影~ひとかげ~ 其の参

 明らかにここ最近、身体が重くなっているのを洋介は感じていた。

「ねえ、ハロウィンさ、渋谷に──」

 居酒屋のテーブルを挟んだ向こうで、愛果が怪訝そうに目を細めた。

「なんかずっとボーッとしてない?」

「え?」洋介は今気づいたかのように声を上げた。「なにが?」

「だから、ハロウィンにさぁ……」

 ハロウィンは死者の祝祭だ。洋介は表情を曇らせて、首を振った。

「俺はやめとくよ」

「え、なんで? どっか行くって話してたじゃん」

「ああ……」洋介は頭を働かせた。「うちの店、ちょっと人手が足りなくてさ」

「ええ……、なんだよぉ~」

「悪い悪い。埋め合わせはちゃんとするからさ」

「……ハロウィンの埋め合わせってなに? ……お盆?」

 愛果がふざけてそう言うので、洋介は笑ってしまった。その目が愛果の手元のグラスに向けられる。

「もう空じゃん。なんか頼む?」

 愛果はうなずく。

「同じのにする」

 洋介は店員の姿を探して辺りを見回した。空席はなく繁盛した店内はあちこちからの話し声で賑やかだ。厨房に続く紺色の暖簾が見えた。

 洋介は絶句してしまった。


 暖簾の向こうにベージュのサルエルパンツと淡い水色のコンバースが見える。目が釘付けになる。〝彼女〟がいる。


「ねえ、洋介も何か飲む?」

 愛果の声がして振り返ると、店員がそばに立っていた。

「いや、俺はいいよ……」

 もう一度暖簾の方に目をやったが、〝彼女〟の人影は消えていた。

 それから、洋介は味のしない料理を、何でもない風を装って平らげるのに必死だった。



「なんか最近様子おかしいよね」

 居酒屋を出て夜風に当たりながら道を行く。愛果の声はやや暗く沈んでいた。

「そんなことないよ」

 そう答える洋介だったが、目に焼きついて離れない〝彼女〟の人影のことで頭がいっぱいになり、他のことを考えられなかった。

「ハロウィンって本当に仕事?」

「……どういうこと?」

「いや、別に」

 洋介の出会いの場所は彼女自身が身をもって知っている。ヘアサロンには黙っていても女性の客がやって来る。

 途切れたままの会話は駅のそばまで引きずった。この街でも、ハロウィンを口実に外をほっつきまわる人間が多く目立っていた。そのせいで、歩道はごった返していた。

「まだハロウィンじゃねえのに……」

 洋介はブツブツと言いながら愛果の手を引いて人ごみの間を縫っていく。だが、愛果の手が握り返してこないという事実が彼から言葉を奪っていた。

 イライラを募らせながら交差点の辺りまでやって来る。愛果の手を握る洋介の指先はじんわりと汗が滲んでいた。


 ふと人の隙間を一瞥した洋介の目に、あの黒く長い髪と白いシャツの肩が入り込んできた。〝彼女〟に間違いない。


 洋介は思わず愛果の手を離して、その後ろ姿へずんずんと歩き出した。

「え、ねえ、ちょっと……!」

 遠ざかる愛果の声が人ごみの中でかき消されていく。

 人を掻き分けても掻き分けても、あの後ろ姿との距離を詰めることができない。やがて、通行人の密度も疎らになった頃、〝彼女〟が曲がり角を曲がっていくのが見えた。洋介は駆け出すが、後ろからついてきた愛果の声も追いかけてくる。

「ちょっと! どこ行くの?」

 洋介は必死だった。

「待ってくれよ!」

 角を曲がる。〝彼女〟は工事中のビルのそばに差し掛かっていた。洋介は走り出した。すぐに立ち入り禁止エリアの警備員に止められる。

「危ないので、迂回して下さい!」

〝彼女〟は、トラックの脇をするりと通り抜けようとしている。

「あいつがいるんだって……!」

 警備員を押しのけようとするが、逆に力でねじ伏せられてしまう。ちょうどそこへ愛果が追いついてきた。

「ねえ、いきなりなんなの?」

 だが、洋介は警備員に掴まれながら、ビルの前を通る〝彼女〟の後ろ姿に声を掛けた。

「お前なんだろ?!」

 その時、どこかで叫び声がした。

 同時に、ビルの上から鉄骨が落下して、大音響と地響きが辺りを襲った。

春原はるはら!!」

 洋介はそう叫んで鉄骨が落ちたところへ駆け寄ろうとしたが警備員が必死に抱き止めた。

「危険ですから! やめてください!」

「だって、あいつがそこに……!」

 別の警備員が声を上げる。

「誰か巻き込まれたか?!」

 向こうから声が返ってくる。

「大丈夫! とりあえず、誰も怪我してない!」

 洋介を押さえていた警備員が迷惑そうに言う。

「ほら、誰も巻き込まれてませんって!」

 洋介の目は血走っていた。

「いや……、だって、あいつが……! あいつが……!」

 洋介のそばに、もう愛果の姿はなかった。

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