第2話 妖精魂を落としてしまった
「あれっ、おかしいな。妖力がどんどん落ちてる。飛べる距離が短くなってるし、なんで、美味しいものが出てこないんだよ。これじゃ腹ペコになっちゃうじゃん。買いたくたっておカネもないんだから」
ナルルは妖力の効果が急激に落ちてきたことに、ショックを受けた。
「7日間は妖力が人間界で使えると本に書いてあったのに、ウソなの。だますんじゃないっての。なんでまだ4日目だっていうのに、妖力が切れかかってるんだよ。こんなのうそでしょ」
ナルルは、妖精界を抜け出る時に、肝心な妖力養成の施術をしてもらっていなかった。通常の場合は人間界に入る事の出来る妖精は、必ず研修中に全ての施術を受けており、体調から羽の具合まで整えてあるはずだった。ナルルはその研修もすませてなく、施術も受けていなかったため、妖力は3日間ほどしか持たなかったのである。4日目になると妖力は急激に低下し、夜にはほとんど力を失うことになる。ナルルは人間界を見るのが初めてだったので、夢中でこの3日間をあわただしく飛び回っただけだった。あちこち見て回るのが楽しくて、時間を有効に使おうとは考えてもいなかった。予定としては最初の5日間は自由飛行で見物し、あとの2日間で住む場所などを確保する計画だった。だが、意外な展開となってしまった。ナルルは生まれて初めて不安という感情を持つことになった。その不安は初めてで気持ちいいものでもあったが、そんな悠長な状態ではないという現実にすぐに引き戻されてしまった。
「いったい私はどうしたらいいの。妖力がこんなに早くなくなるなんて・・・。まっいっか、どうせいつかなくなるもんだし、気にしたってしょうがないもん。それより、腹減ったよ。とにかく食べよう。まだ妖力があるうちに、たくさん食べておこう。」
ナルルは洋食レストランの前に歩いて到着した。目の前には美味しそうな食事の見本が展示してあった。まだ作って間もない出来立てのメニューの見本だった。
妖力で1万円札を出した。本当はこうした行為は良くないのだが、人間界は妖精に面倒を見てもらってる恩義で、世間を揺るがせない範囲で、多少の法を逸脱する行為は許されるしきたりとなっていた。ナルルは妖力で出した1万円札を、ぽけっとにしまいこんで、そのレストランに入っていった。
「お店の前に出しているメニューをお願いします。それと、肉は全部抜いてください。肉は食べられないんです」
「かしこまりました・・・えっ、肉は全部抜くんですか」
「ハイッ、お願いします」
「あっ、はい。できるまで、少々お待ちください。お飲み物はあそこからご自由にどうぞ」若いウエイトレスは、けげんそうな表情で厨房に向かった。
肉抜き、それも全く肉を入れないなんてお客はいままで一度もなかった。それより、肉抜きでメニューが作れるのかも疑ったが、取りあえずは料理長にその旨を伝えた。料理長は頭をひねったが。「客の要望では仕方ないな」というわけで、注文の料理を作ることになった。
妖精の世界では肉は全く食べない。食事は、すべて野菜ばかりだった。妖精は野菜と花だけ食べて、人間は野菜と肉を食べ、魔界は肉を中心として食べている、というのが通常の食生活の違いとなっていた。ただ、妖精が肉を全く食べられないかと言えば、食べられないわけでもなかった。動物がすすんで肉を提供してくれた場合には、食べてもいいという事にはなっていた。進んで肉を提供する動物なんているのかと思うが、実際には、動物の心理として、他人や他者のためになるならば自分の肉を提供してもいいと犠牲的な精神から自分の肉体を提供しようと考える動物も予想以上に多いのである。動物もその存在感を、単に生きているよりも、ある程度の年齢に達して満足が得られれば、次の世代に、そしていろんな他の動物や人間に自分を役立たせることができればそれでもいいと考えている。どうしても、自分だけ生き延びようと考えるのは、魔界の考え方と言えた。魔界人は、他者を殺すことは平気だし、たとえ家族であっても、逆らったり邪魔な存在となった場合にはその存在を消すのが至極当然と考えている。あくまでも自分中心の考えに偏っているのが、魔界人の特徴だった。
注文したメニューがテーブルに並んだ。ナルルは育ちざかり。スプーンとフォークを使い、同時に口に運んで器用に食べた。妖精は両手使いとなっていた。右も左の手も器用に動く。口も足も左右が同時に器用に動いた。食べる時は、口の中でも左右同時に自由に咬めた。話す場合も左右の肺が別行動で活動できるため、同時に別々の言葉を話せるというのが妖精の特徴だった。歌を口ずさむ際にも、同時に違う歌を歌う事が出来た。知らない人は2人で歌ってると思うだろう。
店内がざわめいた。
「何あの子。食べ方が変よ」
「なんて食べ方なんだろう。両方の頬で別々に食べてるみたい」
「それに、耳が左右で別々に動いてるよ」
「・・・」
店内が凍り付く様子が伝わってくる。ナルルは早々と食べ終えて、レジに向かった。ところが、あったはずの1万円札が見当たらなかった。確かにポケットにしまったはずなのに出てこない。なんと、1万円札は妖力不足だったために、出来あがりが不十分だったようで、ポケットから出した途端に、砂のようにこぼれて手からすり抜けていった。
「えっ、いやっ、それないよ。勘弁してよ。もう、お願い、何とか戻って」
心の中で願ったけれど、1万円札はもう消えてしまったのである。だからといって人間の前では妖力は使ってはならなかった。あまりの予想外の展開に、一瞬、思わずわらってしまった。子供の頃は妖力が弱くて、妖力で出したケーキが、ホイップみたいだったことも思い出してた。淡い遊びの思い出がふと蘇ってきた。でも、今はそう笑ってもいられない場面だった。
『どうしよう』ナルルは人間界にきて早々に困ってしまった。
『トイレのでも行って、もう一度1万円札を妖力で出そうか。でも妖力は効き目が薄れていて、もしかすると1万円札が出てこないかもしれない。しかも店員はかなり怒っている。うまくトイレに行かせてくれるだろうか。できなかったらどうしよう』ナルルはどうこの場を切り抜けようかと考えこんでしまった。
