春原さくらの面影
山野エル
跫~あしおと~
跫~あしおと~ 其の壱
「最近調子いいみたいだな」
上司が肩を叩いてきた時、
「そうなんですよ~」
壁に貼り出された売り上げ目標のグラフが、目標ラインを超えている。少なく見積もっても、その三割近くが自分の功績だと思うと、遼一は誇らしい気持ちになった。
「やっぱり、守るべきものができた男は強いなあ」
そう言って上司はデスクの上の遼一の家族写真を指ではじいた。初めは欧米かぶれだとか馬鹿にされたものだが、今ではこの写真が遼一の原動力となっているのは明らかだった。
***
胸を張って会社を出て、帰路につく。
会社から数駅離れた静かな住宅街に建つマンションの一室が遼一の城だった。
「おかえり~」
玄関のドアをくぐって玄関脇の皿の上に鍵を置いていると、廊下の向こうから妻の
「ぱぁぱ!」
「お~、優奈! なに食べてたんだ?」
口のまわりが茶色いソースでベタベタになっている。少しだけ帰りが遅くなるからと、遼一は二人には先に食べていてと言っておいた。
「ハンバーグ」智花がやって来て笑う。「手づかみで食べてた」
「ワイルドだな、優奈」
遼一が優奈の頭を撫でると、優奈は嬉しそうに笑った。
*
「だんだん夜寒くなって来たよね」
優奈を寝かせて寝室にやって来た智花が言った。ベッドの縁に腰かけた遼一は壁にかけたカレンダーに目をやった。十月十七日。遼一の目がその数字に釘付けになる。
「どうしたの?」
「ああ」遼一は我に返って笑顔になる。「なんでもない。もう秋だからそんなもんでしょ」
「布団とか出しとかないと」
智花は遼一のそばに身体を寄せるように腰掛けた。キスを交わして、智花は言った。
「優奈の保育園、枠取れるか分かんないね」
「そうだねえ……」
智花は結婚を機に仕事を辞めていたが、また職探しを検討していた。優奈や、もしまた子どもが生まれれば、その子の将来のために蓄えはいくらあってもいい。それに、智花は家の中でじっとしていられるようなたちではない。
「無理に始めなくても、保育園が決まってからでもいいと思うけどね」
「まあね」智花は笑いながらベッドに横になった。「なんか気が逸っちゃってさ」
「焦らなくていいんだよ」
諭すように言う遼一に、智花がイタズラっぽい視線を向ける。
「早く腕枕して」
遼一ははにかんだ。
「はいはい」
二人でベッドに横になる。
「明日はちょっと遅いんだっけ?」
「うん、営業先直行」
「ふ~ん」
智花の顔が近づいて、二人は唇を重ねた。
***
眠っていた遼一の耳に何かが聞こえてきた。
ぺた、ぺたぺた、ぺた……。
ぺたぺたぺた、ぺたぺた……。
裸足でフローリングの床を歩き回るような足音。遼一はあくびをこぼしてうっすらと目を開けた。暗闇の中、ベッドサイドでぼんやりと浮かび上がる時計の蓄光の針が丑三つ時を指している。
ぺたぺたぺた……。
──やはり、聞こえる。
遼一はその音に耳を傾けようとした。気のせいかもしれない。
ぺたぺた、ぺたぺたぺた、ぺたぺた、ぺた……。
気のせいではなかった。
──優奈が歩き回っているのか?
遼一は身を起こして、ベッドの縁に腰を据えた。
ぺたぺたぺた……。
ぺたぺた、ぺたぺたぺた……。
ドア越しに微かに聞こえるその足音は廊下をウロウロとしているようだった。すぐに立ち上がって、遼一は暗い寝室のドアに向かった。ベッドの智花が目を覚まさないように、ゆっくりとドアを開く。
廊下には、足元を照らす小さな照明がついている。ぼうっと浮かび上がるフローリングの廊下には優奈の姿はない。
──やっぱり、気のせいだったか?
ドアを閉めて、ベッドに戻って、横になる。
目を瞑って眠気が戻ってくるのを待った。
ぺたぺた、ぺたぺた、ぺたぺた……。
遼一の耳に確かにその音は届いた。また身体を起こして、寝室のドアを開ける。だが、小さな明かりは何も照らし出してはいない。
遼一は廊下に出て、優奈が眠る部屋に向かった。
落下防止の低い柵のついたベッドの中で優奈は静かに寝息を立てていた。その滑らかな頬を指の背で撫でると、優奈は口をモグモグとさせた。その様子に遼一は口元を緩ませた。
寝室に戻ってベッドに潜り込むと、智花が半分夢の中にいるような声を漏らした。
「どうしたの……?」
「ごめん。なんか足音が聞こえたから」
「え……、優奈?」
「違った。気のせいだったみたい」
「そう……」
「起こしてごめん」
智花はもう寝息を立てていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます