< 一幕 祝福 >
みなさん、こんにちは。
私の名前は茜羽(あかばね) アスカです。
本日付で、第9班の前哨基地に配属になりました。
不束者ですが、どうぞよろしくお願いしまう…
アスカは、自己紹介の言葉をころころと口の中で転がしながらバイクを駆る。ふつつかもの、の滑舌があまり良くないことに気が付き、数度ふつつかもの、ふつつかものと呟く。バイクのハンドルに取り付けられた携帯端末がピピ、という電子音と共に目的地までの距離も残り少なくなってきたことを伝えた。彼女は再度前方を見据え、80km/hはゆうに越えているスピードでアスファルトに土煙を残す。
彼女が通っている道は、元は市街地の大通りであったのだろう。両側にビルが立ち並び、その最上階では誰かがふかふかのソファに座っていたのかもしれない。しかし今、ビルは倒壊して蔦が蔓延り、アスファルトにはキャタピラ痕が深く刻みつけられている。そこかしこに落ちている金色の薬莢がきらりと光り、太陽光を反射する。路肩に生えている雑草が風に揺れた。
アスカの真上を、太陽が舐めるように追いかける。バイクを路肩に寄せ後輪を滑らせて停車した彼女は、見つかった日陰にバイクを手押ししながら入る。からからから、と動力を失ったホイールが地面を進むにつれ周り、スポークが回転方向にぶれて彼女の目に映った。
ビルの瓦礫が奇跡的なバランスをとり、そこに1フロアほどの大きさの空間を形成している。真上から差す陽は瓦礫の隙間を縫って数本地面へと届き、空気中を舞う塵を浮かび上がらせている。「荒廃」というには少し厳かすぎる空間の壁にバイクを立てかけ、彼女はその中へ入る。ぱらら、と細かくなったコンクリートが上から降った。
ちょうど座れそうな瓦礫を見つけた彼女は、背負っていたリュックサックを下ろしてそこに腰掛ける。少し腰を浮き上がらせてスカートと瓦礫の表面をはたき、ふうと一息ついた。アスカは服に何か汚れがついていないか確認する。彼女の服装はまさに世が思う女子高校生を体現していた。ベージュ色のベストと胸元にはリボンを飾り、チェックが入ったスカートには弾薬などを入れるポシェットが下がっている。少し焼けた健康そうな素足を、少しきつそうなニーハイがぴっちりと包んでいた。一通り全身を確認し終えた彼女は下ろしていたリュックサックの猫耳を撫で、カエルのキャラクターのついたチャックを引き上げた。その中から有名なメーカーのスポーツドリンクを取り出し、パキンと小気味良い音を鳴らしてキャップを開ける。
ごくごくと喉を鳴らしながらそれを空にした彼女は、ぷはぁと一息をついて頬についた汗を拭った。キャップを閉め、ペットボトルをリュックに仕舞った彼女は、何かに気が付いたのか立ち上がる。瓦礫の隅を見れば、目に眩しいほどの赤色をした花が日陰に咲いている。
「ポインセチアだ……」
彼女は呟く。そしてハンカチをポケットから取り出し、ごめんねと呟きながらその花の茎を引き千切り、猫柄のハンカチに包む。主人を失った根は地中で眠っている。
大事そうに包んだハンカチをリュックサックに入れたアスカは、「前哨基地の人たちに渡したら、喜んでくれるよね」と嬉しそうに微笑んだ。
休憩を終えた彼女は、髪を後ろで一つにまとめているゴムを確認する。走行中に解けていないかどうかだけが心配だったが、彼女のポニーテールはまだそこにあった。猫の飾りが揺れた。そしてバイクに近寄ってガソリンメーターを確認する。残量はまだまだあるようで、ほっとしたような表情を見せる。アスカはリュックサックを拾い上げて塵をはたくと、もう一度背負い直した。猫耳がぴょこんと動き、キーホルダー類が可愛らしく揺れる。端末の現在時刻を見ると、彼女は呟く。
「……よし。14時までに出向完了だから、あと30分ってところかな。余裕余裕」
バイクに再度またがった彼女は、挿しっぱなしのキーを奥側へと半回転させる。ドルルン、と細かな振動と共にバイクが息を吹き返した。右足を後ろへ蹴り上げてスタンドを上げ、右手の動きに合わせて後輪が進み始める。その場でぐるりと方向を前後逆に持っていき、廃墟から大通りへ出てゆく。日陰には、彼女に手に取られることのなかったスノードロップが、白い花弁を風に揺らしていた。
バイクの速度をだんだん上げながら、アスカは自己紹介の言葉を再び舌の上で転がし始める。ふつつかもの、ふつつかもの…。
『100m先の交差点を左です』
合成音声が道順を告げる。わかってるよと呟きながら、バイクの前輪を軸にしてドリフトの要領で荒廃した交差点を通過する。後輪のゴムが焦げる匂いが鼻を掠め、土煙がぼふぅと上がる。割れた信号機のガラス片が、色のついた煌めきを残して跳ね上がった。
『目的地は左側です。』
合成音声が告げた目的地は、外観のみはただの学校だった。構造はコの字型に棟が連なっており、コの空いた部分を埋めるように渡り廊下が設置されている。真っ白な外観に屋上のペントハウス部分だろうか、一部分がでっぱった形状になっていて、クワの実だろうか、ベリー系の果物があしらわれた校章が取り付けられている。少し特徴的な建物の配置は、アスカに少しだけ懐かしさを感じさせた。
そう、ごく普通の学校。何か……垂れ幕が屋上から下げられていることを除けば。
「茜羽……アスカ、祝配属……って、なにこれ……」
バイクから降りたアスカは、呆然とした表情で赤文字で飾られた垂れ幕を読み上げる。と、その時渡り廊下から1人の女子生徒が走り出してくるのが見えた。ショートカットの黒髪に十字をかたどったヘアピンを着け、本来ならば肩にかけられているはずのスカートの吊り紐が腰の下に落ちている。
女子生徒は校庭を横切ってアスカのもとに辿り着くと、ぜぇぜぇと息を整えながら袖で汗を拭い顔を上げる。
