピース、私はジャンパースカート。完全に私服ではあるけれど、在学生なら学生証を持っていれば校内への出入りは特に制限されていない。
ソフトボール部がグラウンドで練習試合をしていて、陸上部がトラックを走り、それを鼓舞する様に吹奏楽部の演奏が校舎から流れてくる。
勿論というか、必然的になのか、私達は特に示し合わせる事も無く自然と足を美術室に向けた。美術部の活動は基本平日の放課後なので、休日に部員が美術室を使っているのは稀だった。
そして、やはり今日も美術室にはだれも居らず、吹奏楽部の演奏が微かに聞こえる位であとは静寂と言っても差し支えない。教室内はそんな静かな雰囲気だった。
「冷房付ける?」
問うと、「んー、私はいいや。暑いけど、嫌な暑さじゃあないし」と、安西さんはそう言って教室の窓を全開にする。心地良い風が通り抜け、肌に当たる涼しさが余分な熱を奪っていく。
夏の暑い中、安西さんの笑顔は妙に映えていた。
「さて、と。どうする安西さん。早速何か描いてみる? って言っても、美術室だと石膏くらいしかないけど」
窓から見える風景画でも良いし、もっと他の何かでも良いし。
言うと、安西さんは少しだけ悪戯っぽい表情を浮かべて、「実はね」と、画材屋さんの紙袋をガサガサと手探り、二つのアルミケースを机の上に置いた。
12色の色鉛筆。
それが二組。
「色鉛筆も買ってみたんだ」
言って、安西さんは満面の笑みでニッコリと破顔した。
「…………」
「どうしたの?」
首を傾げて見せる安西さん。
「……そんな表情も出来るんだね」
「…………ばかじゃないの」
そう言って、彼女は照れた様に視線を横へと逸らした。
「ごめんごめん、話戻そ。なんで色鉛筆?」
数瞬だけ睨む様にしてから、安西さんは気を取り直した様子で、「逸る気持ちはあるけどさ」と言いを続ける。
「筆と絵の具は、今度ちゃんと何処かに描きに行こう。一緒に。だけど、早く絵を描きたいのは本心だから」
だから、色鉛筆。
二つのアルミケースからセロファンを剥がし、一つを自分に、そして、一つを私に手渡してくる。
「私に?」
アルミケースを開けると、そこには真新しく、先の尖った12色の色鉛筆が、色鮮やかに、姿勢正しく並んでいた。
「私が色鉛筆なのに、貴女だけ筆を取るの?」
そうやって唇を尖らせながら幼い子供の様に抗議してくる安西さんが、なんだか少しだけ可笑しかく思えた。
ころころと表情を変える彼女に、私もなんだか嬉しくなってくる。
少しだけ笑を溢し、私は安西さんの問いに答えた。
「っはは。そうだね。そりゃあそうだ。いいよ、今日は色鉛筆で何か描こう。その代わり、描くからには本気だからね」
「良いわよ。その勝負、受けて立つわ」
別に勝負という訳では無いのだけれど、安西さんが楽しそうなら、それだけで私はなんだか楽しくなれる。
美術室。
一つの机で向かい合って、白い画用紙を舞台とし、互いに色鉛筆で絵を描く。
なんだか新鮮というか、それこそ懐かしい気持ちが込み上げてきた。
授業の合間とか、休み時間中とか。こうやって友達と絵を描いていた時期が、私にも安西さんにも確かに確実に存在していたのだ。
「出来た、マーライオン」
「……何でマーライオンなのかの意味は分からないけど、流石に上手いね殻梨さん」
「安西さんは?」
「私はコーヒー牛乳飲んでる人」
「……それも意味は分からないよね。安西さんも上手いけど」
「マーライオンに言われたく無い」
そんなやり取りが可笑しかったのか、安西さんは少しだけ声を出して笑ったので、私もつられて笑ってしまった。
そうしてその後も、私と安西さんは、画用紙を埋め尽くす様に色々と絵を描いていった。
ヒマワリ、猫、カブト虫、イチジク、ヤシの木、螺旋階段、チェスの駒、スルメイカ、ラジオ、ローラースケート、マンガ肉、マンモス、平泳ぎ、棒高跳び、急須、除雪機、桜、馬、ロボット、神様、流れ星、エトセトラエトセトラ…………。
「楽しい? 安西さん」
問うと、安西さんは色鉛筆を繰る手を止めて、私に視線を合わせる。
「……うん、やっぱり楽しい」
「筆でも描けそう?」
「……そうだね、描けそうだよ」
貴女と一緒なら。
そう言って、やはり安西さんは、小さく、それでも確かに、ニッコリと笑って見せた。
……あぁ、そうだよね。
……やっぱり、そうなんだ。
私は、やっぱり――。
「私はやっぱり、うん。安西さんが描きたいよ」
「……うん」
「今みたいな表情が描きたい」
「うん」
「でも、他の、色んな表情も描きたい」
「うん」
「笑った顔も、嬉しそうな顔も、ちょっと困った顔も」
「怒った顔はやめてね?」
「また急にキスしたら、怒った顔、してくれる?」
「起こるかも知れない……。だから、キスする時は、ちゃんと言って――」
机を挟んで向かい側。
身を乗り出して彼女の唇に私の唇を合わせると、安西さんは机の上で無防備になっている私の手に指を絡めてくる。
「……――んっ…………」
顔が紅い。
指先が熱い。
これは、夏の気候の所為だけではない。
「……っぷぁ」
唇を離すと、安西さんは照れた様な、困った様な、怒った様な、そんな表情で私を睨み、直ぐに視線を横へと逸らした。
…………安西さんは、恥ずかしいと、視線を横へと逸らすのか。
「……安西さんの、そういう表情も描きたい」
「…………バカじゃないの」
やはり、視線を逸らしてそう呟くが、今度は、安西さんは、ハッキリとこちらに、上目遣いで、私に視線を、しっかりと合わせてきて――。
「こういう表情が描きたいなら――」
顔を真っ赤にして、困った様な照れた様な、怒った様な、それでいて、何処か少しだけ、嬉しそうでもあって――。
「貴女が私を、こういう表情にしてよね」
そう言った安西さんは、一切の疑いの余地もない程の笑顔で破顔して見せた。
頬を紅色にして。愛おしく思える、少しだけ恥ずかしそうな、それでも、大きな笑顔で。
愛おしいというのを絵で表すには、一体どんな色を使えば良いのだろうか?
私のそんな疑問は、きっとこれから安西さんが教えてくれる気がする。
だから私も、きっとその答えを安西さんに教えてあげられると思うんだ。
安西さん、貴女の色で私を描いて。
そして願わくば、貴女の事を、私の色で描かせて。
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