女生徒の歌
つきのはい
前編
コイさんが空を見上げていると、怪しかった雲行きから、案の定雨が降ってきちゃったの。
コイさんは、傘があればさしたいな、なんて思っているけれど、その手に傘はなくて、ただ降りはじめた雨に仕方なく濡れてしまうの。
そばに屋根付きの薄汚れた休憩所があって、そこで雨宿りをするという手段もあったのに、コイさんはちっとも休憩所には入らなかった。
だって、休憩所には木造の長椅子が一脚あるばかりで、他に座れそうなところがないのだから。それに、休憩所はおよそ四畳半ほどの手狭なものだし、中に居るアイさんと嫌でも顔を合わせることになっちゃう。
コイさんは、アイさんと顔を合わせるのを避けたいばっかりに、こうして今雨に打たれている。彼女の長くて、手入れの行き届いた髪に、雨の露が何度滴ってしまっても、服が雨を吸って、ずんずんと重たくなっていってしまっても、コイさんは頑なにアイさんと顔を合わせようとしないの。
「コイさん、もう許してよ。軽率だったんだ、私が。あなたは何も悪くないんだ。全部私が悪かったんだよ。許して、お願いだから」
休憩所のほうから、そんなアイさんの声が雨音に混じるようにひっそりと聞こえてくる。
アイさんはコイさんに、こうやって懇願するけれど、これだって、もう何度目のお願いかしれない。もう三日も前から、コイさんは、アイさんと顔も合わせたくないと言ってきかないんだから。
三日経った今日でも、コイさんがこんな風にすねちゃってるから、アイさんも、申し訳ない気持ち半分、辟易しつつある気持ち半分、といった心持ちになりつつある。そのアイさんの心理は、誰だって迎えてしまう心理で、確かに自分が悪かったと認めているのに、相手がそれにうんともすんとも反応してくれないのだから、やっぱり人間ならうんざりしちゃうといった具合のものなの。もちろん、コイさんの反応のためばかりにアイさんは謝っているのではないんだけど。
そうして、そのアイさんの心情にコイさんが気付いていないわけがない。だからこそ余計に、このたちの悪い歯痒さは、一層幼い二人の心を深くえぐって精神を犯していく。
「それで、コイさんとアイさんのあいだには、一体何があったのかな」
私は、また少しだけ生え出してきていた顎髭の剃り跡を指先で撫でながら、受け持ちの生徒の一人である、花村みや子さんに尋ねたのでした。
「それはまた次回のお楽しみですよ、先生。もう。私が今ここでそれを答えるはずがないって、わかっていながらそんな事を訊いてるんですよね」
「まあ、そうですねえ、ふん」
「先生、じゃあ、さようなら」
「ええ。気をつけて帰りなさい。もうじき、雨が降るそうですし、暗くならないうちに」
花村さんは笑顔を振りまきながら職員室を後にしたのでした。
部屋の時計は午後五時前を指していました。
外はもう夕暮れ時で、私の席のすぐそばにある窓からは、学校の校庭も、そこから伸びるようにして下る坂も、扇のように広がっている眼下の町並みも、皆ストレートティーのような、甘美な琥珀の中に閉じ込められたような色合いをしていました。
街中ではなく、東のはずれの山腹に建てられた中学校ですから、西を望んだ時には、こうして町並みの全てが夕日を浴びた上で望めるのです。
私が教師になってはじめて勤めることになったこの扇狭市は、市の名の通り、町並みが扇状地のような形をしていて、東の山あいへ吸い込まれていくように土地は段々とすぼまっていってるのです。そのすぼまった先に建つような形で、私の勤める中学校はあるのです。
人口三万にも満たないこの街は随分な過疎地域でしたが、市民間の交友は深く、子供達もそうですが、大人達も暖かい性格の者が多いのです。
花村さんが、現在のように、こうして私のところへ自分の著作を持ち込むようになったのは、ある休日の出来事がきっかけでした。
市民の数も少ない、狭く小さな街ですから、その日私が市立の図書館へ訪れると、やはりそこにはどうしてもうちの学校の生徒が何人かちらほら居るのです。
年頃の子達の遊ぶ場所というのがほとんどない地域だったのでそれは仕方のないこと。それゆえ、皆、休日中でも学校の先生・生徒と顔を合わせることに何の驚きも、気まずさも、ましてや嫌悪感なども、一切ないといった様子でした。
だから、そこに花村みや子さんが居たことは、格別珍しいことでも意表をついたというようなことでもないのです。ごく自然。当たり前の出来事でした。