「やぁやぁ!あんたがアスカやな?ようこそ特9班へ。うちはきらり。綾小路(あやのこうじ)きらりや。よろしく!」
まるで久しぶりにあった友達のように差し出された手を、アスカは無意識に握ってしまう。ぶんぶんと握手した手を振ったきらりはついてきて、と手招きをした。その人懐っこい笑顔に、アスカは安心する。
「あ、あの」
きらりはローファーの踵を校庭の地面に擦らせながら、ん?という表情で振り返る。ショートヘアが翻り、傾げた顔に垂れ下がる。
「よ。」
今日からここで暮らすのだ、ということを再認識してアスカは声に出す。僅かに傾いた陽が、彼女の髪の毛にハイライトを落とし瞳に反射される。
「よ?」
アスカの言葉をおうむ返ししたきらりは、さらに上体を傾ける。もう口にサイドヘアがつきそうだ。
「よろしく……お願いしますっ!」
ぺこりと頭を下げたアスカの頭をぽんぽんと叩きながら、きらりは八重歯を口の端から覗かせて言った。
「あぁ。よろしく」
バイクを校門近くに立てかけて、瓦礫が散乱する校庭をきらりの後ろにアスカはついて歩く。
「そこらへんガラス多いから怪我しないように頼むで」
ひょいひょいと上手に瓦礫を踏み分けて歩くきらりの後ろを、危なっかしいバランスで続くアスカは、ふと気になったことをきらりに質問する。午後2時の太陽が、二人の影を色濃く地上に落とした。
「そういえば……。きらりさんの他に、この前哨基地に人は何人いるんですか」
「きらりでええって。変に敬称つけられると落ち着かんし。えっと……この前哨基地にいるのは、私とあともう一人、まどかっていう奴がおるだけや。」
その言葉にアスカは驚く。
「え、これまで2人で前哨基地を防衛してきたんですか……?」
アスカは事もなげに頷くきらりを驚愕の目で見つめた。普通であれば6人小隊が一つの前哨基地を防衛し、その中でも調査隊・研究隊といくつかの職種に分かれているはず。それを2人でこなすなど、あり得ない話だ。
「あー、うちの前哨基地はちょっと特殊でな。試験的に進めてる段階やから人が極端に少ないねん。」
そう話しながら進む校庭の瓦礫が少なくなってきた。2人は瓦礫を踏み分けて歩くのをやめ、スピードを普段歩く速度に上げた。校庭の隅でがらら、と音がして瓦礫が落ちる。
慌てて振り返ったアスカを制止して、崩れた辺りに近づいていくきらり。
「そこにおるんやろ?出ておいで〜……」
猫撫で声を出しながら、近くに生えていた猫じゃらしを引き抜いて手に持ち、屈みながらぷるぷると左右にふるわせる。ぴょこんと瓦礫の隙間から顔を覗かせたのは真っ黒な毛並みの猫だった。
かわいい……と声を漏らしながら、アスカも腰を落として猫じゃらしを探す。……しかし、先ほどのきらりの猫じゃらしで最後だったようだ。
「ほれほれぇ。これがええんやろ〜?」
ぴょこぴょこときらりの操る猫じゃらしにじゃれつく猫の腹をわしわしと撫でるきらりの横で、それをアスカは物欲しそうな目で見つめている。
しばらく2人が猫と戯れていると、渡り廊下にまた1人女子生徒が現れた。腰に届くほどのロングヘアに、きらりとはまた違った制服を着崩さずきっちりと着ている。彼女はどこからともなくメガホンを取り出すと、アスカたちに向かって叫んだ。
『きらりは〜ん?もう時間すぎてはるで〜?』
キィィン、とかすかなハウリングを残してメガホンを下ろした彼女は、「早うこい!」と肉声で叫んで校舎の中に引っ込んでいった。耳を押さえていた2人は、目の前にいた猫が逃げていくのを目の端で捉えながら顔を見合わせる。
「うるさいやっちゃなぁ〜……ま、猫さんも逃げちゃったし、そろそろいこか」
落としていた腰をよっこらせ、と上げて軽く伸びをしたきらりは、スカートの裾をぱんぱんと払い、座ったままのアスカに手を伸ばす。
「ほら、立てるか?」
アスカはその手を握って立とうとするが、アスカに引かれて「わ、とと……」とバランスを崩して2人とも倒れてしまう。ドンガラガッシャン、と最近の漫画ではもう見ないような擬音を立てて瓦礫が舞った。きらりはアスカの横に倒れ込むと、不意に笑い出す。
「はははっ……はっは!ひぃ〜……なんで倒れるん……」
知りませんよ、と答えながら、アスカの口からも笑みが溢れてしまう。
「アスカちょっと重いんちゃう?」
「失礼な。これでも身長に見合った体重ですよ。」
やいのやいのと好き勝手言い合う2人は、先ほどのメガホン女子生徒がまた渡り廊下に出てきたことに気がつく。
「早う来いって言うたやろ!」
アスカたちに近づきながらよく通る声で怒る彼女に、きらりは「いやぁすまんね〜」と手を振る。アスカの耳元に口を近づけ、囁き声できらりは伝えた。
「あいつがまどかや。いけすかん奴やろ?」
規律や時間は破った側が悪いのだし、いけすかないと言うことはないのでは……、とアスカは思ったが、自分も一緒になって猫と遊んでいたので口をつぐんだ。
「誰がいけすかん奴やって〜?」
「ひえ、聞こえとった」
いだいいだいいだい、と叫ぶきらりの耳を引っ張って立たせると、まどかと呼ばれた女子生徒はアスカに向かって手を差し出した。
「うちはまどか。浅倉院(せんそういん)まどかいいます。よろしゅう」
「よ、ろしく……お願いします。」
さっきの怒った表情は何処へやら、一瞬にしてにこやかな顔にチェンジしたまどかにアスカは困惑を隠せない。まどかに引っ張り上げて立たせて貰うと、アスカはスカートの裾をはらった。きらりはまどかの肩に手をおくが、まどかはぺいっとその手をはらってしまった。
「さてと。ようこそ、『星の揺籠』前哨基地特殊9班へ」
