第5話

 昼過ぎ。

 ようやく午前中の業務を終えてティムは天を仰いだ。



 パストン公国は年がら年中曇り空が相場の国だが珍しく青空が広がっている。

 珍しい陽気なので街路に人でも多い、昼時なので立ち並ぶ宿や一杯飯を出す店も扉を開けて、客を呼び込もうとしていた。



 陽気に飛び跳ねながらハーフリングの女性が声を張り上げて呼び込みをしている。エプロンをかけて緑色のお仕着せを着ている姿は一見子供みたいに見えるが、立派な大人なのだろう。

 あの種族は年齢が見分け難く、とっくに子供がいるのに親自体がまだ子供に見える。



 冒険者風の数人の男女が連れ立って入って行ったのを見ると自分も腹が減っていることを思い出す。兵器廠が最寄りなので、マリー先輩に手渡された封書を取り出す。何度か配達したことがある宛先だった。



 封書は茶色の既製品で十字に紐が掛けられていた。差出人を見ると、ダンジー・ポロックとあった。知り合いだったので、ティムは少し微笑む。塔の住人とは普段は交流が無い事が、あの組織も偏屈な魔術師ばかりではない。組織である以上事務を執る人間もいうという事だ。



 ダンジー・ポロックは魔術師ではない。

 茶色の髪に白いものが混じった人懐っこいタイプ。ティムが大抵封書を受け取ると知ると、判らぬようにいたずらを仕掛けるような稚気もある。指で封書に掛けてある細い紐の結び目を撫でた途端、ティム・ライムは白昼夢を見た。



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 目の前に突きつけられた黒い穴を覗き込んでいた。

 アイアンサイトが突きだしている銃口。口に微かに掘り出されている螺旋型のライフリングが覗き込めた。



 英国を出発して3日目の事だった。

 どこにでもいるような市民の偽装を纏い、ナチス政権下のブダペストに侵入し収容所に関する文書をデポとなっている町の商店から盗み出し脱出するという任務。


 歴史のある街は、褐色の制服を着たナチ党員が我が物顔で闊歩する巷に成り果てていた。事前のブリーフィングでは国家保安部ゲシュタポが最悪の相手であるとされたが、実際には最も注意をするべきは市民の密告だった。

 先行して潜入していた工作員は、菓子を与えたまだ十代の子供に密告され処刑される憂き目を見た。

 隣の席に腰かけた身なりのいい中年の男性。道を往く女学生。買い物かごを下げた太った中年の婦人。誰が密告者になり替わる可能性がある。

 だから常に与えられた偽装カバーを纏っていなくてはいけない。



 危険な任務ではあるが分かりやすく、油断さえなければ問題が無いはずとティムは認識していた。十分な装備も与えられている。作戦期間は5日。標的となっている商店の合い鍵もある。なにも軍事施設に侵入するわけではない。合い鍵が合わない場合はこじ開ける事もできる。

 脱出が問題だがそう遠くない街で現地協力者の協力も得られることになっている。これ以上は望めない状態での侵入だった。



 それでもMI6諜報員ティム・ライムは、黒い穴を覗き込んだ数秒後、あっさりと頭を打ち抜かれて死んだ。何故? と言う疑問を浮かべる暇もなかった。

 何故逮捕されなかったか。

 スパイは逮捕するべきもので、情報を吸い上げた後でゆっくり処刑すればいい。生きていれば抱くべき疑問だったがその機会は失われた。

 


 ティムは平均的なキリスト教徒だった。

 勿論神を信じているスパイなどいないので、天国の門にはたどり着くことが出来なかったようだった。

 黒い穴を覗き込んで衝撃を感じた後は、奇妙な暗い小部屋にいた。



 目の前には黒髪を頭の後ろに縛って、事務机にかじりついている青い顔の女。分厚い眼鏡をかけているので上手く表情が見えない。白いシャツ、濃紺のタイトスカートで、垢ぬけない格好をしている。言ってみれば事務員に見え、そして事務員以外には見えない女だった。



 女は機嫌悪く「クソッ、クソッ、何だってあたしがこんな目に」と吐き捨て、目の間に積まれている書類の束を掴むと強く机に叩きつけた。

「おい、お前ッ」

 吐き捨てるように言われて思わず瞬く。自分の事らしいと気が付いたのは2,3秒後だった。

「お前しかいねぇだろ。ティム・ライム」

「……アンタ、誰だ」とティムは辛うじて言った。

 喉の奥が詰まったように痛む。目の前に暗い穴がチラついた。



「誰も彼もねぇんだよ」

 そう女は言いながら片手で髪をかき上げる。暫く洗っていないのか髪の毛に脂が浮いている。

「あたしはな。もう20連勤で休み一つねぇんだよ。他の世界のツケなんて回されても、あたしのせいじゃないってのに」

 眼鏡の下の目が見える。一重の細くそして意地が悪そうな目。



 そして、女は机に放り出してあった紙巻の煙草を取り出して、溜息を漏らしながら口に咥える。マッチを擦り火を点けて大きく吸い込み、そして疲れ果てたように吐き出した。

「おい。ティム・ライム」

「はぁ」

「気の抜けた返事をするんじゃ無いよ。アンタはね、想像が付いていると思うが死んだんだ」



 黒い穴。

「あんたにはあたしの世界で一仕事してもらう。世界を救いな」と、事務員は吐き捨てるように言った。

「何言ってんだ。あんた」ティムは辛うじて答える。

「あたしは神で、あたしの世界には厄介ごとが巻き起こりつつある。そしてそれはあたしのせいじゃない。だから迷惑先の担当者からアンタを含めて3人借りることが出来た。アンタらはあたしの世界で生まれてもらい、世界を救って死んでもらう。その先は……、知らないね」

 事務員は口元を歪めて嗤い、煙草の煙を嫌がらせのようにティムの顔に吹きかけた。

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