第6話 安西春真の涙

誰もが貴女を評価しなくても、私は貴女とならどこまでも深く潜っていける。

深く暗闇みたいな海の底でも、私だけは貴女の光を見ていてあげられる。



◆ ◆ ◆



あれから、美術室には行っていない。

廊下で何度かすれ違う事もあったけれど、彼女は私に声を掛けて来なかったし、私から彼女に声を掛ける事も無かった。


もう来週には夏休みに入る時期だ。

夏休みは楽しみだ。

誰だって、私だってそれは同じ。

ただ、一つだけ気掛かりなのは、あの海の色はどうなったかという事……。



「最近、浮かない顔してるね。なんかあった?」

「別にどうも。……あぁ、テストの点が思ったより良く無かった。それだけだよ」

昼時。

昼食時。

最近の様子を桃に心配されてそう問われるが、私は当たり障りのない、そんな言いで持ってして答えを返した。

本当は、別にどうもしていない事など無かったし、テストの点数も満足のいくものだったというのに……。

テストは終わったし夏休みも始まるのに、何でこうも気持ちが沈んでいるのか。

面倒な事など何も無いのだ。

それなのに、夏特有の肌にまとわりつく熱気はイライラを助長させ、涼しい風が一時吹いても、心の中のモヤモヤした陰りを吹き飛ばしてはくれない。


心配しているのは桃だけじゃ無かった。表情にこそ出さないものの、向かいでサンドイッチを食む沙耶からも、何処か、言葉尻などに気を遣われている様に感じている。


私が我儘だからだろうか?

私が強がりばかり言っているからだろうか?


「……今日さ、授業終わったらケーキ食べに行かない? この前、委員会で一緒に帰れなかったから。三人でお茶して、ケーキ食べて、夏休みの計画立てよ?」

気晴らしは、必要だ……。

先日の誘いを断ってしまったのは事実だし、お茶してケーキを食べたいのも本心。

今ならきっと、ケーキと紅茶でいくらでも幸せになれる。

甘い物は必要だ。

それが美味しいものならば尚の事。


提案すると、桃も沙耶も直ぐに快く首肯してくれた。そうと決まれば何だか心も少しだけ軽くなった気がする。

放課後のケーキの事を考えるだけで、午後の授業が数学と物理でも何だか苦にならない様な、そんな気持ちがしてくるからだ。


……けれど、心の隅とか頭の一片とか、心臓の一部屋とか、そこらでは如何しても、彼女の事が気に掛かってしまう。


通りがけ、1-Eのクラスを横目で見てみる。

今日はまだ、彼女の姿を見ていない。


◆ ◆ ◆


テスト明けの授業は殆ど一学期中の振り返りに当てられていた。

テスト内で良く間違えられていた問題を復習したり、二学期以降にやる内容を少しだけ予習したり、夏休みの課題を既に提示している科目もあったりする。午後の二教科もその例に漏れず、各時限で前半は予復習に当てられ、後半は粗々自習となっていた。


期末テストから解放されて以来、張り詰めていた空気感は一気に撓み、一日が過ぎるのが何とも早く感じられる。あっという間の授業の後、私は桃と沙耶と三人でケーキを食みに行くのだ。幸せとはこういう事なのだ。


「私、職員室に提出があるから、ちょっとだけ待ってて」

クラス委員での提出物。期限はまだあるけれど、終わっているならその日の内に提出してしまうに越した事はない。二人ともそれに了承してくれて、私は少しだけ早歩きで職員室へと向かった。自分の都合で人を待たせるのは余り好きではないのだ。

……そう、人を待たせるのは好きではないのだ。

………………。



「失礼します」

言って職員室の扉を開けると、室内は空調の効いた快適な温度で肌に受ける空気がとても心地良かった。

委員会の先生もこちらに気付き、私は手招きで呼び寄せられ、提出物を手渡すと「はい、確かに」と少しだけ書類を確認してそれを受け取る。

なんて事はない、ほんの一分とか二分とか、たったそれだけの時間。

職員室内は放課後という事もあって、多くの教職員の方々が自身の仕事に追われている。

…………。

けれどその中で、私が耳聡く一点の会話を拾ってしまったのは、矢張りそのワードに心残りがあったからなのかも知れない…………。






「殻梨さんが――」






……なんで?


