第5話 安西春真の困惑

馬鹿じゃないの?

貴女なんか大っ嫌いよ。



◆ ◆ ◆



中等部の頃は美術部で絵を描いていたけれど、今はもう何も描いてない。

水彩も油絵も、白海坂女学園では道具も環境も揃っていて、創作するのに何不自由無い環境だったのだけれど、それが甘えだったのかも知れないと、高等部に進級して時々そう思う事がある。

美術の先生は私の絵を褒めてくれたし、部内のみんなも私の絵が一番上手いと言っていた。

自分で言うのも何だが、私も自分は絵がある程度上手だと思っていた。

ペンは走らせれば思い通りの線が引けたし、絵の具は混ぜれば思い通りの色になったし、筆を振れば白かった紙の上には私の思い通りの情景が広がった。


絵を描くのは楽しかった。


絵を描いている時だけは自分がなにか途轍もなく凄い人物になった様な気がしたし、出来上がった絵を誰も彼もが褒めてくれた。



中等部三年の時、私は絵を描くのを止めた。



その年はコンクールがあったのだ。

全国規模の中学生を対象としたコンクールで、私はそれに自分の絵を応募した。

勿論美術の先生の勧めもあったのだけれど、それが無くても私は自身の意思でそのコンクールに応募していたと思う。


何日も掛けて構想して、何日も掛けてペンを走らせ、納得する色が出来上がるまで絵の具を弄り、色んな想いを込めて筆を振った。


そうして出来上がった絵は力作だった。


誰が見ても最優秀賞は私の絵だと思ったし、それが私の精一杯だから何の悔いも無いと思った。


悔いは、無いと思っていたのだ……。


けれど結局、それは私の思い込みだった。


結果は賞にかすりもせず、私の絵は只々他の沢山の応募者の中に埋もれた。


上には上がいるのだ。


そう痛感した。


……ただ、それだけなら、私はまだ絵を描くのを止めたりはしなかっただろう。


私が本当にショックだったのは、最優秀賞に選ばれた絵を見た時。


「………………」


これまでの人生で言葉を無くした事など一度も無かったのに、『言葉を無くす』とは、正にこの事だと、身を以て体感した。


本当に、本当にただの絵なのに、その絵が私の視神経に潜り込み、脳を乗っ取り、伝達させる信号の全てで心臓をパンクさせようとしているかの様な、そんな錯覚を起こさせるくらい、その絵は私を殺しに掛かってきた。


私の『絵を描く』というその意思を、完全に殺しにきていた。


圧巻だった……。


二位、三位とは比べ物にならない、……仮に、その二位の作品が最優秀賞として私の前に立ちはだかっていたとしたら、まだ私には絵を描く意思があっただろう。抗う覚悟が残っていただろう。上には上がいるという現実は突き付けられたとしても、私はまだ絵を描けていたと思う。


……けれど、その最優秀賞は違った。

根本から違った。


世界とかスケールとか、何もかも……。

私が町内で鼻高々に粋がっていた時、その最優秀賞はもう銀河系の外にいたのだ。


それ以来、ペンを持っても走らせられず、絵の具は思い通りの色にならず、筆を振ったところで私の世界は広がらなくなった。



だから、私は絵を描くのを辞めた。




◆ ◆ ◆




「春真ちゃん、これから委員会?」

沙耶と桃にそう問われ、私は鞄に教科書なんかを仕舞う手を止めて「ん、そうだよ」と簡単に答えた。


「そっかぁ、久し振りに三人で帰れるねって沙耶ちゃんと話してたんだけど、タイミングってなかなか合わないね」

そう言って少し膨れる桃に、「ごめんね、また今度。その時は帰りにケーキでも食べに行こ?」と言いを返すと、「まぁ、それなら良いよ」と、桃は少しだけ間を空けて笑みを浮かべた。

