聲~こえ~ 其の参

 休憩室は朝からパーティー感のある空間になっていたらしく、夕方に出勤してきた奈々はテーブルの上が食べ物で溢れ返っているのを見て思わず微笑んでしまった。

「お誕生日おめでとうございます」

 そう言ってラッピングした箱を手渡した。室長は「ありがとう」と言って箱を受け取ると、にやりとした。そして、休憩室の面々に箱を掲げた。

「化粧水四本目ゲットで~す!」

 笑い声が上がる。みんな考えることは同じなのだ。


「あはは……」


 休憩室の笑いの中に、あの声が混じっていた。

 慌てて部屋を見回すが、キョトンとした顔が並ぶだけだ。

「どうしたの? 大丈夫?」

 海月が寄って来た。

「大丈夫。なんでもない……」

 そう言って更衣室に向かう。後をついてきた海月が心配そうに背中をさすってきた。

「ねえ、具合悪そうだけど、無理しないでね」

「だから、大丈夫だって」

 苛立ちを滲ませて奈々が答えると、海月は引き下がった。

「そういうことならいいけど。あ、それと、二階の六号室の坂井さん、お昼過ぎ頃から呼吸が安定してなくて喘鳴ぜいめいもあるから、今夜気をつけないとかも」

「末端の体温は?」

「触った感じちょっと冷たいかも」

 奈々は気を引き締めてロッカーの前に立った。海月が言う。

「坂井さんの家族に連絡とってるけど、何かあったら呼んでくださいの一点張りらしいよ」

 家族との関係性で、最期の時に恐ろしいほど寒々しい人間模様を見ることがたまにある。奈々は溜息をついた。


***


「やっぱり電話出ないです」

 ナースステーションの電話の前で奈々の後輩が困惑の表情を浮かべていた。

「坂井さんの家族?」

「はい。先生も待機してもらってますけど、今夜が山場だって言ってたんですけどね……」

 奈々は時計を見た。午前二時過ぎ。

「見回りに行くから、ここをお願いね」

 奈々はそう言って、廊下に出た。


「ここだよ……」


 またあの声。ナースステーションの前はひと気がない。

「大丈夫ですか?」

 後輩が背後から声を掛けるが、振り向いた奈々の表情があまりにも暗く沈んでいたので、言葉を失ってしまった。


「ここだよ……」


 廊下の向こうから声が聞こえていた。奈々は静かに歩を進めていく。

「誰なの……?」

 誰もいない廊下に小さく問いかける。向こうの階段の下の電灯が不意に消えた。奈々は首筋に立った鳥肌をさすりながら、おずおずと消えた電灯の方へ向かう。天井のそこだけがぽっかりと穴が開いたように薄暗くなっている。

 カラカラになっていた喉に唾を流し込んで、光を失った電灯を見上げる位置までやって来た。


「あはは……」


 二階へ続く階段から無邪気な笑い声がする。奈々はじっと階段の折り返しの踊り場を見つめた。そこで何かがこちらを窺って笑っているように感じた。奈々の足が震えていた。


「あはは……」


 笑い声が階段を上って行く。奈々は階段のステップに足を乗せた。ゆっくりと階段を上って行く。二階に上がると、左右に伸びる廊下の真ん中に出る。

 突然、音もなく、右手の廊下の照明が一斉に消えた。あまりのことに奈々は声を出せずに立ち尽くして、暗い口を開ける長い廊下に魅入られるように見つめた。


「ここだよ……」


 暗闇の只中から声がする。奈々は目を凝らした。

「そこにいるの?」

 暗い廊下を進む。声がした場所には、寒々しい空気が漂っているだけだ。ふと、病室の入口脇に目をやる。六号室。奈々は無意識のうちにドアに手を伸ばしていた。

 音もなく引き戸がスライドして、暗い病室が目の前に広がる。


 ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ……。

くすー、かー……、くすー、かー……、くすー、かー……。


 奥のベッドから心電図モニターと人工呼吸器の規則的な音がする。この病室には、例の坂井という患者しかいない。並んだ三つの空のベッドがただただ静かにひとりの患者を見守っていた。


 ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ……。

くすー、かー……、くすー、かー……、くすー、かー……。


 奈々は重い足を病室の中に進めていった。閉じたカーテンに外で揺れる木の影が浮かび上がっていた。それがまるで助けを乞う無数の手のように見える。


 ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ……。

くすー、かー……、くすー、かー……、くすー、かー……。


 奈々の背後で引き戸が静かに閉じた。廊下の広い空間との空気の繋がりが遮断された感覚が奈々を包み込んだ。奥のベッドに横たわる患者のシルエットが見える。

 その時、


「あははっ!」


 奈々の目の前で笑い声が弾んだ。奈々が息を飲んだ瞬間、


 ぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴぴ……


 心電図モニターが勢いよくアラームを発した。

 動かなければならない場面で、奈々はその場に立ち尽くした。

 ──呼ばれたのかもしれない。

 その思いが奈々を支配した。

 廊下に足音がして病室のドアが開く。

「先輩! なにしてるんですか!」

 後輩が坂井のベッドに駆け寄った。奈々はそれを茫然と見つめていた。

「先輩、どうしたんですか!」

 心停止の場に立ち会えば、BLSの手順に従って蘇生措置を行わなければならない。だが、奈々には分かっていた。もうその患者が助からないことを。

 開いたままの病室のドアの外から靴音が近づいて来て、医者がやって来た。

「なにボーッとしてんだ!」

 奈々は怒鳴りつけられて、怒りにも悲しみにも麻痺したような顔を医者に向けた。

「ご家族に連絡入れてきます」

「おい!」

 医者が引き留めるのも聞かず、奈々はナースステーションへ向かった。そこの電話を取り、坂井の家族の電話番号をプッシュする。

 受話器の向こうからコール音がする。そのコール音が、プツリと消える。


「お前が死ねばよかったのに」


 耳元でそう声がして、奈々は悲鳴を上げて受話器を投げつけた。顔を引きつらせて立ち尽くす奈々のまわりに、笑い声が波のように押し寄せた。


「あはははははははははははははははははははははははははははははははははは」

「あはははははははははははははははははははははははははははははははははは」

「あはははははははははははははははははははははははははははははははははは」

「あはははははははははははははははははははははははははははははははははは」


 奈々の意識はそこで途切れた。

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