…………なんで彼女の名前を拾ったの?


……こんな、こんな今の時間帯、静寂とは言えない様なこの場所で。





「……何か、あったんですか? 殻梨さん」

知ってるとは思えないが、私はクラス委員会の先生にそう問うて見た。寧ろ、私は先生がその事を知らないだろうと当たりを付けて、そう問うたのかも知れない。だって、知っていてその話を聞いてしまって、彼女の話を知ってしまったら……。

私は彼女の事を知らなければならなくなってしまう。

別に、彼女の事は好きではない。

あんな奴の事なんて如何でも良いんだ。

…………。

…………だけど、彼女の海の色がまだ決まっていなかった事を私は知っている。

そして、彼女の絵が素晴らしい事も、一目見て私は理解している。


先生は「んん?」と少しだけ首を傾げて見た後に、私の視線の先を読んで、「あぁ、殻梨さんね」と――。


言いを続けた……。



◆ ◆ ◆



「あ、お帰りハルちゃん」

「お帰りなさい、春真ちゃん」


「……ん、ただいま」


教室に戻ると沙耶と桃はそう言って私を迎えてくれた。それぞれの鞄を抱え込み、もう直ぐにでも帰路に経てるといった装い。桃なんかは犬の尻尾が見える様で、居ても立っても居られないとか、そんな表現が当て嵌められている様な。


「うん、それじゃあ、行こうか」

言うと、沙耶も桃も、ウキウキで楽しそうな表情をありありと浮かべていた。


そうだ。

今日は、久し振りに、ケーキを食べに行くんだ。あそこのお店のケーキは美味しくて、コーヒーは苦いのが苦手な桃も飲める位に美味しいんだ。

この前は委員会で一緒に行けなかったから、私は二人にその穴埋めをしなければならない。だって、二人は友達で、大切だから。

ちゃんと穴埋めはしなければならないんだ。


だから。


……だから。


………………。




「どうしたの?」

「……春真ちゃん?」


桃と沙耶にそう問われる。


私は別に、如何もしていない。

如何もしていないのだ。


…………それなのに、私は下駄箱から次の一歩が踏み出せない。


上靴からローファーに履き替える事を拒んでいる。


別に、何でもないのに。


……如何も、していないのに…………。



「…………ごめん」

「?」

「?」


……そりゃあ、そうだよね。

困惑するよね。

分からないよね。

私から誘ったんだもん。

今日は、私から誘ったんだもんね……。


「……ごめん。私今日、やっぱり一緒に帰れない」


私から誘ったのに。

埋め合わせする筈だったのに。


「本当に、本当にごめん。でも、私行かなくちゃ。私が行かなくちゃいけないんだ」


……あぁ、何でだろう。

別に何でもない事の筈なのに、鼻がツーンってなって、今にも泣き出しそうだ。

本当に残念なのは桃と沙耶なのに。

今日は、私から誘ったのに……。


「いいよ、行ってきなよ」

「多分、それは行ってきた方が良いよ?」


それなのに、二人の言葉は優しかった。

何の説明もしていない。

事のあらましも話していない。


それなのに、二人は私の我儘をそうやって受け入れてくれる。

一年前は何も言わないでいてくれて、今ではこうして何も聞かないでいてくれる。


「――っ絶対、絶対埋め合わせするから。今度も私から誘って、絶対一緒に行くから!」


「そんな事は如何でも良いよっ! 走れハルちゃんっ!」


「あわゎ! 本当は走ったらダメなんだよ桃ちゃん⁉︎」



私は大切な友人を振り返らなかった。

これから向かう所は、大切な友人よりも重要な事なのか?


