絶対必須不可欠要素『大凶』

摂津守

絶対必須不可欠要素『大凶』

 近頃は凶や大凶が入っていないおみくじもあるそうな。

 理由は単純、凶や大凶を引いて嫌な気分になる人をなくすためだ。

 つまり優しさがそうさせているわけだが、その優しさこそが偽善であり悪徳であると、この時世に対して憤慨する者がいた。


 それはなにを隠そう『福の神』ご本人である。


 福の神といえば福をもたらす存在である。それが何故人の優しさを否定するのか?

 これもやはり単純な理由で、それは人々の偽善的優しさが福の神の仕事を妨害しているからである。誰だって自分の仕事を邪魔されれば怒りたくもなるものだ。それは神とて同じこと。


 なぜ人々の優しさが福の神の仕事の妨げとなるのか? それを説明するにはまず、福の神の仕事についてある程度詳しく述べねばならない。


 福の神の仕事といえば、ご存知のとおり人々の福を願い、人々に福をもたらすことである。

 福の神は向上心の強い神でもある。努力は報われるという言葉があるように、向上は幸せに繋がるのだ。福の神の向上心は全人類の幸せに直結するわけである。

 そこで福の神は人々に福を届けるあらゆる方策を編み出してきた。


 その一つがおみくじである。


 ご存知の通り、これまた単純な代物であるが、今現在も使われているロングヒットアイテムである。


 こんな単純なものでも、現在の形に完成するまでには紆余曲折があった。プロジェクトXで取り上げられてもおかしくないくらいそれはそれは壮大なストーリーがあった。


 が、文字数という神にも等しき制約のためここではかいつまみ、重要と思える一部を紹介するに留める。


 ある日、福の神はパチンコの帰りにうどん屋に立ち寄った。福の神はその日は福の神にあるまじき大負けを喫していたので腹立ち紛れに、出てきたうどんに七味を強くふりかけた。そこで福の神はふと思った。


「こんな風に福が出てきたら面白いんじゃね?」


 さすがは福の神、その発想、奇抜かつ天才的。目の付け所がシャープである。早速福の神はそれを実行に移し、あっという間に試作一号機が完成した。

 さすがの福の神、試作一号機から現在のおみくじの形をなしていた。すなわち筒状であり、中から棒が出てくるあのスタイルを早々に編み出したのである。


 だが、さすがの福の神でも完璧ではない。試作一号機は現在と中身が違っており、その効果も現在ほど期待できないものだった。福の神は完璧の神ではないので当然のことである。

 この試作一号機の中身は穴から出てきた棒になにやら幸せそうな、福がありそうなことが書かれている、という至極単純なものだった。初めのうちは人々も、福の神が作ってくれたものであるからありがたがっていたが、そのギミックがあまりにも単純、悪く言えばチープだったのですぐに飽いてしまった。


 『飽き』は『福』とは対極である。試作一号機は逆に福を奪い、人を退屈たらしめる効果を発揮してしまったのだ。


 目も当てられないほどの大失敗だ。

 が、それにめげる福の神ではない。挫折から這い上がってこそ福があるのだ。つまづきからの起死回生は福の神の真骨頂である。


 福の神は改良すべく思案し、思索し、思考した。福について考えることこそ福への一歩である。ひいては、福の神がそうすることこそが、全人類の福への一歩である。


 これには大変な努力と労力と時間を必要とした。福の神は悩んだ。悩めば悩むほど、日頃うっすらと頭にあった他の種々様々な悩みまで頭をもたげてきた。


 なぜ人は平等に幸福にならないのか?

 なぜ人の福には偏りがあるのか?

 なぜ不幸な人が存在するのか?


 福の神の力不足と言ってしまえばそれまでだ。しかしそれは現状の結論しかない。よりよい幸福を目指すためには結果ではなく、なぜその結果に至ったのか原因究明と改善が必須なのだ。


 そこで福の神は下界の人々をつぶさに観察した。幸福と不幸の入り交じる世界にこそ、その答えがあると信じて。長い年月をかけてようやく福の神は幸福にまつわる一つの法則を見つけたのだった。


