第12話 この世界で生きるということ

「いいじゃないっすか」

「何がよ」

 つまり。

 篝火ひなたは舞奈の妹分みたいなものである――どれだけ否定してもつきまとってくるのだから、まぁ何かしらの目論みはあるのだろうが、なんであれ彼女に負ける理由はないから無視している。そういう女だ。

 年齢は同い年の十八だとか、それくらいだったはずだ。見た目は狐をイメージさせる顔つきをしている。目が細いわけでもないが、第一印象でそう思える不思議な顔だ。美醜で言えば美側なのだろうが、好みの分かれるタイプでもある。

 舞奈とさして年齢は変わらないが、身体つきは大人そのもので、特に胸は大きい。舞奈は普通であるはずだが、ひなたと並べばだいぶ貧乳扱いをされてもおかしくない。尻や足にもそれなりに肉があり、身体だけで言えば男受けは間違いなくいい。

「化け物ぶっ殺してお金もらえるとか、天国じゃないっすか。ストレスが溜まらない仕事っすよ、仕事なんてストレス溜めるためにやるものなんすよ、普通」

 舞奈が暮らすアパートの一室でそんなことを延々と語るひなただが、不思議と不快感はない。声がいいし、喋りのテンポがいいからだろう。ついでに言えば、適度に華がないから、この貧困街にはベストマッチだ。

 アパートの部屋は以前、兄が使っていた部屋だ。別にそれが理由ではなく、組織を保証人に部屋を借りようとしたら、それならここにしろ、と言われただけでしかない。兄のことは好きだし尊敬しているが、この糞みたいなアパートで満足できる精神は度し難い。

 明らかに女が暮らすアパートではないのだが。

 その一室で舞奈は暮らしているし、眼前にはひなたがいる。何かがおかしいとは思うのだが、今のところ、この現実を変える力はない――変えられるとすれば、貯金額を武器に富裕層の暮らすタワーマンションに殴り込むくらいだが、生憎と、明文化されていない法があるからそれはできない。

 法は世界に生きる人の平等を謳ったが、その影響で差別というものが再び表立ってしまったのだから、つくづくこの世界はよくできている――などと、兄ならば言うだろう。つまり、貧困層に生まれれば、死ぬまでそこから成り上がれないということだ。

 どれだけ容姿が優れていても、大昔と違ってアイドルになって逆転! なんてことはできない。芸能事務所が眼を光らせている街とは富裕層の街のことだし、基本的に富裕層であればあるほど、美しさが向上していくのだから、顔ではまず勝てない。

 舞奈とひなたの容姿が優れているのは、その富裕層に生まれたのだが、当人たちからすれば目に入れたくない存在だから、里子という形で貧困層に売り飛ばされたからだ――法の下で、貧困層は結婚と同時に養子を受け入れることが義務になっている。

 兄も舞奈も、それで捨てられてから児童養護施設である程度育ってから引き取られたのだ。当たり前の話だが、法を順守しなければデメリットがあるから、という理由だけでもらわれた子供が愛されるはずもない。

 だから舞奈は、賃貸契約の保証人を組織に頼むしかなかったのだ。戸籍上の両親は、そもそも舞奈の話を聞くどころか、その存在にさえも関心を払わないような人たちだった。

 ひなたもその意味では同じだ。家族に愛されず、進学する金を出してもらえなかったから、非合法のキャバクラで働く貧困街ならば履いて捨てるほどいる女の、一人。

 夜の仕事だから、必然、昼間は暇になる。ならば寝ていればいいはずなのに、ひなたはよく舞奈の部屋に来るし、舞奈が不在ならば玄関の前で忠犬面して待っているから困る。将来は重い女になるだろうと、舞奈は半ば確信している。

「何? あんたはストレス溜めてんの?」

 独りで部屋でスマホを眺めているよりは建設的だと思うから、舞奈はひなたを拒絶しない。どだい、友人なんてものはいないのもある。貧困層こそ孤独を恐れるべきだが、貧困層こそコミュニケーション能力も関係を維持する努力にも恵まれていない。

 舞奈は兄さえいればよかったのだが。

 その兄は、死んだ――レッド・ゴーズとして殉職したらしい。兄の遺産は舞奈が引き継いだ。それはつまり、ゴーズになった、ということである。兄は極端に金を使わない人だったから、金もそれなりにあったが、相続税でだいぶ持っていかれた。