……取り敢えず、今はそんな事は如何でも良い。


大切な事は沢山あるんだ。

一つだけに決めなきゃいけないなんてルールも無い。

だから、今の私にとって大切な事は、『廊下を走ってはいけない』というこの学園のルールよりも、もっともっと重要で大事な事なのだ。



◆ ◆ ◆





まぁ、期末のテストも明けたし大目に見てるみたいだけれど。


殻梨さんだけ提出がまだなのよ。


今日までに完成させないと、コンクールに応募出来ないわ。


期待は高いみたいよ。


最近はもう、ずっと美術室で絵を描いているみたいね。


一年生で期待されてるなんて凄いわ。


完成が楽しみよね。


期待されてるなんて凄いわ。


期待。


完成が楽しみよね。


楽しみよね。


今日までに完成させないと。


今日までに。


完成させないと。


完成させないと。


今日までに。


完成。


今日までに、完成させないと。





◆ ◆ ◆



「来てくれないと思ってたけど、同じくらい、来てくれるとも思ってたよ」



美術室の扉を開けると、そこには先日と同じ様に、殻梨さんがキャンバスへ向かい木椅子に腰掛けていた。


彼女は室内に踏み入れた私に気づくと、そう言って、ほんのすこしだけ気の緩んだ表情を浮かべる。


私は、走ってきて息の荒くなった呼吸を少しだけ整え、彼女へと、問いを投げた。


「…………なんで?」


「なにが?」


「……なんで、完成、させてないの?」


「言ったでしょ?」


彼女は、殻梨千里は薄っすらと笑む。

その笑みは、何処か安心とか納得とか、そういった類の心情を、深呼吸の様に丁寧な所作で表している風に見えた。




「この海の色は、貴女に塗って欲しいのよ」



安西さん。



…………なんなのよ。

……本当に。



「……なんで、私に拘るのよ? 何度も言ってるじゃない……。私は、もう……、何も、描か、描……、っうぁぁ…………」


本当に、よく分からないんだ。

理由の分からない涙が、後から後から。

何の涙なのかも分からないし、何で泣いてるのかも分からないし…………。




「安西さん、一年前の中学生アートコンクール、展示会場に行ったでしょ?」



「…………へ?」



アートコンクール展示会場。



それは、私の心が折られた場所。

私の心を折った絵が最優秀作品として、飾られていた場所……。



「……ごめんなさい。この前は初めましてみたいに言ったけど、一年前、私あの場所で、貴女の事を見かけていたわ」

言って、殻梨さんは、……いや、殻梨さんもまた、何処か泣き出しそうな表情を浮かべた。


……あの場所で、私を見られていた。

情け無く歯を食いしばって悔しさに打ちのめされていた私を……。


「もしかして、あの絵って――」

言うが、殻梨さんは「残念だけど、あの最優秀作品は私じゃないわ。私のは選外」と、首を横に振って見せた。

そうして、彼女は私に向き直り、真っ直ぐに私と視線を合わせて、言いを吐く。



「私はね、あの絵を見ていた貴女の事を、綺麗だと思った。私はあの時、貴女に美しさと気高さを見たんだ」


…………なんで、なんでそんな。


「嘘よ……」

「嘘なんかじゃない」

殻梨さんが私の言いに言葉を被せる。

声色が真剣なのが分かった。

吐かれた言葉が真意なのが、私には分かってしまった……。


「……だって、だってあんな――」

「安西さん、あの会場であの絵を見た人がなんて言ってたか知ってる? コンクール参加者で、選外の子達が、あの絵を見て、なんて言ってたか」



……あの絵を見て? 他の子がなんて言っていたか?



「『大した事ない』『別に凄くない』『誰でも描ける』そう言ってたのよ? 誰も彼もが、あの絵の凄さを直視しようとしてなかった。保身とか自分可愛さとか、そういうものを守る為に。あの場で誰もが、自分と同じ絵描きの描いた絵を、卑下して蔑んで、認めようとしなかった」



……なにを。

…………貴女は。



「貴女は、何が言いたいの……?」



「私はあの絵を凄いと思った! 自分と同年代であの絵を描ける人がいる事を凄いと思った! 自分のチカラの無さを痛感した!」


だから!