「お客様、レシートを見せてください。合計は3860円でございます」店員はレジを打ちながら言った。なん品も頼んだために、高くついてしまった。
「あのぅ、おカネはあとではいけませんか・・・」
「そんなことできませんよ。ちょっと待ってください。店長をよびますから」店員はそっけなく言い放ち、苦笑いしながら「ちょっと、待ってくださいよ」念を押し奥に消えていった。ナルルはなすすべもなく、レジの前に立ちすくんでいた。
『どうなるんだろう。でも妖精の国であれば、大概は笑って済まされそうなケースだな。そんなに大きな問題ではないよ』ナルルは自分に言い聞かせていた。
確かに妖精の国では、怒る人は少なかった。少しのミスをことさら追求するという人はいない。次の時に持ってきてくれればいいよと、優しく言ってくれるのが普通だった。妖精どうしで、食べ物をめぐってケンカになる事はなかった。困った時にはお互い様、助け合いの精神が普通だった。
『でも、店員はものすごく怖い顔してたな。人間はどうしてすぐに感情を顔に出して、怒ったりするのだろう。感情が先に出てしまう性質なのだろうか。そこから争い事が増えたりしてしまうのではないか。支払いは後でもいいとは言えない物なのだろうか。払わずに逃げてしまう人は多いのだろうか』ナルルはいろいろ考えた。
店はトラブルを避けるために警察に通報したようだった。
警察がドカドカと2人店内に入ってきて、ナルルの取り調べがはじまった。
「君、名前は、住所は、親はいるの・・・」
少女が返答するたびに、
警官は「そんな言い訳通用するとでも思ってるのか」とすごんで聞いていた。
「名前はナルル。住所はなし、親は別の世界に住んでいる。学校は出たことない。おカネは・・・魔法で出さないとない。おまえは何言ってるんだ。まともに返答しなさい。警察をからかっているのか。どこかの施設にいたんだね。いつ逃げ出したの。施設の電話番号ぐらいはいえるだろう。はっきり言わないのであれば悪質なので、署に言って取り調べる以外にないよ。場合によるとあんたは無銭飲食で逮捕になるけど、いいんだね」警察官は次第に、感情的になりだしていた。
と、その時。
「ちょっと待ってください」と中年の男性が話に中に割り込んだ。
「私の知り合いです。近所の子なんです。少し頭が弱いところがありまして。いつもはこんなことをしたことないんです。決して悪いことはしない子なんです。親は私の友人ですのでよく知っています。私は名前は青空綾夫といいます。この先の事務所で行政書士をしています。これは私の名刺です。私が代金は支払いますので許してもらえませんでしょうか。お願いいたします」
「払ってもらえれば、お店としては問題はないです」と店長。
警官も訴えが取り下げられれば、特に問題はないと、ナルルを解放してくれた。
その中年男性の機転で、少女は危うく警察署に連れて行かれる寸前で、何とか難を逃れることができた。でもかなり、ヤバい状況だった。
「あのぉ、どちらさまでしょうか。このご恩は、いずれ・・・」ナルルは申し訳なさそうに話した。
「いいんですよ、この程度でお礼なんて結構です。でも、どこか行くあてはありますか。警察は家に帰るように指導してましたので、そのあたりを徘徊してるところを見つかると、今度は補導されて、警察署に連れて行かれて、親などの身元引受人が来ないと家に返してもらえなくなりますよ。気を付けてくださいね。では、私はここで失礼しますよ」中年男性はそういうと、ナルルから離れだした。
「あのぉ、お名前と住所を、教えてください。あとでお礼は必ずいたします」
「名前なんて。お礼もしなくていいですから気にしないでください。ただのおせっかいですから。ぼくの趣味みたいなものですから。それと少しだけれどとっておきなさい。お元気で、お気を付けていらしてください」
少し歩いてレストランから離れたところまで来て、男性は5千円札を財布から取り出してナルルに渡し、そう言い残して立ち去った。
『なんていい人なんだろう。人間界にもいい人がいるんだよ、やっぱり。妖精界の噂も実際こうして経験しないと当てにならないな』とナルルは思った。
一難は切り抜けてホッとしたのもつかの間、今度は
『これからどうしよう、どこいったらいいんだろう』
ナルルは不安に駆られた。初めての人間界旅行で楽しい気持ちもあったが、どうやらそんな優雅な気分ではいつまでもは入られないと思った。厳しい現実が立ちはだかっていた。妖精界に帰りたくても、妖力不足で空も飛べない。帰るためには来たところの時空口まで戻らなければならない。そこはとんでもなく山深いところだった。その場所すら位置情報がつかめなかった。しかも戻れたとしても時空口を妖力で開く必要がある。その力もないのではどうしようもなかった。全てが後に戻ることはできない深刻な状況だった。単なる旅行とは違う一歩間違えると、死ぬという最悪の事態も考えられるてきた。
ナルルは当てもなく歩き、疲れて、公園のベンチに腰かけた。どこをどう歩いたかもよくわからなかった。人混みが途絶え、薄暗い通路を抜けた、小さな公園だった。辺りをふと見回した。
隣のベンチでは小学生の子供3人がスマホやゲーム機で大声を上げて
「そうじゃないだろう、バっカじゃねえの」楽しそうに遊んでいた。向こうの砂の広場では高校生が2人でサッカーをしていた。一人は黒人らしいが、唇から少し血がにじんでいた。芝生の上ではヨガなのか、瞑想にふけった30歳ぐらいの男性が座禅を組んでいた。寒いのに半袖シャツ一枚でピクリとも動かずに、よくじっと耐えられるものだなと感心した。滑り台の向こうでは、中年の男が縁石に腰掛けて、奇声のような「見てんじゃないよ、このぉ、わかんないのかよ」とか、空間をにらみながら、まだんなく奇声を上げていた。誰もいないのに、良く話が尽きないなと不思議だった。
この公園のありさまは人間界では通常の光景なんだろうか。ナルルは不思議に思えた。妖精の世界では見られない風情だった。
