きゅうきょくあんさー

 少女が部室を訪れると、部長はパイプ椅子に座り、スラックスを履いた長すぎる足をテーブルに乗せて雑誌を読んでいた。ヤンキー座りよりよほどヤンキー座りと呼ぶに相応しいその振る舞いが妙に似合う、黒髪ベリーショートの女である。

 彼女が読んでいるのはファッション誌のようで、表紙では水着のモデルがポーズを決めていた。


 少女は彼女の対面に座り、カバンを脇に置いた。

 肩まである艶やかな黒髪にメガネをかけた大人しそうな少女だが、さりげなく前髪をどかす仕草で耳朶を貫く長いピアスが覗いたりする。


「行きたいんですか? 海とか」

「いや。ご存知のとおりボクは泳げないから。水辺にも近づかないようにしているくらいさ」

「そこまでとは知りませんでした。ならどうして?」

「ふともも」

「ふともも」


 またぞろなにを言い出したのかと問い返す少女に、部長は雑誌から顔を上げる。

 これ以上ないほど真剣な表情だった。


「ふとももを見ていた。実に輝いている」

「そう、ですか。好きなんですか」

「ああ。実にいい」


 しかりしかりと頷く部長。

 少女はスカートを押えて足をもぞもぞさせた。

 そんな様子にも気づいた様子はなく、部長は意気揚々とふとももを語る。


「ふとももはいい。モデルさんのふとももはとても綺麗に鍛え上げられ、細く引き締まっている。だからこんなにも輝いて見えるのだろうね。もっとも、ボク個人としてはどちらかというとむっちり肉付きのいいほうが好きなんだけれど」


 そこでふと部長の視線が少女のももを向く。


「そういう意味では、キミはとてもいいふとももだ」

「セクハラどころの騒ぎじゃないです。かなりギリギリですよ」

「む。そうか」

「ええ。しかもアウト寄りです。謝罪してください」

「ふとももに性的な視線を向けてごめんなさい」

「いえ、どちらかというと私のふとももをむっちり肉付きがいいとか評価した方なんですけど。ダイエットしてたのに。まあもうやめますけど」

「繊細な乙女心……難解だね」

「先輩も乙女ですけど?」

「そういう見方もあるかな」


 ふむふむともっともらしく頷いているだけで賢そうに見えると信じていそうな部長である。

 少女は口をとがらせて自分のふとももをさする。

 決して太くはないはずだが……。


「ところで、そういえばキミに聞きたいことがあったのを思い出した」

「なんですか?」

「いやね。コレを読んでいてふと思ったんだけれど、親と恋人が溺れていたらどちらを見殺しにするか、みたいな問題があるじゃないか」


 思うな。ソレで。

 そう少女は思った。水辺を楽しもうという雑誌で縁起が悪すぎる。しかも視点が邪魔者を始末する悪役だった。

 しかし思ってしまったのなら仕方がないと思える程度には、部長との付き合いも長いのだ。


「なんていうんだったかな。そう、トロッコ問題。なにせボクといえばトロッコ問題みたいなところがあるから、ぜひキミにも聞いてみようと思って。で、キミはどっちかな」

「そうですね……」


 少女は少し考え、口を開いた。


「そもそもなんですけどそれってトロッコ問題じゃないですよね。トロッコ問題って多数を救うために少数を捨てるのは許されるかっていう倫理的な問題のはずです。でも恋人と親となるとむしろ『究極の選択』みたいな趣ですよね。しかも親なら恋人なら当然大切であるべきみたいな思考が透けて気色悪いし、実際それってその当人というよりはむしろ親とか恋人がどんな人かにもよるじゃないですか。そうなってくるともう普遍性なんてなくないです?」

「キミがこの問題と相性が悪い、ということはとてもよく分かったよ」

「恐縮です」


 肩をすくめる少女。

 部長は雑誌を置いてテーブルに両肘をついた。


「しかしまぁほら、そういうのもひっくるめてその人のこと、なわけだから。心理テストみたいなものさ。答えはもちろん、どうしてそう考えるのか、というところをむしろ聞くためなんじゃないかな」

