#9 人生のトラブル(1)

 人生には多くのトラブルがあり、さまざまな種類がある。

 残念ながら、いくつかの悲痛は十分に現実的なもので、とりわけ私たちが自分自身にもたらす悲痛はそういうものだ。


 しかし、自分以外の悲痛は決して少なくはなく、それは単に「トラブルの亡霊」に過ぎない。恐れずに向き合えば、それは実体がなく、現実でもなく、自分自身の病的な想像力が作り出したものだとわかる。

 ダビデの時代と同じように「人は、実体のない影におびえて不安になる」のは今も真実だ。


 トラブルの中には「悪だが実在しないもの」がある一方で、「実在するが悪ではないもの」がある。


「この世のトラブル(不安や問題)が世論を扇動するとき、心はどれほど底知れぬ深淵に突入していくのだろう。永遠の喜びである自分の光を忘れて、この世のトラブルである外側の暗闇に飛び込むのは、嘆き以外の何ものでもない」[1]


 エピクテトスは、「アテネはいい所だが、幸福ははるかにいい。情熱と騒乱から自由になれる」と語っている。


 私たちは、「この理解しがたい世界の重荷と疲労を背負っていても、祝福された気分があればすべてが軽くなる[2]」といった心がけで、自分自身を維持するよう努力すべきだ。


 だからこそ、私たちは「アリスティデスの追放も、アナクサゴラスの牢獄も、ソクラテスの貧困も、フォキオンの断罪も恐れない。このような試練のもとでも、徳は私たちの愛に値すると考える」[3]


 そうすれば、私たちは、外的環境からかなりの程度、独立した存在になれるはずだ。


「石の壁は牢屋にならず、鉄格子は檻にもならない。

 無垢で静かな心は、そこを住処すみかとする。

 もし、私の愛が自由ならば、私の魂の中に自由がある。

 そのような自由を享受するのは、高く舞い上がる天使だけだ」[4]



(※)アリスティデス(Aristides):古代ギリシャの政治家。大勢から褒められていることが気に入らないという理由で追放された(陶片追放)。


(※)アナクサゴラス(Anaxagoras):古代ギリシャの自然哲学者。太陽は「灼熱した石」であると説き、太陽神に対する不敬罪で投獄された。


(※)フォキオン(Phocion):古代ギリシャの政治家、将軍。アテナイの弱体化とマケドニアの軍事力を警告、両国の協調策を進めていたが、民主制が復活した際に告発・処刑された。





 幸福とは、実のところ、自分の外側よりも内側にあるものに大きく左右される。


 ハムレットが「世界は立派な牢獄だ。至るところに独房と留置場と地下牢がある。デンマークはその中でも最悪だ」と嘆き、ローゼンクランツが賢明に言い返すと、「では、君たちにはそうではないのだ。そもそもそれ自体よいとか、悪いとかいうものではない。考え方ひとつだ。私にとっては牢獄だ」と答えた。


 マルクス・アウレリウスは「すべてが意見だ」と言い、次のように語っている。


「人を悪くしないものが、どうしてその人の人生を悪くするだろうか。生も死も、名誉も不名誉も、喜びも痛みも、そのすべてが、善人にも悪人にも等しく起こることで、人間を良くも悪くもしない」


 ジェレミー・テイラーは次のように語っている。


「最大の悪は私たちの中にある。最大の善もまた、私たち自身の中から見つけなければならない」


 ミルトンは次のように語っている。


「心(マインド)とは、自分ならではのスペースだ。地獄にある天国、天国にある地獄を作ることができる」


 ミルトンは盲目だったが、より美しいビジョンを見ていた。

 ベートーベンは耳が聞こえなかったが、私たちの誰よりもたくさんの天上の音楽を聴いた。




 人は誰でも、何が起こるかわからないと最悪の事態を恐れる傾向がある。


 だが、どんな危険も、その全容を知ったときに半分が終わっている。

 だからこそ、人は強盗よりもゴースト(幽霊)を恐れるが、恐るに足る理由がないどころか理屈に反している。ゴーストが存在するとしても、どうやって人間を傷つけることができるのか。ゴーストを見たという人でさえ、断言したり実際に触れた人はほとんどいない。


 ミルトンは、死についての記述で、このの特徴を詳しく述べている。


「もしが形と呼べるなら、人相、関節、四肢の見分けがつかず、実体は影が見えるとでも言うのだろうか。形にも影にも見えるのだが、黒いは夜のように立ち、十人の復讐者のように激しく、地獄のように恐ろしく、そして致命的なダーツ(投げ矢)を投げた。頭には王冠のようなものが乗っているように見えた」


 暗闇と夜は、恐怖を高める。

 その効果は、旧約聖書『ヨブ記』の崇高な一節に記されている。


「人が深い眠りにつき、

 夜の幻に思い乱れている時、

 恐れが私に降りかかったため、おののき、

 私の骨はことごとく震えた。

 その時、ひとつの霊が、私の顔の前を過ぎたので、

 私の身の毛はよだった。

 それは立ちどまったが、

 私はその姿を見分けることができなかった。

 ひとつの形が、私の目の前にあった。

 静寂の中で、わたしはひとつの声を聞いた。

 『人間は神の前で正しくあり得るだろうか?』」


 このようにして恐怖は、慰めと慈悲の教訓へと変わった。




 人間はしばしば悩みや困難を拡大して、実際よりもはるかに大きくしていることがある。


「危険とは、以前は軽いと思われたとしても、もはや軽いものではない。危険は、人を強制するよりも人を欺くことが多い。いや、危険が接近しないかと長く見張り続けるくらいなら、何も近づいてこないうちに、途中で危険に遭遇する方がいいだろう。人はあまりに長く見張りすぎると、眠ってしまう可能性が高いからだ」[5]


 は非常に賢明だが、は非常に愚かだ。

 いずれにしても、城は「見えない迷宮」より優れている。


 私たちが抱えるトラブルの中には、確かに現実的なものもあるが、トラブル自体は悪ではない。


 意図的であろうとなかろうと、何かの拍子に正しい道を踏み外し、間違った方向に進んでしまうことは、残念ながらよくある。

 そのとき、私たちは自分の足跡をたどって来た道を戻れるだろうか。失われたものを取り戻せるだろうか。それが可能だと断言するのは、あまりに悲観的な考え方だ。


「多すぎる言葉、長すぎるキス

 世界は二度と元には戻らない」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る