ケーキか。

確かに、久しく食べていない気がする。

最後に三人でケーキを食べに行ったのは、確か四月の頭、高等部に進学してすぐの頃位だったか。

梅雨も明けて大分と暑くなってきた。行きつけのお店のミルクコーヒーとフルーツタルトが美味しい季節になってきた気がする。


「じゃあ私、もう行くね。また明日ね」


ペンケースと委員会のノートを持ち、気持ち早歩きで沙耶と桃に手を振ると、二人もちゃんと手を振り返してくれる。

そういうところが律儀で、好きで、友達を続けられるところなのだとも思える。


絵を描かなくなった時、美術の先生や美術部のみんなは私に『どうしたのか』とか『大丈夫か』とか凄く心配してくれた。

それはとても有り難い事で、私も何とか頑張らなきゃと思っていた。

けれど、沙耶と桃は何も言わないでいてくれたし、何も聞かないでいてくれた。

私にはどちらも必要だったけど、より必要だったのは多分沙耶や桃だったのだと思う。

心が軽くなるのを感じたから、私は絵を描く事を止める事が出来た気がする。




「それじゃあ、あとはいつも通り、見回り報告してから下校して下さい」


委員会は大体普段の通りの進行だった。定例の報告と夏休みに関してのいくつかの連絡事項。補習参加生徒の人数確認や自販機使用時の注意点。

クラス委員会での総意や決定事項、注意事項が生徒会に持ち上がり再協議される。そうやって白海坂の大まかな生徒主体のルールは決められていく。


クラス委員会が終わるともう時間は大体下校時刻に近くなってしまう。今日は通常生徒の基本下校時刻までまだ一時間程あるけれど、それでも一度各クラスを回って声を掛けるのがクラス委員会後の定例。


陽はまだかろうじて空にあるが、もう殆ど傾いていた。青色の比率よりオレンジ色の方が大分と多い。

本来なら二人一組で各クラスを順繰りするのだけれど……。


「安西さん、今日はちょっと大変だろうと思うけど」

「えぇ、大丈夫ですよ。一人でも」


今日はD組の大江さんが病欠なので、持ち回りを私一人で回る事になる。

結果として一人でも二人でもやる事は変わらないのだけれど、如何してもと言うか、何と言うか……。


ことココに関しては、少し抵抗というか、いつもは大江さんに見てもらってるのだけれど、今日は私がこの扉を開けなければならない……。


強がってはみたけれども、結局避けて通り、一番最後になってしまった、この教室。



美術室。



……別に、避けている訳ではない。


…………いや、避けてるのか?


……まぁ、どちらでも良いか。


中を覗いて、誰かが居れば声を掛け、誰も居なければ職員室で報告して帰るだけだ。



………………。



無意識の内に、私は深呼吸をしていた。

深く吸って、大きく吐いて。

それを三度。


……大丈夫。

これは別に、何でもない。


扉に手を掛け、ゆっくりと開け放つ。


「…………」


なんとなく、懐かしい匂いがした。

授業なんかの時はある程度割り切っているけれど、こうして放課後に踏み入ってみると、絵の具とか石膏とか、画板とか、各教室に独特の匂いがあるように、やっぱり美術室にも独特の匂いはあるし、それを強く感じられた。

たった一年かそこら離れただけなのにそれを懐かしいと感じるのは、私が意図的にそこに立ち入らないよう、あからさまに避けていた所為でもあるのだろうか……。






「どちらさん?」






教室内には女の子が一人、画板に向かって木椅子に座っていた。

……いや、女学園なのだから女の子なのは当然なのだけれど、兎に角、彼女は女の子だった。



「……あの、委員会の見回りで。もうあと一時間で下校時間だから、早目に帰れる準備を――」

「あぁ、あと一時間ね。分かった。ありがと」

私は言うが、金色に近い茶髪が背中まで伸びた、色白の、制服の上にエプロンを着た彼女は、そんな私の言いを気にも止める事なく、筆を繰って向かうキャンバスへ黙々と色を乗せていく。


「……あの、片付けとか、時間掛かるから、そろそろ一旦終わらせた方が」


「ん、大丈夫だよ。分かった。ありがと」


それでも、やはり彼女は筆を止めない。

そうやって創作にのめり込む彼女に言い様のない不快感を覚えるのは、彼女が私の言いを無視しているからだろうか?