「先生、こんにちは」と、花村さんの方から私に声をかけてきました。
それから彼女は、私がその時抱えていた書籍に目を移しました。
「先生沢山お読みになるんですね」
私は、まだ大学から上がりたてだったので、大学時代の名残というか、癖というか、後遺症のようなもので、大学時代に散々読み耽っていた小説らをその時抱えていたのです。島崎藤村、田山花袋、泉鏡花……など、その他諸々、私は昔も今も本の虫でした。
堅実に、人生のための何らかを拵えるという作業が甚だ苦手で、小説にはよほど世話になっていました。
現実逃避をしていたのです。あらゆる事柄が、まるで津波のように押し寄せてくる年頃だったこともあって、大学時代は専攻の科目をサボったうえに小説という桃源郷に逃げ込んでいたのです。自分を塞ぎこんで、どこかぼんやりとした顔を装って、外を歩く。行き先は大抵地元の図書館でした。
花村みや子さんも、どうやら休日にはよく図書館を利用していたようでした。
私は以前、本の裏のところにある、小さな茶封筒に入った貸し出し履歴カードの欄に、花村みや子さんの名前を見掛けた覚えがあるのです。
「私も多少ですが、読書を」
「ふん。それは良いことですね。公園で身体を動かして遊ぶのもいいが、屋内で本を読み耽るのもまたいいこと」
「私は読書しかしていません」
「……それは困ったことですね、私も人の事を言えた義理ではありませんが。しかし、読書以外には一切何もしていないというのも風変わりな話ですねえ」
「いえ、ちゃんと読書以外だって、私はしますよ」
「ふむ、いったいどんなことです」
「書くほうです。小説をね」
「それは」
それは素敵だなと思いました。若干十三、四の娘が小説を? と関心してしまいました。一般的になら、ここは絵を描くだとか、漫画を描くだとか言うはずなのに、花村さんは小説を書いているというのですから。
話はそれからとんとんと進んで、私が読みたいと希望すると、花村さんは、恥ずかしいけれど、その反面に嬉しさもあるといった様子で承諾をしてくれました。彼女の処女作の第一読者になったというわけです。
私が幼かった頃、周りには決して物語を書くという者は居ませんでした。漫画でさえ居ませんでした。だから余計に私は彼女の小説を楽しみにしたものでした。
それからは、学校で彼女一人だけに話しかけられる機会があれば、ちょくちょく、彼女の書いている小説をネタに声を掛けるようになりました。
彼女の筆には、毎回癖になるようなひっかかりがありました。一般的には、それは不揃いで、読み心地の悪い語り口調だとも思われるのですが、私にとっては、それがまた微笑ましいほどの乳臭さに思われてならないのです。
毎夜、私は彼女の書いているお話のことを思うようになりました。
明日はまた一節書いてきてくれるだろうか、来週にはお話がどうなっているのか、その先は、その先は。思えば思うほど、どんどん彼女の明かされた世界が膨らんでいきます。どんどんと、限りなく膨らみ続けていくように思われて、私はある日気がついたのです。それは言ってみれば、終着のない無垢な遊びなのだと。
今まで色々な小説を読んできました。
これからだって読み続けます。
彼女の書くお話が、そのどれにも属さない素晴らしいものだとか、若年にしては才覚に満ち満ちたものだとか、そんな風に謳うつもりは一切ないのです。これまで読んできた彼女の話の展開に、一体いくつ予想を裏切るものがあったのか。そんなものは指で数えられるほどもないのです。
じゃあなぜ? なぜこんなに心躍るのかな、と、私は彼女のお話を読むようになってから少し経って、よくそのような問いを、自分に投げかけるようになりました。そうしてどうも、教師と教え子という関係。向こうがまだ純真で、幼い年端であるということ。まだ堕落や挫折を知らない人間であること。他にもあるでしょうが、こうしたいくつもの理由から、私は彼女にある種の羨ましさや、尊さ、いつくしむような感情さえも抱いた上で、そのお話を読んでいるということに心付いたのでした。
設定や描写がたとえ稚拙であっても、それは表面的なこと。きっと、私は花村みや子という個人を加えた上で、そのお話を評価している。だからおそらく、彼女の事をまったく知らぬ人間が彼女のお話を読んだなら、ちっともつまらない小説だなと駄作の烙印を押すに違いない。そういう事なのです。
翌日の昼休み、また花村さんは職員室にきて、私の所を訪ねました。またお話が進んでいました。