 法は等しく人から税金を奪うが、抜け道は富裕層にしか理解できないように隠しているものだし、理解できないように幼い頃から教育格差をつけている。節税対策、と言われても舞奈はさっぱり意味がわからなかったから、税金として奪われた――今でもわかっていないから、給料から税金が引かれているのだが。

「当たり前っすよ。私らを人間扱いしてないやつらに媚び売るんすよ! むしろどうして楽しめるんすか――アフターでやられた回数、かなりあるんすよ!」

「金は懐に入れてるくせに、よく言うよ」

「当然の権利っす。つーか、それがなきゃ私、今頃、餓死してるっす。病院なんて見たことないのに、保険とか言われてもどーしろってんすか」

「あるでしょ、病院は」

「使えたことないっすけど――門前払いっすよ」

「それでもある、っていうのが事実。事実を捻じ曲げるのは感心しない、なんて兄さんなら言うんでしょうね」

「舞奈さんはどう思ってんすか」

「皆、死ねばいいとは思うけどね、言わないでよ?」

 数年前までは一応、利用はできたのだが法の改正により、貧困層は病院を使えなくなった。無論、そうだと明記はしていないが、負担額が五割を超えれば、年がら年中金がない立場の人間には使えるはずがない。病院側も、金にならない患者など避けたい。

 そもそも、貧困層は医師の善意で病院を利用していたのに、その医師を散々けなして怒りを買い、法の改正が加速したという歴史もある――貧困層こそクレーマーになるのだから、意味がわからない。

 人の善意に縋らないと生きていけなのに、善意を向ければそれがむかつくとごねる。同じ環境で生きてはいるが、舞奈からして見てもそういう人たちは異常だ――だから、富裕層共々死ねばいいと思っている。

 その対象の中に自分がいても、それは仕方ない。悟っているわけではなく、単に貧困層に落とされたとはそういうことでしかない、という兄の教えを支持しているだけだ。

 無論、死ぬ前にド派手に暴れはするだろう。生きていくとは、そういう目標がないとどこまでも堕落できてしまうものである。

「言わないっすよ。私もそう思いますけど――なんでこんな人間がえっらそうに生きてんだよ、とか思いますもん」

「自省しないから生きていけるんだって、兄さんなら言うんじゃないかしら」

「会ったことないっすけど、なにもんなんすか? 兄さんって。よく話に挙げますけど」

「すごい馬鹿」

 他に言いようがなかった――そう、風切誠一は馬鹿だった。馬鹿のまま、死んだ。

「それを自覚していたけど、馬鹿でいることを選んだやっぱり、すごい馬鹿ね」

「よくわかんないっす」

「そね。あたしも、言うほど理解してるわけじゃなかったのかも――人間が人間を理解できるはずないのよ。人間であるってことの、限界とかなんとか……兄さんは言うんでしょうね。相互理解なんてし出したら、そんなのもう人間じゃない――超人よ」

「舞奈さん、それっすよ」

「そうね。あたしくらいよ、超人って」

「……否定しないんすか?」

 呆れたように、ひなたが言う。返す。

「だってあたし超人だもん。どこからどう見ても。否定できる?」

「そのわりには、生活能力ないっすよ」

 ひなたは言いながら、部屋の一部を指さした――洗濯物とゴミが散乱した個所を。嘆息して、言ってやる。

「他は綺麗なんだから、いいでしょ」

「だから余計に目立つんすよ。なんであそこだけ汚くて、他は綺麗なんすか」

「バランス取ってるの。人間、綺麗すぎても汚過ぎてもダメ。どっちも必要なの」

「屁理屈じゃないすか」

「そう? あたしの中で筋が通ってるから、それはつまり、超人の理屈ね――あなたたち凡人には理解できなくても仕方ない、許してあげる」

「えらそー」

 偉いのだから当然だが。

 ふと思い出して、告げる。

「そろそろ、時間じゃない――送って行くわ」

「わー、やめてくださいよ、現実を思い出すのは嫌なんすよ……」

 時刻は夕方の五時過ぎ。キャバクラの営業開始までまだ余裕はあるが、ひなたは客ではなく従業員なのだから早めに入って、準備がある。

 送って行く、というのは貧困街なんてどこでも治安が悪いから超人として守ってあげよう、と思っているからだ――超人の義務、とかではなく、単に舞奈がひなたを好きだから、ではあるが。嫌いな人間まで守るような馬鹿さは、舞奈にはない。