それとも、何か別の理由があるのだろうか……。


「……でも、画板もイーゼルも片付けたりとか、パレットだって水気取って乾かして、絵の具だって乾かないようにして、筆も石鹸洗いしてってなると――」


そこまで言って、彼女はようやく筆を止めた。


「なんか、やたら詳しいね。貴女。経験者?」

直視していたキャンバスから目を離した彼女は、首だけでぐるりと私の方を向く。

気怠げな表情の彼女だったけれど、一瞬、何故か驚いた様な表情に切り替わった。

不意な事は驚いたのか、それとも私という存在に今更ながら気が付いたのか。

彼女の驚いたのか様な表情。

……しかし、それも本当に一瞬だけで、直ぐに当初の気怠げな表情へと戻っていく。

…………今のは、一体何だったのだろうか。



「…………少しだけ」

『経験者か?』と問われ、私は少し躊躇ってからそう答えてた。


「貴女、美術部じゃないよね?」


続く問いに頷くと、彼女は「1-Eの殻梨からなし千里ちさとです。って、一年なのはお互い分かるか」と、肩を竦めてみせた。

確かに、彼女の付けているリボンの色が白い色をしているので、殻梨さんが一年生なのは見て明らかではあった。

面識が無いという事は、中等部からの持ち上がり組ではなく、高等部からの新入生組の子だろう。


「……えっと、1-Cの安西あんざい春真はるまです。委員会の見回りで」

「ちょっとさ、こっち来て見てくれない? 美術部の先輩とかにも見てもらってるけど、いまいちピンとこないんだよね」


「……えっ?」


言われ、立ち上がってこちらへ歩んできた彼女は、強引な形で私の腕を掴むと、当たり前の様に木椅子を用意して、キャンバスの前に私を座らせ、彼女も私の横へ腰を下ろした。


「………………」


描かれていた絵は美しかった。

黄色の海が揺らめき、紫色の日が差し、青色の草花が緑色の空の下で輝いていた。

そんなチグハグな色の世界なのに、私は何故だかドキリとした。


絵を見て、私の心臓が脈打った……。

震えたのだ……。



「……コレって」

「なんかさぁ、海の色の黄色がパッとしない気がするんだよね。そんな気がしない? この色の所為で全体がボヤけて見える気がしてさ。貴女ならどうする?」


安西さん?


問われ、私は思考する。

……いや、思考して良いものなのかコレは?

考える余地はあると言えばあるけれど、如何せん、私は――。


「……こういう風に描いた事が無いから、私には分からないわ……」

言うと、「直感で良いんだよ」と殻梨さんは片眉をクッと上げて見せた。


「別に私だってこういう風に見えてる訳じゃ無いんだよ。こういう風に見たいとも思わないさ。だけど、こういう風に見えたら、なんとなく面白そうだなって思っただけで、普段はこんな風には描かないよ。だから、安心してよ」


安西さんなら、どうする?

この海の色。


「…………」


私なら?

……どうするか、って?


少しの間その絵を眺めていると、殻梨さんは私に筆を寄越してくる。

「好きに塗ってみてよ。なんとなく、貴女なら私の望む海にしてくれる。そんな気がするんだよね」


「…………無理です」


「何で?」


「……私、絵を描くのは辞めたんです。もう一年も描いてないし、筆も握ってない。指先の感覚も忘れてるし、こんな素敵な絵に、私が色を乗せるなんて、…………出来ないですよ」


「それでも良いよ」



――――っ!?



……何で?

…………何で??

意味が分からない……。


言葉が出ないでいると、殻梨さんは続けて言いを吐く。

「これを描いたのは私で、その私が、貴女に海の色を決めて欲しいって言ってるの。それでもダメ?」


「……嫌です」


「こんなに頼んでも?」


「……どんなに頼まれても」


「本当に?」



――――っ!!



「――もうっ! 嫌なんですッ!!」

勢い余って木椅子から立ち上がった私は、そう言った声が少し大きくなってしまった。

自分の声と言いに少しだけ気不味くなり、殻梨さんの顔を見やると、彼女は眉を顰めて何とも不思議そうな表情をしている。


何故だか私は、それがとても腹立たしく感じ、無意識の内に言葉が続けて吐き出されてしまっていた。

意図しない言葉。

それでも、吐き出されてしまえばそれは私の言葉だった。


「もう絵は描かないって決めたんです! 描かないし描けないし、描きたくないんです! だから………、嫌なんですっ!」


吐き出された言いが、自分自身に問い掛けてくる。

それは本心?

これは私の本音なの?