そんなことより『私はこれからどうしよう。もう妖力はつかえない』妖力がかなり乏しくなっていた。ナルルはただの人間になってしまっていたのである。ある意味では世間知らずなので、人間以下と言えるかもしれない。これからは何をするにも、裸で火の中に飛び込むようなもので、とにかくこのままでは危険とも思えた。
さすがのいつもは強気なナルルでも、今回は自分の置かれた状況が単純なものでないと理解できた。人間界で一人ぼっちだった。何も当てにできるものがないという寂しさが心の底から、ヒシヒシと込み上げてきた。ベンチで座っていると、両腕の力がどんどん抜けていくような気がした。座っているだけでもしんどい、横になりたい気分になった。始めてのわびしい経験に全身の力まで抜けるような、心細さに襲われている。ふと胸にかけた巾着袋に手が向かった。これだけは頼らないと心に決めていたのに、人間界にきてたったの4日目で最後の手段に頼る以外にないのだろうか。ひもをほどいて中を覗くと、金色のキラキラが目に入った。希望の光でもあるが、絶望の証でもあった。
「ここで使ってしまおうか」、妖精魂を使えば全てが一気に解決する。妖力は全回復するかずだ。その妖力で妖精界に帰ることができるのである。きっと、こんなことがあると予想したおばあ様とお母さんが、首族長に特別に頼んで手配してくれたものに違いない。ナルルの頬から生まれて初めて、感謝の涙が零れ落ちた。
妖精もさすがにこうなっては、おしまいだった。ただの人間になると、自分の弱さが、良く見えてきた。
「そうだ、妖精界に戻ろう。今回は人間界を始めてみる経験ができた。それだけでも十分に成果はあった。いい経験ができたわ。次にまた実力をつけて体制を十分に整えて、また来ればいいのよ」ナルルはむしろ自分に良くやったという慰めの言葉をかけていた。そして、人間界に来たことは決して間違いではなかったと、自分を正当化していた。
袋の中からひときわ煌めく球の妖精魂を取り出した。手に取ると、ホッと、安心感が全身に広がった。あとは水で飲めばいいだけだ。見渡すと、トイレ近くの水道が目に付いた。ベンチから立ち上がり歩き始めるた。すると、反対側から、老婆と一緒の少女が水道方向に近づいてきた。日中はおばあさんが少女の面倒を見ているのだろう。少女は軽やかでも少しよろけながら水道に向かっている。3,4才だろうか。足取りがおぼつかないようにも見えた。でもかわいらしい年頃だった。
ナルルと同時に水道に到着。下にも水道じゃ口はあったが呑みづらい。少女は小さな手で高い方の水道蛇口を背伸びしながらひねった。でもじゃぐちに口が届くかどうかの高さだった。ナルルは少女を抱え上げて、水を飲みやすくしてあげようと考えて手を伸ばした。ふと少女と目があった。かわいい澄んだ瞳をしていた。
と、その時少女の姿がナルルの目から、瞬く間に消えた。
バアーン、ドスン、少女がぶっ飛んで水道のコンクリートに頭から激しく激突した。すると少女の額から血が出ていた。傷ができていた。ナルルは急いで傷口に手を当てて傷口をふさいだ。妙に温かい血だった。これが人間の血なんだと『すごく温かい』とナルルは感じた。おばあさんはその異常な光景を見ておどろいてしまった。
「えみちゃん、ああっー、なんてこと。うーっ」言葉になってない叫び声をあげていた。ナルルはその激突の瞬間をはっきりとは覚えていなかった。水を飲もうとしていた少女と目と目が合い、かわいい瞳だと見とれた時の、あっという間の出来事だったためだ。おばあさんもはっきりとは見ていなかったようだ。背骨を曲げて前かがみで歩いていたためほとんど地面しか見ていなかったのだろう。どうなったのか、状況がつかめないという風だった。
すると、小学生の3人組が駆けて近寄ってきた。
「お姉ちゃんどうしちゃったの。やだー血が出てる、おねえちゃんが・・・」小学生3人は犯人がナルルだと言わんばかりの口ぶりだった。ナルルがこれでは犯人にされてしまう。ナルルは、サッカーをしていた2人組の少年を探した。でも、もうどこにも姿はなかった。恐れをなして、逃げてしまったようだ。二人が蹴ったサッカーボールが少女の頭に強く当たり、少女が飛ばされ、コンクリートの角に額からぶつかって、大けがをしたのである。サッカーボールはトイレの方に飛んでしまっていた。よほど強い当たり方だったのだろう。少女の傷は、見た目以上に深くまで達しているようにも見えた。
が、その一連の経過を証明できるものがなかった。ヨガをしていた男は知らんぷりで、まだ目を閉じて瞑想の世界に入り浸っていた。良くこんな大事件が起こっても平然としているれるものだなと、感心した。滑り台の裏にいた変なおじさんの姿は、どこに行ったのか見当たらなかった。
「今、警察に電話してるから。」
「警察ですか、殺人事件みたいです。小さな子がぐったり、死んでいるみたいです。公園です、犯人はおねえ・・・・」持っていた携帯で小学生が、警察に通報していた。ナルルをまるで犯人扱いした説明をしていた。
ナルルは、この傷では、少女は救急車が到着するまでは持たないだろうと思えた。おばあさんは何かナルルに向かって怒っているようだった。手を出すこともできないまま、ただオロオロやイライラを繰り返していた。
ナルルは巾着袋を取り出して、黒光する妖精玉を取り出した。傷ついた少女の小さな唇を押し開き、妖精玉をさし込んだ。そして、水道の水を手で酌んで少女の口に流し込んだ。うまく呑み込めるだろうか。妖精玉は口の中でうまく溶けたようでのどから体内に入っていったような感じがした。公園前の道路にはあわただしい救急車が何台も到着した。しかも気が付くと、公園の周囲はパトカーが何十台も取り囲んでいるようにも見えた。すごい厳戒態勢だった。すると、血相を変えた警官が10人以上で一斉にこっちに向かってなだれ込んできた。
「じっとしてなさい。動くんじゃない。動くんじゃないぞ」ナルルは警官に取り押さえられ、体が数ミリも動けないように地面に押し付けられ、息が苦しくなった。どうして私がいじめられるのか、理解が出来なかった。涙があふれてきた。
