第34話 あなたのことよ

「もうひとつ、労働の報酬があります」


 風呂からあがるなりシスターが言い出してきた。


「なんだよ」

「ベッドをお貸ししましょう」

「俺たちに睡眠は必要ないぞ」

「ときおり、椅子で眠っていませんでしたか?」


 シスターが首を傾げる。これも面倒な説明だが言っておくことにした。


「確かに表層意識が深層に沈んでいることがある。普通の人間でいうところの睡眠にあたるが、別に必要不可欠ってわけじゃない。付け加えて言うなら、椅子に座ったままでも十分だ。身体が凝るとかもないしな」


 俺たちの──リヴァイアサンの特徴に慣れてきたのか、「なるほど」とシスターはすんなりと受け入れられたようだった。

 ただ実際のところは、人間的な活動が殆ど不要な中で唯一、睡眠だけは完全に除去するのが難しいものだった。肉体は完全に人間とは別物になるため、肉体にとって必要な行動は全て不要になる。


 だが、精神に対して必要な行いは構造上、取り除くことができない。特に表層意識は統合意識と若干の分離状態にあるため、リヴァイアサンという特殊性から逸脱していると言い換えることができる。つまり、表層意識については人間が必要とする事柄から逃れられないのだ。その一例が睡眠だった。


 もちろん、普通の人間と比べれば遥かに長く耐えられるが、一ヶ月以上起き続ける、などは難しいかもしれない。長期間の活動が必要なら単に表層意識を別の人格に置き換えれば、それで済むだけのことではあるが。


「ですが食事のときと同じように、人としての名残りもあるでしょう。一度、ベッドで眠ってはどうですか?」


 シスターが食事に誘ってきたときと同じ論調で必要性を主張してきた。これもまた一理あるが、自分とは無関係の別の疑問もある。


「確かにそうだが、こんな教会にわざわざベッドが複数あるのか?」

「いいえ、ありません。ベッドはひとつです」

「じゃあどうするんだ? ふたりで寝るのか?」

「そうなりますね。あるいは毛布だけ使って、私が床で寝るとか」


 いやそれは無理だろう、と素直に思う。包帯だらけの女を床に転がす趣味がない。悪行は行いたいときに行うもので、常に行いたいわけではない。したいときには女にどれだけでも暴力を振るうが、少なくともこのシスター相手に今はそんな気分ではなかった。


「傷だらけのお前を床に寝転がせてまでベッドがほしいとは思わない」

「ならふたりで寝ますか。少々狭いですが」

「……別に本心から心配なわけじゃないが、それは無防備じゃないか、お前?」


 客扱いなのか信者扱いなのか知らないが、いくらなんでも同じベッドで寝るという提案はまともなものとは思えなかった。いや、このシスターがまともじゃないのは知っているし、こいつがどうなろうと知ったことではないのでどうでもいいが、当人がどう思ってるかだけは気になった。


 それにもしも手出しする勇気がないだとかなんだとか、そういう風に思われてるのだとしたら腹が立つ。


「無防備、とは?」


 悪戯っぽい笑みを浮かべるシスター。完全にとぼけている。


「俺がお前を暴力的に、あるいは性的に襲ったらどうするんだ、という意味だ」

「そうしたいのなら、とっくにやっているでしょう」

「ベッドに誘われていよいよその気に、って可能性もあるだろう」

「あなたたちなら別に構いませんよ」

「……なに?」


 思わず聞き返した。からかいか嘘か、その親戚かと疑ったが、シスターの表情は嘘をついているものではなかった。


「ですから、あなたたちが相手なら別に構いませんよ。こんな傷だらけの身体でよろしければ」


 聞き間違いでもなかったようだ。据え膳をわざわざ振り払うような価値観は持っていないが、やはり理由は気になる。


「理由を聞かせろ。信仰か、それとも個人的感情か?」

「お好きなように……と言っても納得しなさそうですね」

「ああ」

「あなたたちを癒したくなった。そう言って信じますか?」


 俺たちは言葉を失った。これで二度目だ。

 俺たちの正体と目的をはっきりと認識した上で、この女はこんなことを言い出しているのか。

 いや、それは疑いようのないことだ。何ができるのかさえ、既に見せた後だ。しかもこのシスターに限っては嘘や命乞いの類ではない。それぐらいは俺たちにも理解できる。


 なら──こいつは本気で、自ら進んで身体を捧げると言っている。


「……正気か?」


 疑ってはいない。疑ってはいないからこそ、思わず俺たちは聞き返していた。


「ええ。だって、あなたもそうじゃない」


 シスターは俺たちを──いや、俺を真っ直ぐに見ながらそう言った。


「どういう意味だ?」

「あなたも彼らの味方だから、そうして表に出てくることを選ばれているのでしょう?」


 何を言っているのか俺たちは、いや──俺は分からなかった。

 どう聞いても今、シスターは俺に話しかけている。リヴァイアサンではなく、藤原悠司に語りかけている。

 何故、そんなことをわざわざしているのか。理解ができない。


「な、んで、そう思うんだ」

「だって、あなた優しいもの。可哀想な人たちのために、この世界を滅ぼすと決めた。旗印となってみんなを先導しているのはあなた。だからみんな、あなたを選んだのよ」


 言っている意味がまだ分からない。統合意識からの返答は肯定。だが、何に対しての肯定なんだ。シスターの言っていることが正しいという意味なのか、それとも肯定しろという指令なのか。

 ──違う、本当は分かっている。だけど今更、単独の意識に放り出さないでほしい。俺をひとりにしないでほしい。


「俺は、別に優しくなんかない。何もできないまま死んだ、ただの無能だ。偶然彼らの意識と出会って迎え入れてもらっただけだ」

「でもそんな彼らに方向性を与えてあげたのは確かにあなたよ。彼らからの信頼まで怖がらないで」

「俺にそんな価値なんて……信頼される価値なんて、ない」


 シスターの言葉を俺は何ひとつとして受け入れられなかった。ただ俺は本当に偶然、あの杖を手に取っただけだ。そして彼らが叫んでいるのを知って、復讐すればいいと思っただけだ。ただそれだけなのに。

 ひとりでは何もできなかった。怜司にも蒼麻にも桜にも、その他のギルド員にも。世界に対しても自分自身に対しても。

 そう──。


「──俺は、ひとりじゃ何もできない」


 俯く俺の顔をシスターの両手が包み込み、上げさせる。シスターの視線がまっすぐに俺を見ていた。


「みんなそうよ。ひとりじゃ何もできない。でも導いて救ってあげることはできる。あなたがそれを選んだのよ」

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