にこやかなまどかと、少し傷ついた、といいたげなきらりと。そして、困惑しっぱなしのアスカ。どこかで先ほどの猫だろうか、にゃーんという鳴き声が聞こえた。
「ほなうちがこの基地内を案内したる。」
なんか基地内と案内って語感似とるな、と呟きながら、頭をぱかんとまどかに叩かれるきらり。
「っっっつぅ〜……何するん」
「配属になりはったんやから、まずは本部に報告。それからやろ?」
不満げな顔をするきらりを宥めながら、アスカは昇降口で靴を履き替えようとするが、まどかの「あぁ、別に履き替えんでええよ。」の台詞を聞いて慌ててもう一度履く。コツコツとローファーを響かせて歩くまどかの後ろに、きらりとアスカが並んだ。
「こんなツンツンしとるけどな。アスカの配属一番楽しみにしてたの、まどかなんやで〜。信じられへんやろ。あの垂れ幕もまどかが作ったんや」
まどかの耳の先が少し赤くなっていることに気がつき、アスカは少し嬉しい気持ちになる。
「垂れ幕は、きらりも一緒に作ったやろ」
まどかが呟くと、突き当たりの階段を登り始めた。
「一階は普段使わへんな。なんや倉庫とか、書類の保管に使っとる。武器や弾薬は校庭の隅っこにあるあのプレハブ。」
きらりが窓越しに指差したプレハブ小屋には、大仰な南京錠と『許可なく持ち出し禁止』の張り紙がしてある。弾薬を外に置いておいて湿気ないのだろうか。アスカは少しだけ不安に思うが、そういえば異常気象のせいで、ここ数ヶ月雨なんて降っていないなと思い出した。
「さってと、ここが我ら特9班の生活圏、2階やで〜」
階段を登り切った先に、机を積み重ねたバリケードらしきものが設置されていた。3人は服を引っ掛けないように気をつけてそれをくぐる。きらりが立ち上がるときにゴン、と頭をぶつけてしまい、「っつぅ〜……」とうずくまる。アスカとまどかはゆらゆらと揺れた机に慌てて手を伸ばし、バランスを取り直した。「こんなにようさん頭に衝撃きとったら、あほになるわ……」と頭をさすりながら呟くきらりに、まどかが「元々あほやろ」と言う。きらりは何ィ、と突っかかるが、まどかに飴玉を手渡されて「今回は許したる」と態度を軟化させた。
2階の廊下は、とにかく物が多かった。かなり広かったはずの廊下は段ボールが積み重なり、一種のダンジョンにも見える。奥から順に指を差すきらり。
「一番奥の教室が、司令室兼、お茶会場兼、会議室。真ん中が寝所。で、一番手前の教室が食糧庫や」
さらに奥はこれまた机のバリケードで覆われており、この三つの部屋以外は一切使われていないことが窺える。積まれた段ボールの隙間から太陽光が差し、真っ白な帯が壁に向かって手を伸ばしている。きらきらとした塵が舞っていて、アスカはついそれに向かって手を伸ばす。アスカの手をふわっと避けた塵たちは、またきらきらとした粒を残して影の中へ隠れていってしまった。
まどかがコツ、と靴音を鳴らすと、それが合図だったかのようにアスカは我に返る。
「洗濯とかは屋上で……」
先に歩き出したきらりの後を慌てて追いかけるアスカ。数回靴越しに小指を段ボール箱にぶつけ、うめき声を上げてうずくまった。そしてまた顔をあげ、リュックを背負い直して歩き出す。
一番奥に配置されていた扉をガラッと開けると、教室の窓側、入って右奥には花瓶が置いてあり、立浪草が真っ青な花弁を誇らせている。窓側は今は日が出ていないのだろうか、影になってしまっているが、ベランダには数種類の花が見えた。普通ならロッカーがあるはずの教室後側には、大きな棚に瓶が並んでいる。目を凝らせば、その中身がハーブであることがわかった。
その隣には食器などが入った古めかしい戸棚が置いてある。そして黒板があるはずの場所には、大型……少なくとも、20インチは降らないだろうモニターが備え付けられている。その真下には数台のデスクトップPCがウウウン、と微かなファン音を響かせていて、若干レトロな室内でその部分だけミスマッチだった。教室の真ん中には机が数台寄せておいてあり、その上にはケトルや茶漉し、さらにはクリップで留められた報告書類が散乱している。
「わぁ……」と一瞬自分の任務も忘れて部屋に魅入ってしまったアスカは、慌ててリュックサックを肩から外し、廊下側の壁側に置く。リュックサックについた猫耳がぴょこんと動いた。
「どや。すごいやろ。」
「きらりはんがしたわけやあらへん。よく、本部の咲凜さんから送られてくるんです。」
自分がやった!と言うかのようにドヤるきらりに、まどかがしっかりと釘をさす。でも手入れしてるのはうちやし……ときらりは呟く。
「すごいハーブコレクションですね……。赤のゼラニウムに、カモミール……向日葵まである」
感心してしまったアスカを横目に、きらりはデスクトップPCに近づいてその一つに電源を入れた。「せやろせやろ〜。」と得意げにいいながら、キーボードとマウスをカタカタと叩く。すると、先ほど目に止まった大型のモニターに光が灯り、『SOUND ONLY』の表示が開いた。
『あ〜……もしもし。そちらに聞こえているといいのだが』
教室に元々備え付けられていただあろうスピーカーから初老だろうか、柔らかい男の声が流れ出す。きらりは、デスクトップPCの上に置いてあったピンマイクを自分のシャツの胸元につける。
「今日の通信班は八杉さんなんか。」
『あぁ、担当だった阿久津が急に体調不良になってね。どうやら、特9班の娘と話していると胃がもたれるらしいな』
「ちょ、そないなこと言わんとってや〜!」
不満そうに膨れるきらりの顔が見えたかのように、八杉と呼ばれた男性はあはは、と笑う。
『さて、定時連絡にはまだ早いと思うのだが』
