はじまりの合図

月井 忠

第1話

 我々は両者の言い分を聞いて競技を開催することにした。


 一人は俊という男。

 足は速いが、頭が悪い。


 一人は学という男。

 勉強はできるが、運動はからっきし。


 競技はマラソンだった。

 俊の言い分が通って決まった。


 当然、俊が勝つに決まっている。

 誰もがそう思っていることだろう。


 はじまりの合図を出す役目は私が担った。

「それじゃあ、行くぞ……ヨーイ、スタート!」


 俊は脱兎のごとく走り出した。

 後ろ姿はすでに見えなくなっている。


 一方の学はまだ私の目の前にいた。

 意味ありげな視線をこちらに送ってくる。


 俊は勝つ気でいるだろう。

 勝負は、はじまりの合図のずっと前から始まっているとも知らずに。




 結果は学の勝利となった。

 当然、俊は抗議にやってきた。


「おい、あの勝負無効だ! 再戦しろ!」

「私たち運営に言われましても……再戦を望むなら、まずは学さんに言ってください」


「その学がいねえんだよ。俺が負けたと噂を流しやがって、会ったら承知しねえ」

 頭の悪い俊はまくし立てる。


 それが学の狙いと知らずに。


「てかさ、たまたま調子が悪かっただけなんだよ。急激に眠くなっただけで、勝負を捨てたわけじゃねえんだ」

 俊はレースの途中で寝てしまい、その間に学に抜かされたらしい。


 ざまあみろ。


「次やったら、絶対に俺が勝つんだ。もう一回勝負をやらせてくれ」

「ですから、学さんに」


「俺がここまで頼んでんのに言う事聞けねえのか? また沈められてえのか?」

 その一言でカチンと来た。


「黙って聞いてりゃ、図に乗りやがって。俺はオマエの言う事をちゃんと聞いてやってる。聞いてねえのはオマエの方だ。そのでけえ耳は飾りか? 今年の干支だからって調子乗るんじゃねえぞ」

「あんだとコラ! 干支にも入ってねえ野郎が何言ってんだ」


 これは完全に墓穴を掘った。

 それでも、私は目の前のウサギをにらみつける。


「今日は月ロケットの日だって言うじゃねえか。オマエみたいなヤツは月に行って餅つきでもしてろ」

「はあ? 月に行ったら死んじまうじゃねえか」


 例え話を解さぬ馬鹿者とは会話もできやしない。


「わかった。再戦の件を学に伝えておこう。それでいいだろ?」

「ちゃんと伝えろよ。約束だからな」


 ウサギの俊は帰っていった。


 伝えはしよう。

 しかし、カメの学が応じるとは思えない。


 そもそも、俊がレースの途中で寝てしまったのは、我々が俊の食事に眠り薬を混ぜたからだ。

 もちろん、これは学からの依頼だった。


 学と我々はグルだった。


 学は頭がいい。

 誰と組むべきかを知っていた。


 ウサギ共に恨みを抱く我々を選んだのだから。


 我々はカチカチ山の悲劇を忘れていない。


 カチカチ山で担いでいた薪を燃やされ、唐辛子を塗り込まれたのは俺の叔父だった。

 叔父の名は玉袋大次郎と言った。


 彼はその後、泥舟に乗せられ溺死した。


 話によると、玉袋の叔父貴がババアを殺したことでジジイがウサギに復讐を頼んだということになっているらしい。

 しかし、それは真実ではない。


 ババアはウサギによって殺られた。

 ジジイはウサギの言うことを信じたのだ。


 ウサギへの復讐は始まったばかりだ。


 これは壮大な復讐のはじまりの合図にすぎない。


 その後、因幡でウサギがひどい目に遭うのは、また別のお話。

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はじまりの合図 月井 忠 @TKTDS

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