跫~あしおと~ 其の参
物音に敏感になっていた。
家にいれば、裸足の足音、靴下を履いた足音、スリッパで歩き回る足音が遼一の耳に飛び込んできた。会社では会議室の外を走り回る足音に集中力を削がれ、帰り道では靴音に追いかけられた。
「先輩、本当になんかあったんですか?」
営業先での不振が続いた。
「なにもないよ」
遼一はそう返したが、休憩時間にはネットで幻聴について調べていた。
PTSD、統合失調症、認知症、アルコール依存症、薬物依存症……いずれも身に覚えのないことだった。
「なに、誰か病気なのか?」
モニターを覗き込んできた上司が心配そうに尋ねてくる。
「いや、何でもないんです」
「親戚に統合失調症にかかったのがいてさ」遼一の心情を知ってか知らずか、上司が言う。「毎日物音に怯えてるんだってよ。薬で何とか抑えてるらしいけど」
「そうなんですね……」
*
眠っている時にあの足音が聞こえるのが、はじめは数日おきだったのが、今では毎日のことだった。
ぺたぺたぺた、ぺたぺた……。
──またか。
暗闇の中で、目を覚ます。足音が聞こえることを想像しながら寝入るのがここ数日続いていた。
足音は次第にはっきりと、そして、激しくなってきた。
ぺたぺた……、べたべたべた!
べたべたべた! べたべた……ぺたぺた……ぺたぺた、ぺたぺたぺた……。
遼一は耳を塞いだが、足音は消えなかった。溜息をついて、いつものようにベッドから出る。ドアをそっと細く開いて、寝室の外、フローリングの廊下にじっと目をやる。もう誰もいないのは遼一には分かっていた。それでも、確認せずにいられない。それほど確かな足音を伴って、何かが歩き回っているのが聞こえるのだ。
溜息をついて暗闇の中をベッドに戻る。
「ねえ、なんなの……?」
智花が苛立ちを露わにする。
「なんでもないよ」
「最近ずっと変だよ」
「変じゃないよ」
智花が聞こえよがしに溜息をついて背を向けてしまう。
「足音が聞こえるんだよ」
「え?」
智花が振り返る。暗闇の中で、ベッドに腰かけた遼一の背中が語る。
「ずっと廊下を歩き回ってるのが聞こえるんだ。智花は寝てて気づいてないんだよ」
「優奈じゃなかったんでしょ?」
「だから、何かが歩き回ってるんだよ」
「何も盗まれてないよ」
「泥棒じゃないんだって……」
智花はまた溜息をついた。
「最近ずっと寝不足なんだよ、私。遼一が夜ウロウロするから」
遼一はその一言に棘を感じた。
「なに? 俺のせいなの?」
「だって、そんな足音聞こえないもん!」
思わず声を上げてしまった智花は気を取り直して、ベッドに優しく手を置いた。
「もう寝なよ」
遼一は大人しくその言葉に従って横になった。
*
横になって、ようやく眠りに入ったところで、また遼一の耳に足音が聞こえてきた。
ぺたぺたぺた、ぺたぺた……。
何かを探し回るように廊下を行ったり来たりする足音。
「聞こえるだろ……?」
背中の智花に声を掛ける。
「なに……?」
不機嫌そうに返事をする智花だったが、遼一は耳を澄ませていた。
ぺたぺたぺたぺた、ぺたぺた、ぺた……。
「ほら、今、ドアの前にいる……」
「何も聞こえないって」
ぺたぺたぺた、ぺた、ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた……。
「優奈の部屋の方に行った」
智花は勢いよく起き上がった。そして、寝室の電気をつけて、足音粗く寝室を出て行った。廊下を裸足で激しく歩く音。しばらくして智花は戻って来た。
「優奈は寝てる」
電灯を背に遼一を見下ろす智花の目には、憤りが滲んでいた。
「足音、聞こえただろ?」
「もうやめて」
智花は電気を消してベッドに入った。遼一はベッドの縁に腰かけて耳を澄ませた。
ぺたぺたぺた、ぺたぺたぺたぺた、ぺたぺた。
寝室の前で足音が止まる。遼一は暗闇の中で寝室のドアを睨みつける。
「そこにいるんだろ」
智花の舌打ちがする。
どたどたどたどた、どたどたどた、どたどた!
どた、どたどたどたどた、どたどたどたどた!
どたどたどた、どたどた、どたどたどた、どた!
どたどたどたどた、どたどたどた、どたどた!
おぞましいくらいに裸足で駆け回る激しい足音。遼一は飛び出すように寝室のドアを開け放った。
それでも、静かな廊下にフットライトの柔らかい光が浮かび上がっているだけだ。
***
日曜日、注文していた動体検知カメラが届いた。センサーで何かが動くのを検知した時に撮影が開始される代物だ。暗視モードに切り替えることができ、暗闇での撮影もできるという。
それを廊下に設置する遼一に、智花は冷ややかな目を向ける。会話はなかった。
*
その夜、眠りに落ちた遼一の耳にいつものように足音が届いた。
ぺたぺた、ぺたぺたぺた……。
すぐに起き上がって、遼一はドアを開けて廊下に出た。そして、設置したカメラを手に取って、小さなモニターで映像を確認しようとしたが、データがあれば一覧となって出てくるリストには何のデータも記載されていなかった。
遼一は廊下を見渡した。玄関からリビングまでの一直線のフローリング。
カメラをセットし直し、遼一はキッチンへ向かった。そして、棚から小麦粉の袋を取り出し、廊下に戻った。そして、袋の中身を廊下に撒き始めた。寝室に向かって後ろ歩きをしながら小麦粉を落とした。そして、寝室に入り、ベッドに横になる。
目を瞑り、その時を待つ。
ぺたぺた、ぺたぺたぺたぺた……。
どたどたどた!
どたどた!
どたどたどたどたどたどたどたどたどたどた!
遼一は飛び起きて廊下に顔を出した。撒いた小麦粉の中に足跡など残っていなかった。
遼一はその場にうずくまって、白くなった廊下をじっと見つめた。
「いい加減にしてよ」
智花が遼一の背後に立っていた。暗闇の中の彼女の輪郭が怒りでくっきりと浮かび上がる。チェストの上の小麦粉の袋を取って、遼一に押しつけた。
「ちゃんと掃除してよ」
遼一は言葉なくうなずいて、廊下に出た。
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