深海魚とタスマニアタイガー

 ねえ、宙(そら)。タスマニアタイガーだよ。春斗(はると)はガラスの向こうの動物のはく製を指さした。

「タスマニアタイガーって知ってる? 人間に狩られて、絶滅しちゃったんだって。でもはく製だけ残っていて、この科学館に一匹、取り残されている。人間が作った建物にいて、宿敵の人間にジロジロ見られて、あの一匹は、どういう気持ちなんだろうね」

「きっと、寂しいんじゃないかと思う」

 俺がそう言うと、春斗は、微笑にも寂寥にもとれない遠い目で頷いて、「そうだろうね」と呟いた。



 俺には人の気持ちがわからない。上手く喋れない。能力も低い。だめな人間として生きてきた。

 その日も、大学の次の授業の部屋をうっかり忘れて、教科書を持ったまま大学の廊下をうろうろしていると、

「その教材の授業なら、ほら、こっちだよ」と、指をさして案内してくれたのが、春斗だった。

 急に声をかけられて、ぼんやりしている俺に、春斗は「仕方ないなあ」と笑って、俺の手を引いて案内してくれた。

「あの……、ありがとう」

 無事に教室に着いて、授業が終わった後勇気を出してお礼を言いに行った。春斗はにっこりと笑った。

「いいよ。君と俺、授業が同じみたいだね。良かったらライン交換しようよ」

 極端に道に迷いがちな俺にとって、案内してくれる春斗は救世主だった。ノートを見せたり、一緒に食堂でご飯を食べたり、科学館でレポートを作成したり。ごく普通の大学生の日常を送れるのも、全部春斗のおかげだった。

 てらいのない優しさ。それがたまに苦しくなる。

 自分は深海魚のような人間だと思う。春斗に手を差し伸べられて、こっそり手を繋いで、その温もりを素直に受け止められない。それが人肌の温かさであっても、深海魚にとっては熱すぎて、火傷してしまいそうになる。

 ふと、大学の食堂でカレーを食べる手が止まった。春斗は不思議そうな顔をした。

「どうしたの、君」

「ごめん。俺、深海魚なんだ」

 その言葉が口をついて、自分は何を言っているのか、と慌てた。春斗は笑わなかった。そして、こう言った。

「大丈夫だよ。俺も人間じゃないから」

 そして、季節を春斗と過ごしていくうちに、あることに気がついた。春斗は夏でも絶対に長袖を着てくるのだった。





 春斗は何か、俺に対して秘密を抱えているような気がする。しかし、それが何かわからない。

 今日も暑いのに、白い長袖のTシャツを着てきた春斗に、俺はたまに、何て声をかけていいのかわからなくなる。

 秘密は秘密のままで、仲がいいならそのままでいいのかもしれない。諦めに似た感情を抱いたその時、スープを飲む春斗の手が滑った。長袖の腕にかかる。

 スープをこぼしたにしては、春斗はあまりにも痛そうに顔をしかめていた。不安がよぎる。

「その腕……、傷でもあるの。手当、しないで大丈夫なの」

「だ、大丈夫」春斗は全然大丈夫そうな顔をしていなかった。

「春斗。お願い。今すぐ手当をして。痛そうな顔、見ていられない……」

 春斗はひどく悲しそうに、ぱち、ぱち、二回まばたきをした。その長袖をまくると、その腕にはおびただしい火傷の痕が残っていた。

「春斗……」

「大丈夫だよ。これは傷じゃない。皮膚が薄くなってるだけだから」春斗は弱々しくそう言うと、スープがかかった腕をハンカチで拭った。

「俺の秘密を知ってしまったね」春斗は苦しそうに笑った。「さよならだよ。宙」




 それから、どこにいても、どこを探しても春斗の姿が見えなくなった。ラインも返事がない。

(きっと、どこかにいるはずなんだ)

 それでもひたすら探した。校内のエレベーターで屋上に昇った時、春斗は一人空を見ていた。俺と目が合うと、「見つかっちゃったか」とぺろっと舌を出した。

「ここ、好きなんだ。誰も居なくて。誰も俺のことを見ないから。……その顔は、俺の腕のことを聞きたい顔だね。いいよ、話すよ」

 春斗はそう言って話し出した。

「俺、小さい頃に大やけどして。全身に火傷の痕があるんだ。

 普通の人間みたいに生きてても、例えば制服の夏服を着れば、周りの人間とは違うことがわかる。苦しかったんだ。周りの人は、じろじろ俺のことを見て来るし……。まるで俺は、人間じゃないみたいだって。

 だから、自分みたいに、『人間じゃない』みたいな人を見かけて、嬉しかったんだ。意を決して、声をかけた。……でも、それは間違いだった。

 手を引いてるつもりでも、本当は引かれてるのは、俺だったんだ。君と話すたびに、俺の秘密がばれてしまうのが怖くて、びくびくしていた。君は人間だから。人間のように温かったから」

 春斗は喋り終えると、ふう、とため息を吐いた。俺はそんな春斗の手を取った。春斗はわかりやすく動揺した。

「春斗も人間だろ」

「何でそう言い切れるの」

「優しいから」俺はそう言った。「春斗がどう思っていたとしても、『優しさ』って人間しか持ってない感情だろ。春斗がどう思ってたしても、俺はその『優しさ』に感謝してるから……。だから、何も言わずにお別れなんて、嫌だ」

 俺がはっきり言うと、春斗はあっけにとられた後、困ったようにくすくす笑った。春の雪解けのような笑顔だった。

「わかったよ。君がそう言うなら仕方ない」

 これからもちゃんと握っていてね。春斗は俺の手をぎゅっと掴んで、また嬉しそうに顔をほころばせた。



 深海魚とタスマニアタイガーは、ちゃんと人間になれただろうか。

 季節がめぐり、ロングコートでこっそり手を繋ぐ。お互いに離れないように、二人で守る約束のように。


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