本当に言いたい言葉がこれだったのかどうかすら、私には分からない。

それでも、吐き出してしまった言葉の勢いは止める事が出来ず、力任せに筆を突っ返すと、殻梨さんのエプロンには薄い黄色の絵の具が塗り付けられてしまった。


「……あっ」


悪い事をしたかと思うが、殻梨さんはそんな事気にも止めていない様で…………。



「安西さん、何で泣いてるの?」



「…………え?」



目元を拭うと、手の甲が涙で濡れていた。



何で私、泣い――――。





数瞬、何をされたのか分からなかった。

木椅子から立ち上がった殻梨さんは、私の正面まで間を詰めて、気が付いた時には、私は彼女に唇を奪われていた。


「……――え?」


本当に、触れるだけの刹那的な口付け。

それでも、撫でられただけの様な感触は確かで、その熱も確かな熱さとして唇に残っているのが分かった。


……本当に、意味が分からなかった。


腕にチカラが入らない……。

足にもチカラが入らない……。

顔が熱い。

心臓が……、ドキドキして、痛い……。



「…………何で?」



問うと、殻梨さんはハッとした様に目を見開いてから、逸らすように顔を背ける。

顔を赤くして、耳まで赤くして、何故こんな事をされるのか分からず、何故心臓がドキドキと早く脈打つのかも分からず、程なくして殻梨さんは「……ごめん」と呟き、次いで「……わかんない」と言いを吐いた……。


「……わかんないのに、キスしたの?」


「…………ごめん、本当に分かんないの。……だけど、いま、貴女の事が愛おしいと思った。……ごめんなさい」


本当にごめん……。


「……ごめんで済むわけ――」

無いでしょ?


と、そう続ける筈だったのに、私は言いを続ける事が出来なかった…………。


殻梨さん。

何で貴女が泣いてるの……?

何でそんなに、頬を紅くし、貴女が泣く必要があるの……?



殻梨さんは言う……。

「私の衝動で、ごめんなさい……。本当に……。だけど、安西さんが、なんか悲しそうに感じて……、それで、愛おしいく感じたのも、本当だから……」


「…………」




勝手に、私の心を決めつけないでよ……。



「……もぅ帰る」


言って踵を返そうとするも、一度膝が笑ってしまった事に自分の事ながら呆れた。

二度目の正直で漸くの事、膝を確かめて彼女を背にする。


「私、安西さんにこの絵の海を塗って欲しい」


「……嫌だって、言ってるでしょ」


「……明日も待ってるから。明日貴女が来なくても、その次の日も待ってる」


「うるさいよ」


「来ないなら私から押し掛けるから」


「もううるさいよっ! ……私は、ただ、今日は偶々、美術室の、……委員会の仕事なの! だから来たの! もう来ないんだからこんなところっ! 貴女にも会わない! 海の色も塗らない! 絵も描かない!」



もう彼女の方は見なかった。


早足で美術室を出て、扉を閉めて、私にとって現実感の薄かったその場所から逃れる様に。早足は徐々に速度を増し、見ようによっては駆け足へと。白海坂は廊下を走ると怒られるのだ。けれど、今は先生も誰も見てないし、そもそもこれは早歩きだ。何の問題もない。

これは早歩きなのだから。




……なんなの?

なんなの?

なんなのよ?

人の事なんて、何も知らない癖にッ!


もぅ! なんなのよっ!


馬鹿! 馬鹿ッ!

いきなりキスとかする!?


変態!


バカバカ!


なんなのよ!


バカ!!


なによあの子!


顔赤くして!


何で泣いてるのよ!


バカみたい! 本当に!


なんなのよ!


私が!


私が泣くわけ!


私が!


私、が……。


…………。


………………。




「…………っうぅ……っうっく…………」




私が……、私が泣くわけ、無いじゃない。






拭っても拭っても、後から涙が溢れてくる。

イライラしてるのが何に対してなのかが分からない。

涙が溢れてくる理由も分からない。

ただ、彼女にキスされてから、顔の熱が取れなくて、心臓のドキドキが治らない。

彼女の絵を見てから、心臓の鼓動が収まらなくて、顔から熱さが取れないのだ。



…………。

馬鹿じゃないの?

アンタなんて、大っ嫌いだよ…………。






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