きらりがちょいちょい、とアスカに手招きして、ピンマイクを手渡す。クリップをぐにっと開いて胸元に噛ませたアスカは、「あ、あの」と声を出した。
『ん、誰だったか……えーと』
一瞬困惑の色を滲ませた八杉だったが、あぁ、と納得したかのように声を漏らす。書類の音がガサガサと響いた。アスカは姿勢を正し、踵を揃える。
「本日付で『星の揺籠』前線基地特殊9班に配属になりました、茜羽アスカ。14時12分現着しました」
八杉の声色が先ほどの柔らかいものから、事務的な口調に変わる。
『了解した、茜羽アスカ司令官補佐。14時12分、通信担当指揮官八杉(やすぎ)重信(しげのぶ)が、現場到着を確認。』
「ありがとうございます」
後ろできらりがうわぁ硬った〜…と呟く。まどかはそれを横目に、棚から瓶入りのハーブを一つ取り出した。無造作に貼り付けられたラベルには、手書きで「カモミール」と書いてある。
『本日付で、君の配属を承認する。……よしっと』
まどかは自然な所作で瓶の蓋を捻り、キュポンという音と共にカモミールの匂いがアスカの鼻腔をくすぐる。
『他には、伝えたいことはあるかね?』
「いや、以上や」
きらりがピンマイクを受け取って答える。
『じゃぁまた、定時連絡の時にでも。……今度は、こちらも茶を用意しておくことにするよ』
まるでこちらが見えているかのように笑う八杉を、アスカは少し気味悪く思った。
「まるでこっちが見えてるみたいやなぁ……気味の悪いやっちゃ」
アスカが思ったことと全く同じことを呟くと、きらりは通信を切る。『SOUND ONLY』の表示が『OFFLINE』に切り替わった。気が付けば、まどかがハーブティーの準備を終えている。こぽぽ、という音とともにケトルからお湯が茶漉しに注がれ、碧のような黄のような、不思議な色へと変わっていく。
「報告終わったなら、お茶にしよか」
全員分のカモミールティーを淹れ終わり、まどかは2人に声をかけた。きらりはピンマイクを教壇の上に置き、「菓子あるで」と部屋の隅から銀色の缶箱を取り出す。『大阪せんべえ』とシールが貼られたその缶は、蛍光灯を反射してきらきらとまばゆい光をアスカの目に当てる。少し手をかざして光を軽減したアスカは、そういえば、ととあることを思い出す。
「そういえば。」
「ん、なんや?」
きらりが聞き返すと、アスカはリュックサックをゴソゴソと探り、ここにくる途中に摘んでおいたポインセチアを取り出す。ハンカチを開くと、少し萎れてしまった赤が覗く。
「あぁ、ポインセチアやな」
まどかがいつの間にかハンカチを覗き込んでいることにアスカは少し驚き、この花を知っている人がいることにもう一度驚く。
「知ってるんですか」
まどかはもちろん、と頷く。
「花言葉は、よく。……母が教えてくれはったからね」
少し寂しそうな目をするまどか。しかしそのことに気がつく者はいない。
「ポインセチア。確か花言葉は……」
「祝福、です」
ふわりと笑いながらそう言ったアスカ。
「ほえー、こんな花が祝福。……ハッピーバースデー、ってことか?」
同じくハンカチを覗き込みながらそう呟いたきらりは、その場を離れて花瓶はあったっけと教室の中を探し出す。程なくすれば、教室後側の棚の一番下から小さめの花瓶が一つ出てきた。
「これに活けとき。水は廊下の段ボールのどこかに入ってるはずや。」
花瓶をアスカに手渡し、きらりは立ち上がる。「わかりました」と答えて廊下に出るアスカだが、少し手伝って貰えばよかったと後悔する。積まれた段ボール箱たちには、一つとしてラベルや印刷の類がしてあるものはない。ここから水を見つけるのは至難の業だなぁ、と心配しながら取り敢えず手近な箱から開けていくことにする。レトルトのカレーと、鯖の缶詰が顔を覗かせた。
「ほんまにきらりはんもいけずやなぁ。その、二番目に高い塔の一番上にあるで」
まどかが教室から顔だけを覗かせてアスカに助け舟を出す。「別にいけずしとるわけとちゃうわ。中身なんて全部覚えられるわけないし」と愚痴るきらり。
両手を伸ばしてギリギリ届くか届かないかほどの高さにある段ボールに手を伸ばし、つま先立ちになってふん、ふんと手を振るアスカだが、はみ出た段ボールの底面に指先が掠るだけで手は届かない。まどかが横に立ち、「だからいつもこんなに積み上げるのはやめとき、って言っとったのに」と呟きながらいとも簡単に水の入った段ボール箱を下ろした。
「まどかさん……身長高いですね」
アスカが呟くと、「褒めることとちゃうし、その『さん』付けは勘弁してや。」とまどかが苦笑いする。
段ボール箱をべり、と開き、中から緑色のラベルが貼り付けられた2Lのペットボトルを取り出す。透明な中身を花瓶に注ぎ、ポインセチアを活けたアスカは少し微笑んだ。
きらりは既に、教室中央に置かれた机の前に陣取って菓子を食べ始めている。
「ん、ふぁふぃひふぁふぁんふぁるあ」
おそらく「先に食べとるで」とでも行ったのだろう。きのこの山を口いっぱいに頬張ったまましゃべるきらりの頭を、手近にあった報告書を丸めてぱこんと叩くまどか。げほげほときらりが咳き込むのと同時に、きのこの山のクッキーが粉塵のように舞い散る。
「先に食べてどないするん。初日はもてなさないと」
まどかは報告書を直し、別の机にばさっと投げるとアスカに席に着くよう促す。言われるままに座ったアスカの前に、パイの実とカモミールティーが置かれた。まどかも対面の席についた。
「きちんとした自己紹介がまだやったな。うちは浅倉院まどか。17や。まぁ……なんやろ。実戦にサポート、ご飯作りまでなんでもござれの京都人やらせてもらっとります。」
