第15話 幸福への道程

「――舞奈さん、こんな噂、知ってます?」

 アパートの部屋に着くと、さも当然のようにジャージ姿のひなたがいて、舞奈が着替えている最中でもお構いなしに話しかけてくる。仕事で気を遣って話すから、舞奈の部屋にいる時は人を気遣うようなことはしたくない、らしい。

「必ず幸福になれるパワースポットっていうやつ」

「オカルト?」

「いや私もそう思ったんすけど、なんか、同僚や先輩が絶対確実って言うし、その場所に行ったやつは必ずランキング上がるんすよ」

「自分の立場が怪しいから、補強したいのね?」

「ま、そっすね。なんとかになんとかっす」

「藁にも縋るよ――付き合えっていうの? あたしに?」

「独りじゃ怖いじゃないっすか」

 わからない話でもないが。告げる。

「いつ行くの?」

「お、乗り気っすか!」

「でもないんだけどね、ま、付き合ってあげる――暇潰しよ」

 そのパワースポットがどこだか知らないが、ひなたは水商売の世界ではそれなりに名が知られている。下手な場所に独りで行けば、彼女がどれだけ警戒しても、傷をつけて帰ってくるかもしれない。

 そうでなくとも、アフターでやれる女、と見られているのだから、安全とは縁遠い人間である――力づくで、同意がなかったとしても、そして金を払ったのだとしても、普通の人間であれば良心が咎めてできないことを、貧困層の人間かつ水商売をやっているのだから、という理由でやれてしまえる男は少なくない数、存在する。

 しかも、どれだけやっても妊娠しないのだからいいだろう。とも彼らは考えている。ひなたは不妊手術を受けているから、何があっても妊娠はしない。責任を取らなくてもいい性行為の本番は、男を狂わせる。

 今日のひなたは化粧もしていないし、ジャージ姿で、色気などあったものではないが、それでも、女であるという事実があれば勃起する屑はいるものである――彼らはひなただけではなく、自分の認識する世界に存在する命はすべて、尊厳を持つ命だと思っていない。男女など関係なく、なんなら、人間であるかどうかも些細な問題になる。

「ありがとうございます! んじゃ、行きましょ――富裕層の街にあるらしいんで、手引きがないと行けないんで、時間は今からっす。ごめんなさい」

「いいけど、ブローカーに渡す金は? あんたの自腹?」

「パワースポットに行くための金くれ、とは言えないっすよ――それに、店の常連さんの口利きで、三割くらい安くなってんすよ。あ、舞奈さんの分も割引されるっすよ」

「あたしが行かないって言う可能性、考えなかったの?」

 もしそうなれば、信頼にひびが入る。そういう仁義のようなものは、現代でも粗末にはできない。貧困層の人間は、特に――無形の信頼というものを失えばどうなるか。舞奈のような超人であれがいいが、そうでなければ……。

「んー、その時はその時かなって。どうせ生きてりゃ死ぬんですから、遅いか早いかっすよ」

 ひどい感覚だが、貧困層の人間とはそんなものだ。明日なんていう未来のことを思えるのは、精神的にも物理的にも恵まれた人間の特権でしかない。最初から、そういうものを持たずに生まれて死んでいく命はいくらでもある。

「でも、意外ね」

 だからこそ、こう言える。

「あんたが明日のことを考えるなんて」

「死ぬ時に、盛大な葬式して欲しいんすよ。遺産の使い道はそれっす」

「誰が取り仕切るの? あたしは嫌よ」

「えー。じゃあ誰がやるんすか」

「お店の人は?」

「するわけないっすよ。薄情っすもん」

 水商売という仕事は、どうしても情が切り離せない仕事であるはずだが、どうしてもドライな関係しか築けないものでもある――損得だけの関係しか作れない。

 無論、ゴーズの仕事で実りある関係が生まれるのかという話になれば、それはそれで否定するしかないのだが。

「舞奈さんくらいしか、いないんすよねー」

「友達を増やしなさい」

「嫌っすよ、めんどくさい――つーか、舞奈さんだって私くらいしかいないじゃないっすか」

「あたしは超人だからいらないってだけよ。あんたは凡人だから、友達が必要よ。でないと、いざって時の決断で間違えるもの」

「間違える?」

「死ななくていいところで、死ぬしかないってなるってことよ」

 世の自殺者の大半はそんなものと思う。死ぬべきタイミングを見誤って、その死に何の香月も付随させられていない。無駄死にほど馬鹿げた行いはないと舞奈は思うが、世の人のほとんどはそうやって死んでいく。