「何をするんですか、離してください」ナルルは声にならない声をやっとの思いで出すことができた。でも相変わらず息が苦しかった。少女はあっという間に乱暴にナルルの腕の中から引き離された。そして救急隊が素早く担架に乗せた。
「大丈夫ですか。返事はできますか。わかりますか」少女をゆすりながら、救急隊の大きな声が公園に中に響き渡った。
「心肺停止の状態です。出血がひどくもう手遅れだと思います」
「蘇生はムリだと思います」救急隊は症状からもう助からないというような会話をしていた。
それでも何度か救急隊員が少女をゆすって、心臓マッサージをしていると。
「あんっ・・・! おばあちゃんは?」 気を失っていた少女が意識を取り戻して返事までした。
「意識がもどったぞ。生き返ったぞ、酸素マスクだ」
「早く病院に搬送しろ。」かなりえらそうな警官が救急隊員に指示した。
おばあさんも一緒に、救急車に乗せられどこかに連れて行かれた。
「その娘を確保しろ」
「いいか、これから話すことは証拠になる。君には黙秘する権利や弁護士を頼む権利があるが、わかったか。逮捕する」警官は、小学生の通報をうのみにしたようで、逮捕するとまで言い出した。その場で、事情聴取が始まった。
「防犯カメラでの確認が先だ。お前らは市役所ですぐに確認を取ってこい。状況証拠を固めるんだ。令状はそれからだ」警官は例のない少女殺害事件と判断して、かなり殺気立って平常心を失っているかのようにも見えた。
「私は何もしてないよ。助けてあげたんだよ。なにもしてないよ」ナルルは自分の無実を訴えた。だが、警官の対応はかなり厳しかった。
公園の周りには大勢の人であふれていた。パトカーのパテライトが狂ったように光って辺り一面をまるで血の海のように染めていた。
「何かあったのでしょうか」レストランでも見かけた中年男性がそこにたまたま通り掛かった。集まった人の一人に尋ねた。
「殺人事件だってさ。変わった髪型た15,16歳の女の娘が、なんと3,4歳の少女の頭を刃物かなんかで割って殺したんじゃないかって、騒いでるみたいだよ。怖いね世の中も。今の世の中、どうなってるんだろうね」
「死んではいないよ」そこにいた背の高い男性が言い放った。
「ケガしただけだってさ」
「さっき、救急車で運ばれてる時、おばあさんと話してたみたいだよ。なんか、大げさになってるみたいだけど。殺人事件ではないことは確かだね」別の男性が話した。
「すみません、ちょっと通してもらえませんか。お願いします」公園の中に割り込もうとしていたのは中年男性の青空綾夫・58歳だった。
警官から中には入れないと止められたが、自分の娘が中にいるから合わせてほしいととお願いして、公園内にやっと通してもらえた。
「おい今お父さんだという人が中に入って行ったぞ」群衆にどよめきが上がった。
「どういう神経してるんだろうね。俺だったら隠れてしまうよ。公けの前にでられないだろうよ。普通の感覚ではさ」群衆は厳しい口調でヤジを飛ばした。
「この人がその少女の父親だということですが・・・」警官が青空を説明した。
「そうなのか。?」警官の質問に、ナルルは戸惑ったが。状況をうまく切り抜けるにはそうした方がいいと判断した。
「はいそうです。おとうさんです」
ナルルはレストランで私を助けてくれたあのおじさんだとすぐに分かった。警官の取り調べに、住所不定で親もいないとなれば、連行され補導され、きびしいし処罰が待っている。この場をうまく乗り切るには、お父さんになってもらった方がいいと、とっさにナルルは判断した。
青空にとっても、大きな賭けだった。レストランで見た少女は人を殺すような子ではなかった。しかも、群衆の言っていた、刃物で頭を割ったというのにそのナイフも見当たらず、状況は明らかに違っていた。『これは何かの間違いだ』青空はそう考えた。ただ、助けるためには、近所のおじさんでは通用はしない。そもそも住所がないわけだから、自分の娘にする以外ないと考えた。
自分にはちょうど行方不明になってる娘がいたので、それとうまく連結させれば、つじつまが合うだろうという読みも働いていた。ただ、うまく事が運ぶかどうか、心臓はドキドキ破裂しそうなほど高鳴っていた。
あとはこの娘次第だろうと思えた。
「そうだよ。おとうさ・・・ん」
「なみる、どうしたんだ。何があったんだ。話してくれないか」青空の演技は上手ではなかったが、返ってそのぎこちなさは、説得力があったようだ。
「お父さんですね。ただ今は話しはできません。捜査の邪魔になるので、そちらで待っていてください。おい、この方の名前や仕事など詳しく聞いてくれ。」責任者のような男性が、部下に指示した。
「それではあなたの名前、年齢と住所をお願いします。実は、この子は何も言わなくて困ってたところなんです」
「住所は、上池袋2丁目、名前は青空なみり、32歳です。」
「32歳ですって?住所不定の未成年かと思ってしまいました。お若く見えますね。おいだれか本部に連絡してこの人の確認を取ってくれ。失礼しました。さっきはナルルと自分の事言ってたのに。青空ナミルさん32歳ですね。わかりました」
「この子はショックがあると少し知能的に障害が出るのです。ときどき別の世界から来たとか言ったりするんです。純真な性格で、若く見られるんです。」レストランの時にも、店の人から住所を聞かれた時に話していたことを青空は覚えていてうまく口裏を合わせた。
「そうなんですか?ふーむ、だから、遠い別の世界から来たとか言ってたのですか」
「パニック障害の一種なんです。つい心にもないことを言ったりするんです。空想が先に出たりしますが。何もなければほんとうに、真面目でいい娘なんです。普段はきちんとした人間で人を傷つけたりはしません」
さっそく本部との連絡を取ったところ、本人だということの確認が取れたと現場に伝わった。警察の姿勢が急に穏やかに変化した。
そうこうしていると今度は、搬送先の病院から診断結果が届いた。
「少女は、診断の結果、傷が全くないということです。健康そのもので、これからおばあさんと家に帰るそうです」本部を通して現場担当者に報告があった。