 幸福は不幸がなければ感じられない、という法則を福の神は発見した。


 これについては福の神の実験ノート、QのJRー43の第3項目右下にある走り書きに詳しくある。以下一部抜粋。



 ――私ははじめ、幸福と不幸は個人の性質から来るものだと思った。つまり個人の行動によって幸福か不幸かが決定づけられるのだと。下界を覗いているとたしかにそう見えたのだ。幸福な人々は幸福になるために行動しており、不幸な人々は不幸になるように行動しているとしか思えなかった。そこで私は幸福な人々と不幸な人々を下界から抽出し、天界で二つのグループ(幸福な人々の集団を幸福グループ。不幸な人々の集団を不幸グループ)に分けて観察することにした。これは二派の行動の違いを見ることで、幸福に至る行動と不幸に至る行動を明確にする目的だったのだが、実験を進めるうちに全く予想外の結果が生まれた。幸福なグループは次第に幸福感を失ってゆき、逆に不幸なグループは不幸感が薄まっていったのだ。環境変化の問題かと思い、私は二つのグループをそのグループのまま下界へと戻したのだが、二つのグループの幸福感が天界にいたときから変化することはなかった。そこで私の頭に一つの閃きが走った。幸福は不幸が存在しなければ感じられないものなのではないか、と。幸福な人間は不幸な他人を見て初めて幸福を覚えるのではないか。不幸もまた然りである。仮説ではあるが、私の頭の中に一つの光明が差した気がした。私はこの光明を人々をあまねく照らす陽光とすべく、さらなる実験へと取り組むつもりである――



 走り書きにあるとおり、福の神さらに実験を進めた。

 やがて二つのグループは世代を重ねるうちに、同グループ内で幸福なグループと不幸なグループに分かれてしまった。


 同グループ内での二つのグループ発生について、以下のようなプロセスがあった。



 同グループ内でも個人の資質による優劣は存在する。


 ↓


 世代を重ねるにつれ優劣が顕在化してくる。


 ↓


 優れた者と劣った者で資質以外の面での優劣差が明確となる。


 ↓


 優れた者は劣った者を不幸な者として見ては自らを幸福と自覚し、劣った者は優れた者を幸福な者と見ては自らを不幸と自覚するようになる。



 上記のプロセスを福の神は『幸福と不幸の発生プロセス』と呼んだ。


 人は病める者を見ては自らの健やかさを自覚し、富める者を見ては自らの貧しさを嘆く。

 比較と対照があって人々は幸福と不幸を知るのである。

 そして幸福は、往々にしてより巨大な幸福の前に自らを不幸と捉えてしまうものなのだ。


 幸福とは絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものに過ぎない。


 というのが、福の神の結論であった。


 そこでタイトルである。『大吉の幸福感には大凶が絶対必須不可欠』となるのだ。


 というわけで、福の神はおみくじにそっと『大凶』を忍ばせたのである。

 なぜなのか?

 それはこのお話の中でもっとも単純なことで、それは幸福が相対的なものであっても均等なものではないからである。とどのつまり幸福と不幸のバランスは偏っていてもいいのである。


 クラスに一人はいる不幸な人間を思い出して欲しい。あなたはその人を見て憐れみを覚えなかっただろうか? 覚えたならそれは幸福である。同じ不幸な境遇、もしくはそれより下の不幸な身の上だったなら、憐れみなど絶対に覚えないものですから。


 一の不幸を作り出すことで百の幸福を生み出す、それが福の神の考案したおみくじであった。聡明にして天才的な発明にして至上のアイディア、まさに神の為せる技ですな。


 不幸な人は誇っていい。幸福にあぐらをかいている連中が、一体誰の上であぐらをかいているのか、誰がその幸福感を支えてやっているのかを福の神は知っている。


 幸福な人は少し不幸な人を思って欲しい。あなたの足元には不幸な連中があなたのために存在しているのだ。その幸福を少し分け与えるくらいなら損はないはず。施してやれば優越感も得られるし、施された側も多少の幸福感を得られる。


 これこそウィンウィンのハッピーハッピーである。

 幸福と不幸が手と手を取り合い、愛と哀の奏でるセレナーデ。

 相乗効果の両者両得。

 それを福の神も望んでおられる。


「だから絶対におみくじから大凶を抜くな! 少数の大凶で救われる多くの末吉がいることを知れ!」


 とは私に乗り移った福の神様からのありがたいお言葉であります。

 これを読んだ皆々様方、および神社仏閣関係のお方々、くれぐれも福の神様のお言葉を粗略にしないよう、お忘れなきよう私からもお願い申し上げます。


 福の神様に身体を乗っ取られたり、正月二日目からこんな話を書かされるのはもう懲り懲りですので、何卒お願いしますよ。

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