あの屋上でキミと逢う
新学期が始まってほどないとある高校。
学校の屋上には見上げるほどのフェンスがあって、ひとりの少女がそこに寄りかかっていた。
学校の制服であるブレザーを着た少女だ。軽くウェーブした天然パーマの茶髪を指先でくるくるといじりながら退屈そうにしている。
「あ」
ぱっ、と表情を明るくして少女は振り向いた。
屋上の扉が開いて、女がそこにやってくる。
タイトなジーンズを着て、白のブラウスに春色のカーディガンを羽織った短い髪の女だった。手には紙パックの入ったビニール袋をさげている。
「やあやあナギちゃん。よーこそだよ」
少女は両手を広げてにこやかに彼女を迎える。
彼女は親しみの感じられる柔らかな笑みを浮かべてやってくると、
「よ、ルミ」
そう笑って、ちょうど少女の隣に腰掛ける。購買で買った100円の『ばななオ~レ』を傍らに置いてストローを刺してやると、自分の『いちごオ~レ』もそうした。
「いつもの持ってきてやったぞ。感謝しろよ」
「いつもワルいねぇ」
「たまには変わったもんとか思ったんだけどな。やっぱこれだろ、おまえは」
「分かってるじゃーん」
にこにこと笑った少女は膝を抱き寄せるように三角座りして女を見上げる。
「そう言うナギちゃんだっていっつもそれだよ?」
「ああでも、次は交換とかでもいいかもな」
「あー、それもいいかも。ナギちゃんの好きな味なんだもんね」
「……なんかこの前も似たこと言ってた気がする」
「あはは、そうだね。でもけっきょくおんなじ」
女は『いちごオ~レ』を飲んで、その変わらない甘酸っぱさに目元を緩める。ひといきに半分ほど飲んでしまってから、カシャン、とフェンスに寄りかかって空を見上げた。
「また性懲りもなく春がきたなぁ」
「しょーこりって。四季と敵対してる人かな?」
「なんか最近鼻がむずむずする気がすんだよなぁ……」
そう言っている間にも鼻がむずっときたのか女は鼻をぴくぴくと動かす。
少女はくすくす笑った。
「ナギちゃんもついに花粉症デビューだね」
「まあ花粉症ではないんだが。絶対」
「なんでそんなかたくななのさー」
「そもそも花粉症なんて勘違いだしな」
「あはは、ほけんのセンセがそれ言うの?」
ぷはっ、と噴き出して笑う少女。
女はひとまずむずむずが収まったのか、軽く鼻をかいてまたストローを吸う。紙パックを握りつぶして最後の一滴まで飲み干すと、女ははぁとため息した。
それからふたりはしばらく沈黙する。
やがて女が、面白いことを思い出した、とばかりににやりと笑う。
「そういや今年の新入生に保健室の常連になりそうなやつがいるんだ。もう三回もバンドエイド張ってやった」
「ええ? まだ新学期始まってひと月もたってないよ?」
「そいつがまたおまえに似てそそっかしいやつでなぁ」
「シッケーな!」
ぷんぷんと頬を膨らませて見せる少女だが、女はカラカラと笑うばかり。
「目が離せねえっつうか……まあ見せもんとして面白いってのは確かだな」
「もぉ。センセーなら生徒にはちゃんと優しくしなきゃだよ」
「たぶんおまえとは気が合うだろぉな」
「ふふ。いい子なんだ」
「一緒に置いといたらいつまでもやかましそうだ。目に浮かぶ」
「それワタシがやかましーって言ってる!?」
ぷきーと吠える少女。
女はまた笑った。
それからしばらく女はつらつらと日々のことを話して、少女はそれを楽しげに聞いた。
そして、また沈黙がやってくる。
女は、手の中で紙パックをもてあそびながらゆるりと目を閉じた。
「ああ……春だなぁ」
「春だねぇ」
ふたりはそうして、しばらく寄り添って過ごした。
そうしていると、突然屋上の扉が開いて元気な声が飛び込んでくる。
「ナギちゃんセンセーいたー!!!」
長い髪をひとつ結びに垂らした女生徒だ。
どこか傍らの少女に似ている。
彼女はずだだだだー! と女のもとにやってきて、赤く擦りむいた膝を見せつけた。
「センセーセンセー! ころんじゃった! ばんそこ貼って!!!」
「おまえなぁ……」
女はやれやれと呆れたが、すぐにふっと小さく笑った。
飲み干した紙パックをビニール袋にしまい、ひとくちも減っていない『ばななオ~レ』を拾い上げると立ち上がった。
「ん。やるよ」
「ほんと!? ありがとぉー!」
「他のヤツには秘密にしろよ」
「ふんほー!」
「ったく」
ずびびびーと一気に飲み干しながらぶんぶんとうなずく女生徒。女は笑って、彼女に手を引かれていった。