「ほら、バスが来るよ。コイさん、バスが向こうからやって来てる。バスに乗るのに、そんなに濡れてちゃ、運転手さんに笑われちゃうよ。こっちにきて、さあ濡れた身体を拭こう」
アイさんが休憩所から呼びかけても、コイさんは相変わらずむすっとして返事もしない。アイさんは大きめのタオルを鞄から取り出して待っているのに。
「笑われたって平気。だって、アイさんに笑われた事のほうがよほど傷付いたんだもん」
「私が悪かったわ。さっきから謝ってるのに、コイさん。ねえ、ちゃんと聞くから、また初めからお話を聞かせてよ」
バスが停留所の前にやってきた。停留所から少し離れた所にあった休憩所から、二人は何も喋らないまま、雨の中を急いで駆けていった。
バスの中に入ると、やはり二人は依然として無言のままで、後ろの五人掛けの一番広い席に腰を下ろしたの。アイさんの方はよかったけど、コイさんは、ズボンから何から、ぐっしょり濡れてしまっていたから、座ると大変気持ち悪そうな顔をして、顔をほんの少しだけ歪ませた。アイさんはそんなコイさんの顔を横目にこう言った。
「私だって昨日ね、夢を見たのよ。結構不思議というか、謎が多かったけど、でも素敵な夢だった」
アイさんが話してる間、コイさんはじっと窓の外のほうを眺めていた。アイさんのほうを見なければそれでいい。そういった態度でいた。
「ねえ、私の夢の話も聞いてくれる? 昨日ね、私、夢のなかで大きな虹の橋を見たの。空に掛かっている所が橋に見えていたとかじゃなくて、私達が普段渡ってるような、ああいう本物の橋。実用的な橋のほうね? 大きな大きな、本当に大きな虹の橋でね、一歩踏み出すたびに、踏んだ所からちょっとした反発力が来るの。下からね。小さなトランポリンの上に居るみたいに。それはとても歩きづらい条件のはずなのに、足がその反発で弾むのと同じように、心まで少しずつ弾んでいく。楽しくなってくるのよ。空はゆうがたの紅色に染まりだしてるんだけど、橋はしっかり玉虫のそれだった。橋の下には浅くて幅の広い川が流れてた。ゆっくり、とろとろと流れていて、水面には西の空に落ち始めた日の姿が、揺れながらもしっかりと反映して、時おり眩しく輝いていたわ。だから川は紅の色にすっかり染まっていた。点々と浮かぶ雲に深い影を作っていくその夕日がとても綺麗だった。幻想的っていうか、言葉も、心も奪う作用があるみたいな、魅惑的な光景だったの。虹色の橋が掛けられている上に、こんなに曇りも濁りもない夕日が眺められるなんて、私はなんて素敵な夢に出会えたんだろう、って、そう思っちゃったの。思っちゃった。でも、だめなの。でも、やっぱりそれは夢。夢って気が付いた途端に、部屋がショートしたみたいに目の前の世界が真っ暗になっていった。大きな虹の橋も、下を流れる川も、低い西日にあてられて光っていた景色も、皆暗闇に埋れて、閉ざされていった。それは激しい埋れ方でね、結構速度があったの。よく見ると、闇に落ちる瞬間所々に闇のミルククラウンが見られたりなんかして、終わりまで幻想的だった。目が覚めた時、とても心残りな、惜しい気持ちにさえなったほどね。あんなにうっとりする夢、なかなか見れたものじゃない」
アイさんは恍惚とした表情を浮かべて、コイさんとは反対側の窓の外に目を向けた。丁度、速度制限の道路標識が後ろに流れていくところだった。あとは道の脇に生えた草むらが、だらだらと際限なく視界を過ぎていった。
「はい、すごいすごい。私なんかの夢とは大違いねえ。きらきらしてて、純粋で、ちっとも暗い部分がない宝石みたいな夢。理想的じゃない」
やはりコイさんは不貞腐れたままに返すばかり。アイさんの気持ちを汲み取ろうなんて微塵にも思っていない様子。
「私の夢は陰気だったもんね。アイさんの夢には品があって、華があって、その上幻想的ときてるんだから、そりゃあ私の夢なんか、ちっぽけでゴミのように見えるわ」
「そんな事言ってないわよ。お願いだから、機嫌直してよ、コイさん。あなたの怒った顔、おばあ様が見たらきっと嘆かれる。残念がるわ。せっかくのおばあ様の家なのに」
アイさんが忠告しても、コイさんはまだむすっとしたままで、湿ったズボンが肌に張り付いてたまらなく気持ち悪いのを、少し引っ張ったりして抵抗していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます