第26話

 ティム・ライムは前かがみになり膝の上に肘を載せた。

 両手でグラスを持ってアニーを見て、果たして僕は誰なのだろうと思った。パストンの郊外で生まれてからのつまらない人生を一通り語ることは容易だったが、それが正に自分と言えるだろうか。



「僕が死んだのは、東ベルリンだった」

「つまりアンタは戦後に死んだってわけだ」

「わからない。記憶が蘇ったのは最近なんだ」


「へぇ。で、何をしていた」

「イギリスで諜報部員だった」

 アニー・コルトが漸く興味を引かれたように体を起こした。


「アタシは良く知らないけれど。そいつはスパイって奴だろう。アンタ、MI6のスパイだったのか」


 そうだったのだろうか。ただ、強い記憶は向けられた銃口の黒い穴だった。

「そうかな。扱い的には公務員だよ。それに正直余り思い出せない」


 アニー・コルトは軽く頷きながら「アタシもそうだったよ。全てを思い出すには結構時間が掛かった。なんというか見た夢を思い出そうとしているときに似ている。上手く思い出せないもどかしさとかね」


「戦後だったと思う。1950年くらい。不思議だ。西暦ってわかるか? こんな言葉はこの世界にはないのに」

 アニー・コルトは軽くなずいた。

「良い時代とは言えなかったと思うね。戦後だったから世の中は景気が良くて、賑わっていた気がする」


 ティムは遠い眼をしているアニーに、どのように死んだのか聞いてみたかったが、口を付いて出たのは違う事だった。

「―――あの女に会ったって?」


「あぁ、何だろうね。あのブサイク。陰気な女で。好きになれない奴だったね」

 アニーはそう言いながら肩頬だけで嗤った。

「確かに、世界を救えって言われた気がする。でも何か言っていなかったか? 三人って」


「あぁ、なんだい。それは思い出せているのか。なら話が速いね。アンタ。アタシで二人って事で良いのかね」

「『三人借りることが出来た』って、言っていた」


 本当だろうか。あるいは気が狂っているんじゃないかと、ティムは自分自身を疑う。然しそうだったら、目の前の暴力を司る女神のような美女も同じ妄想で狂っていることになる。



 アニー・コルトは呆れたように量の多い赤毛をかき上げて、「つまりはもう一人探せって事なのかね。全く」と、煙を吐き出しながら小さく呟いた。

 ティム・ライムは右手の親指と中指で顔を覆うようにしてこめかみを押さえた。


 『生まれ変わり』に『神の使命』とは全く。冗談じゃない。気が狂っているのじゃないだろうか。自分とアニーの気が狂っているとして、この話のうんざりするところは同じ妄想を持った人間がなんとあと一人いるという事だと思った。

 

 暫くティム・ライムもアニー・コルトも口を開かなかった。

 窓の外の喧騒が遠くなっている。このまま世界が遠のいてしまえば良いとティム・ライムは思った。パストン公国の運命も良く分からない神と自称する女の記憶も遠ざかって行けばいい。


 しかしそうも行かない事は目の前の女が証明している。

 自らの嫌疑を果たせない先にあるのは、おそらく法廷であり縛り首である。ティムは強く眉間に皺を寄せて、目を瞑り絞り出すような溜息を洩らした。



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