「大人しく仕事しなさい。残念ながら、あたしたちは働かないと生きていけないもの」

「金持ちの家に生まれたってだけで仕事しなくていいの、ずるくないすか?」

「そういうやつらは、仕事をしないことで仕事をしているのよ――おかげで空いた枠に潜り込むしかできない人間がいるってことね」

 舞奈だって、兄が死んだ枠に入っただけと言われれば否定はできない。無論、ゴーズが並び立つ可能性もあったが、それは叶わない夢で終わっている。

 部屋を出て、ひなたと二人夕暮れの街を歩く。すでに酔って前後不覚だったり、つまらない話を聞かせて迷惑をかける馬鹿どもがいるが、まぁ、朝でも夜でも夕方でもいる存在であり、街の風景のひとつでしかないとも言える。

 どこで生まれようが、貧困街で暮らすしかなくなったら終わりだ。もっとも、舞奈にしてもひなたにしても、そして兄にしても、生まれた直後の記憶なんてないのだから、生まれも育ちも貧困街のようなものだ。

 実の親がどうして自分たちを捨てたのか。それは貧困層の子供の大多数が思うことではあるが、答えは出ない――ということになっている。答えがあまりにも悲劇だから、誰も知らないということで済ませているのだ。

 富裕層が性行為をすれば、当然ながら妊娠のリスクがある――それを忘れた馬鹿どもがいる。それだけのことだ。人間、育てる気もないのにできた子供ほど直視したくない現実はない。

 中絶をすればいいのだが、殺人をしたようなものだ。その罪悪感を恐れているうちに子供は腹の中で育ち……本当に人殺しになる時期になってしまう。その時になって嫌でも現実を対面した馬鹿どもは、いかに子供を捨てるかを考えるようになる。

 その行き先が貧困層の夫婦になるわけだ。都合よく使われたものだが、拒絶する権利がないのだから従うしかない。法を無視すれば、その終着点は牢屋になる。

「お、舞奈ねーちゃんだ! 飯くれよ!」

「おめぇ昼は食べたじゃん! 俺がもらうんだよ!」

「わたしも働きたいよー! 仕事教えて!」

 繁華街に近づくにつれ、子供たちが近寄ってきて――その数が増えていく。

「人気者っすね、舞奈さん」

 にやにやと笑ってひなたが言う。彼女は知っている。どれだけ頼られようとも、この行き場のない子供たちを救うことができない、と。どれだけ舞奈が自分を超人だと自負したところで、救える人の数がたかが知れていて、救わないといけない人の数を上回ることはない。

「ご飯くらいならどうにかするけど、仕事は無理よ。こっちの馬鹿に言いなさい」

「ちょっ! こんなガキを使ったら、さすがにヤバいですって――それとも私にロリコン野郎にセックスの機会をプレゼントしろってんすか!?」

 手っ取り早く子供が金を稼ごうとすれば、どうしたって売春が筆頭に上がってしまう。富裕層は自分たちのテリトリーでやれば犯罪になる行為を、この貧困街では堂々とやる。むしろ、そのためにお目こぼししてやっているだろう、と主張してくるくらいだ。

「えー、この人と同じのやだー」

「だよなー! やっぱ舞奈ねーちゃんみたいにぶっ壊してぇよ!」

「悪口言わなかったっすか!? こいつら! 私だって怒ることあるっすよ!」

「ひなたねーちゃんとか怖くねーし」

「怖いのは事務所の人たちだもんね」

「ねーちゃんはいつも泣き寝入りしてんじゃん」

「こいつら……! いいっすよね!? 私、こいつらぶん殴っても!」

「ダメよ。この子たちは未来の宝――間違いなく、あんたより価値があるもの。あたしよりは低いけど」

「私の扱い!」

 悲鳴を上げるひなたを見て、子供たちは少し笑う――十五人くらいか。この程度も救えない。舞奈は自覚する。それが今のあたしだ。

「ご飯、この人数だと入れる店ないかしら。ひなた、あんたの店――」

「うちは健全な店なので、お子様は無理っす」

「あんたを雇ってるのに?」

「ガチの子供は無理っすよ。私だって、店じゃ年齢は二十歳なんすよ」

 どう考えてもその年齢には見えないが――その事実があるだけで興奮できる馬鹿どもは、男女に限らず存在している。男だけが春を買うわけではないし、男だけが花を散らせるわけでもない。

