蝶の箱庭

 家の門の足音に、蝶が落ちておりました。

 その蝶は、羽が破れていながらも、まだ動いておりました。そっとくっつけようとしましたが、しばらくしたら動かなくなっていました。死んでしまったのでしょう。

 私は、なんだか哀れに思い、その蝶を庭園に埋めました。久々の力仕事で疲れましたが、終わった頃には小さな蝶の墓が出来たのです。

 その庭園も、私のお屋敷の敷地内にありました。子供の頃は庭師が丁寧に整えてくれていましたが、今や草が生えっぱなし、雑木林のようになっています。

 庭園だけではありません。お屋敷全体がすでに古びていました。私がここで生まれた時は、お父様やお母様、給仕や秘書、庭師に囲まれていました。しかし、没落した今では末の息子である私しかおりません。

 私はここで引きこもっています。もはや生きていく意味などありません。死ぬまで遺産を細々と使って、このまま朽ちていくのでしょう。この庭園とともに。

 だから、無力にも死んでゆく蝶が、なんだか私のようで、放っておけなかったのでしょうか。




 引きこもっているだけでは生活が出来ないので、たまにお屋敷から出て、食料品などを買います。その時、今や雑木林同然の庭園を少し散歩します。

 昔から、庭園は蝶が沢山おりました。荒れ果てた今も蝶は変わらずここにいます。そのことが、少しだけ私を嬉しくします。なんだか記憶と変わらずにいてくれるようで。

 その日も買い出しから帰ってきた後、庭園に立ち寄ろうとすると、ふと人影が見えました。それは成人間近くらいの小柄な青年でした。

 いたずらをしに来たのでしょうか。用心深く近寄ると、彼はにっと私に笑いかけました。

「おじさん、何してるの?」

「何って……。自宅の庭の散歩だよ。大事な庭なんだ」

「大事?」

「そう。大事。ここだけは誰にも譲らないって、決めてるんだ」

 そう言うと、青年は満足そうに笑いました。「そう言ってくれて嬉しいよ。おじさんに渡したいものがあるんだ。ほら、手のひらを出して」

 彼はそう言うと、私に両手いっぱいの色とりどりの花を渡しました。

「じゃあね」そして、青年は去ってゆきました。去り際にこう言いました。「おじさんがこの庭を守ってくれていることが、嬉しいよ」青年が羽織る白シャツの背部には、うっすらと、背中のおびただしい傷が透けて見えました。

 そうして青年は雑木林の奥に消えてゆきました。そこへ歩いて行っても出口はないのに、いくら庭園を探しても青年の姿が見つからないので、妙なものでした。




 それからずっと、たまに青年と会う日々が続きました。

 彼はいつも、甘い蜜の香りがする花をくれました。その花は、いくら飾ってもなぜか枯れることがなく、綺麗に咲いていました。玄関や棚の上に飾ると、私の気持ちを彩ってくれました。

 私は、その青年と会うのが楽しみでした。彼と会えるならば、人生はそんなに悪くないと思っていた、矢先のことでした。

 その日も青年に会いに、庭園に行くと、何やらスーツの人々が話し合っているのが見えました。もちろん、入場を許可したおぼえはありません。

「ああ、これはこれは。ここのお屋敷の坊ちゃんの方でしたか」スーツの男たちは、わざとらしくお辞儀をしました。「折り入って相談があるのですがね」スーツの男はそう言って名刺を渡しました。

「ここの敷地内の庭園を買い取らせてくれませんか」

「そんな……」私は言い淀みました。「そんなことは出来ません。ここは、大切な思い出の場所なんです」

「いえいえ、まさかタダで、なんて言いませんよ。お礼金はきちんと用意します。ほら、このくらい」

 スーツの男はそう言って、電卓を見せました。その電卓に表示された金額は、男一人が一生遊んで暮らせるのに十分すぎる金額でした。

「ね、どうでしょう。ここの土地、買い取らせてくれますよね」

 私は呆気にとられたまま、ただただ黙って頷きました。その時、あの青年が、雑木林の隅に見えた気がしました。そして、

「うそつき」

 そう言ったように聞こえました。そして、青年はきびすを返して、雑木林の奥に消えてゆきました。




 庭園はなくなりました。敷地も狭くなりました。なくなった庭園は、大きなビルが建つそうです。

 青年もいなくなりました。そして、私の生活にある変化が起きました。

 彼からもらった花が枯れ果てた部屋で、ずっと蝶の幻覚が見えるのです。

 掴もうとしても掴めず、消そうとしても消えず、網膜にずっと焼き付いている。

 気がつけば私は、蝶の箱庭に閉じ込められてしまったのです。

 きっと彼は、あの時助けた蝶の生まれ変わりだったのでしょう。そして、庭園を売り渡す選択をした私を恨んでいるのでしょう。呪いをかけるほどに。

 きっと行き場をなくした蝶が、これからも私の部屋に住み続けているんだと思います。

 不幸なことに、私はそれを悲しんでいないのです。

 蝶がずっとここにいることが、わたしを孤独じゃないと錯覚させるのです。

 きっと、私の脳はすでに壊れてしまったのでしょう。それでもいいのです。全てはそう、君と一緒に。

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