後編

 読み終わって、B4のノートをぱたりと閉じると私は顔をあげました。


「アイさんがお姉さんなのかな」

「はい。そういう設定ですけど、それっぽくなかったですか?」

「いやいや、そんな事はなかったですよ。それにしても、花村さん」

「はい?」

「授業中に書いてるんですか、これ」


 わかりやすくもどうやら図星のようで、彼女は途端に、私と目を合わせようとしなくなりました。その上、頬には少し朱がさして、一層私の疑いを確定的に思わせたのでした。昼休みに来たので、まさかと思えばやはり。

 わずかに、二人の間の空気が気まずくなりました。


「いけません、それは。私も、あなたの小説を読みたいと急いでしまう気持ちが無いわけではないんです。むしろ大いにその気持ちがあるんですが、勉学のほうがおろそかになってもらっても困る」


 花村さんはゆっくりと頷くのでした。


「疎かになんてしてません。授業も聞いたうえで書いてるんです。先生のなかには、余談の多い先生、長い先生が何人かいるんですから。別に聞かなくたって……」

「花村さん、余談だって、授業のうちなのですよ」


 花村さんはよくわからない、といった様子でした。


「余談が、必ずしも授業の内容に関係してくるとは言いません。教鞭をとる人の中には関係があると言う人もいますが、それは詭弁というものです。ですが、余談という時間を授業のなかに設けることで、それまで一定の方向からしか刺激を受けていなかった脳みそは、違う方向からの刺激を受け取ることになる。そのことで、緩急のなかった授業に、きちんとした緩急、メリハリがつく。小説だって同じでしょう。文章がずっと会話文ばかりであったり、説明文ばかりであれば、読むほうは飽きてきてしまう。飽きは読む速度を減速させる。授業にしても、それはいけないことなのです。感受は鮮度が大切だと、私は思うのです。もちろん、余談で話された、いわゆる雑学などが生きてくる場合もないわけではないのですが、それが試験という枠の内であるとは限らない」


「総じて、余談は授業に不可避だと」

「そういう結論になるのです。でも、これは一つの見解に過ぎませんし、他にいくらだって『授業の余談』に関する解釈はあるのでしょうが。しかし五十五分も同じ調子では、それこそ小説を書くなり、居眠りをするなりする者たちが現れる。音楽にしても、曲調が単調では脳が眠たくなってきてしまいます。やはり、授業には小休憩の意味もこめて、余談が含まれるべきなのです」


 ここで午後の授業の始業ベルが鳴ったので、花村さんは軽い会釈をして職員室をあとにしました。私は少し、口が過ぎたなと思いました。いつの間にこんな、教師のような、説教じみた論弁を垂れるまでになったのか、自分でも嫌気がさす思いでした。


 私は学生の頃、教師というものが苦手でした。嫌いではなく、ただただ苦手でした。絶対的な人生経験の差から、決して学生側が一泡吹かせてやることなどできないのです。できたって一時的で、結局は教える側と教えられる側という立場に変容はない。むしろ、一泡吹かせようと目論んだことで、なんだか一層自分が不利になってしまったようにさえ思われる。


 それはある種の抑圧でした。

 背に土嚢をおぶっているような気にすらなります。

 毎日毎日、何事かを教えられに学校へ出向くこと。それ自体が、そういった形態自体が、成長途中の私を不服にさせました。年頃の私の脳内には、少なからず「もう自分で自分のことを理解しきっている」「自分は大人達と同等である」と誤解している節があって、教師も例外なくその同等の類いに含まれていたのです。


 そう考えれば、花村さんはなんと純真なのでしょう。

 年上に対し、邪まな思いを抱いていた昔の私が恥ずかしく思われてきます。

 彼女の教師に対する姿勢というのは純粋無垢の一言に尽き、それは彼女が書き続けているお話にだってしっかりと現れているように思われるのです。


「新海先生、相変わらず花村さんに気に入られてるんですね」


 ふいに、横からそんな声が聞こえてきました。

 理科の担当をしている浅木先生でした。彼女はろう長けた美貌の持ち主でした。「この学校一美人の女教師」などと生徒からも先生からも囁かれていて、性格も品行方正、生徒からの受けがよく、女子達からは憧れの眼差しで見つめられていました。


 何しろ彼女の顔貌というのは、ちっとも田舎の土臭くないものなのです。有名な女性のファッション雑誌や、映画のパンフレットなどに載っていたりする、ああいった外国人女優のような、線の細い顔立ちをしているので、当然、この田舎町において人気を博さざるをえないのでした。しかしそのような周りの目があっても、ちっとも鼻にかけたりはしないので、尚更生徒や同僚の教師達は彼女に目を輝かせるのでした。


「そういう浅木先生は、皆さんに気に入られてるじゃあないですか。私の場合、まず断定だってできないのに」

「そんなことないですよー? 花村さんが新海先生と話しているときの顔、あの顔は女の顔でしたからね!」

「おっと、そろそろ私は席を外しますので、では」

「あっ、もう」


 始業ベルが鳴っていたのだから、本当なら話している暇もなかったのです。

 読者の方もそろそろお察しかと思いますが、私は国語の教鞭をとるようになっていました。数学も、英語も、理科も社会も、決して苦手であったというわけではありません。むしろそれらは国語よりも確実に評価がよく、安定して通信簿に載っていました。国語だけは、どうも通信簿の評価の数字が安定していませんでした。

 けれど、私は国語の授業がとても好きでした。

 当時、国語を受け持っていた工藤先生というのがまた良い方だったのです。工藤先生の事を話すと少々長くなるので今は控えますが、ともかく、私が国語の教師になったのは彼女のおかげでした。


