第32話

 ティム・ライムが目を醒ますと真っ暗闇の中にいた。視界の中に小さな光が舞って、ぼんやりと子供の頃は闇の中が恐ろしかった事を思い出した。今はどちらかと言えば安心できる。



 ゆっくりと意識が浮かび上がってくるにつれて、自分が椅子に腰かけさせられ、後ろ手に拘束されているとわかった。

 安心するどころではなかった。



「お目覚めのようですね。時間通り」と女の声がした。

 顔の近くで強い光が放たれた。魔術を使う様子が無かったので、アーティファクトかもしれない。冷たい指がティムのこめかみの髪を掴み顔を上げさせる。思わず目を閉じると無理やり指で瞼を押し上げられて、目に光を流し込まれる。



 眼の奥が痛み涙が溢れる。鈍い痛みが眼の奥に走り、焼けつくような鈍痛が頭蓋骨の奥に響き渡った。

「いッ痛い。やめろ、止めてくれッ」



 経験をしたことが無い痛みに、ティムは思わず叫びを上げる。夏の日差しを売っ塊覗き込んでしまった数百倍の刺激を与えられたように感じて、顔を伏せようとしたが、細い指に似合わない力強さで顔を仰向けにされた。



「ふふ。痛いでしょう。人間の視神経は脳に結びついています。ある意味、眼とはむき出しになった脳の一部なのです。直接脳を焼かれる気分はいかがでしょう。KGBの時の常套手段ですが、繰り返しこの責めを受けたものは、太陽が恐ろしくて二度と陽の下を歩けなくなる。薄汚いスパイであるあなたにはお似合いだと思いませんか。モグラはモグラらしく土の中に居るべきなのです」



 鋭い光の先に赤い唇と白い顔が見える。

「誰だッ、誰なんだ。あの時にも俺を見ていたな」

 ティムは下宿で逮捕された時の事を思い出した。あの時もこの女は自分の事を眺めて笑っていた。


「畜生ッ、誰でもいいッ。止めてくれ、痛いんだ。痛いんだよ。止めてくれッ」

 頭では誰だったかという疑問符が溢れていたが、口は全く違う事を叫び、そして涙が溢れ続ける。



―――このままではおかしくなる。

 そう覚悟した途端に灯りが消え、そして暗がりが戻った。

 ティムは拘束された椅子ごと倒れ込み、床に眼をこすりつけて嗚咽を漏らす。瞼を固く閉じても、奥が白色に染まって頭がおかしくなりそうだ。


「あと、何度か繰り返せば、あなたも積極的に協力して頂ける『良い子』になってくれるでしょう。また参ります。あと、自殺など図らないようにお願いします。この部屋は監視されています。そうしようとすれば監視の物がやってきてそれを止めます。無駄な努力などなさらないように」

「―――畜生ツ」

 ティムは暗がりに叫ぶが、既に人の気配なない。



 誰なんだ。そして聞き逃せない事を言っていた。ティムはそれを思うだけで痛みとは異なる恐怖を感じて背中を丸める。

KGB。つまりはソ連国家保安委員会。東側組織の最悪の元締めであり、西側スパイにとっては死の象徴ですらあった。




 ティムは背も立てのない丸椅子に腰かけて、光で腫れ上がった目に負担を掛けないように目を細めてテーブルの上を見ていた。幾日経ったのだろう。意外と数時間も経っていないのかもしれない。


「意外に強情なので驚いています」

 テーブルを挟んで座っている女が言った。

 紫がかった黒髪に白い面。赤い唇が印象的な痩せた小柄な女。若く見えるが、見た目通りの年齢なのだろうか。青いローブを着ているからには魔術師なのだろう。



―――できるだけ目を見ないようにしよう。

 ティムは無感情を装って反応しないように努めた。出来るだけ愚鈍に見えるように。


「あなたが我々の開発した魔術砲の情報をベゼリングに売ったという事は分かっています。後はあなたが『良い子』になって素直に自白をしてもらえればこの件はすぐに済むのですが。あなたも拘束されずに済みます。罪は償わなければなりませんが、それは我々の管轄ではありません」


 女は少し首を傾げて微笑みを浮かべた。長髪がサラサラと流れて肩にかかった。

「あなたが情報漏洩の犯人ですね?」

「―――違う。僕じゃない……」



 ティムはなるべく時間をかけて返答をした。場合によってはおかしくなった人間を装っても良い。なるべく情報を小出しにするべきだ。


 こういったことはいつ、どこで教わったのだろう。英国のブレッチリ―だろうか。生い茂る緑の芝と煉瓦造りの建物が立ち並ぶ暗号解読班の楽園。変人も多かったがエニグマを破ったのはあの一団なのだ。それが功を奏してナチスの暗号無線は筒抜けになり、大いに戦局に貢献した。

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