跫~あしおと~ 其の弐

「どうしたんですか、眠そうですね」

 翌日、直行先で後輩が心配そうに言った。

「ちょっと寝不足でさ」

「へえ、珍しいですね。木村さんもそういう時あるんですね」

「俺ってそんなに能天気に見える?」

「違いますよ」後輩は笑った。「いつもシャキッとしてるじゃないですか」

 遼一はビルのエントランスの隅にある自動販売機に目を向けた。

「コーヒー飲んでから行くか」



「──……でして、ネットを介して連携ができるので、出先でも進捗がチェックできるようになります」

 資料に目を落とす役員たちが渋い顔をする。

「これ、セキュリティの問題って大丈夫ですか?」

「ええ、アイパスで認証するので……」

 役員たちが顔を見合わせる。

「以前、うちでパスワードとかが流出してるんですよ。そういうヒューマンエラーってどうやってもなくならないじゃないですか。そういうところの……──」

 そう話す役員の癖は、手のひらをテーブルにぺたぺたと当てることだった。遼一の耳に昨夜の足音がこびりついていた。その役員の手のひらのぺたぺたという音に、遼一は恐ろしい何かを感じ取っていた。

「……って、聞いてます?」

 そう投げかけられて、遼一は首の後ろが汗でじっとりとしていることに気づいた。後輩が慌ててフォローをするが、役員の反応は芳しくなかった。



 終始、良い反応を貰えないままビルを後にする遼一たちだったが、後輩は訝しげな目を遼一に向けた。

「本当に大丈夫ですか?」

「大丈夫、大丈夫」

 そう返す遼一はあの足音のことを考えていた。

 ──あれは優奈の足音にしては重かった。もっと大きな……。

「先輩、お昼どこにします?」

 我に返った遼一は、

「任せるよ。どうせ俺のおごりだからな」

 と、何でもないというアピールにおどけてみせた。

 後輩が近くの定食屋の入口をくぐるのを追いかけて、ハッと気づいた。智花が今朝、珍しく弁当を作ってくれていたのだ。後輩に言えないまま、遼一は定食を注文した。


***


 遼一は帰路を行きながら、悩んでいた。智花に作ってもらった弁当を食べる暇がないままここまで来てしまった。もう周囲は夜の帳が落ちている。どこか座れれるような場所で弁当を食べておこうかと考えていた。せっかく作ってもらった弁当を食べずに帰るのが気が引けた。

 ふと、後ろからついてくる靴音に気がつく。

 思わず振り向いた先に通行人の女性がいた。女性は急に振り返った遼一に驚いて、距離を取りながら追い抜いて行った。

 ──やましい気持ちがあるから、気が立っているだけだ。

 気を取り直して、遼一は近くの公園に飛び込んだ。ひと気のない公園の片隅のベンチに腰かけて、冷たくなった弁当を広げる。


 ざ、ざ、ざざざ……。


 細かい砂利を踏むような足音が背後から聞こえる。振り向くが、フェンスのそばには何もない空間があるだけだ。気にせずに、勢いよく白米に箸を突っ込んでいく。誰にも見られたくないという思いを抱えながら、遼一はものすごい勢いで弁当を平らげていった。

 途中で買った小さなペットボトルのお茶を飲み干していると、


 ざざざ、ざ、ざ、ざ……。


 また、背後から足音がする。急いで振り向くが、誰もいない。気味が悪くなって、遼一は空になった弁当箱をバッグにしまって、立ち上がった。辺りを見るが、人影はない。それに、ベンチの後ろに回ろうとすれば、どうしても遼一の目に触れるはずだ。

 ──気のせいだ。

 今度は言い聞かせるように、心の中につぶやいた。。



 玄関が開いて、智花が優奈を抱きかかえて立っていた。

「ぱぱぁ~!」

 今日は綺麗な顔をした優奈が太陽のような笑顔で遼一を出迎えた。

「今日ちょっと遅かったんだ?」

 智花にそう言われて腕時計を見る。いつもより一時間も遅い。それなのに、連絡を入れ忘れていた。

「あ、ごめん」

 ジャケットのポケットに入れていた鍵を玄関脇の皿の上に置こうとした遼一の手から一枚のレシートが床に舞い落ちた。智花がそれを拾って、怪訝そうに眉をひそめた。

「今日のお昼?」

 昼間の定食屋のレシートだった。遼一は慌ててレシートを受け取ると、言い訳のようにバッグから空の弁当箱を入れた小さな保冷バッグを取り出した。

「ご飯食べよう。腹減った」

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