「いったいどうなってるんだ。あんなに血を流してたんじゃないのか。バカなこと言ってるんじゃないよ。心肺停止じゃなかったのか」偉そうな男性警官があきれ返っていた。
「それが何の血かどうかも分からないそうです。人間の血ではなさそうだという事です。本部では、事件性はないと判断しています」
「そんな・・・バカなことがあるかよ。何をいってるのか、さっぱるわからない」
さらに、他の警官から連絡が入った。
公園の現場の防犯カメラの確認状況が報告された。一斉に担当者は画像をパソコン画面で確認を取っていた。
「少年が蹴ったサッカーボールが少女にあたったようですが、鮮明な画像ではないようです。ポールが邪魔になっていて、あたったというその瞬間は確認が取れませんが、ほぼ間違いありません。しかもその青空さんの娘さんはその時はけがをした少女に指一本触れてはいませんでした」防犯カメラからの調査結果が出された。
いずれにしても、ナルルの犯行ではないという事がはっきりした。
「では、我々の捜査はこれでいったんはやめますが、取りあえず、もしかするとまた事情の聴取があるかもしれませんので、御嬢さんとはいつでも連絡できるようにしておいてください。できれば2,3か月間はなるべく家にいてもらえるようにお願いします」
「2,3か月もなの」ナルルが聞き返した。
「まあ、ちょっと大きな内容だったので。今後、少女の容態も急変しないとは限らないので、とりあえず、私たちは帰りますので。いろいろとご協力に感謝します」
警官はそそくさと帰りだした。拍子抜けしたような、キツネにだまされでもしたような表情でそれぞれ引き上げて行った。
いままで騒いでいた群衆も蜘蛛の子を散らす用のだれもいなくなってしまった。
ナルルと、青空はその場に残っていた。
そのころ魔界村では、刺客が呼び出され、ガダル首長からきつい処罰がくだされていた。
「どうして、簡単な任務もこなせないんだ。相手はただの子供だ。人間に成り下がった子供にてこずるとはどうなってるんだ。こんな失敗は普通はしないだろう」。
「それがですね。狙い通り、当たるはずでした。うまく蹴ったのに、スピードも十分で当たれば相当のダメージを与えられたのに。人間の女の子が急に動いたので、その子に当たってしまったんです。まさかあそこで動くとは予想してませんでした。」
「そんな人間の子供に邪魔されるとは。今回のチャンスは最高のチャンスだった。ナルルは妖力を失ったただの人間だからな。うまく人間がしたことにして、ナルルを再起不能にしてしまえば、妖精界は人間たちに仕返しするだろう。人間界が弱体化されれば、我々魔界人の行動はとりやすくなる。人間界で優位に立てる計画だった。
それが人間の子供にすくわれるとは、あいつもよほど運のいい奴らしい。
何としても人間を悪人に仕立てないといけないのに、どうも逆になってる。ナルルはあの青空という男の家に住むことになるだろう。警察の巡回もあるだろうから、あいつを狙いづらくなってくるな。」
「すみませんでした。もう一度チャンスをください。それとボールにあたった少女も死なずにすみました、良かったです。次は必ず成功させます」
「顔も見られ、波長も読まれたかもしれない。奴の仲間が探し始めたかもしれない。おまえたちにはもう、まかせられない。女の子が死ななかっただって。ナルルは人間の女の子の命を助けたんだぞ。人間と妖精の仲を引き裂く作戦が全く逆効果になってるだろう。しかも危うく人間を殺すところだったんだぞ。人間を敵に回してどうする。おまえたちは、農夫でもしばらくやって頭を冷やしてこい」
「農夫ですか」
「文句を言うんじゃない。失敗したのが悪いんだから」
次はお前たちが行け。2人の女たちが新たに破壊工作員として選ばれた。
「いいか、絶対に、我々魔界人の仕業だと悟られないようにするんだぞ。知られたらおしまいだ。妖精界の力は我々では太刀打ちできない。攻められたら、我々は滅ぼされてしまうかもしれないからな。
なんとしても人間たちがやったことにして逃げるんだ。だから魔法は使ってはならない。人間や妖精人をもし魔法で殺したとなれば妖精たちは黙ってはいないだろう。しかも相手は相当な奴だ。しくじると、我々が危うくなる。我々がやったという証拠は絶対に残してはならないからな。いいな。」
「はい、わかりました。負かしといて、おとうさん。うまく行ったらご褒美いただけるんでしょ」
「ああ、わかってるから。それと・・・、こういう場でお父さんはダメだ、首長というんだ。わかったね」
「はあーぃ」魔界の首長ガダルはなんか、不安な心境だった。
選任を誤ったかも知れないとも思った。
最近は魔界でも、人間の歌手が人気となっており、カラオケルームまで登場している。若い魔界の女性が昼間から、酒飲んで歌ばかり歌っていたりする。二人の娘からは、世界旅行がしたいと言われていて、こんかい成功したら世界一周を1か月間させる約束となっていた。
最近では魔界でも成功報酬を出さないと、魔界人がうまく使えない時代を迎えていた。
とにかく、2人の女の最強の工作員が人間界に忍び込み、次のチャンスを狙う事になったわけである。
警官による公園のものものしい包囲はとかれ、いつものような閑散とした公園の表情に変わっていた。ナルルと青空綾夫とは公園を後にした。
「君はこれから、どこに行くつもりなんだね」
「わたし、おじさんに2度も助けてもらって・・・すみません。ありがとうございます。なんてお礼を言えばいいのか。いまの私にはお礼ができませんが」
「お礼だなんて、そんなことどうでもいいんだ。気にしないでほしい。ただの暇人がおせっかいをしただけなので、お礼なんて全くきにしないでくれ。それに、君は体は大丈夫なのかい。君も相当なショックだったろうね、かわいそうに、あんな事件に巻き込まれてしまって」
「私なら元気です。どこもなんともないです。それと貴重な経験ができて、今となっては嬉しいんです」
「うれしい?」
「はい。すごくいい体験がで来て。生まれて初めてです」
「そうか、ならいいけど。とにかく疲れただろう。もしよかったら、私の家が近くだから寄って行ってはどうかな。ムリにとは言わないが」