綺麗にお辞儀したまどかは、眉目秀麗という言葉がぴったりの女子高生だった。糸目がちの目を開けばマゼンタ色のハイライトが宿り、少しツヤがかかった黒髪は重力に引かれてそのまま背中に落ちていた。良質な生地のシャツは胸元でぴんと張られて、皺と大きめの影をつくっている。その胸元はチェック柄のリボンで締められており、女子高生の平均よりやや高めの身長も含めてまどか自身の清楚さを醸し出すのに一役買っていた。
「きらり。綾小路きらりや!基本的には基地内での遠隔サポートが主な役割やな。あ、でも実戦もバリバリできるで〜。好物はたこ焼きときのこの山!よろしゅう!」
少し感嘆符が多い文で自己紹介すると、きらりは八重歯をのぞかせてにかっと笑う。ショートで切り揃えられた少し色素の薄い髪の毛は、少しおでこが出るように両脇に揃えられていた。向かって右側には十字型のヘアピンが蛍光灯を反射し、名前に負けじと煌めいている。人懐っこいくりくりとした目は淡い蒼に輝き、少し日焼けした肌は活発な印象を与えていた。
「あ、アスカです。茜羽……アスカ。好きなものは、花……で、これまでは後方で指揮を取ってました…。」
「え、後方指揮ってエリートがなるやつちゃうん」
きらりが身を乗り出すと、アスカは少しのけぞる。
「いえ、私は全然……補欠の繰り上げで投入されてただけですから。」
「そないなこと言うても、補欠かてすごいことやろ。こりゃもう、指揮うちと代わってもらったほうがええかも知れへんなぁ。」
きらりが少し力なくははは、と笑うと、まどかが問う。
「花好きなん?」
「はい。父が花屋をやっていたので」
「お父さんは」
「事故って死にました」
まどかはしまった、と言うふうに少し顔を困らせたあと、続けた。
「それは…すまへんなぁ。」
いえいえ、と手を振るアスカのお菓子の箱に、きらりは少しきのこの山を足した。
「辛気臭いのはなしなし。もっと楽しい話せぇへん?」
ゲームはなんかやっとった?と聞くきらりに、スマブラとかゼルダなら…と返すアスカ。その2人を眺めながら、まどかはカモミールティーを喉に流し込む。抜ける香りが鼻を刺激した。
「ふい〜疲れた疲れたぁ。はよ寝よっと」
「アスカはん、お疲れ様。」
近場の空き地で実銃訓練を終えたきらり、アスカ、まどかは、半壊した通りををゆっくりと学校に向かって進んでいく。昼間の位置に太陽は既になく、代わりに真っ赤に燃ゆる太陽がその半身を住宅街越しに見せていた。夕日に照らされた街並みはしんとしていて、まるで世紀末……いや、実際世紀末か。
「きらりさん、まだご飯食べてない…です」
アスカが少しかみながら喋ると、まどかがそうだった、と言うふうに頭をペしっと叩く。
「ほんますまへんなぁ。ご飯の準備あるの忘れ取ったわぁ……」
きらりはひらひらと手を振り、「大丈夫やって。1日くらい食べへんくても。」と返す。アスカは少し物足りなそうにえぇ、と呟く。
「ほら、お菓子なら浴びるほどあるんやし。今日はシャワー浴びて女子会や女子会っ!」
アスカの目が少し輝きを帯びたのを見て、きらりは内心でよし、と拳を固める。どうやらこの引っ込み思案な新隊員とは良好な関係が築けそうだ。
「それにしても、硝煙と汗の匂いがきっついなぁ。こんなことなら制汗スプレー用意しとくんやった……」
まどかはくんくんと自分の服を嗅ぎ、少し顔を顰める。
「え、そうですか?……いい匂いだと思いますけど。硝煙。」
きょとんとして言ったアスカに、まどかは思わず笑みを漏らしてしまう。
「年頃の女の子がいうこととちゃうで。まぁ……うちも嫌いではないけど」
きらりも少し同意しながら、とにかくシャワーシャワー!と言い立てる。まどかはアスカに「アスカはん、バスタオルとか持っとる?」と聞いた。
「持ってますよ。猫柄のやつ!」
「ほんまに猫好きやなぁ。そのうち猫になったりするんちゃう。」
それなら本望です、と返したアスカになれるわけ、とツッコんだきらりは、「シャンプーとかならうちの貸したる。行こいこ」と返した。
3人が目指しているのは、かつて水泳部が汗を流すのに使っていたのであろう、プール側の更衣室に置かれているシャワーだった。
夕立で濡れたプールサイドを靴を脱いで進んでいくアスカたちを、西の空にかすかに残った赤みと、東に上った月が照らしていく。
「ほんまに面倒よなぁ。更衣室ぐらい直通で作れっちゅうねん」
わざわざプールサイドを通って迂回しないといけないことを鬱陶しく感じるきらり。
「仕方あらへん。そないな愚痴言うんやったら、フェンスに穴でも開ければええやん」
まどかが嗜めると、面倒やなぁときらりは呟く。
「でも、夜のプールサイドってなんだかワクワクしませんか?」
「そりゃするけど」
「じゃぁこう言うのも、いいじゃないですか」
きらりはうーん、と納得したのか納得してないのかよくわからない表情をする。そしてプールサイドを渡り切ると、突き当たりにあるドアを開けた。
パチンと電気をつけると、小綺麗なシャワールームが明滅する蛍光灯に照らし出された。シャワールームなので窓はなく、時折ぱちん、と鳴りながら消える蛍光灯にアスカは身をすくませる。
「ここの掃除も当番な。今日はうちがやるけど」
きらりは置いてあった籠に上着とポシェットを突っ込む。まどかとアスカもそれに倣った。ぷちぷち、と胸元のボタンを外すきらりと、リボンをしゅる、と外すまどか。さらさらと衣擦れの音を残して、シャツを脱いでいく。
アスカは、露わになったまどかの右腕に目を止める。
「まどかさん、それ……」
「あー、これか」
右手首あたりをつつ、と撫でたまどかは、少し悲しそうな顔をした。
「リスカ痕ってやつやなぁ。あ、今はもうしてへんし、気にしなくてええよ」
