怪談ごんぎつね―クダ持ちの兵十

飯山直太朗

 

「ねぇ、加助かすけさん。あたし今朝ね、怖い思いをしたんだよう」

女はそう言って、隣の男の方を向いた。

「なんだい。兵十ひょうじゅうの野郎のことかい?」

「そうそう、そうなのよ。あいつったら、往来で会った私をね、物欲しそうな目つきで見つめてくるのさ、じーっとね。気持ち悪いのなんのって」

「あんにゃろう。今度は俺の嫁まで取ろうってか。次見かけたらただじゃおかねえ!」

加助は握り拳を作り、自分たちの座っている縁側に思いきり叩きつけた。乾いた音が鳴り響く。

「最近ずっとああなのさ。去年の秋だったかねえ。あいつのおっかさんが死んだのは」

「おう……」

加助はしばし沈黙し、目線を遠くにった。縁側の前の地面にはうっすらと雪が積もっている。は既に南中を迎えており、ひっきりなしに降り注ぐ陽光が、残ったわずかな雪をも溶かし尽くそうとしている。その光景はささやかな、春の前触れであった。

「行ってくるぜ。あいつの所へ」

「あんたまさか、殴り込もうってわけじゃないだろうね」

「違う違う。兵十だって村の仲間だ。新年の挨拶くらいしとかねえとな」

加助はそう言い残して、自宅を後にした。


 兵十の住むあばら家は山の裏手にある。乏しい日照が雪解けをさまたげているのか、庭の地面は未だ雪に覆われていた。加助はここだけ時の流れが遅いのだと、愚にもつかないことを考えていた。

「おい、兵十やい。達者にしてるかい」

彼はとんとんとん、と手加減をしつつ表の木戸を叩いた。全力で叩いたりすれば、腐りかけの木材はすぐに砕けてしまうだろう。

「……加助かい。こりゃどうも」

「久しぶりじゃなあ兵十。明けましておめでとさん」

「ああ、うん」

「なんじゃいその返事は。お前あれからすっかり暗くなったのう。その、何というか、例の噂のせいなのかい」

「……」

兵十は無言で加助を見つめる。その虚ろで、どこか恨みがましくもあるような目つきの友に、加助は若干の気味悪さを覚えた。


「加助!何をしておる!」

「えっ」

 加助が後ろを振り向いた途端、兵十は急いで木戸を閉める。そして加助の目の前には、吉兵衛きちべえが目を怒らせて立ちはだかっていた。吉兵衛の従える数人の男衆おとこしも皆、ものすごい形相をしている。

「クダ持ちなんぞとどんな話をしておったか、聞いておるのだ!」

「吉兵衛よ、あいつがクダ持ちだってのは、俺だって何度も聞かされてはいるが、よく分かんねんだよな。実害があったわけでもなし」

「馬鹿野郎。お前はいわし売りの清太郎せいたろうを忘れたのか」

「ああ、そうだったな。ちょうど兵十のおっかさんが死んだばかりの頃だよなあ。清太郎さんが何者かに鰯を盗まれたのは。兵十が盗んだことになってたっけ」

「そうだ。そして他でもないこのワシ吉兵衛。あのにっくき兵十になあ、ワシのおっかさんをなあ……うう……取られたのだ」

「それが分かんねえだよなあ。兵十のせいで吉兵衛のおっかさんが死んだってのが」

「加助、私の話をもう一度よく聞くんじゃ」

吉兵衛の背後から一人、枯れた老爺が進み出る。新兵衛しんべえである。

「兵十はクダ持ちなのじゃ。クダは小さい狐みたいな化け物じゃ。持ち主が、あれが欲しいこれが欲しいと思うとな、それを察して他家たけに盗みに入るのじゃ」

「兵十が鰯を欲しいと思った。それで清太郎さんの鰯はクダが盗んでいったと。ハハハ、化け物なんて馬鹿らしい」

「クダ持ちの家は急に豊かになるというからのう。兵十の家はうなぎが買えないくらい貧しかったから、欲に目がくらんだのじゃろう。吉兵衛のおっかさんだってそうじゃ。兵十が嫉妬して、あの世に連れていったに違いない」

