跫~あしおと~ 其の肆
げっそりとした遼一を見る同僚の目が心配から不審へと変わっていったことに、遼一だけが気づいていなかった。
「木村、タカミヤさんのとこな、他の奴に任せてあるから」
遼一は耳を疑った。
「私が担当してましたよね」
「先方からの指名なんで、悪く思うなよ」
「いや、でも、先週もお会いして、また次回って……」
上司は目を細めた。
「お前さ、取引先で商談放り出して走り回ってたらしいじゃないか。そんな奴に任せられると思うか?」
遼一の耳にはところかまわずに足音が聞こえていた。
商談を始めたところで、すりガラスの壁の向こうに騒がしく足音が近づいて来て、じっとこちらを窺っているのが遼一には分かった。すりガラスの向こうに足音が聞こえるのに、人影などないのだ。だから、会議室を飛び出して、廊下を確認したのだ。
*
家の近くにある心療内科で診察を受けたが、すぐに答えなど出なかった。
「もうちょっと様子を見てみましょう」
睡眠導入薬を兼ねた抗不安薬を処方され、遼一は何の心の拠り所もないままに十一月の寒空に足を踏み出すしかなかった。
*
帰宅しても、智花と優奈が出迎えなくなった。優奈が玄関に来るのを智花が止めているのだろうと考えると、遼一はいたたまれない気持ちになる。
夕食を終えて、遼一は智花を寝室に呼んだ。
「今日、心療内科に行って来たんだ」
智花はじっと聞いている。
「それで、薬を貰ったんだ。それで様子見て下さいって。で、再来週もまた診てもらうことになった」
智花は溜息をついて、自分の顔を手のひらで撫でた。
「幻聴なんでしょ?」
「でも、確かに聞こえるんだよ」
「だから、幻聴なんでしょ」智花はイライラしたように言った。「幻聴だって自覚しないと治んないでしょ?」
遼一は俯いてしまう。本当に幻聴なのか、彼自身には分からないのだ。智花は遼一の目を覗き込んだ。
「私は何も聞こえてないの。遼一だけが聞こえてるんだよ。だから、幻聴なの。分かる?」
遼一は容易にうなずくことができなかった。あの確かな足音。歩き回って、ドアの前でぱたりと止まる感じ。それらは現実味を持って遼一の耳に届いているのだ。
「睡眠薬も貰ったんでしょ。じゃあ、それ飲んでちゃんと寝ようよ。音が気になっても幻聴だって思いなよ」
「怖いんだよ。もしかしたら……」
遼一は言いかけてやめた。
「もしかしたら、なに?」
「いや、なんでもない」
智花は眉尻を下げて遼一の腕をさすった。
「心配なんだよ。ずっと様子がおかしいから。私のことも無視するし。前はこんなことなかったじゃん。何もないんだよね?」
「何も……?」
「病気なんだよね?」
お互いの信頼を壊すものの存在をその眼は物語っていたが、遼一にはそれを感じ取るほどの心の余白が足りなかった。
***
薬を飲んでベッドに入る。智花の手が遼一の背中をさする。
「おやすみ」
その言葉を交わし、遼一は目を閉じた。
遼一は夢を見ていた。
白い足を追いかけていた。それなのに、自分の足は重く、うまく前に進むことができない。いつの間にか、実家の廊下までやって来ていた。裸足の白い足が廊下を歩いていくのを追いかける。
ぺたぺたぺた……。
自分の瞼が開く音を聞きながら、遼一は目を覚ました。それが夢の中の音だったのか、現実の音なのか確認する必要があった。
ぺたぺたぺたぺた、ぺたぺた……。
ドアの前に、いる。
遼一には、透けて見えるようだった。ドアの向こうで、じっとこちらを窺う人影が。
ゆっくりとベッドから出て、ドアを開け放った。そして、ベッドに戻った。ベッドの上から開いたドアの向こう、フットライトでぼうっと照らし出されている廊下が見える。目を細めて開かれたドアの方を見つめた。
しばらく静かな時間が続く。睡眠導入薬の力なのか、すぐに遼一の瞼は重くなる。
ぺたぺたぺたぺた!
重い瞼の向こう、夢現の中で、その足音が聞こえた。きっと寝室の入口にそれはいる。
ふさ、ふさ、ふさ……。
寝室の床はカーペットになっている。足音はその上を確かめるように動いていた。
ふさふさふさふさ、ふさ、ふさ……。
自分が眠りの中にいることを自覚しながらも、遼一はそれが夢であればいいと感じていた。
ふさ、ふさ、ふさ……。
足音が遼一が眠るベッドサイドで止まった。
いるのだ。
目の前に。
目覚めよう、と遼一は思った。何かが自分をじっと眺めているのを感じていた。悪寒が止まらない。
目を開けるのと同時にベッドを飛び出して、目の前の気配に飛び掛かった。
悲鳴が上がった。
遼一の前に優奈が倒れていた。
寝室の電気がついて、智花が立っていた。優奈が泣きじゃくっている。彼女のパジャマの下が濡れていた。きっとトイレに起きたのだ。
「優奈!」
遼一を押しのけて智花が娘を抱きしめた。その眼がすぐに燃えるような怒りと共に遼一に向けられた。
「最低」
静かに放たれたその言葉に、遼一の世界から音が遠のいていった。
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