心配そうなアスカに気がつき、慌てて訂正するまどか。確かにその切り傷はもう塞がっており、手首にほんのり赤い線が数本走っているだけだった。それ以上追求するのも失礼だと思ったのか、アスカも押し黙ってしまう。
キュ、というかすかな音とともにシャワーから熱水が流れ出す。髪を濡らしながら、ふうぅと大きなため息をつくきらり。
「きらりはん、シャンプー取ってくれへん?」
「ほいよ」
アスカを挟んで奥からまどか、アスカ、きらりの順番で並びながらシャワーを浴びる。確かにここに風呂がないのは勿体無いな、とアスカは思った。
3人は用意していたバスタオルで水を拭き取り、きらりは薄黄色、まどかはピンク、アスカは薄緑色のパジャマに身を包む。ぷちぷちとボタンをはめて緩めの靴下に足を通すと、今度はサンダルを履き直す。
「しっかし、昼は暑いのに夜は寒くなるのどうにかしてほしいねんけどなぁ。」
きらりは最近の気候に愚痴を吐く。天災によって世界の季節は不具合を起こし、昼は夏の気候に、夜中は2℃ほどまで気温が下がる異常気象になってしまった。
「でもそのおかげで、いろんな花があちこちで見られるようになりましたよね」
そう、その副作用としてありとあらゆる種類の花が道端や廃墟に咲き誇るようになったのだ。このことを皮肉って天災が「花災害」と呼ばれることもある。
「花以外はデメリットしかあらへんけどなぁ」
きらりはため息をつくと、「よし」と気合を入れた。
「気ぃ取り直して女子会や女子会!飲み物はお茶しかないけど、お菓子だったらなんでもあるで!」
制服が入った籠を抱えて、ドアに手を掛けるきらり。
キイ、と音を立ててドアノブを回す。
ピピ、とスマートフォンが電子音を立てた。
「ちょっとまっ」
それが誰の発した言葉かはわからない。ドゴン、というシンプルな打撃音とともにドアが吹き飛ばされ、きらりの体が反対側の壁に打ちつけられる。
舞い上がった粉塵の中から現れたのは、黒色の胴体から何本かの触手を生やしたを「何か」だった。それはキュルキュル、と聞き取りづらい声を出し、表面をぬらりと光らせる。
「チィっ、こんな時に敵襲か!」
まどかが声を荒げると、アスカは籠を急いで漁ってスマートフォンを取り出す。
「特9班、会敵っ!恐らく第F級触手、こちらは非武装、独断で動きます!」
本部への通信をオンにして現状を伝えたあと、八杉らからの答えを待たずにアスカは駆け出す。更衣室のすのこの上でジャンプをすると、踵をその何かに向けて叩き込んだ。だがしかし転がったのはアスカの体だった。ごほ、と血を一筋垂らしながら更衣室の鏡に叩き込まれるアスカ。キラキラとしたガラスの破片が舞い散り、一瞬の間銀世界を作り出す。蛍光灯がパン、と割れ、爆発と共に粉塵がさらに高く舞い散る。
まどかはその一連の動作が起こっている間に、すでに外へと駆け出していた。プールサイドで何度も滑りそうになりながらも、武器庫への最短経路を導き出す。しかし一瞬の後、まどかの体は宙へ舞った。右脇腹あたりに鈍い痛みを感じながら、プールを通り越して一直線にフェンスに突っ込むまどか。
何が起きた。
もう一体敵がいたのだ、と気がつくには遅かった。フェンスで破れてしまったパジャマを見て、「やってくれたな……」と呟く。血の混じった唾をプールサイドに吐き捨てる。
アスカはその「何か」と対峙していた。太ももにと腹に痛みを感じながら、いつでも体を守れるように構えを整える。呼吸を整え、目を逸らさない。「何か」が動いたのは感知できた。一瞬のわずかな空気の揺らぎ。しかし、「何をしたのか」まではわからなかった。反射能力をフルに働かせて伏せたアスカは、自分の頭の数cm上を「何か」が放った触手が通り過ぎるのを感じる。
速すぎる。
きらりは全身打撲の痛みに耐えつつ、立ち上がる。吹っ飛ばされる直前に手に握り締めた手榴弾が目に入った。これまでピンさえ抜くことはなかったものの、もしものためのお守りのように常に持っていた手榴弾だった。
「……まだ、早いな」
きらりが目線を上げると、伏せているまどかと、その上を通り過ぎる触手が見えた。
状況はどうやらもっと、深刻らしい。
まどかは駆ける。校庭を、靴も履かずに。そして彼女はスマートフォンに叫ぶ。
「19時27分、特9班会敵!」
『再度状況を詳しく』
八杉の声が流れる。
「場所は校舎裏、プールサイドの更衣室!敵は少なくとも二体!片方は第F級触手と推測!もう片方は……、多分第E級節足型!」
『了。ストライカーズを派遣する』
「ありがと!でもほんまはあいつらの手ぇ借りたくないねんけど!」
『言ってる場合かなぁ。私にはちょっとまずい状況に見えるよ?』
八杉の声とは違う、若い女性の声が聞こえる。
「あー……確か、桜木……はんやっけ。」
『正解。』
桜木と呼ばれた女性は嬉しそうに呟き、『ストライカーズ、離陸!』と叫んだ。スピーカーからヘリの轟音が響き渡る。
武器庫と呼ばれるプレハブ小屋に辿り着いたまどかは、南京錠があることを思い出す。
「クッッソ……こう言うことがあるから、錠前は要らんって言うたのに……」
後ろでキュルキュル、という音が聞こえた。まどかは寸前のところで右に飛び退き、攻撃を避ける。彼女が「第E級節足型」と呼んだのは、例えるなら……白いのっぺりとしたプラスチックのような蜘蛛をそのまま大きくしたような生物だった。
「普段なら夜中に来ることなんてそうそうあらへんのになぁ……!」
まどかは目線を逸らさないようにして、南京錠のあたりを探る。南京錠は、節足型の攻撃で少し欠けたものの、依然としてそこにある。
「い~いこと考えたぁ……」
まどかはふふ、と笑いながら首をコキコキと鳴らす。
「おら、攻撃してこい!」と叫ぶと、また足での攻撃が飛んでくる。それをまた間一髪のところで避けると、南京錠はさらに大きく崩れた。