「そこまでご迷惑をかけるわけには」
「気にしないでくれ。それによかったら、しばらく泊まってもいいんだよ。部屋が空いてるし、警官からも2,3か月は家にいて連絡を待ってほしいといわれてるよね」
「そうですね。もし本当に良ければ、いさせてもらってもいいでしょうか」
「だったら、さっそくこれから僕の家に行って、部屋をみて見よう。気に入ってもらえるといいんだが」
「なんてお礼を言っていいのか。でも、娘さんがいると言ってましたね」ナルルは心配になった。娘さんの邪魔になるのではないかと。
「今はいないんだ・・・ちょっと事情があって。もう20年近くなるんだけど、妻と大きな問題が発生して、妻は娘を連れて一緒に突然どこか遠くに行ってしまった。僕としては理由がわからず、失踪届も出せずに今に至ってるんだよ。いつ帰ってくるかと待ってはいるが・・・」青空の表情は今にも泣き出しそうな悲しい表情をしていた。ナルルはこれ以上娘さんの事は触れない方がいいと思った。
ここが私の家だよ。玄関口は、何か商売でもしていたのだろう、お店の雰囲気があった。玄関わきの小さな庭の空間には冬なのに、黄色のバラの花がきれいに咲いていた。花が好きな人のようだった。ナルルはなぜか懐かしい臭いを嗅いだような、安心感を覚えた。
「この部屋を自由に使ってください」案内された部屋には、机がありその上には黄色い薔薇の花が活けられた花瓶が置かれていた。ピンクのベッドがあり、そこにも写真が置かれてもいた。まだ4,5歳の少女と父親との写真。壁にも貼ってあったが、どこにも母親の顔写真はなかった。おかしいと思えた。構図的には母親が映っているはずの場所なのに映ってないなんて。「奥さんは映ってないんですね」
「ああ、気が付いたんだね。私ももう妻の顔を思い出せないんだ。恥ずかしいよ。記憶がおぼろげしか残ってない。あまり当時の記憶が、薄くなってるんだ。痴呆症なのかもしれないな。困ったものですよ」
「そんなこと、ないです。きっと、思い出すと思いますから、気にしないでください」
「ありがとう。それと、タンスの中には元妻の物が詰まっているから。洋服でも何でも使えるものはなんでも好きなように使っていいから。どうせいつかは捨てないととは思っていたものだから」
「捨てるだなんて。すごくいい洋服ばかりですね。私大好きです。こういう洋服大好きです。靴下も、ズボンもスカートもいい物ばかり。うわーい、ステキ」
「そんなに喜んでもらえるなんて、良かった、取って置いて。何なら、下着もきれいに洗ってありますので・・・あっ、失礼しました」
「おじさんこれもステキですね。全部、ステキ。使わせてもらいます」
「うん、そんなに喜んでもらえるとは、下着までとは。とにかく好きなように使ってください、私はちょっと布団を用意しますから、ご自由にこの部屋でくつろいでください。ナルルさん、もし必要なものがあったら話してください。用意しますから」
「ナルルさんだなんて。ナルルと呼んでください」
「わかりました、ナルル」そういって、青空は部屋を出た。こんな気さくな子は初めてだった。何となく愛着がわいてくる名前、まるで自分の子供でも帰ってきたような幸福感が押し寄せた。部屋も当時のままにしておいたし、妻の物も20年近くもきれいに保管してきた。そそうした努力が全部報われたような気持になった。
青空は、妻が失踪した後、周囲には妻と子供が別居したことにして今まで過ごしてきた。もし帰ってきたらすぐに元の暮らしができるようにとの配慮だった。娘は知り合いの学校に頼み高校も卒業したことになっていた。架空の卒業証書まで作ってあったのだ。すべての財産をつぎ込んでも、子供と妻を守り通す考えだった。それが自分の義務だと言い聞かせて、妻と娘に命を捧げるつもりで生きてきた。会社の仕事も止めて外部との出入りを極力避けた。誰も、家の中を知ることができないように工夫をして、仮装の家族生活を20年近くも続けてきた。それが、娘が少し形は違っても戻ってきてくれたような、幸福感に変わったのである。どんな形であってもいい。一時の儚い幸せかもしれない。これまでの努力と苦労が報われたかのような満足感らしいものが押し寄せてきていた。青空は、娘と妻に罪滅ぼしができたような気持が胸に込み上げてきた。
夕暮れの公園に、若い女性が犬の散歩で訪れていた。それ以外は誰もいなかった。3,4時間前まであれほど大騒ぎした公園があっという間に平穏を取り戻した。これが都会の浄化作用なのだろうか。小さな事件は毎日数えきれないほど発生しては、いつの間にか忘れさられる。まるで木の葉が降り、そして積もって、それがいつの間にか風の化学反応で自然の土やほこりに変化し消えてしまうかのような、不思議な気化現象となっている。だからこそ都会はすみやすい街と言えるのかもしれない。人と人が物理的に綿密にかかわりあっていながら、心の関係は薄く、あまり深くは詮索もしないし、平穏を装う。ひょうひょうとした殺漠とした人間関係のようだが、実は、他人を思いやる無頓着を決めている。その無関心、無頓着が実は都会の人間の優しさのようなものだった。
その公園に、運搬業に着いたばかりのユウヤが通りかかった。1台のバイク便が公園入口に止まった。あまり乗り慣れていない風だった。
「まったく、疲れるなぁ。場所がわかりづらいんだよなぁ、あったく、ゆっくり水のんでるヒマもないのかよ」
ユウヤはのどの渇きを公園の水でうるおす考えで、バイク便を止めた。水道の蛇口に無造作に口を付けた。急いで飲む時間しかなかった。。ふと足元に何かを踏んでいるような気がした。小石かなんかだろうと思った。注意して足でかき分けてみると。黒光りしたビー玉のようなものが出てきた。
「なんだこれ、変わってるな」覗き込むと、球の中に動物のような羽の生えている、まるで蝶のようなものが、うごめいていた。その動きはまるで生きているかのように自然な動きをしていた。まるで生き物がビー玉の中に閉じ込められているかのような不思議な感覚だった。