 人間ならば、等しく浅ましくて醜い欲望を持っている。そして、その毒牙で傷つく弱者の存在を求めるものだ。一方的に嬲れる人間が必要になる。

 人間を傷つけることでしか満たされない。そんな出来損ないの劣等種が人間を騙るのだから、この世界はろくでもない。

「二十歳何年目なの?」

「もう二年すね」

「皆、聞いた? こいつ年齢詐称してんのよ。こうはならないようにね?」

 はーい、と子供たちが笑顔で返事をしたが、ひなたは不満気だった。

「何よ?」

「舞奈さん、子供には甘いっすよね」

 愚痴のように言った。笑って、返す。

「あたしは誰にだって甘いでしょう? そうでなきゃ、わざわざ人間なんて守らないもの」

 兄のような善人ではないし、なりたくもない。組織にこき使われて死ぬだけの人生なんて、死んでもごめんだ。

「じゃ、皆」

 子供たちに向かって、告げる。

「ご飯を買いにスーパー行きましょうか。言っておくけど、一人千円超えたら怒るからね? あたしだってそんなお金ないんだから」

「仕事してんのに?」

「仕事をしなきゃいけないんだから、お金がない人なのよ」

 子供たちは理解しかねたようだったが、いずれわかるようになる――のか、その前に舞奈が世界を変えて、彼らが真っ当に成長するか。

 そんな未来のことはわからないが、手に入れるまであがけばきっと、手に入る。そう信じるくらいの自由は、貧困層にだってあるのだ。

「――お前さんも、大概お人好しだねぇ」

「おっさん、いいから肉入れてよ」

「あのな、いくらお前さん相手でも肉なんざそうそうたくさんやれねぇよ」

「どうせ大豆で作った偽物でしょ」

「栄養があるんだから感謝しろよ」

「死ね」

 などと毒づいたところで。

 目の前の鍋に入った肉が本物になることはない。遺伝子組み換え大豆で作られた偽物の肉。舞奈は生まれてから今まで、本物の肉を食べたことは一度しかない。ゴーズの初任給で食べたステーキがそれだったが、本物過ぎて食後に吐いた記憶ばかり残っている。

 子供たちにご馳走をした結果、舞奈の財布はだいぶ軽くなっていた。となれば、自分の夕食を切り詰めるしかない――その結果、馴染みの総菜屋に来たのだ。顔を覚えてしまい、吐いて忘れることもできない店主は、いつもの笑顔でいつものようにケチだった。

 貧困街は一本、道を外れれば低所得者向けの飲食店がいくらでもある。どれも汚くて衛生的にはよろしくないのだが、表通りの店は富裕層だとか観光客向けで、入店すぐ退店を強いられるので利用できない。

 きらびやかな世界の裏に、ゴミみたいな世界がある。別に日本だけの風景ではなく、諸外国もそうらしい。日本がそうなったのか、世界がそうなったのか――どちらが先なのかはわからないが、今や地球上のどこでも貧乏人はより貧乏になり、金持ちはより金持ちになるという構図が完成している。

 この総菜屋もご多分に漏れず、汚くて居心地は悪いのだが、いかんせん値段の安さと深夜まで営業しているだけで重宝する。その代わり、夕方からしか営業していないが、繫華街の店としては正しい。

 店主は日焼けした顔に、不健康そうな身体をしている六十くらいの爺だ。仕事ができなくなれば即座に野垂れ死ぬしかないような男だとか言っているが、それにしては身なりは綺麗である。だからこそ、綺麗なのかもしれないが。