きらりは大きく跳ねると、ウネウネと動く怪物に向かって飛び蹴りをする。が、足を掴まれて大きく投げ飛ばされてしまう。真っ黒な怪物は追撃とばかりに触手を飛ばした。
宙を舞うきらりの左腕に、触手が突き刺さる。ぼ、という破裂音と共に左腕があるべき場所に円形のまっさらな空間が形作られた。血がポインセチアの花弁のように飛び散る。うめき声を漏らしたきらりは、「こんにゃろ……」と呟くと、歯と右腕を使って隠し持っていた手榴弾のピンを抜く。手榴弾を投げつけられた怪物は、反射的にそれを掴んでしまう。
ばがん、と。
怪物が爆発にのけぞるのと同時に、アスカは走り出す。100mのタイムは13秒ジャスト。
走り出すアスカを、月明かりがほのかに照らし出す。ぐん、と力を入れた右足が滑った。プールサイドをごろごろと漫画のように転がるアスカ。そこに左腕が消し飛ばされた怪物が覆いかぶさる。怪物が触手を突き刺し、プールサイドのタイルがバキッと割れた。キュルキュル、という音を一層早く巻きながら目をいっぱいに閉じ、こんな怪物でも怒るんだなと他愛もない事を考える。キュルキュルという音がおさまってきて、アスカはゆっくりと目を開けた。
しかし怪物の顔は以前としてそこにあった。
あぁ、もうダメだ。
そう考えた時、校庭の方で閃光が光った。キイィィン、と耳鳴りがして視界が真っ白に染まる。キュルキュル、と鳴き声が戻る怪物が驚き、苦しむのが感じられる。
その閃光が、まどかの投げたフラッシュバングレネードだったことを理解するまで、一瞬の時間を要した。
「アスカっ!」
目を閉じていたのだろう、きらりが右手でアスカの手を引いて走り出す。改めて見ると、プールサイドをパジャマ姿の少女2人が走っていくのはかなりシュールな映像だった。しかもその後ろにはうめく人形の黒い物体だ。フェンス越しの校庭にアスカが目を移すと、キュウウウウウン……という微かなチャージ音の直後に、節足型が粉塵と共に吹き飛ぶのが見えた。
まどかはびりびりと痺れる足と腕を精神力で押さえつけながら、「こんな反動の強い武器要らへんって……」と呟く。その手に握られていたのは、銀色の銃型の物体だった。銃…というには光りすぎているし、おもちゃというにはその重厚感はかき消せないものだった。碧いラインが幾本も走るその銃身はゲームセンターに置かれているようなシューティングゲームのものと酷似している。
突然、黒煙が走って銃が爆発した。「熱ッつ……!」とまどかは叫んで銃を投げ捨てる。
節足型が起き上がる。そしてその「何か」は、先ほど銃から発せられたキュウウウウウウン……というチャージ音に酷似した音を出した。正面ががぱぁ、と開き、先ほどと全く同じ。白い爆発が起きた。まどかの体がプレハブ小屋に叩きつけられる。がしゃん、と言う音と共にまどかは自分の肋が折れたことに気がついた。血反吐をげほ、げほと吐きながら倒れ込む。
バラバラバラ、とヘリコプターの騒音が校庭に響く。
節足型が大きく足を振り上げ、まどかの腹に狙いを定めた。
ガイィン、と金属に足が弾かれる音が響く。まどかはゆっくりと目を開ける。ヘリのサーチライトで照らされたプレハブ小屋の前に、その体には分不相応な大きさの鉄製の盾を持った少女が佇んでいた。もう一度、と節足型が足を振り上げて全力で叩き込んだ。盾に弾かれて火花が花弁のように飛び散る。
その少女は、ぱっと見は成人女性かと見紛う、クールぶった顔立ちに、真っ黒の隊服に身を包んで自衛隊が使うようなバイザー付きのヘルメットを被っていた。僅かに覗く口元は横一文字に結ばれており、バイザーの下の目も敵を見据えているであろうことが容易に想像できる。
「春坂美梨、現着した」
ぱらら、と軽い銃声が彼女の手元から響き、節足型がのけぞる。どん、と打撃音が響き節足型の足が一つ飛んだ。よく見れば粉塵の中にもう1人、ゆらりと立つ少女がいる。
「百々祭牧、現着っ……と」
自分の身長よりもやや高い両刃の斧を持ち、それを跳んで宙返りしながら的確に足の割れ目に叩き込んでいく。軽やかに斧を操る姿は圧倒以外の言葉では表せない。
節足型についていた目らしき器官が両断され、ぶしゅっと鮮烈な紫色の体液が飛び散る。あたりには花の蜜のような甘ったるい香りが漂っていた。
アスカは走る。段々と目が慣れてきたのか、周囲の状況が見えるようになってきた。振り返ると、回復し立ち上がった怪物の頭が最も容易くへしまがるのが見える。ヘリから光ったマズルフラッシュによって、それがスナイパーライフルによる狙撃であることに気が付く。さらに数発抉るように撃ち込まれると、怪物はカヒュウと言う残響を残して押し黙ってしまった。
通信に音声が混じる。
『左妻榛名、現着した』
美梨、と名乗った盾持ちの少女はヘルメットを外し、その金色のショートヘアを露わにした。
「第F級触手型及び第E級節足型の沈黙を確認。ストライカーズ、戦闘を終了する」
「あー……、ありがと、美梨。」
まどかが目を瞬かせながら礼を言う。
「本当なら、お前らが死んでもどうとも思わないのだが。桜木小隊長のだから仕方なくやっているだけだ」
「あんたもわっかりにくいツンデレやなぁ。だから友達できひんのや」
「大きなお世話だよ」
美梨が手を伸ばすと、まどかはそれを握って「いたた……」と肋の辺りを抑えながら立ち上がる。
「美梨さん!大丈夫ですかっ?」
先ほど両刃斧を操っていた少女——牧もヘルメットを外して美梨に駆け寄る。茶髪のショートヘアが粉塵に揺れる。
「なんや、今日は牧も一緒か」
「あぁ。」
大丈夫だ、と抱きついてくる牧を引き剥がしながら、美梨は答える。
「他には誰が?」
