影~ひとかげ~ 其の肆
LINEであっさりとフラれても、洋介は別れの辛さよりも、あの後ろ姿が気になっていた。気づけば、家にあったスケッチブックに〝彼女〟の後ろ姿を描いていた。ハッと我に返ってそのページを破り取る。隣のページのヘアデザインのラフスケッチが洋介をどうにか現実に引き戻した。
──彼女のはずはないんだ。
洋介はそう自分に言い聞かせた。
そのまま、シャワーを浴びることすらせずに、ベッドに横になった。こんなに夢を見たくないと強く願った夜は、洋介にとって初めてだった。
*
LINEの通知で洋介は目覚めた。夢を見なかったのは幸いだったが、すでにヘアサロン・グリスターは営業時間真っ只中だった。
謝罪の電話を入れて、急いで支度をした。飛び出した十一月の空はやけに青く澄んでいる。駅への道を人目も憚らずに走った。
細い路地の入口を駆け抜けようとした時、視界の端に白く映えるシャツが映ったような気がして、洋介は思わず立ち止まってしまった。ゆっくりと路地に目をやる。
数十メートル先を〝彼女〟が向こうの方へ歩いていた。
吸い寄せられるように、食い入るように、その後ろ姿を洋介は見つめた。店へ急がなければならないのに、路地へ足を踏み出してしまう。
──確かめなければ。
どこかから湧いて出た、その使命感を胸に洋介は勢いよく歩き出した。路地は一直線。急げば〝彼女〟に追いつける。
なびく〝彼女〟の黒髪を追いかけていると、ふと甘い香りが鼻腔をくすぐる。洋介の瞼の裏に十一年前の秋の断片がフラッシュバックする。
──ウソだ。こんなことあるはずがない……!
足にまとわりつくような過去を引きずるように、洋介の足は重くなる。だが、〝彼女〟の後ろ姿はすぐそこまで迫っている。その背中に伸ばした洋介の手は、ひどく震えていた。
「春原」
そう口にして、女の肩に手を置いた。雷が走ったような衝撃が洋介の中を貫いた。手のひらから感じるその肩は、驚くほど冷たい。吐き気のするような遠いあの夜を思い出しかけて、しかし、洋介はその過去を引き裂くかのように思い切り女の肩を引いて振り向かせる。
「お前なんだろ?!」
振り向いた女の姿を見て、洋介は腰を抜かしてしまった。
後ろ姿なのだ。
確かに女の肩を引っ張って振り向かせたのに。
冷たい地面に手をついて見上げるその後ろ姿は、青ざめた肌とシルクのような黒髪。白いシャツはいつのまにか端々が赤黒く汚れていた。
その後ろ姿は、物言わずに洋介を見下ろしていた。
「見るなよ……!」
洋介は地面を後ろ手で這うように後ずさりした。そして、両手を使って立ち上がりながら路地の入口の方へ走り出す。追手を振り返るようにして自分の肩越しに背後を見る。
そこにはもう誰の姿もなかった。
洋介は恐怖と安堵で震えた膝に手をついて、静かに涙を流した。
*
その日は店を休んだ。いや、家に帰って、それからずっと外に出ることができなくなった。街に出れば、また〝彼女〟と遭遇するかもしれない。そう考えるだけで、洋介は恐ろしかった。
朝起きては、部屋の隅に寄せたベッドの上で壁に背をつけ、膝を抱えた。毎日見るようになった夢には、必ず〝彼女〟の後ろ姿が現れる。その後ろ姿に追いかけられるのだ。汗をびっしょりかいて逃げるように現実へ。心も身体も悲鳴を上げていた。
「どうしていまさら……」
暗い部屋の中、洋介はひとり頭を抱えた。こんな非現実的なことが起こるなど、あり得ない。まるで、これもまた悪夢のようだ。
洋介は思い立ったようにスマホを手繰り寄せた。膨大な連絡先から震える手で「
慌てて電話を掛けたせいで、ビデオ通話になっていた。
スマホの画面に顔を出した章臣はあの頃より少し太っていた。彼の瞳が暗く洋介を映し出す。
『……なに?』
その声を聞いた途端、洋介は震え出した。涙を流しながら、訴える。
「いたんだよ……あいつが……!」
『え……?』
「いたんだって! あいつが俺を見てるんだよ!」
そう声を上げた洋介の目が驚愕に揺れた。
章臣の部屋の隅に〝彼女〟の後ろ姿が立っているのが映っていたのだ。
洋介はスマホの小さな画面に叫んだ。
「章臣!」
手の中で画面が消える。
バッテリー切れの表示が洋介を虚しく見つめていた。
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