 ひなたにはそうなって欲しくないが――その願いが通じるかはわからない。超人は凡人を救えない。だって凡人じゃないから、その心が理解しきれない。

「自分がいつ死ぬかくらい、自分の意思で決めたいっすよ。死にたいと思った時が死に時じゃないっすか――生まれるタイミングはどうやっても選べないんすから、死ぬのは自分で決めて、そんで死にたいっすよ」

「……そうね。それが、一番マシな死に方かもね」

 頷きながらも、それでも、ひなたには――友達には幸福に死んで欲しいと思わずにはいられなかった。舞奈と兄の違いはそこかもしれない。兄は、誰に対して平等に接していたから、誰かを生かすことがなかった。人間を生かすというのは、結局はその相手に過剰に入れ込むことでしかない。

 ――富裕層の街の近くで。

 そのブローカーと合流する。見た目はただのサラリーマンだ。つまり、違法行為をしなさそうな格好をしている、ということだが。そういう外見の人間こそ不正をするものだろうと言われれば反論はできないにしても、だ。

 年齢は三十を過ぎた辺りか。無精髭かお洒落で伸ばした髭か、判別がつきづらいくらいの長さと手入れされた髭が目を惹いた――それ以外は特徴がなかった。だから、髭を利用しているのかもしれないが。

「金」

 そんな男が、簡潔に言って手を伸ばしてきた。告げる。

「愛想のひとつもないわけ?」

「舞奈さん、いいっすから――これっす」

 ひなたがそれなりの枚数の紙幣を、男に渡す。一万円札が十枚はあるか。それでも割引された額なのだから、富裕層の街に入るとは簡単ではない。

「あたしの分、あとで払うよ」

 そう言うと、ひなたはからからと笑った。

「ありたいっす。今月もヤバくて」

 貧困街の人間で、来月まで胸を張って不安なく生きられます、と言える人間はかなり少ない。舞奈はそちら側だが、ひなたは違うし、水商売の人間は大体そうだ――茜のように太い客でも見つけないと、生活は安定しない。あの女は、自分好みの男女に金をばらまくくらいしか生き甲斐がないという、ある意味では虚しい女ではあるが。

「こっちだ。来い」

 ふと、思い至る。この男は日本人ではないかもしれない。他国の人間を使い走りにして、小銭を稼ぐ富裕層の人間は珍しくないと聞く――そう思えるくらい男の言葉は簡潔で、そして怪しいものだった。

 富裕層だからこそ、小銭稼ぎにご執心になる――金のない生活を想像できてしまえる程度の小金持ちは、みみっちい、眼前の金稼ぎに躍起になるものである。無論、そういう人間を利用しないといけない貧困層の人間がいてこそ、成り立つビジネスだ。

 富裕層こそ、貧困層の人間を必要としている。誰もが裕福になった時、自分たちが没落すると知っているから、富めない者を生み出し続けるのだ。

 歪な関係よね。いわゆる抜け道を歩きながら、舞奈は思う。自分が中流階級でないと証明するために、下流階級を自前で用意するというその精神は、いまいち理解できない。兄ならば、なんと言うのだろう。否定はしないが、肯定もしないかもしれない。あるいは、それこそが人だとか、そんなことを言うか。

 抜け道と呼ばれていても、日本のインフラはあちこちに行き届いている。アスファルトで舗装されて、穴のひとつも空いていない。公にはない道だとしても、役所と土建屋は自分たちの食い扶持を見つけるために補修の必要を叫ぶから、整備もされていて歩きやすい。灯りがないのは不便だが、夜目でなんとかなった。本当の暗闇なんて、富裕層の街にはない。

