怪談ごんぎつね―クダ持ちの兵十
飯山直太朗
「ねぇ、
女はそう言って、隣の男の方を向いた。
「なんだい。
「そうそう、そうなのよ。あいつったら、往来で会った私をね、物欲しそうな目つきで見つめてくるのさ、じーっとね。気持ち悪いのなんのって」
「あんにゃろう。今度は俺の嫁まで取ろうってか。次見かけたらただじゃおかねえ!」
加助は握り拳を作り、自分たちの座っている縁側に思いきり叩きつけた。乾いた音が鳴り響く。
「最近ずっとああなのさ。去年の秋だったかねえ。あいつのおっかさんが死んだのは」
「おう……」
加助はしばし沈黙し、目線を遠くに
「行ってくるぜ。あいつの所へ」
「あんたまさか、殴り込もうってわけじゃないだろうね」
「違う違う。兵十だって村の仲間だ。新年の挨拶くらいしとかねえとな」
加助はそう言い残して、自宅を後にした。
兵十の住むあばら家は山の裏手にある。乏しい日照が雪解けを
「おい、兵十やい。達者にしてるかい」
彼はとんとんとん、と手加減をしつつ表の木戸を叩いた。全力で叩いたりすれば、腐りかけの木材はすぐに砕けてしまうだろう。
「……加助かい。こりゃどうも」
「久しぶりじゃなあ兵十。明けましておめでとさん」
「ああ、うん」
「なんじゃいその返事は。お前あれからすっかり暗くなったのう。その、何というか、例の噂のせいなのかい」
「……」
兵十は無言で加助を見つめる。その虚ろで、どこか恨みがましくもあるような目つきの友に、加助は若干の気味悪さを覚えた。
「加助!何をしておる!」
「えっ」
加助が後ろを振り向いた途端、兵十は急いで木戸を閉める。そして加助の目の前には、
「クダ持ちなんぞとどんな話をしておったか、聞いておるのだ!」
「吉兵衛よ、あいつがクダ持ちだってのは、俺だって何度も聞かされてはいるが、よく分かんねんだよな。実害があったわけでもなし」
「馬鹿野郎。お前は
「ああ、そうだったな。ちょうど兵十のおっかさんが死んだばかりの頃だよなあ。清太郎さんが何者かに鰯を盗まれたのは。兵十が盗んだことになってたっけ」
「そうだ。そして他でもないこのワシ吉兵衛。あのにっくき兵十になあ、ワシのおっかさんをなあ……うう……取られたのだ」
「それが分かんねえだよなあ。兵十のせいで吉兵衛のおっかさんが死んだってのが」
「加助、私の話をもう一度よく聞くんじゃ」
吉兵衛の背後から一人、枯れた老爺が進み出る。
「兵十はクダ持ちなのじゃ。クダは小さい狐みたいな化け物じゃ。持ち主が、あれが欲しいこれが欲しいと思うとな、それを察して
「兵十が鰯を欲しいと思った。それで清太郎さんの鰯はクダが盗んでいったと。ハハハ、化け物なんて馬鹿らしい」
「クダ持ちの家は急に豊かになるというからのう。兵十の家は
「じゃあこのあばら家はどう説明するんだい」
「それは大かたバチが当たったんじゃろう。村の鎮守である稲荷神様のおかげじゃ」
「ぐちぐち言うない。嫌なことは全部、兵十のせいかい。濡れ衣
すると今度は
「加助さんよ、じゃあ聞くがな。兵十に
「ああ?」
吉兵衛の母の葬式があった日。加助は兵十から、毎日自宅に食べ物が届けられるのだと聞いていた。送り主の正体は不明である。加助はその時、それを神の恵みと解釈した。だが今になって思えば―。
「どうなんだい。早く答えろ」
「俺は何にも知らねえよ。兵十なんかほっといて、お前らも早く帰るんだな」
心の奥に生じた
あくる日の朝。
「おーい、どこだ―」
加助は
「まさか、あいつが連れ去ったんじゃないだろうな」
加助は
「おい!兵十。おい!」
加助は兵十宅の、昨日の昼まで戸口だった所に立った。吉兵衛達が押し入って、壊してしまったのだろう。開け放しになった土間の真ん中で、兵十は腹を出して眠っていた。彼の肩には使い古された赤色の着物がかかっていた。
「こんにゃろう!俺の嫁をどこにやりゃあがった」
「か……加助?おはようさん。昨日吉兵衛にぶん殴られてさあ。酒でも飲まねえと、やり切れなくてよう……」
「
「ああこれな……。知らねえなあ。誰かが置いていったんだ。ごんがくれたのかなあ」
兵十はそう言って、どこか幸せそうな顔をしている。加助の怒りは極点に達した。兵十のする言い訳など、もうどうでもよかった。彼は手近にあった漬物石を手に取り、彼の脳天を目掛けて降り下ろした。ぐしゃり。彼はもう、
「アハハハハハ!」
風に乗って、妻の笑い声が聞こえてきた。庭先から遠くを見渡すと、妻が女と談笑しているのが見えた。
「俺の勘違いだったってことか……!?」
折角の正月だからと妻が
「うおおおおお……」
加助は深い
「ごん?そうだ、いたずら狐のごんぎつねだ。兵十に食べ物をやってたのは、クダなんかじゃなかったんだ。クダなんて本当はいなかったんだ。俺は迷信のために人殺しをしちまったんだ」
こん。こん。こん。
戸口で狐が鳴いている。加助はまるで取り憑かれたかのように、それを見つめ始めた。
では、ごんぎつねとは何だ。少しばかり知恵の回る、ただの狐ではなかったのか。人を憐れみ情けをかける、そんな知恵のある狐がこの世にいようはずはない。それはおとぎ話か、童話の世界の話である。
こん。こん。こん。
ごんぎつねとは何なのだ。兵十を見守り、助けることを惜しまない菩薩のような狐。狐は人を化かすというが、それだって迷信に過ぎないはずだ。所詮はただの獣である。獣には獣の知性しか宿るまい。
こん。こん。こん。
お前は何だ。何なのだ。本物の
「みていたぞ」
狐がそう言ったように、加助には聞こえた。
怪談ごんぎつね―クダ持ちの兵十 飯山直太朗 @iyamanaotarou
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