聲~こえ~ 其の弐

「ねえ、なんか痩せてない?」

 日勤の海月と顔を合わせた奈々はそう訊かれて、これは褒め言葉じゃないなと直感した。それは彼女の表情からも明らかだった。

「そうかな?」

 奈々はネックストラップにぶら下げた院内スマホのケースにつけた鏡で自分の顔を確認した。隈がひどい。

「プレゼント買った? 明日だよ」

「ああ……」そう言われて、奈々はまた肩を落とした。「忘れてた。っていうか、今、海月に会わなかったら完全に終わってたわ。ありがとう」

 海月は微笑んで、ロッカーに向かい合った。

「医局からも何人か来るらしいよ」

「え、そうなの? こっちのこと興味ないのかと思った」

「奈々も先生とお近づきになるチャンスじゃない? ほら、例の新人の先生とかさ」

「私はいいよ……」

 着替え始める海月の横で、奈々は顔を曇らせる。同年代が結婚ラッシュを迎えてもなお、彼女にはそういう色づきはない。休みの日は誰かと会うより、部屋の中で好きなものを食べ、好きなようにゴロゴロするのがいい。ふた昔ほど前なら、奈々もベテランとしておそれられる年代かもしれない。だが、今は珍しくもないことだ。つまらない偏見が消えたことで、仕事を続けられる時間は長くなった。

「じゃあ、行くね」

「うん。頑張って」

 着替えて仕事モードになった海月が出て行く。その背中を見て、奈々は小さな溜息を漏らした。



 電車に乗って、大きな街で朝食のためにカフェに入った。イヤホンをして店を出る頃には、街は喧騒に包まれていた。デパートに向かう。手早くプレゼントを見繕おうとして、一階のコスメブランドの店舗の間を縫って歩いた。


「──……る?」


 イヤホンの外で何かを問い掛けられた気がして、奈々は立ち止まった。すぐ後ろから歩いてきた女性が背中にぶつかる。イライラを剥き出しにした溜息を掛けられる。

「すみません」

 小さく頭を下げたが、奈々のまわりには声を掛けたと思しき店員の姿も見知った顔もない。曲の中の音を勘違いしたのかもしれない。

 夜の病室の光景が脳裏に蘇り、頭が重くなる。

「何かお探しですか?」

 店員に声を掛けられ、プレゼントを決めてもらった。無難に室長の年齢に合う天然素材の化粧水だ。

「あの、プレゼント用の包装って……」

「ギフトラッピングでしたら、そこの通路を……」

 店員に礼を言って、ギフトラッピングサービスの窓口に向かった。手続きをして品物を渡し、椅子に座って待つ。


「聞いてよ……」


 すぐ耳元で、声がした。

 店内に流れる音楽や雑踏を突き抜けて、直接耳元でした声に、奈々は思わず悲鳴と共に立ち上がってしまった。周囲から白い目を向けられて、バツが悪そうに椅子に腰かける。椅子は壁際に置かれ、誰も耳元に近づくことはできない。

 ハロウィンを控えた賑やかな店内なのに、奈々は不気味な感覚を拭い去ることができなかった。



 奈々の番号が呼ばれ、窓口に立ってラッピングを確認する。

「一二八〇円です」

 財布を開けてお金を取り出そうとしていると、奈々の耳に、


「あはは……」


 と笑い声がした。バッと目の前の店員を見つめる。

「今、何か聞こえました?」

「はい……? いえ、何も……」

 目を丸くする店員に誤魔化すような苦笑を返して支払いを済ませると、奈々は逃げるようにデパート後にした。


***


 電車に乗って帰宅する奈々は暖かい車内の空気にうつらうつらとしていた。イヤホンから流れる音楽のリズムが心地よい。


「……よ」


 イヤホンの向こうから声が聞こえた気がした。眠気が吹き飛ぶ。音楽を止めて車内を見回す。人が疎らな車内にはスマホをいじる人、寝ている人、外を眺めている人など、誰もが思い思いの様子だ。


「……でよ!」


 隣の車両から聞こえてくるようなくぐもった叫び。身を乗り出してガラスのドアを通して隣の車両に目をやる。何も変化はなさそうだし、この車両の誰も何の反応も見せない。


「無視しないでよ!」


 今度ははっきりと、この車両で叫ぶ女の声。奈々は体を震わせた。だが、やはりこの車両の誰も気に留めていないようだった。たたん、たたん……という一定のリズムがあるだけだ。

 奈々のイヤホンから、ざざ……、とノイズがした。


「無視するなよ」


 イヤホンから低い女の声がして、奈々は悲鳴を上げてイヤホンを床に投げつけた。車内がざわついて、奈々は人目から逃れるように、いつもは通り過ぎる駅に転がり出るように降り立った。

 激しい動機が治まらない。奈々はイヤホンを捨ててしまったことより、あの声の元から離れられることに安堵すらしていた。

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