……だからね。


「わたしは、安西さん。貴女の事を、美しいと、そう思ったの……」




「…………殻梨、さん……?」


ついに、彼女の涙も決壊した。

ボロボロと流れる彼女の涙が、絵の具で所々汚れたエプロンに落ちて染み込んでいく。


「あの絵を見て同じ気持ちになれた貴女と、話がしたかった。貴女の言葉を聞きたかった。……でも、私にはあの時その勇気が無かった。あの絵を見て打ちのめされた私には、貴女に声を掛けて、そう切り出す言葉が出てこなかった……。だから、あの日、貴女がこの教室の扉を開けた日。私は偶然とか奇跡とか、そういうものに感謝したい気持ちになったの。神様なんていないって知ってる……。だけど、もう一度貴女に会いたいと、ずっと、そう思っていたから……」


彼女もまた自身の手の甲で涙を拭うけれど、拭っても拭っても、後から後から、止め処なく涙が溢れて零れていく……。私の涙も、何故だか止まる気配が無くて、何故こんなに涙が溢れて止まらないのか、理由が、その理由が、私には…………。


「…………私は」

「…………?」


…………私は。


「……あの絵を見て、もう絵が描けなくなった……。筆も持てないし、イメージが何も湧かなくなった……。綺麗な色が見えないし、情景は私に何も訴えかけて来ない……。あの絵が、私を終わらせてしまったの……。それは、殻梨さんも同じじゃないの……?」



私だって…………。

私だって本当は――――。



「貴女は、どうしてまた絵が描ける様に……。打ちのめされたソコから、……どうやってまた――」


私は、それが……。






「絵を描いていれば、また貴女に会える気がしたから…………」






…………あぁ、ダメだ。

…………また涙が。



「…………っうぅ……っ…………」



みっともない。

こんな、こんな事で泣くなんて。

だけど、どうしようもなく、涙が、止まらない……。



「安西さん、私と一緒に、絵を描いて? 貴女の絵を私に見せて? それで、私に貴女の事を描かせて欲しい」


それで、それでね…………。

私の絵を描いて?





「私は貴女に描かれたい」





瞬間。

視界に映る全ての色の、彩度が上がった。

あの日濁った全ての風景が、情景が、空気が、匂いが、私を包む全ての輝きを失っていた色が、眩しいくらいに光を放った……。

光が優しい。

色が明るい。

あぁ。彼女の肌が、瞳が、唇が……。

貴女の髪の色、そういう優しいクリーム色をしてたのね……。






考えるより早く、身体が勝手に動いていた。

早歩きじゃない。

駆け出して、一秒でも早く、ほんの一瞬でも早く。

どうしようもなく、私は貴女の温かさが愛おしかった…………。



「……ぅうっっ……、ぅあぁ……」

「………………」



彼女は何も言わないでいてくれた。

どうやら私の大切な人は、いつも何も言わないでいてくれるみたいだ。


抱き締めた殻梨さんの温度が、次第に私の温度と溶け合っていく。

混ざって、溶けて、違う色になっていく。

それが、貴女の色なら、それがどれだけ喜ばしい事か……。



「制服に、絵の具が付いちゃうよ……?」

「…………そんなの如何でも良い」


言うと、殻梨さんも、私を抱き締めかえしてくれた。




「……私も、また絵が描きたい」



「……うん」


「……私も、貴女に描かれたい」


「……うん」


「…………その気にさせたんだから、ちゃんと、責任取ってよね?」


「……うん。分かってるよ」




彼女の体温が心地良い。

そして、彼女も同じ様にそう思ってくれているなら、それはなんだか、なんとなくだけれど…………。



「あの会場で、あの最優秀作品を見ている貴女を目にした時から、私は安西さんに、恋をしてたんだと思う。今、心臓がドキドキしてて、痛いのが、凄く嬉しい」



「…………バカみたい。バカ……。なんか良くわかんないけど……、私も凄く嬉しい……。ドキドキしてる…………」




カッコ悪い。


情け無い。


独りよがりで、勝手に達観して。それでも、手離した筆をもう一度取れるのなら、手に取って良いのなら、手に取る事が許されるなら…………。





顔が熱い。


耳まで赤くなってるのが、自分で分かる。






「…………バカ。その気にさせて、…………貴女の事なんて、…………大っ嫌いよ」





殻梨さんは黙って頷いてくれたので、私はもう一度、彼女に「バカみたい」だと、そう伝えた。





海の色は黄色。

海の色はクリーム色。



殻梨千里。

彼女は私に好きだと言ってくれた。



安西春真。

私は、彼女を好きになった。

恋をした。





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