第3話 過去が戻れば……
「そうか。その子の名前と住所を教えてほしいんだけど」
僕は咄嗟に君に帰ろう、と催促した。
「見てみろ、あの飯垣悟だよ。本物だ!」
「すげえ、これ、スカウト?」
「何だ、あの子、今まで見た女の子の中でいちばん可愛いんだけど~」
「こんな見目麗しい、美少女がこの世にいるんだ……」
人混みの中からそんな形容詞が飛び交う。
その息を吞むような羨望の嵐に僕は圧倒され、隠れている君を本当的に見守った。
僕はその形容詞を聞いて、この状況が遠い世界の出来事だった『街中でのスカウト』だと理解し、このまま避けて無視するのも大事になると思い、怖がっている君に説明する。
「この人はオーディション番組に出演されている有名プロデユーサーだよ。たぶん、月華はスカウトされたんだと思う」
君は本当に俗世間の流行に疎くて、流行りの曲さえ知らず、本ばかり読む少女だったから知らなかったようで
僕が恐る恐る説明すると、君は頷くようにその大物プロデューサーと対面した。
「何か、道に迷われたんですか」
君はこの状況を呑み込めていないようだ。人だかりから嬉しそうな喝采が起こる。
「そこの美少女。君は天下の大物プロデューサーにスカウトされたんだよ」
誰か知らない人が黄色い歓声をアピールしている。
その一味には若い女性も数多くいたが同姓である筈なのに尊敬したかのように拍手し、うっとりと見ている。
「ちょっと、美少女は怖がっているようだから連れの君にこの名刺を渡すよ。美少女のご両親に話がしたいんだ」
拍手喝采の雑踏を避けるように帰宅し、その日から僕らの人生は変わってしまった。
君は悩んだ末、君のお母さんと相談し、事務所に勧められたコンテストに応募だけした。
お父さんと別れた君の家は経済的に苦しく、そのオーディションのエントリー料も馬鹿にはならなかっただろうに、君のお母さんは娘の将来性を高めるためにエントリーした。
もし、あのとき、エントリーを止めておけば。
君はこんなにも傷つきはしなかったかもしれない……。
「ねえ、清羽君。私ね、お母さんと相談して、飯垣悟さんの勧めの通りオーディションを受けてみたいと思うの。私は本が好きだったから童話作家になるのが夢だったけど、書こうと思ってもなかなか書けないんだよね。お母さんは演劇をする道もあるじゃない、と背中を押してくれて、駄目でももともとだけど、勇気を持ってエントリーしたよ」
君が夕影に揺れるコスモス畑の川辺で僕に話してくれた、あの爽籟を覚えている。
色無き風が吹く、独りぼっちの河原で僕らは共に抱き合うような秘密を持ち合わせたまま、僕は不安感の中、応援した。
「まあ、選ばれないし、芸能界なんてそんなに甘くないもの」
君が言った言の葉を呑みながら、僕はその風の色の息吹をしっかりと抱きしめた。
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