影~ひとかげ~ 其の弐

 ヘアサロン・グリスター。

 今では、洋介は古株のひとりだ。同期で店に入った仲間は残らず独立していった。洋介にはそういう漲るパワーみたいなものはなかったが、この狭くはない店内での数多くの出会いはそういう自分を覆い隠してくれた。愛果も元はここの客だった。

「いらっしゃいませ~!」

 美容室の入口に洋介を指名してくれている米内という女性が現れた。彼女は洋介と目が合うと、軽く会釈した。

 準備が終わり、米内を席に案内する。通りに面したすりガラスの壁に縦長の鏡が張られている。米内を椅子に座らせ、回転させると鏡越しに彼女と目が合う。

「なんかちょっと久しぶりじゃないですか?」

 洋介がそう言うと、米内は図星を突かれたように苦笑した。

「ちょっと髪切るの忘れてて……」

 美容師にそういうウソは通用しない。担当する客の髪の伸びるペースはだいたい把握しているし、カラーの境目が根元から一・五センチのところにある。米内が前回来店したのは約二か月前、彼女の髪の伸びるペースなら、この施術は一か月前ということになる。

「まあ、忙しいとそうなっちゃいますよね~」

 洋介は知らない振りをして、今回の施術について軽く米内と相談をした。



「最近マジでYouTube見るか寝てるかしかしてなくて~」

 米内の髪を切りながら、彼女の話にうなずく。

「僕も最近テレビ買ったんですけど、YouTube流せるんですよ、それで……」


 目の前のすりガラス越しに、人影がスーッと横切っていくのが目に入った。ぼんやりとしていて判別はつかないが、きっとすらっとした女性だ。上は白で下はベージュ、足元は淡い水色……。〝彼女〟だ。


 洋介は思わず手を止めて、その人影を目で追った。入口のガラスドアはクリアガラスだ。だが、入口脇の柱のせいで今の人影を確認することはできなかった。

「ああ、ありますよね、ネットに繋げられるやつ……」

 訝しげな米内と鏡越しに視線がぶつかる。洋介は取り繕うように歯を見せた。

「そうなんですよ~」



 今日は人手が足りていなかった。だから、いつもなら誰かに任せているカットした髪の毛の回収も洋介が行っていた。ホウキで髪を掻き集める。だが、洋介の頭の中は、さっき目の前のすりガラスの向こうを通り抜けていった人影でいっぱいになっていた。


 鏡の下にホウキを伸ばした時、その先に淡い水色が見えた。


 びっくりして顔を上げると、上半身が鏡の向こうに隠れるように、すりガラス越しにその人影は立っていた。じっと、こちらを窺っているようだった。ホウキとちりとりを投げ捨てて、すりガラスの向こうの人影を凝視しながら、入口に向かう。

「ちょっと、土田さん?」

 店内から声が飛ぶが、洋介の耳には届いていなかった。

 ガラスのドアを開けて、通りに一歩踏み出して、人影のいる場所を見た。誰もいない。そんなはずはなかった。一瞬だけ柱で視線は切れたが、そんな時間でこの通りから姿を消すことなんでできない。

「土田さん、何かあったんですか?」

「いや、なんでもないよ。知り合いがいるかと思ってさ」

「急に血相変えて出て行くからびっくりしましたよ」

「悪い悪い。ちゃんと片付けるよ」

 そう言って店内に戻り、投げ捨てたホウキとちりとりを拾い上げる。


 顔を上げた目の前の鏡の中に、店の奥に立つ〝彼女〟の後ろ姿が映っていた。


 勢いよく振り返る。

 だが、そこには誰もいない。

 洋介は心臓が全速力で走った後のように鼓動を速めているのを感じていた。

 白いシャツに、ベージュのサルエルパンツに、淡い水色のコンバース。

 十一年前に流行っていた格好だ。洋介が忘れるはずはない。

 そして、誰にも言えるはずはなかった。

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