「あっ、それを探していたんだよ。返してくれ」いきなり中年の男が現れて、ユウヤの手からその奇妙な球を奪い取った。その男は滑り台の裏で奇声を上げていた男だった。男はいつの間にかどこからともなく現れて、球を奪って去っていった。
「それ本当に、おじさんのなの?」ユウヤは後ろから声をかけた。
「そうだよ、ありがとうな」男は足早に過ぎ去っていった。
「なんだよ、あいつは、いきなりとっていって、ざけんじゃねえっつうの。バイク便だからって軽く見てませんかっていうんだよ」ユウヤは不満が高まってきた。バイク便をやって車と衝突しそうになったことが何度もある。危険な渋滞を急いで行っても、お礼も言ってもらえない。邪魔者と車のドライバーから言われ、客からは遅いと怒られるし、いいことないなとふてくされ気味だった。ところがさらに、足元に何か違和感が起こった、また何か踏んだようだ。また、足先でかき分けたが薄暗くてよく見えない。手でさぐったことろ、今度は金色の球が出てきた。公園は夜のとばりが降りようとしていたが、その球はふしぎなひかりでかがやいていた。中を覗き込むと驚くような光景が広がっていた。黄色の薔薇の花だろうか、咲き乱れている。そこを火に燃えたような小鳥が飛び交っていた。さらに奥には妖精のような人が空を飛んでいた。すごい光景だった。まるで生きているような動きだ。ユウヤはその金色の球を握りしめてポケットに押し込んだ。罪の意識はなかった。むしろ奪われてはいけない、自分が大切に持っているのが義務のように思えた。盗ろうという気持ちは全くなかった。必ず、持ち主はこの場所に探しに来るはずだ。その時に返せばいいと思った。だいたい、あんな変なおやじがこんなきれいな球の持ち主のわけがないとも思えた。綺麗なものは、きれいな心の人が所有するという、ユウヤのこだわりのような感覚だった。
バイクにまたがり、腕時計を見ると5時8分前だった。あと8分以内に届けないといけなと、気持ちがはやった。目の前の信号は赤だった。エンジンをかける。一発でプルンとエンジンが始動した。こういったときはいつもいいことが起こった。
赤信号の歩道を少女が渡っているのが見えた。
「変わった髪型だなぁ、今の流行なのかな」
青空の家に入り、部屋にいると気持ちがほっとした。ナルルはやっと自分本来の落ち着きを取り戻すことができたような安心感が広がった。ふと胸にかけた巾着袋に手がかかった。巾着袋の中を覗くと。中には黒い球が2個入っていた。なんと3個もなくなってることに気が付き、再び不安に襲われた。少女を助けるために1個は使ったのを覚えている。でも、さらに2個もなくなってる。しかも一番肝心な金色の妖精魂がない。妖精界に帰るための最後の望みの綱が絶たれてしまったような気がした。
「すぐに探しに行かなくっちゃ。あの公園で、あわてたんで落としてしまったんだわ。うわー困っちゃったわ」ナルルは部屋でゆっくりする間もなく、部屋を飛び出した。
「ナルル、どうしたんだ。あわてて」青空がたずねた。
「あのぉ、また公園に行ってきます。ちょっと落し物したかも・・・」
「じゃあ私も行こうか」
「いいです一人で探せますから」
「じゃあこれを持って生きなさい。自由に使っていいからね」青空が出したものは、黄色の財布だった。ナルルが全くおカネを持っていないことを心配して、財布ごと渡した。
「元の妻の財布だけど、使ってくれ」
「えっでも、そこまでしてもらっては・・・」ナルルは遠慮した。
「いいんだよ。気にしないで必要なものがあればそこから使いなさい」青空は自分の子供のようにナルルが思えた。20年近くもずっと一人暮らしでさびしかったこともあり、家族が増えたような喜びを感じていた。おカネには代えられない充実感のようなものでもあった。おカネよりも、新しい子供のような存在の方がずっと大切のように思えたのである。何とかこの子の力になりたい。何としても守ってあげないといけないという責任感が自然に込み上げてきていた。
迷子の犬や、捨てられた子猫を人は拾い上げて、何でもしてあげたくなるような母性本能とでもいう感情なのか。とにかく、青空はナルルに必要なことはなんでもしてあげたい、父性本能に目覚めていた。
「おじさん、こんなにしていただいて、本当にありがとうございます」ナルルは何度か断ったがどうしても持っていくように言われ、青空から預かった財布をポシェトに入れて外に出た。なんて人間は優しいいんだろう。青空の心優しい態度に、ナルルは感謝でいっぱいだった。人間は欲望が強く争ってばかりいるという、妖精界の噂はどうやら真実とは違っているとすら思えるようになっていた。
辺りはもう夕方で、暗くなりかかっていた。
ナルルは公園前まで来ていた。信号機の着いた横断歩道を渡りきったところで、見知らぬ男から声をかけられた。
「あのぉ、ここらでユメ花店ってあるの知ってますか。知ってましたら教えていただけませんか」見知らぬ男は少しぶっきらぼうに訪ねた。しかもヘルメットをかぶっていて顔が良く見えなかった。ナルルはとっさに身構えた。
≪何が花店だよ。花をだしにして、私をナンパするつもりかよ。これが良く聞く人間のナンパの手口ってやつなんだな。ふ~ん。甘い言葉で私をダマせるとでも考えやがって。女だと思って軽く見てるなコイツ。でも、ヘルメットでガードしてるから、相当のワルかもしれないな。これまでも、花どうですかーでずいぶん女を騙してきたんじゃないか。そういったやつが私は大嫌いなんだよ。妖精の世界だったら、バラの花びら降らせて、蝶を飛ばせて音楽を流してムード作るってのに、安上がりに上げようとしやがって。ケチな奴だな。こんなやつに引っかかる女なんていないよ。懲らしめてやろう≫
ナルルは知りもしない花店だったが、「あっち」とデタラメな方向を指差した。
「ありがとうございます。急いでたんで、助かりました。ありがとうございました」その見知らぬ不審の男はバイクにまたがり、ブーンと唸り音あげて、ナルルが指差した方向に勢いよく走りだした。
「なんだよ。かっこつけて。飛ばすんじゃないって、下手なくせして。女はそう簡単にはひっからないよ」ナルルは、男をうまくかわしたと内心面白がった。
