アイ・ノウ

 俺が教科書の「i know」の文字を指でなぞると、店長は「これは何て読むと思う?」と尋ねてきた。

「あい、くの……? わからない……」

「これは『あい、のう』と読む。アイは自分、ノウは知る、『わたしは知っている』という意味だ」

「あいのう……。なんだか、滑らかな響きですね。俺、この言葉好きかも」

「そうか」

 店長はそう言うと、少し感慨深げに目を伏せた。そして、俺は店長のことを何一つ知らないことに気がついたのだった。




 中学校は不登校気味で、高校生活は勉強についていけずに中退した。中退した後もバイトを転々として、どこも上手くいかなかった。そんな中で、俺をバイトとして雇ってくれた店長には感謝しかない。

 地方にぽつんとある、何故ここにあるのかわからない少し洒落た輸入品雑貨屋さん。俺はこの店が好きだった。そして、俺を拾ってくれた寡黙で笑わない初老の店長のことも。

 お客さんに外国人が来たその日、俺はひたすらテンパりまくっていた。

「○○○○~~~」

「あ、アメリカ語わかりません!! のっととーくいんぐりっしゅ!!」

 俺がなんとか身振り手振りをしても、アメリカ? のお客さんは帰ってくれなかった。騒ぎが聞こえたのか、店長が近寄ってきた。滑らかな英語で話をすると、お客さんは納得したように雑貨を買って帰っていった。すごい……。

 険しい顔でじっと俺を見つめる店長。う、怒られる……。

「お前、英語わからないのか」

「す、すみません。勉強、ほんとに出来ないんです」

 店長は不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「何故だ」

「学校、まともに通ってないので……」

「違う」

 店長はかぶりを振った。

「お前は勉強が出来ないんじゃない。現に、レジや商品の把握は上手く出来ている。ただ、機会に恵まれなかっただけだ」

「そんなことないですよ。俺、馬鹿何なんで……」

「卑下をするな」

 店長はぴしゃりと言った。少しびくっとする俺。

「お前はこれから夜遅くまで残れ」

「え……? な、なんでですか……」

「決まっているだろう」

 店長は俺をじっと見据えた。

「私がお前に英語を教える」




 それから、毎日店長から教科書をもらって、英語を教わる日々が続いた。

 とにかく何もわからない俺に、店長は厳しく、でも着実に教えてくれた。店長の言い方はわかりやすいので、理解がしやすかった。

「はろー。あい、あむ、じゃぱにーず」

「発音も大方なってきたな。じゃあ、今日はここまでにしよう。遅くまでご苦労」

 素っ気なくそう言うと、俺と店長は車に乗り込んだ。夜遅くなので、店長は毎回車で送ってくれる。店長、意外と心配性なんだな……。俺は男だし、もう高校を卒業している年齢なのに。

 でも、二人で何も喋らずに車に乗っている瞬間は、嫌いじゃなかった。俺は店長のことが好きなのだ。

「店長。俺、毎日楽しいです」

 相変わらず何も喋らない店長に、俺はそう言ってみた。

「勉強って、面白いですね。知らなかった。これも店長のおかげです」

 店長は少し目を見開くと「そうか」とぼそっと言って、また目をきゅっと細めてハンドルを握った。

 俺は店長にとって、どういう関係なんだろう。店長とアルバイト以上の家族? それともそれ以上? なんてね。

 少し浮かれる俺に、車窓の外の風景は淡々と移り変わっていく。淡い気持ちのまま、この日々が永遠に続くといいな。





「おい、お前。報せがある」

 バイト終了後の店長の授業が始まるかと思いきや、店長は唐突に俺にチラシを渡した。

「定時制高校だ。働くお前でも行ける」

「え、で、でも、俺、勉強なんて出来ないですよ……」

「今さら何を言っているんだ。お前はもう、基礎的な英語がもうわかるようになってる」

 店長は鈍く目を光らせた。

「お前は勉強する力がある」

「……!」

 俺は、全身に勇気がみなぎるのを感じた。

「や、やってみます」

「そうだ。そして、私の授業はもう卒業だ」

「……えっ」

 瞬時に言葉を失った。

「そんな! 俺、もっと授業を受けたいです、店長と」

「駄目だ。もう私から教えることは何もない。今日はもう帰れ。いつものように私が送ってやるから」

 ぱたん、と扉を閉ざすように言う店長に、俺は何も言えなかった。もっと近づけると思ったのに。これで、ただのバイトと店長に逆戻りか……。

 ぐちゃぐちゃとした思いのまま車に乗った。沈黙のまま、車は雨の林の中を走っていく。……ここ、いつもの道じゃ、ない……?

「店長」

 俺は沈黙を破るように声を出した。

「明日も店長に会えますよね」

「……お前はここで降りろ」

 店長は俺を見ずにぼそっと呟いた。

「店長……! どこへ行くんですか」

「お前には関係ない」

「関係ありますよ! 生徒と先生の関係じゃないですか!」

「それももう終わりだ!」

 珍しく店長は声を張り上げた。

「終わりじゃない!」

 俺も負けずに声を張り上げた。

「店長から教わった、助けられたことは沢山あるけど、俺はまだ何も返せてない。……I want to know you。俺はもっと店長を知りたい、です」

 俺は店長から教わった英語を話した。それは滑らかな英語ではなかったかもしれないけど、店長は毒気が抜かれたように目を伏して、ブレーキを踏んだ。車が止まる。

「……I know(いいだろう)。」

 店長は優しく呟いた。そして、ぱち、ぱちとまばたきをして、また話し始めた。

「この雑貨店は、パートナーであるあいつの忘れ形見だった」

 ごつごつとした声色で、店長は話し続ける。

「輸入雑貨店をやりたいと言うあいつに、俺は反対したが、結果的に負けてしまってね。最初は英語が上手く喋れなかった私に、あいつは丁寧に教えてくれた。それは今もこの胸に生きている」

 店長が『あいつ』と口に出すたびに、店長の瞳がやさしくゆるんだ。

「だが、あいつはもう死んでしまった。私は自暴自棄になっていた。いつでも死んでもいいと思っていた。そんな中で、お前が来た。奇跡のような日々だった」

「奇跡……」

「お前の日々は楽しかったよ。まるであいつがしてくれたみたいに、私が教えられるようになるなんて。これでもう悔いがないと思っていた」

 店長はふ……、とやさしく諦めるように笑った。

「これから、私の授業はレベルが上がるぞ。それでもいいのか?」

「は、はい!」

「よろしい」店長はくっくっくっと小気味よく笑った。「着いていくように」

「I know(わかりました)。」

 俺は滑らかに返事をした。店長がアクセルを踏み、車は再び元の道へと走り出した。






 昼は雑貨店でバイト、夜は定時制高校で授業。

 二重生活はしんどい……、けど、店長がくれた希望の先を、俺も見てみたい。

 そして、店長の未来の先に、俺がいますように。

 そう願いながら、『アイ・ノウ』の言葉を、口の中で転がした。その英語は、最初の頃よりずいぶん口の中で馴染んでいった。これから知っていくことの全てを祝福するように。

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