 いつ死んでもいいように備えているのかもしれない。

 舞奈は店主のにやけ顔を半眼で見つめつつ、告げる。

「ほんとに肉を入れてくれないのね。常連よ、あたし」

 店主が総菜を適当に入れている容器には、明らかに野菜と魚肉(らしきもの)ばかりが入っている。文句も言いたくなる。

「お前さんだけが常連じゃねぇからな」

「……せめて鶏のむね肉くらいないの? 唐揚げとかで」

「むね肉とささみはヘルシーで腹に溜まるから、こっちまで回って来ねぇよ」

「もも肉」

「たけぇ。手が出ねぇよ」

 嘆息混じりの答えが返ってきた。それでもにやけているのだから、顔と声が合致しない男である。貧困街にはそんな人間ばかりだが――正常な感情表現が不得手な人間が多いのである。真っ当に育てられなかったのだから、真っ当なそれができるはずがない。

「じゃあ腹に溜まる野菜――」

「芋食えよ。お前さん、なんか嫌ってるが」

「昔から馬鹿みたいに食ってんのよ? なんで金払ってまで……」

 愚痴るのだが、それで何も変わらないことは理解している――ゴーズとして人間の守護者をやっていても、日々の食事の充実すらできないのが現実だ。誰かのそういうものを守るために戦っているという建て前だが、舞奈の周囲の人間の生活が少しでも、マシになった姿は見たことがない。

 兄はそれでもいい、とよく言っていた――稀代の善人だった兄は、だからこそ、人を助けられなかった。善意だけで人間が救えるはずがないからだ。つまるところ、人間の行為には善意と悪意の両方が必要で、それらなくして幸福は得られない。

 兄はどうしても悪意が持てなかった。だから結局、誰も救えないで死んでいった。

「……ま、いいから米に合うもの適当に寄越しなさい」

「予算は? いつも通りか?」

「半分でいつもの量」

「ふざけてんのか?」

「銀行もう閉まってんのよ」

「手数料払えばいいだけだろ」

「同じ立場ならあんたは払うの?」

「んなわけねぇだろ。だがお前は払え。でなけりゃ、量は半分しかやらん」

 融通の利かない男ではあるが、貧乏人に優しくする理由がない、というのは事実だ。そういう身分の人間の方が、基本的には卑しい。清貧なんて概念は空想の中に存在しえない。だから国は貧民救済を諦めた。

「あーもう、そうですか! じゃあ三分の二で!」

「……仕方ねぇ」

「いいの?」

「他の店を紹介してやる。うちよりまずいが安いぞ」

 店主はそう言って、容器をごみ箱に捨てた。これが貧乏人だ。うめく。食に対するリスペクトの念など欠片もない。

「新規開拓って気分じゃないんだけど――ま、いいでしょ」

 嘆息して、続ける。

「そばを食べることにする」

「腹に溜まらねぇから嫌いなんだろ?」

「背に腹は代えられないもの。この件、しばらく恨むからね?」

「お前さんが来なくたって、うちは経営できるからな」

「二号店を作ればいいのよ」

 皮肉だが、通じたかはわからない――皮肉になっているかもわからない。教養がないとはこういう時に不便だ。兄ならば上手くやったかもしれないが、あの人はどこか異常だったからそれくらい当然だとも言えた。

 店を離れて、繁華街の表通りに出る。夜になってからが本番であり、飲食店もあちこちで営業している――いずれも酒を出す店で、だから子供は嫌われる。嫌われるだけで拒絶はされないのだが、気分良く飯が食えないのは不愉快だから舞奈は利用しない。

 繁華街とアパートの中間辺りに、立ち食いそばの店がある。元々はチェーン店だったが、今は独立して夜から早朝にかけて営業する、いわゆる夜の街の住人のための店だ。味は普通だが、安いし、酒を頼まなくても不機嫌にならない店主だから利用しやすいのである。

 店は狭い。精々が十人程度しか入らないだろう。カウンター席のみで、居心地がいいわけでもないが、それでも悪くない店だ。そもそも、貧困街で酒を飲まずに快適に利用できる店なんてありはしないし、酒を頼んでもイライラさせられる店の方が多いのだが。

「らっしゃい!」

 チェーン店出身だけあって、第一声は文句ない――舞奈だとわかっても、表面上は笑顔を維持しているのだから、昔からそれなりに出来た人だ。

店主は中肉中背で、店を出て五分もあれば忘れてしまいそうな顔をしている。それなのに覚えてしまっているくらいには、この店には足を運んでいる――兄と一緒だった時期もある。