 その日の放課後も、やはり花村さんは職員室にやってきました。

 いけない子、また授業のあいまにお話を進めていたのか、と、嬉しさも含みつつそのように予想していると、その予想に反して、彼女は小説を書いてきてはいませんでした。

 ただ普通に帰り支度を済ませて、鞄を背負っていたのです。


「先生、今日帰ったらまた続き書きます」

「ふん、たのしみにしてますよ」

「えへへ」


 花村さんは可愛げに笑って、職員室を出ていきました。彼女の居た場所から、甘美な、それこそ花のような匂いが漂ってきたかと思うと、もうそこに彼女はいませんでした。 


 今日も職務を全うして帰宅すると、私は、部屋の窓を開けて本を読んでいました。

 本を読み始めたはいいけれど、何か心残りのような、気掛かりがあって、結局一時間も読んでいられませんでした。


 近くの商店街から届く喧騒や、烏の鳴き声が聞こえていましたが、決してそれらが私の集中力を掻き乱したのではありません。私の頭の中には、花村みや子さんの書くお話があったのです。

 続きが気になるというより、早くその物語の中に没入する自分の姿になりたい。読んでいる自分になりたいという欲求が頭の中にありました。つまりその格好、彼女のお話を読むという状態自体を、私は求めていたのです。


 彼女はどうして、あの年頃でふわりとしたお話が書けるのか、それも気掛かりでした。

 持って生まれた文才? けれど、中学生というのは普通なら社会の事を見据え始めてくる年齢で、多感ではあれ、現実的な考えや物心というものを心得る年頃でもあります。なのになぜあの、童話みたような話を書けるのか。

 窓際の椅子に腰掛けて煙草を吸っていると、向こうに見える、少しだけ背の高いビルに夕日が飲み込まれていくのが見えました。ゆっくりゆっくりと落ちていくのです。夕日はもうずいぶん暮れはじめていて、まるで私の爪半月のように、姿のほとんどは隠れていました。


 夕日の沈む進行に合わせて辺りも暗幕を引き始めていました。一息、煙草を吸うと、じりっと小さく煙草が燃えて、暗闇の中で一瞬だけそこが煌々と赤くひかりました。そうして私の口から、もうもうと煙りが立ちました。


 反対の窓に移って東の空を見上げてみると、もう月が現れていました。乳白色の月は、まだ妙に明るい空の中でいまいち輝けていない様子でした。まだ出番ではないかな、でももうそろそろかな、といった様子でした。


 月というのはなぜこうも神秘的なのか。地球がどんどん機械に犯されていっても、私はきっといつまでも、夜ごと、月を見上げることを忘れたりはしないと思いました。月はたまごのようです。月はツブテのようです。月は兎のようです。私には、月がぼんぼりのようにさえ見える。


 こうして書き綴っていますけど、別に私は詩人肌というのではありません。このように抒情的に物事を捉えてしまうのも、近頃、花村さんに感化されている節があるからなのです。

 もう二十台を迎えて何年も経っている私が、中学生の女児に色々と感化されてしまっているというのはちゃんちゃら可笑しな事。

 けれど、花村さんの紡ぐ世界というのはこういうレベルのものだと私は感じているのです。たんぽぽの綿毛の如く繊細で、一度触れてしまったらもう元には戻せないのです。散ってしまった綿毛は風の赴くままに運ばれ、自然の成り行きに揺さぶられる。少し恥ずかしいけれど、ロマンチックに人や物、自然が動いていくのです。


 この恋文のような甘酸っぱさ、脆弱さが、私を虜にしていたのかもしれません。

 私は煙草を灰皿に押し付けて火を消すと、冷蔵庫からつまみになりそうな漬物類と、缶ビールを取り出して、ちびちび晩酌をやりはじめました。


 独立してまだ間もないので、テレビやパソコンなどはこの家にありませんでしたが、決して問題ありませんでした。私はそういった電子機器の類いには無頓着なのです。

 腰をおろして東の窓際で、ぐび、ぐび、と程よく間をあけつつ飲んでいると、アルコールが次第に身体を巡り、大変良い気持ちになってきました。私は下戸とまではいかないまでも、お酒に色々な意味で弱く、この通りすぐに酔っ払ってしまうのでした。


 翌日は、じめじめとした天候でした。滝のように降るでもなく、降ったり降らなかったりと、傘をさそうとする人間をおちょくっているような、そんな天候でした。

 空は一面灰色で、所々が暗く翳って、今にもごろごろ、ごろごろ、と雷の轟きが聞こえてきそうでした。


 生徒達も、当然、髪や制服を早く乾かしたいといった様子で学校にやってきていました。

 お昼になってもこの曇天は消えませんでした。

 教室で生徒達と昼食をとりながら、昨夜はあれほど月が綺麗だったのに、どうして今日がこのような天気なのだろうと、気分屋なお天道様に嫌気がさしていました。

 昼食が終わって、生徒達が皆ばらばらに昼休みを過ごし始めた頃、私は職員室に向かっていました。二階の廊下を歩いていると、向こうから花村さんがやってきて、こちらに気がついたという様子を見せました。その様子は、何事かにうきうきと心を弾ませる、乙女の眩しい様子でした。


「新海先生、こんにちは!」

「こんにちはー」

「先生、私また書いてきましたよ」彼女は笑顔でそう言いました。

「お、さすがですね。花村大先生の創作意欲、私はずっとあなどれないと思っていました」

「えへへへ」

 彼女のその右手には、いつものノートがありました。

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女生徒の歌 つきのはい @satoshi10261

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