【被虐の翼】~「僕達は夢を見ることさえ許されないの?」日陰で暮らし続けて来たクモリス家は“悪魔”の容疑で異端審問にかけられる~

渦目のらりく

第1話 あるいはそんなささやかな幸せは、これから彼等の前に訪れる結末の事を思えば残酷とも捉えられた。

「どうして泣いているんだ?」

 そう問われた少年は、突き出された剣の切っ先も意に介さず、薄雪に凍える幼い妹と弟と肩を寄せ合いながら答えた。

「わからない。どうして泣いているのかも……もう忘れてしまったから」

 ……何処迄いたぶられればいいのか、どれだけ苦しめばいいのか?まるで運命に、世界に呪われているかのようだ。

 無垢な心に刻み込まれていく『心の傷』は、深く抉られて、爛れていきながらも、少年に新たなる力を与えていく。

 死ねない狂えないオワレナイ……

 耐えられなくとも耐えるしかない。

 ――“翼”がそれを赦さない。

この醜い世界に、生きる意味を見い出せときょうだい達が言っている。


 主の御力に迫りし『第三の翼』。


 平和の成ったこの世界で……いま

歪に解釈された翼が開かれる。


 ……端から狂ったこんな世界など、思うがままに壊してしまうがいい。


 新生二十一年。

 勇者が世界を統べたあの日より、それだけの歳月が流れていた。

 永遠に不可能とも言われた人と魔族とのは、金色の騎士こと――帝王ダルフ・ロードシャインの名の元に果たされる。

 互いの怨恨と軋轢あつれきさえも乗り越えて、いま世界は平等を謳う、太平の時代を迎えていた。


 ……そんな折、

 世界の行く末に一つ残された大陸――マルクト王国。九つあった廃都を統合した、その世界の南にて、魔王の意志を継ぐ者が――

 背にうごめかしたその、みにくく、むごく、あまりに哀しく……いびつに解釈されたを覚醒させた。


   *


「……そうして魔王は、強く激しい勇者との決闘のさなかに考えました。この世界に必要なのは支配では無い。暴力の果てには何も残されず、真に必要な在り方はそう……“共生”であると」


 今にも枕に埋もれてしまいそうなうつらうつらとした声を聞きながら、幼い少女は歯抜けの笑みで、うつ伏せの自分に覆い被さった母へと視線を上げた。そうして緩いウェーブの掛かった茶髪を揺らして猫のように転がると、遠慮も無くその顔をガシガシと揉み始める。


「はやくはやく! ねぇねぇはやくおかあさん!」

「エルぅ……お母さんのほっぺたをかき混ぜるのはやめなさいぃっ」


 眠気を覚ましたマトラは眉をしぼめる。本当は毎日『魔王と勇者の新世界』を読み聞かされて空で言える位に暗記しているクセに、エルキヤは夜しか家に居ない母に甘えるみたいにこうしてじゃれつくのだった。


「エル、お母さんは疲れているんだよ。そんなに続きが気になるのなら僕が続きを読んであげるから――」

「イヤッ!! エルはおかあさんがいいの、ルフロにいちゃんじゃないもん!」


 納屋の様な小さな家。エルキヤと母の寝転がった藁のベッドから少し離れた方の寝床で、蝋燭の灯りを頼りに分厚い本を読んでいた少年は、長く垂れた茶色の前髪を掻き分け、鼻先までずり落ちてきた眼鏡を人差し指で押し上げていた。


「ありがとうねルフロ。お母さんを心配してくれるなんて、アナタも立派なお兄さんね」

「……うん。お母さん、毎日遅くまで働いてるから」


 照れ隠しのようにルフログが背中の支えにしていた枕の角度を変えると、オレンジの灯りが彼の醜い肌を露わにした。ゴツゴツとした硬い皮膚とその隆起は、まるで岩肌のような色と質感をしている。


「えへへ、だいじょうぶ、だいじょぶ」

「にいさん」

「お母さんはあれで楽しんでるんだよ。甘えたいのは何もエルだけじゃないんだ。ああしてお母さんの方もエルに甘えてるんだね、えへへへ」


 白くきめ細かな雪の様な肌をした少年は、女と見紛う様な美しい顔立ちで微笑みながら、目尻にかすかなシワを作った。エルキヤとルフログに比較して読書をする少年の横で伸びをした彼は一回り体が大きい。それもその筈、特徴的な白銀の髪を眉に掛かる位の長さで切り揃えたバレステッドは、今年で十三歳になるクモリス家の長男なのだ。