最後に女はくるりと振り向いた。
少女はちょうどその視線の直線上にいて、だから目が合う。
「じゃあね、ナギちゃん。それと常連さん」
少女は手を振ってふたりを見送った。
金属製のさび付いた扉が閉じてしまった後もしばらく手を振って、それからきゅっと手を握る。
「楽しそうでよかったよ。ナギちゃん」
少女はさみしげに笑って、その場で仰向けに寝転んだ。
「ほんとはいつも聞いてるよって言ったら、ナギちゃんおどろくかなぁ……どうだろ。あっそ、とか言いそうかも。……それとも泣いちゃうのかな。それは、やだな」
少女はそっと目を閉じる。
「また来年かぁ……起きれるかな。どうかな。起きないほうが正しいのかもしれないけど」
落ちていく静かな闇の中で、ぽつりと。
「ああ、でも……まだ、聞いてないから……―――
そして、屋上には誰もいなかった。
◆
―――年に一度、彼女の命日にだけ屋上を訪れる。
それがこの学校に養護教諭としてやってきてからの私の決まりだった。
フェンスが今より低かったとき、同級生だったルミとの思い出の場所だったあそこで近況報告をするのだ。
彼女があのフェンスを乗り越えたのは、高校三年生の今日だった。
家庭のこと、両親のこと、進路のこと、そのほかたくさん……理由はいくらでもあったのに、私はなんにも気がつかなかった。
朝はいつも通りだったんだ。
それなのに昼放課、彼女は飛んだ。
そういうことが起きないように、と昼に限って解放されて、生徒たちがたくさんいる中で。
だれも止められないほどあっという間に、彼女は。
今日はなんでもない日だった。
彼女が死んでしまったという点を除けば。
だから、もし私がなにか、彼女のことに気が付いてあげられたら……そう思わないではいられない。
そうしたら。
もしかしたら、今日は記念日になるかもしれなかった。
当時の今日、私は彼女に返事をしようとしたのだから。
高校二年生の最後にされた、告白の返事を。
勇気を出すのがあまりにも遅すぎた。そのせいで、とまで自分を責めるのはもう通り過ぎたけれど。
……でも、それをいちがいに悪いこととも、ここ数年は思えない。
だってそうだろう。
彼女があそこにいるのは、きっとそれが理由なのだから。
養護教諭として赴任してはじめて屋上に行ったときには目を疑ったものだ。
彼女はあのときと全く変わらない姿でそこにいた。
彼女には未練があって、それが彼女をあそこに縛り付けているのだ。あのときからずっと。
そしてそれは私だ。そうに違いない。
だって彼女と、目が合ったのだから。
最後のとき。
さかさまに落ちる彼女と。
そのとき彼女は確かに「ああしまった」って、そう思ったはずなのだ。私には分かる。ちゃんと返事を聞きたかったって、彼女はそう思ったはずなのだ。
だから彼女はあそこにいる。
彼女は私に見えていることに気が付いていない。多分私以外にはたしかに見えないんだ。
だけど私には見えるし聞こえる。
理由は分からないけどそれは確かなことだった。
私は年に一度だけ彼女に会える。
そしてきっと、それを明かさなければ……私が彼女に答えを与えなければ、いつまでも。
「センセ?」
知らず立ち止まっていた私を、彼女によく似た少女が呼ぶ。
あるいはもし私が彼女を見られないのなら、この少女を彼女の生まれ変わりだとか、そんな風に感じていたのかもしれない。この子はそれくらい彼女によく似ている。
もしかしたら、この少女によって私は彼女を忘れていく―――そんな未来だってあったのかもしれない。
だけど彼女はあそこにいる。
この少女は彼女とはなにも関係がない。
だから私は、この少女を通して彼女を追憶したとしても、それが上書きされることはない。
記憶の中の彼女は、色あせることがないのだから。
毎年あの屋上で、私は彼女に逢える。
「いや。そうやってだばだば走るから転ぶんだろぉなと思ってな」
「だばだばってなにさー!」
そういって頬を膨らませて見せる少女に、つい笑う。
ほんとうにうりふたつだ。
ああ、今からもう来年の今日が待ち遠しい。
楽しみだ。ほんとうに。
ふと影が差す。
視線を向けた窓の外に、飛び立つカラスが見えた。
空は青い。
青い。
ああ、春だなぁ。
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