聲~こえ~ 其の肆

「栄養失調だって」

 ベッドサイドで海月がそう言った。奈々はうなずいた。

「うん」

「全然食べてなかったもん」

「そんなことは……」

 奈々は記憶を辿った。デパートに行った日の朝、カフェで朝食をとったはずだ。だが、テーブルの上で冷えていくコーヒーとサンドウィッチをじっと見つめていた映像だけが脳裏に残っていた。

 あの声に囚われて、食事をした気になっていたのだ。思い返せば、何日も何も口にしていない自分がいた。

「何か辛いことでもあった?」

 海月がなんでもないようなことでも聞くようにそう言うので、奈々は意を決したようにうなずいた。

「声がね、聞こえるんだ……」

「声?」

「私にしか聞こえない声……」

 海月が目を細める。

「幻聴?」

「分からない……。でも、なんていうか……」

「それってさ」海月が奈々の顔を覗き込む。「こんな声?」

「え?」


「あはははははははははははははははははははははははははははははははははは」


 落ち窪んだ海月の暗い眼が奈々をじっと見つめた。

 奈々は悲鳴を上げながら、ベッドから起き上がった。

 ──夢だ。

 奈々は汗だくになりながら、腕の点滴のチューブに目をやった。血液がチューブに逆流して赤く染まっていた。よくあることだ。そのチューブに手を触れようとした時、


「あはは……」


 廊下で笑い声がした。


「あはは……」


 笑い声が移動して、病室のドアの外にいるのが分かる。


 がたがた……。


 外の風が窓を叩く。奈々はベッドの上でじっと廊下の様子を窺っていた。


「お前が死ねばよかったのに……」


 ドアの外で奈々を苛めるような声がする。くぐもっていてよく聞こえないはずなのに、奈々には分かった。

「私のせいじゃない……!」


「ぎゃああああああああああ!」


 耳をつんざくような金切り声がドアの外で狂うように張り上げられる。奈々は耳を塞いで、ドアを睨みつけた。

 ──早く去れ早く去れ早く去れ早く去れ早く去れ早く去れ!

 そう願いながら。


「ぎゃああああああああああ!」


 ドアの外から聞こえるその絶叫に奈々はベッドの上で膝を抱いて顔を埋めて声を上げた。

「もう許してよ!」


「ぎゃああああああああああ!」


 気が狂いそうな、断末魔にも似た絶叫。奈々はベッドの上で震えて、この時が終わるのを祈った。


 こんこん。


 不意に病室のドアがノックされる。

「やめて、開けないで!」

 奈々の警告も虚しく、ドアが開かれる。絶望の表情を浮かべる奈々の前に海月が現れた。

「今、なんか叫んでた?」

 海月は何も気づかない様子で、ケーキ屋の袋を掲げた。

「シュークリーム買って来た。カロリー摂りなさい、あんたは──」

 様子のおかしい奈々に怪訝な視線を投げる海月。

「入って来た……」

 奈々が青ざめた顔でそう言った。

「入って来た? なにが?」

 奈々はベッドから飛び出そうとして、点滴スタンドを倒してしまう。針を抜こうとする奈々を制止して、海月が悲痛な声を絞り出す。

「奈々、お願いだから変なことしないで!」

「入って来たんだって! あいつが! 入って来たんだって!」

 奈々は繰り返してそう叫ぶだけで、海月の言葉は届いていないようだった。廊下の外が騒がしくなり、看護師が入って来た。

「嫌だ! 嫌だ!」

 奈々は自分の胸を見下ろしていた。


「あははっ!」


 奈々の口からその笑い声が飛び出した。

「嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!」

 奈々は声をかすれさせながら叫んで、自分の胸を掻き毟った。

「男の人呼んできて!」

 海月が叫んだ。


「あははっ!」


 奈々は自分の口の中に手を突っ込んで何かを引きずり出そうとしたが、海月が必死にそれを止める。

「やめて、奈々!」

 はだけた奈々の入院着の胸元が血で滲んでいた。彼女の両手の爪が赤く染まっている。

「嫌だ……嫌だ……!」

 海月が奈々を抱きしめる。

「大丈夫! 大丈夫だから!」

 突然、奈々の動きが止まる。海月が身体を離して奈々を見つめる中、奈々は口を開いた。


「お前が死ねばよかったのに」


 自分の口から出たその声に、奈々は絶望の光を目に宿して止まらない悲鳴を上げた。病室の前に人だかりができる。なす術もなく奈々を見守ることしかできなかった海月の目の前で、奈々は胃液を吐き出して、そのまま前のめりに倒れて動かなくなってしまった。

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