 十分は歩いたか。

 華やかな街路に出る――そこで、男が言う。

「ここまで」

 やはり日本人ではないかもしれない。まぁ、どこの国の人間であれ、納税をして余計な政治思想を持たなければ歓迎されるのだろうが。

「どもっす」

「チップ」

「そういうことだけはきっちり言うのね。失せなさい。あんたを殺すくらい、わけないのよ?」

 ひなたは財布に手を伸ばしていたが、舞奈はそう告げた。男は抵抗せずに去って行く。

「舞奈さん、よくないっすよ」

「チップなんて、日本の文化じゃないでしょう。郷に入っては郷に従え、よ」

「なんすか、それ?」

「生きている土地のルールに従え、ってこと。他所のルールは他所のルールなの」

「はぁ」

 たぶんよくわかっていないような吐息で、ひなたが答えた。

「舞奈さん、人間殺せるんすか?」

 その彼女が聞いてきた。肩をすくめる。

「できるなら、檻の中にいるってのよ」

「そっすか、安心っす――通報して金がもらえないのは残念っすけど」

「あたしらが通報したって、報奨金は適当な理由で減額されるでしょ」

 警察官が富裕層と貧困層、どちらに味方をするかは言うまでもない。彼らは平等な正義の味方ではない――そうであった時期が歴史上、一瞬でもあったのかという話になれば、それは簡単に断じられないのだろうが、少なくとも、現代では悪の手先の方に傾く。

 そういう人間に見つかれば、厄介だ。問う。

「で? ここから先は?」 一応言っておくけど、あたし、詳しくないからね?」

「アプリで一発っすよ。住所はお客さんに教えてもらったんで、ばっちりっす」

「嫌なら答えなくてもいいけど――それが答えとも言えるけど――、そんなの教えてくれる客がいるの?」

「快楽と引き換えに情報を漏らす馬鹿はかなりいるっすよ」

「馬鹿より価値がないのよ、そういうの」

「でもおかげで運気が向いて幸福になれるなら、利用価値はありますよ」

「……いいけどね」

 つまるところ、人間は馬鹿を騙すことでしか幸福になれないのかもしれない――もっと自由な精神で、自由の中からそれを掴み取る方が健全だとは思うが、不健全であり続けた方が生きるのは間違いなく楽だ。

 嫌になる。陰鬱とした気持ちで、楽しげに歩くひなたの後を追う。これから得られる幸福のことを思っているのもあるかもしれないが、どちらかと言えば、富裕層の街を歩いているという事実でテンションが上がっているのかもしれない。貧困層の人間は、法的な制限がないにしても、暗黙の了解で富裕層の街には足を踏み入れてはいけない、と教え込まれている。

 富裕層の街とはいえ、寂れた場所はあるし、そういう所に限って役所なんかあったりするものだ。公的な施設に限って、辺鄙な所にはあるのはそう珍しくないと聞く。

 ひなたの目的地は、そんな一画にある、外から一見するだけで小さめの役所にしか見えない建物だった――その外観からは想像できないくらい、人で溢れ返っていた。

「……暇なの? こいつら」

 逢魔が時とでも言えばいい時間帯で、仕事にせよ遊びにせよ、まだやることが膨大にあるだろうに――この連中はなんだって、こんな施設の前にいるのか。

「幸せになりたいんじゃないっすか?」

「そうは言ってもね……」

 呆れるしかない。自力で幸福を得る、なんて発想は旧いものになったのかもしれない。

「つーかどこに並ぶんすかね? 列くらい作ってくんないと……」

 ぐちぐち言いながら、ひなたがそれらしい場所に移動する。

 舞奈はその後ろから、人の群れを見た。

 貧困層と富裕層、どちらもいるらしかった。ただ、どちらにせよ、幸が薄そうというか、現状に不満はあるが具体的には何もしない――普通の人間しかいないようだった。そのくせ、自分は特別な幸福を得る権利があると信じ切っている顔をしている。

 自力で幸福になれないと知っていて、実際に外部出力で幸福になるためにこんな所に来ているが、それでも、自分たちがそんな凡俗的な発想-―貧困な発想-―しかできない凡人だとは認められない、つまり、精神史的には貧相な人間だけがいる。

 地獄ね、ここ。舞奈は思う。あるいは、地獄の方が救いがあるかもしれない。

「どれくらい待つんすかね?」

「一分も一時間も同じようなもんでしょ……」

 こんな所の空気を吸っていれば、いつでも堕落できるだろう。だから、時間は大して意味はないと思えた。ひなたは、よくわからない、というような顔をしたが。

「てきとーに話でもしてりゃいいっすかね」

「いいと思うけど、内容は選びなさいよ」

「もちろんっすよ。私の仕事、忘れたんすか?」

「そうね……ごめんなさい」

 本心を語るよりも、嘘を吐く方が多い環境にいれば、今口にすべき話題の取捨選択が上手になる。上手い嘘とはつまり、周囲が期待する言葉を口にすることだ――他人の本心なんて聞きたくない、という人間は一定数いるのだから。

 雑談しながら待つこと、三十分ほどで。

 舞奈とひなたは、建物の中に入った。

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