「流石しっかり者の長男はお見通しね」

「やめてよ母さん」

「バレはいつも笑顔で、優しくて聡明なお兄さんだわ」

「ねーー!! そんなのいいからはやく読めー!!」

「ああー、はいはいわかったわエル――」


 薄明かりに影を揺らめかし、室内に母の声が満ちる。薄ぼんやりとした狭い部屋の中で、四人のが灯っていた……


 まだまだ甘えたい盛りのエルキヤは六歳で、大人ぶってはいるけれどまだ全然未熟なルフログは十歳。母はまだ若いが五年前に父が行方不明になってからずっと働き詰めだ。だからバレステッドは幼いきょうだい達の父親代わりになろうと、しっかり者であり続けようと努めていたのだった。


「魔王は遂に人をゆるしたのです。あれだけ恨んだ人間の、その全てを……人と魔族が共に生きる、その道の先に幸せな未来を見て」


 オレンジ色に灯るボロ家の中で、幼き頃より読み聞かされて来た魔王の御言葉をきょうだい達は耳に聞き留める。


「……だから私達は人を恨んではいけません。人を恨めばまた戦いの螺旋が始まるだけ。私達魔族は人にどれだけ虐げられようとも、魔王様のように彼等を深い慈愛の心で赦さなくてはならないのです……おしまい」


 エルキヤが手を打って喜んでいる。ルフログは何度も聞いたその結末にもう眉根の一つも動かさないでいた。

 するとそこで、そんな結末を喜んでいるエルとマトラの間に、止めておけばいいのにルフログがしたり顔をして水を差すのをバレステッドは聞いた。


「でもさ、人と魔族との戦いが終わったのは、偶然にもそこに生命の光が降り込んで来たからだろう? だからそれは魔王の優しい心がもたらした訳じゃない。結果論でしかないよ。新たなる命が大地に芽吹いて、意外に食べられる生物が産まれたから――」

「駄目よルフロ。ロチアートだなんて呼び方をしたら」


 母の諭すような言い方に、エルキヤでさえもが空気を読んでおっかなびっくりとした。しかし多感なルフログは食い下がる。


「でも、お母さん……」

「魔王様はかたくなにその呼び方だけはしなかった。家畜として飼い慣らされていた魔族達でさえもが、そんな侮蔑用語で赤目の魔族達の事をそう呼んでいたのに」

「……」

「今の私たちに人権があるのは、紛れもなく魔王様のお陰だわ」

「うん、わかってる……わかってる、ごめんなさい」


 本を閉じたルフログは涙目になって、母の胸に抱かれていた。エルキヤはその様子を唇を尖らしながら見つめている様だった。

 母をルフログに取られた形のエルキヤは、隣のベッドの上で頬杖を着きながら微笑んでいたバレステッドの腹の上へと飛び込んで来た。油断していたみぞおちへの衝撃に驚き、少年は目を剥きながら半回転する。


「……も〜、何するんだよエル、ビックリするじゃないか」


 いつもの微笑をその顔に刻み込みながら、バレステッドは少女の小さな頭と痩せぎすの背中をさする。

 しかしルフロを手放して母が手を打つと、バレの腹を蹴り上げながら少女はすぐさま飛び出していくのであった。


「おかあさん、エルに子守唄うたって! エル、おかあさんのおうただーいすき!」


 ほんの片時を母の代用品として弄ばれた少年は、中空に投げ出したままの腕を虚しく下げていきながら、お決まりの口癖を口の端から漏らした。


「……ヒドいなぁ、えへへ」


 結局元の形へと収まり、エルは母と同じベッドに潜り込み、バレステッドとルフログは少し離れたベッドでそれぞれのシーツに絡まった。


「可愛い子猫があくびして

 カエルがピョコンと跳ねました

 蜘蛛の王様やって来て、二匹を肩に乗せました♪」


 寒風に揺れる窓ガラスが、母の子守唄を少しだけ賑やかす……腕の中で船を漕ぎ始めた少女に続いて、二人の少年も安らかそうな表情で目を瞑り始めるので、マトラは本当に魔法みたいだと少し笑った。


 部屋に灯した蝋燭がフッと消えた頃に、バレステッドは朧げな瞳を少し開いた。その赤き視線の先に映ったのは、疲労が募り、気絶するかの様にベッドの中に沈んでいった母の姿だった。


 ボロの壁から吹き込む隙間風が、ベッドの端から垂れた母の髪を揺らしている。

 バレステッドは静かに起き上がると、自分の分のシーツを母の体に優しく掛ける。



 ……彼等はあまり恵まれてはいなかった。

 けれどこうしている今だけは、ありふれた幸せを噛み締めている事が出来た。


 あるいはそんなささやかな幸せは、これから彼等の前に訪れる結末の事を思えば残酷とも捉えられた。

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