集~つどい~ 其の漆
花音の取り乱した声を聞くのは十一年振りのことだった。遼一は会社を出て走り出した。洋介の家なら会社から近い。花音には神楽のもとへ急いでもらった。遼一は会社から電車に乗って、洋介の住むマンションの最寄り駅へ降り立つ。
『洋介がやばいかもしれない』
花音はそう泣き叫んでいた。
*
洋介の住むマンションへの途中には高架下の四角い口を開けたトンネルがある。遼一はそこを駆け抜けようと、オレンジ色の光の中に飛び込んだ。
「ぱぁぱ~!」
どこかで優奈の声がした。
遼一は立ち止まってトンネルの中を見回した。愛娘の姿などあるはずもなかった。優奈は智花が彼女の実家に連れて行ってしまったのだから。
──気のせいだ。
そう思い直して、進行方向を見ると、十メートルほど先に華奢な女がふらふらと立っていた。
奈々だった。
こんなに寒い夜なのに身にまとっているのは入院着だけで、その胸元は掻き毟ったせいなのか赤黒く汚れている。靴も履いておらず、その足は傷だらけだ。青白い肌はまるで死んだように生気がなく、それなのに、血走った目が遼一を捉えて離さなかった。
「ぱぁぱ~!」
開いた奈々の口から優奈の声がした。
「やめてくれ……!」
遼一は来た道を戻るように駆け出した。彼は混乱していた。だが、その足は遠回りをしながらも洋介のマンションへ向かっていた。
*
辿り着いたマンションの周囲には赤い光が躍っていて、多くの野次馬が駆けつけていた。
「エレベーターで死んだらしいよ」
「首が取れて血の海だって」
「うへ~、やべえ……」
近づいた人垣のどこかからそんな会話が漏れ聞こえてくる。
規制線のそばまで人ごみを掻き分けた遼一は、ブルーシートに囲まれて、その中で何かが運ばれていくのを見た。
遼一は頭を掻き毟った。その場で足踏みをして、これからすべきことを必死で探し出そうとしていた。そんな彼の視界の隅に、人の隙間からこちらを見つめる奈々の姿が飛び込んできた。
遼一は息を飲んで逃げ出した。
街を駆けて、電車に乗り、気づけば自宅のマンション前にやって来ていた。全身汗でびっしょりになっていて、吹き抜ける風が彼から体温を奪っていく。遼一は急いで部屋に向かった。
玄関のドアを開けると、廊下の明かりが点いている。奥から智花と優奈が顔を出した。遼一は目を擦って、その光景を凝視した。何度見直しても、そこに二人がいる。
「な、なんでお前たちが……」
「話がしたいって、呼んだのはそっちでしょ」
そう言われるが、遼一にはそんなことをした覚えは一切ない。だが、靴を脱いでリビングに身を投じると、暖房の入った空気が
「ありがとう……」
智花はダイニングテーブルを挟んで腰を下ろす遼一へ心配そうな目を向けた。
「ちゃんと生活できてるの?」
「ああ、まあ……」
状況が飲み込めないまま、時間だけが過ぎていく。
「なんなの、話って? 帰って優奈を寝かせたいからさ」
「ここに泊まればいいだろ」
「それは悪いでしょ」
──それはここに泊まらないためのただの方便だろ。
遼一はそう思ったが、胸の中にしまった。今この状況で少しでも話を聞いてくれるのは智花を置いて他にはいないと気づいているのだ。遼一は頭を下げた。
「頼む。もう少しだけ──」
彼の言葉を遮るようにインターホンが鳴る。廊下の向こうで玄関のドアが開く音がした。遼一たちがいる場所から玄関は見えない。だが、廊下の向こうから、
ひた、ひた、ひた……。
と足音が近づいてくるのだけは聞こえた。遼一は思わず智花を見た。彼女にも聞こえているようだった。優奈が智花の腰に抱きついて顔を押しつけていた。怖いのだ。
リビングの入口に奈々が現れた。
「なんですか!?」
智花が立ち上がって威嚇するが、遼一は慌てて智花を遠ざけた。遼一はどう説明すればいいか分からず、
「大学時代の友達なんだ」
と言った。智花は奈々を足元から頭の先まで嘗め回すように見つめた。ボロボロの身体だ。
「なんで、こんな……」
奈々は涙を流していた。そのかすれた声が蚊の鳴くように言うのだ。
「頭の中に何かいるの」
「何かって、何が?」
奈々は虚ろな目をキッチンに向けて食器の水切りラックのそばに置かれた包丁立てのもとに歩いて行った。
「待て! 奈々!」
奈々は包丁を手にして、それを自分の耳に突き立てた。智花が口を押えて腰を抜かす。そんな彼女をきつく抱きしめて、優奈が大声で泣き出した。
血だらけの包丁を何度も耳に突き刺して、奈々はその場にうつ伏せに倒れた。遼一は足に根が張ったようにその場から動けず、ただただかつての友人がこと切れるのを見守るだけだった。
「あはははは!」
リビングに笑い声が響き渡った。
「やめろよ!」
遼一は虚空に叫んだ。智花は驚いた顔で遼一を見上げる。
どたっ、どたっ、どたっ!
どたっ、どたっ、どたっ!
奈々のまわりを飛び跳ねるように足音がする。その足音が消えた瞬間、奈々の手が近くに転がった包丁を掴んだ。およそ人間とは思えない動きで立ち上がる。閉じたままの瞼が遼一を見つめる。そして、床にへたり込んだ智花に向けられた。
ぎこちない動きで智花たちの方へ歩き出す奈々に、遼一は戦慄した。だが、今度は奈々を部屋の隅に突き飛ばした。
「早く逃げろ!」
智花は震えていた。
「立てない……!」
そばで優奈がずっと泣き叫んでいる。奈々が起き上がって、再び向かってくる。押さえ込もうとする遼一の腹を、手にした包丁で奈々が横に一閃した。シャツに横一直線の切れ目が入り、皮膚が裂けて血が流れ出す。人生の中で感じたことのない痛みと感覚と出来事に、遼一は膝から崩れ落ちた。血と共に力も抜けていくのが分かる。死が彼のそばに近づいてきた。
優奈を抱きしめる智花のもとに奈々が迫る。遼一は力を振り絞って立ち上がり、奈々を羽交い絞めにして、ベランダへの窓を開け放った。
「待って、遼一!」
手を伸ばす智花を見つめ返す遼一の瞳は、二人が出会ったあの頃のようだった。
奈々を抱え込んだまま、遼一の身体がベランダの向こうに消えた。
だぁん!
地面に身体の叩きつけられる音がした。
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