公園の入口を通り越して、ナルルは事件のあった水道蛇口前まで来た。もうすっかり暗くなっていてた。外灯のほの暗い明かりを頼りに目を凝らして辺りを手探りで探した。妖精魂を何としても見つけださないと。砂をかいてみたりしたが、どうしても見つからなかった。しばらく探してみたがどうしても見つからないので、夜一人で公園にいるのも危ないと思い、ひとまず家に帰ることにした。
ユウヤは信号の変わるのを待っていた。そこに一人の少女が歩道を歩いてきた。
「変わった髪型の女の子だなぁ。でも可愛い子だな」夕暮れの中で、その少女が輝いてユウヤには見えた。清楚な瞳。しなやかな姿勢。気品のようなオーラに包まれていた。こんなきれいな娘は生まれて初めて見たとユウヤは思った。
『まるで妖精か天使みたいだ』心が奪われた。
でも、見とれている時間はそれほどはなかった。あまりじろじろ見ると嫌われてしまうかもしれないと思った。また配達の指定時間も迫っていた。
「あのぉ、すいません。ユメ花店というの知りませんか」
少女は笑顔であっちですという風に、細くすらりとしたきれいな指で方向を示してくれた。『なんて可愛い子なんだろう』ユウヤは鼓動が高鳴り、手に力がつい入ってしまった。おもわず、アクセルが上がってしまった。急いでいるからというよりも、美しい女性と話ができたという感動がそうさせたのである。いつもは慎重運転で必要以上にスピードは出さないようにしていたユウヤだったが、自分でも驚くような急発信となった。スピードで風を切りながら「やっぱり今日はいいことあったな」ユウヤは心臓が躍る感じがした。宅配便をしていて今日は最高にいい日に思えるほどだった。
軽快にユウヤはアクセルをふかして飛ばしていた。
少し走ったところで、赤いランプが急速に後ろから近づいてくるのが、バックミラーに映った。「まさか」
「前の、バイク止まりなさい。ゆっくりわきに寄せて止まりなさい。繰り返す。前のバイク便とまりなさい。減速して、左によって止まりなさい」スピーカーで止められた。
パトカーだった。スピード違反で捕まったようだ。
「免許証出して。パトカーの中に入りなさい。ずいぶん飛ばしてたね、急いでたみたいだね・・・」20㌔の制限速度違反だった。違反の切符を切られた。
一日の給料分が違反で無くなってしまった。本来なら、かなり気分は落ち込むはずだった。ところがあまり後悔はしなかった。不思議と今日はいい日だと思えた。よほど少女との出会いが嬉しかったに違いない。
違反手続きに30分以上もかかってしまった。5時までの配達時間はとっくに過ぎてしまっていた。やっとユメ花店に着いた時には6時近くになってしまっていた。指定時間を1時間もオーバーしての配達である。
ユウヤはおそるおそるユメ花店の玄関のインターホーンのボタンをひとさし指で押した。
「お気軽宅配便です。大変申し訳ありません、遅くなってしまいまして」
「はい。ずいぶん遅かったね。でもいいよ、気にしないで。ありがとう」青空は気持ち良く荷物を受け取った。夢花店は,最近はほとんど店を開けてはいなかった。妻が出て行ったあとは細々と店を開けたり閉めたりしていたが、直近は閉店のシャッター店舗になってしまっていた。店の名前だけは、いつ妻と娘が戻ってきてもいいように残してきたのである。
ユウヤは受け取りのサインを青空からもらってる間に、チラリと家の中に目を向けた。するとさっきの女の子を見かけた。一瞬、目と目が合った。
「あっ、さっきはどうも。こちらの娘さんだったんですね」ユウヤは頭を下げてあいさつした。ナルルは不審な目つきで見た。服に書いてあるバイク便の名前に見覚えがあった。公園でいきなり声をかけてきた男だと、わかった。
≪さっきの男だわ。というか、配達してたのね。いい度胸だわ、配達しながら、女ひっかけて、一隻2丁を狙ってたのね≫と思いつつ、軽くいなして、廊下を横切った。
ユウヤは、気品が漂うしっかりした女性と映った。
「どこかで家の娘と会ってたんですね」
「あっはい、と言っても、さっき公園の前でお見かけしただけです」
「そうだったのか。今回初めてお宅の配達便を使わせてもらったけど、これからも少し届けてもらうものがありそうなので、よろしくたのむよ」
「はい、わかりました。こちらこそよろしくお願いします」
ユウヤは気持ちが高揚していた。初めての感覚だった。あの子に気持ちが完全に奪われてしまったかのようだった。足が宙を浮く感じがした。バイクにまたがりエンジンをかけると「プルン」と一発でエンジンが始動した。気持ちのいい日になったと思った。だが、さすがに今回はアクセルをふかさずにゆっくり発進した。
ユウヤは父が経営する食品販売店に今年入社したばかりだった。サラリーマンを3年経験していたがオフィスでじっとしてるのは性に合わないため、転職して父のもとで働くことになった。大学では経済学部を卒業した。スポーツが好きで野球、サッカー、バスケットなど幅広く楽しんでいた。バイクででかけるのが好きだった。そのためバイク配達の業務部門を自分から希望した。
ユウヤは登山やハイキングに行ったりするのが好きな26歳だった。これまで女性にはあまり興味がなかったので、特定の女性と付き合ったことはなかった。どちらかと言えばみんなでワイワイガヤガヤと騒ぐ方が楽しいと考えていた。かなり社交的な性格だった。野菜食が多く、肉類はほとんど食べなかった。そのためなのか、身長が165センチと男性としては小さかったことが少しコンプレックスとなっていた。子供の頃は病弱だったが、高校からはスポーツに力を入れ体力がついたためか、病気をしなくなった。明るい性格のため誰とでも親しくなれたので、サービス業が合っていると思っていた。バイク配達便をしながら、あちこち見て歩くのが好きで、時には客の所で話し込んだりして、携帯で会社から呼び出されたこともあった。興味のある物には必要以上に執着したりするところがあった。話し好き性格が彼の欠点であり長所でもあった。誰とでも仲良くなれて、こころ優しい面を持っていた。
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