「あと……榛名さん、です」
引き剥がされた牧はつれないですよ、と呟きながらまどかの質問に答えた。
『撤退準備はできたぞ』
榛名の声が通信機を通して脳に届く。
「いや、彼女らの治療もあるし少しお茶でもしていこう」
がく、とまどかの膝が崩れる。
「うっ……」
まどかは分泌されていたアドレナリンが引いていくのを感じる。それと同時に肋の激痛が蘇る。
きらりのげほ、と吐き出す音に混じって地面に赤黒い液体が撒き散らされる。きらりの左腕は赤で彩られていた。
ヘリのサーチライトが閉じ、一瞬の間校庭は闇に包まれる。
「……よし。引き継ぎ完了。治療も問題なし、や」
千切れた左腕に包帯を巻きながら、きらりは顔をしかめる。
「今回の問題点は、非武装のところを狙われたことやな……。シュヴァルツたちも知能が上がってきてる。それに……夜中に襲撃なんて、久しぶりやな」
まどかも巻かれた包帯を新しいパジャマで覆い隠しながら、答えた。
「いくら特9が強化人種まみれのサイボーグ部隊であっても、また同じように非武装のところに襲撃を受けたら全滅は免れないぞ」
美梨は呟き、教室に置いてあるハーブの品定めをしながら、よし、とゼラニウムの瓶を取り出した。
「別にうちらはガンダムに乗れるわけでもなければ、不死身のサイボーグ009でもない。ただの一般的な15才の少女やで」
「一般的には、左腕を吹き飛ばされて痛がりもしないやつのことを人間とは呼ばねぇんだよ」
教室の窓に寄りかかっている少女がココアシガレットを噛み砕きながらツッコむ。その横で勝手に電気ケトルのお湯を使っている美梨。牧が少女を宥める。
「ま、まぁ榛名さん……精神力が強いってことじゃないですか?」
「ッち」と舌打ちをしながら、榛名は傍に置かれたスナイパーライフルに腕をもたれた。
『よう、アスカ。調子はどうだ』だったか。初対面にしてはかなり馴れ馴れしい言動をする彼女から少し距離を置いていたアスカは、やはりヤンキーのような人種だったかと身構える。
榛名の寄りかかった窓越しに見える住宅街はここ100年、一筋の灯りすら残していない。しかしそのさらに奥に、一つ明かりが残っている施設が聳えている。
星の揺籠。人類の最後の希望であり、砦。
「ほらほら、もう夜も遅いやろ。帰った帰った。」
きらりがしっしっと手を振る。
「いや、このゼラニウムを飲み終わったらな」
「そーですか……」
呆れながら肘より下がなくなった左腕をぐるぐると回すきらり。痛覚は感じていないようだが、それでも血に染まったガーゼと包帯は痛々しい。アスカはつい目をそらしてしまう。
「あぁ、痛覚は切断されとるから痛みは感じひんねん。サイボ〜グみたいやろ?」
どや、とにっこり笑うきらりの頭をぱこんと叩くまどか。いった〜……ときらりはうずくまる。
「アスカを怖がらせんな。ごめんなアスカはん。きらりはんのは昔の事故で神経が切断されてるだけや」
「ちぇ、せっかくかっこいいところ見せれたと思ったのに」
「その状態で言うと冗談にならへんから自重しとき」
まどかに釘を刺されてへえいと気の抜けた返事をするきらり。教室のディスプレイの上にかけられた時計の針は1時30分ほどを指している。
しばらくの沈黙が教室を支配した。ずず、と美梨がゼラニウムティーを飲む音と、榛名ががりがりとココアシガレットを噛む音、そしてカチコチと時計が刻を刻む音が満ちる。
「……さて。」
茶を飲み終わったのだろうか、美梨がカップを置いて立ち上がる。
「じゃ、失礼したね」
そう言ってからりと教室のドアを開け、美梨がカツカツと廊下へ出ていく。その後ろに牧が続き、榛名が続いた。
「じゃぁまた〜……」
まどかがつぶやくと、榛名がガラガラと扉を閉めた。しばらくして階段の方からガス、という衝撃音と「あ゛―っ!」という榛名の叫び声とともにダンボールの塔が倒れる音が聞こえる。
きらりが振り向き、「大丈夫か〜?」と叫ぶと、「私、手伝ってきます……!」とアスカがパタパタと廊下へ走っていく。2人取り残されたまどかときらりは、ふうとため息をついた。
「なーんか、アスカが配属されてまだ数日しか経っとらんのに、色々起こりすぎちゃうか……」
きらりが呟くと、まどかが机を拭きながら「いい実践訓練になったんちゃう」と答える。
「うちの腕が吹っ飛んでるのにその言種はないんとちゃう〜?」
まどかはきらりのうるうるした目を「どうせ外骨格使うんやしええやろ」と一蹴した。
「せやけど、外骨格かて金がかかる。どこまであの先生が出資してくれるかわからへんしなぁ」
「ほぼほぼ全身外骨格の少女がなんか言っとるわ」
う、と押し黙ると、まどかはベランダを開ける。少し肌寒い風が一筋通り、きらりはぶるっと体を震わせる。外に出ると、まどかは置いてあったジョウロを拾い上げて、ベランダに並んだプランターにそれぞれかける。シャアアア、という効果音とともに葉が水分を吸い上げていく。西の空に星が幾つか瞬く。
「そう言えば、昨日送られてきたアスカはんの個人データって見たんか?」
ふとまどかが呟く。
「んにゃ、別に。」
「あの子、不思議やねぇ。これまで一度も外骨格作ったことがないらしいやんか」
え、ときらりは振り返った。
「外骨格って、造花隊なら誰もが持ってるんと違う」
「不思議やろ」
その言葉に頷いたきらりは、一つ大きく伸びをした。
「それに……」
まどかは不安そうに呟く。ジョウロの中身は既になくなっていた。
「それに?」
「あの子、中学生の時の記憶が無いみたいなんよ」
ざぁ、と強い風が木々を揺らし、まどかのスカートをはためかせた。
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