「まーた金ないんですか?」

 財政に余裕がある時は、この店には来ない。返す。

「ツケで食べるわけじゃないんだし、いいでしょ」

「それはそうですが。あなたはいつでも現金払いですから、ありがたい客ですよ」

「クレジットで払う人はいないでしょうに」

「私は電子マネーを信じていないんですよ。クレジットもね。金はいつでも現ナマに限ります――きつねで?」

 席に座る。まだ夜は浅い時間だから、他に客はいない。だから店主も軽い口調で話しかけてきたのだろうが。

「天玉」

「あぁ、完全に金がないわけじゃないのですね――かしこまりました」

 店で最安値はもちろんかけそばだが、見栄を張ってどんなに金がなくてもきつねそばにしているのだ。今日は手持ちが少ないだけだから、そこまで節約する必要はなかった。

 立ち食いそば屋だけあって、注文してから出てくるまではとにかく早い。そばは茹で置きだろうし、つゆだって二流以下だが、安さと早さ、そして不快感がなければ飲食店はそこそこやっていける。

「どうぞ」

 店主が天玉蕎麦を提供してくれた。

「いただきます」

 手を合わせて言ってから、食べ始める――味は可も不可もなく、ではあるのだが、兄はこの店を贔屓にしていた。それで舞奈もよく通っていたから、今でも利用している。飲食店に馴染みになる理由なんて、結局は味よりも想い出かもしれない。

「お兄さんは、いつも鴨せいろが欲しい、なんて言ってましたね」

「偽物なら作れるんでしょ?」

「あの人は本物がいい、と嘆いていましたね。昔はたまに出していたんですが、鴨を卸してくれていた所がね、仕事やめちゃって。おかげで消すしかなくてねぇ」

 店主は苦く笑う。そういう顔は、兄に似ていた。

「私らみたいな人を積極的、ってほどでもないですが、それなりに雇ってくれたもんですが、それが仇になったと聞いています――問題を起こす人ってのは、それがどんな影響を後の人にもたらすか、考えないんですねぇ」

「だからここに落ちてきたんでしょう? 昔は――それこそ子供の頃は、あんただって、そういうやつらだって、中間層にいたって聞いてるけど?」

「私らが子供の時分には、もう明暗はっきりしていましたよ」

 そうであれば、舞奈だって兄だってどうしようもない。過去は変えられない――過去で決まってしまった事実をひっくり返すのにかかる労力は、並大抵のものではない。だから人は未来を確定しまいたがる。未来が過去になった時、すでに決定した事実は変えられることがないのだから。

「やっぱり、旧い人には退場してもらうしかないかしら」

「私らもですか?」

「ええ。こんな時代になることを看過したのなら、それは罪よ――ごちそうさまでした」

 再び手を合わせて、舞奈はちゃんとそう言った。店主が笑う。

「あなたは、そういう所が細かい」

「兄さんが厳しかったのよ。食べ物への礼儀だけはしっかりしろ。あとは好きにすればいいっていうのが、兄さんの口癖だった――それを無視したら、兄さん、本当に死んじゃうじゃない」

 無論、どれだけ兄の教えを順守しても、彼は帰ってこない。それでも、だ。何もかも投げ出すよりは、苦しくても兄の生きた痕跡を世界に残したい。

「おいしかった。ごちそうさま」

「心にもないことを言いますね」

「これも礼儀よ――あと、言うほど嘘でもないし。あたし、ここの味好きよ。兄さんが好きだった味なんだから」

 想い出が味を決めることもある。

 店を出て、舞奈は帰路についた。帰る場所があって、普通に帰って眠れる――それだけのことでさえ、この街では困難だ。夕食をご馳走した子供たちの半分は、路上で眠ることになる。布団の代わりになるものがないかと、眠りに落ちる寸前まで探す子もいるし、そもそも何かを敷いて寝る、ということを知らない子もいる。

 これも、世界よ。兄さん。あなたが守りたかったのは、こんな世界?

 問いかけても、答えはない。知っているから、舞奈は口にしなかった。声を出さなければ、ないのと同じである――そして声の出し方を教えられなければ、人は声すらも出せない。そうやってこの社会は完成した。

 悲鳴を上げることすらできなくなるまで相手を弱らせ、支配する――それが平和であり、かけがえのない日常だと思い込んでいる人間たちが、この世界の多数派だ。

「いつか」

 小さく。つぶやく。

「殺す」

 舞奈の夢はつまり――それだった。

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