「なるほど」


 そう考えればささいな引っ掛かりなど気にならない。

 頷いた少女はまた少し考え、それから応える。


「どっちも、ですかね」

「へえ。あんがいと欲張りさんだ。どっちも助けると」

「いえ。どっちも見捨てます」

「おっとそうきたか」


 ずいっと身を乗り出して興味津々といった様子の部長に少女は続ける。


「部長は人が溺れてるのなんて見たことありますか?」

「ボクの友人に親のクレジットカード上限いっぱいまで課金してスマホをぶち壊されたやつがいるけれど、それ以外にはないね」


 欲に溺れている、とでも言いたいのだろう。

 しかし部長に友人がいないということまで含めて見透かしたので、少女は無視した。


「私もです。そうそう目の前で起きることじゃないんですよ」

「それはそうだろうね」

「じゃあひるがえってこのシチュエーションです。私が助けないといけないっていうことは海水浴場とかプールみたいな管理された施設じゃないわけですよね。しかも現にそこでは人がふたり溺れている……私ならこの水場はヤバいと判断します。めちゃくちゃ深いとか、水流が強いとか、なにか溺れやすい要素があるんです」

「あぁ……」

「私は私が大事なので、そんな危険地帯に私を飛び込ませるのはゴメンです。言うなれば私ですね。私は私を選びます」


 まっすぐ言い切る少女に部長は目を閉じる。

 ふむふむと考えこむ様子を見せて、それからゆっくりと目を開いた。


「つまり、それって要するにやっぱりこの問題に不服があるっていうことかい?」

「まぁ……主旨とは違うでしょうね。でも私恋人とかよく分からないので」

「なるほど? キミくらいにもなると恋人のひとりやふたりいるものだと思っていたよ」

「いませんよ、そんなの」

「そんなのってことはないだろうに。世の少年少女だってみんな色恋沙汰に夢中だよ」


 そんな言葉に少女は肩を竦め、それから何気なく、


「先輩はいるんですか? そういう人」

「引く手あまたさ。……なんて言いたいところだけれど、おあいにくさま縁がなくてね。最近分かったんだけれどどうやら避けられているらしい。今日なんか偶数人クラスなのに二人組であぶれたんだ」

「そうですか。私もこれ開けてからそんな感じです」

「まあバリバリに校則違反だからね。不良がモテるのは平成初期で終わってるらしい。でもそんな君を見てると馬鹿らしくなってくるよ。やっぱりボクも開けようかなあ」

「ずっと言ってますよねそれ。教えますよ。色々調べたんで」

「それは助かる」


 しかりと頷いた部長は、ハッとして首を振る。


「違う違う。今はそういう話をしてたんじゃない。話を戻そう。つまり、キミがどうやらこの手の問題と非常に相性が悪いらしいということだ」

「そこ本題でしたっけ」


 首を傾げると部長は大まじめに頷く。

 そしてにやりと笑った。


「そういうことなら問題の方を変えなくちゃあいけないね。キミが快く応えられるような最強の究極の選択を作るのさ」

「さいきょうのきゅうきょく」


 トロッコ問題はやめたんですか。

 そう思ったが口にはしなかった。わがままなのは自分なのだし、なにより部長はとても楽しそうに目を輝かせている。


「そうだなぁ。じゃあキミはキミ自身を大切と言ったから、選択肢のひとつはキミということにしよう」

「私、ですか」


 そうなると相手役が難しいな、と少女は思った。

 じぃ、と部長を見ていると、彼女はあっさりと、

 

「そしてもう片方は……自分以外の中で一番大切な人、とかにしようか。それならどうだい?」

「いいんですか、それ」

「要するに自分と自分以外ならなんでもいいのさ。思い描いてごらん、ほら、誰あれ彼あれいるだろう?」

「まあ、そうですね」


 少女がこくりと頷けば、部長はまた考える。


「それでシチュエーションは……ううん……海水浴に行って、大きなマットの浮き輪みたいなやつ、あれで沖の方に流されてしまうんだ」

「はあ」


 急に突飛だった。

 しかし口を挟むことなくあいづちを打つ。


「そこに大きな波がやってきてふたりは海に投げ出される。その拍子にマットは破れて空気が抜けてしまった。とっさに押えたからなんとか人ひとりぶんの浮力くらいは残っているようだ。さっきの波から依然として海は荒れ、マットにしがみつくキミを、キミの一番大切に思っている人が不安そうに見つめている―――なんてのはどうかな」

「めちゃくちゃ劇場的ですね」

「具体的な方がいいかなと思ってね。即興だけれど、思いのほかいい問題ができたんじゃないかな。危機的な状況の中、自分が助かるか大切な人を助けるかふたつにひとつの選択を迫られる。しかも季節感までバッチリときた。映画化したいくらいだね」


 どうやら相当の自信作らしい。

 意気揚々と語った部長は身を乗り出した。


「さて、これならどうだい。キミの究極の答えを聞かせてくれたまえよ」


 さあさあと迫る部長に。

 少女は考え、しかしすぐに首を振ってしまった。


「ごめんなさい、やっぱりこれも成立しないですね」


 そして少女は答えた。


「私の大切な人は、どうやら水辺にも近寄らないようにしているみたいなので」

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