「じゃあこのあばら家はどう説明するんだい」

「それは大かたバチが当たったんじゃろう。村の鎮守である稲荷神様のおかげじゃ」

「ぐちぐち言うない。嫌なことは全部、兵十のせいかい。濡れ衣かぶせて鬱憤うっぷん晴らして、都合が良いにもほどがある」

すると今度は弥助やすけが進み出て、言った。

「加助さんよ、じゃあ聞くがな。兵十にいてるクダのこと、仲の良いあんたのことだ、何か心当たりがあるんじゃないかい?」

「ああ?」

吉兵衛の母の葬式があった日。加助は兵十から、毎日自宅に食べ物が届けられるのだと聞いていた。送り主の正体は不明である。加助はその時、それを神の恵みと解釈した。だが今になって思えば―。

「どうなんだい。早く答えろ」

「俺は何にも知らねえよ。兵十なんかほっといて、お前らも早く帰るんだな」

心の奥に生じた一抹いちまつの疑念を加助は打ち消した。見て見ぬふりしかできない己を恥じつつ、彼は一人家に帰っていった。


 あくる日の朝。

「おーい、どこだ―」

加助はおのが妻を探していた。寝床にも、台所にも、庭先にも、門口にもいない。

「まさか、あいつが連れ去ったんじゃないだろうな」

加助は草鞋わらじも履かないで、戸外を全力で駆け出した。柔らかい雪が積もっているとはいえ、すぐ下は硬い地面である。尖った小石が転がっていよう。鋭い木の枝が埋まってもいよう。加助の足はみるみるうちに血に塗れ、赤黒い足跡という名の朱印が、雪白の地面に押捺おうなつされていった。

「おい!兵十。おい!」

加助は兵十宅の、昨日の昼まで戸口だった所に立った。吉兵衛達が押し入って、壊してしまったのだろう。開け放しになった土間の真ん中で、兵十は腹を出して眠っていた。彼の肩には使い古された赤色の着物がかかっていた。まぎれもない、加助の妻のものである。

「こんにゃろう!俺の嫁をどこにやりゃあがった」

「か……加助?おはようさん。昨日吉兵衛にぶん殴られてさあ。酒でも飲まねえと、やり切れなくてよう……」

寝惚ねぼけてんじゃねえよ!肩に掛けてるその着物、どうして手に入れたか聞いてんだ」

「ああこれな……。知らねえなあ。誰かが置いていったんだ。がくれたのかなあ」

 兵十はそう言って、どこか幸せそうな顔をしている。加助の怒りは極点に達した。兵十のする言い訳など、もうどうでもよかった。彼は手近にあった漬物石を手に取り、彼の脳天を目掛けて降り下ろした。ぐしゃり。彼はもう、仰向あおむけのまま答えない。割れた頭蓋とうがいから、微かに湯気ゆげが上っていた。


「アハハハハハ!」

風に乗って、妻の笑い声が聞こえてきた。庭先から遠くを見渡すと、妻が女と談笑しているのが見えた。

「俺の勘違いだったってことか……!?」

 折角の正月だからと妻が仏心ほとけごころを出して、村の衆にバレないよう、朝方早く兵十に着物をめぐんでやったということだろう。兵十に対して冷淡になりきれない、加助の姿にならったのかもしれない。兵十は妻をかどわかしてなどいなかったのだ。

「うおおおおお……」

加助は深いうめき声とともに、土間にくずおれた。彼は、兵十の最期の言葉を思い出していた。

「ごん?そうだ、いたずら狐のごんぎつねだ。兵十に食べ物をやってたのは、クダなんかじゃなかったんだ。クダなんて本当はいなかったんだ。俺は迷信のために人殺しをしちまったんだ」


こん。こん。こん。

戸口で狐が鳴いている。加助はまるで取り憑かれたかのように、それを見つめ始めた。

では、ごんぎつねとは何だ。少しばかり知恵の回る、ただの狐ではなかったのか。人を憐れみ情けをかける、そんな知恵のある狐がこの世にいようはずはない。それはおとぎ話か、童話の世界の話である。


こん。こん。こん。

ごんぎつねとは何なのだ。兵十を見守り、助けることを惜しまない菩薩のような狐。狐は人を化かすというが、それだって迷信に過ぎないはずだ。所詮はただの獣である。獣には獣の知性しか宿るまい。


こん。こん。こん。

お前は何だ。何なのだ。本物の霊狐れいこだとでもいうのか。俺は兵十を殺してしまった。その一部始終は誰も―俺以外見ていない。いや、こいつが、ごんぎつねが……!




「みていたぞ」

狐がそう言ったように、加助には聞こえた。


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