跫~あしおと~ 其の伍

 帰宅してダイニングのテーブルの上を見ると、書き置きが残されていた。

<実家に戻ります>

 優奈の姿もなかった。

 書き置きに手を置いて、ぐしゃりと握り潰した。電気もつけないまま、ダイニングに立ち尽くした。優奈の笑い声が遼一の耳朶に蘇る。それが思い出の中から聞こえてくることは認識できた。

 遼一の両眼から涙が流れ落ちた。


 ひたひた、ひたひたひた……。


 かすかな足音に、遼一は勢いよく振り向いた。

 優奈も智花も、滲む視界の中にはいなかった。がらんとしたダイニングの向こう、廊下へのドアが開いたままだ。その向こうで光っていたフットライトが兆しもなく消えた。真っ暗な廊下が口を開けた悪魔みたいに見えて、遼一は急いで電気をつけた。

「そこにいるのか?」

 問い掛けるが、当然のように反応はない。

 空腹だったが、何も食べる気も起きず、着替えることもしないまま、遼一は寝室のベッドに倒れ込んだ。

 眠っていたらしい。

 目覚めた遼一の耳に、リビングの方で走り回る裸足の足音が聞こえた。


 ばたばたばた!

 ばたばた、ばたばたばたばたばたばた!

 どたどた、どたどたどた!

 べたべたべた、べた……。

 ぺたぺた……。


「優奈?」

 起き上がって廊下に出る。電気をつけたままのリビングの方を見るが、優奈の姿はない。

 リビングに向かって、入口脇のスイッチを押して電気を消したその瞬間、


 どたどたどたどたどたどたどたどた!


 廊下の方から一直線に遼一の背中目がけて足音が駆け寄って来た。悲鳴を上げて腰を抜かしながら振り向いた遼一の目には、誰の姿も映らなかった。

 全身に鳥肌が立ち、遼一は立っていられなかった。

「もうやめてくれよぉ!」

 膝を抱えて泣き出した遼一のまわりを、


 ぺたぺたぺた、ぺたぺた、ぺたぺたぺたぺた……。


 と、まるで時折覗き込むように足音が巡り始めた。

 顔を上げても、誰もいない。

 遼一は耳を塞いだが、目を瞑るたびに足音が聞こえる。


 ぺたぺた……。

 どたどたどた!


「やめてくれって!」

 足音に追い立てられるようにキッチンに駆け込んだ。そして、引き出しから鉄串を手探りで掴んだ。

 ──耳が聞こえなくなればいい。

 その一心で、遼一はその鉄串を──


***


 目が覚めた遼一の視界には見慣れない天井が広がっていた。不思議に思っていると、看護師の姿が目に入ってくる。だが、その足音は聞こえなかった。

 無意識に耳に手をやると、ガーゼで覆われていた。

 看護師が手元のメモ帳に文字を書いて遼一の顔の前に掲げた。

<今は耳が聞こえないと思いますけど、そのうち聞こえるようになりますから、安心して下さい>

 遼一は自宅マンションの廊下で血まみれで倒れているのを住民に発見され、救急搬送された。彼は鉄串で自分の両耳を突き刺していた。その後、マンションの廊下に出て意味の分からないことを叫んで気絶したようだった。その間の記憶は遼一にはない。警察も動いていたようで、智花にも連絡が行って、病院にやって来ていたらしい。

 怪我の程度は見た目よりは軽かった。鼓膜と内耳を傷つけており、出血はあったが聴力は問題なく回復するというのが医者の見立てだった。

 一か月ほどして鼓膜も再生し、聴力検査でも問題なしと診断された。

「木村さん、心療内科にも通院されていますよね」

 医者がそう尋ねた。

「はい。ちょっと幻聴がひどくて……」

「処方されてたのは?」

「エチゾラムです」

「幻聴ってどんな?」

 思い出そうとして、遼一はゾッとした。耳が聞こえるようになったのを思い出したからだ。

「あ……、足音を……」

「足音? マンションに住んでらっしゃいますか?」

「ええ。でも、家の中で聞こえるんです……」

 医者が首を捻ったが、それは心療内科の問題だと判断したのか、多くを語りはしなかった。



 帰宅した遼一を出迎えたのは智花ひとりだけだった。

「おかえり」

「ただいま……。優奈は?」

「耳は大丈夫なの?」

「ああ、まあ……」

 智花は遼一をじっと見つめた。

「落ち着くまで優奈は実家に……」

「もう落ち着いてるよ」

 智花は不意に涙を落とした。

「普通じゃないよ……。話聞いたよ。自分の耳を……なんて」

「覚えてないんだよ、その時のことを」

「じゃあ、優奈に飛び掛かったのも覚えてない?」

 遼一は答えに窮した。はっきりと覚えていたからだ。優奈の怯えた顔。恐怖で泣き叫ぶ声。優奈を抱き止める智花の姿。遼一を睨みつける冷たい眼差し。「最低」という短い侮蔑の言葉。全てが鮮明だった。

「遼一と一緒にいたら優奈がどうなるか分かんない。だから、大丈夫ってなるまで、優奈はこっち連れて来れない」

 涙を拭って、まるで決別かのように智花は言い放った。

「もう戻らないつもりなんだろ」

 遼一は言った。言ってしまった。智花は泣きながら返事を投げる。

「ちゃんと治してよ。どうしてこんなことになっちゃったの?」



 智花が帰って行った家は静かで冷たかった。

あれから、ダイニングの椅子に座ってテーブルに肘をついたままだった。すっかり陽は落ちて、部屋は暗く染め上げられている。

 テーブルの上に突っ伏して、遼一は涙が止めどなく溢れてくるのを感じた。智花と優奈の顔が浮かぶ。会社の仲間たちの顔も。会社は休職扱いになっていた。どの顔も遠くに行ってしまった。

 暗闇の中で顔を伏せる遼一のもとに、またあれがやって来た。


 ぺたぺた……。

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