#1 幸せになる使命 -THE DUTY OF HAPPINESS-
もし、ある人が不幸なら、それは彼自身の責任に違いない。
なぜなら、神はすべての人が幸福になるように創ったからだ。
——エピクテトス
(1) 人生の幸せ
人生(Life)とは偉大なギフトである。
分別のつく年齢になると、多くの人は「自分の存在理由は何か」を自然に自問するようになる。
「最大多数の最大善」を絶対的なルールとして受け入れない人でも、人は誰でも、仲間の幸福にできる範囲で貢献するよう努力すべきだと認めるだろう。
しかし、自分自身が幸せになることは正しいのかと迷う人も少なくないようだ。
もちろん、自分自身の幸福が最大の目的であってはならないし、利己的に追い求めれば決して幸福になることはできない。人生には多くの楽しみ(快楽)があるが、快楽に支配されてはいけないし、快楽がなければすぐに悲嘆に陥ってしまう。
「快楽と悲嘆。この不誠実で残酷な命令者二人に次から次へと支配される人は、どれほど危険でみじめな隷属状態に陥るのだろうか」[1](セネカ)
しかし、私は、教師が「義務(使命)を果たす幸せ」だけでなく、「幸せになる義務(使命)」にも言及するようになれば、この世界はもっと良くなり、もっと明るくなると思う。なぜなら、自分自身が幸せであることは、他人の幸せに最も効果的な貢献となるからだ。
明るい友人は晴れた日のように周囲を明るく照らす。
誰もがそう感じたことがあるはずだ。
私たちは自分自身の選択で、この世界を宮殿にも牢獄にもすることができる。
憂鬱な気分に浸ったり、自分は運命の犠牲者だと嘆いたり、多かれ少なかれ不幸を想像して思い悩んだりすることには、間違いなく利己的な満足感があるものだ。
明るく元気でいるためには、しばしば努力が必要だ。
自分自身を幸せに保つには、ある種の芸術が必要なのだ。私たちは、まるで他人であるかのように自分自身を見守り、管理する必要がある。
悲しみと喜びは、不思議なほどよく織り合わさっている。
「私たちは前後を見比べて、ないものねだりをする
私たちの真心からの笑いは、痛みを伴うもので、
私たちの最も甘い歌は、最も悲しい思いを語る」(シェリー)[2]
イギリス人は憂鬱になりがちだ。
喜びさえも陰気に受け止めると言われているが、これが真実なら一過性のものであってほしいと思う。昔のように、「陽気なイギリス人」と呼ばれることを願いたい。
本当の憂鬱は、東洋に求めなければならない。
ウマル・ハイヤーム(セルジューク朝ペルシアの詩人)の四行詩の冒頭ほど、悲しい言葉はないだろう。
「私がここにいるのは一日か二日の短い間だけ
ここで得られるのは悲嘆と切なさだけ
人生の問題をすべて解決できないまま
後悔に悩まされながら、私は去らねばならない」
あるいは、エドウィン・アーノルドの美しい翻訳版による、シッダールタ王子(出家する前の釈迦)に捧げるデーヴァたちの歌だ。
「私たちは、さまよう風の声
安らぎを求めるが、安らぎは決して得られない
風がそうであるように、人間の生もそうである
うめき、ため息、嗚咽、嵐、闘争」
もしこれが真実なら、もし人間の生がそれほど悲しく、苦しみに満ちているならば、正気を犠牲にしてでも涅槃(ニルバーナ)を……悲しみの終結を歓迎するのは当然だ。
しかし、私たちはまったく別の理想を目標にするべきではないだろうか。
より健全で、より雄々しく、より気高い希望だ。
人生とは、ただ生きることではなく、よく生きることである。
世の中には、セネカいわく「何の意図もなくただ生きて、川の水面の藁のように世を流れていく者」や「自ら行くのではなく運ばれていく者」がいる。
しかし、ホメロスがユリシーズに言わせたように、「立ち止まり、終わりを告げ、燃え尽きることなく休むとはなんと退屈なことか!」
ゲーテは三十歳のときに、「もはや人生を半分ずつではなく、すべての美しさと全体性をもってやり遂げよう」と決心したと語っている。
「真・善・美の中で、毅然と生きる」
人生とは、時間・寿命の長さではなく、思考と行動でその価値を測らなければならない。
人生とは、明るくて面白くて幸せなものかもしれないし、そうであるべきだ。
イタリアの格言によれば、「広場に住めなくとも太陽を感じることはできる」という。
もし私たちがベストを尽くすなら——、小さな悩みを肥大化させずに、物事の明るい側面だけを見るのではなく、物事をありのままに毅然として見つめ、私たちを取り巻く様々な祝福を利用するなら!
人生とは、本当に輝かしいギフトだと感じざるを得ないのだ。
「彼が気づかないほど多くのサーバント(奉仕者)が人間を待っている。
病気で青ざめて弱っている時も、彼はあらゆる道で援助を踏みにじる。
ああ、力強い愛よ!
人は一つの世界にいながら、もう一つの世界を持っている」(ジョージ・ハーバート)[5]
(2)幸福を知覚する力
しかし、人生(Life)の素晴らしい特権や、受け継いだ恩恵に気づいている人はほとんどいない。
私たちが望めば、宇宙の栄光と美しさを自分のものにできること、平和を手に入れて、痛みや悲しみを克服する力を持っていると理解している人はほとんどいない。
ダンテは、機会の軽視を重大な過ちだと指摘した。
「人間は『自分自身』と『自分自身の祝福』に暴力を振るうことができる。このために、人間は次の段階で延々と自分の罪を嘆き悲しみ、救いがたい悔恨の念を抱く。無謀な浪費で生命と光を奪う者は、その才能を浪費し、喜びに包まれるべき時に悲嘆に暮れる」
ラスキンは、輝かしいこの世界の驚くべき美しさを特に強調して、次のように表現している。
「司祭は『神の愛』を説くとき、その愛が最も豊かに、すぐに示されるものについてほとんど何も言わない。司祭は「神がパンや衣服や健康を与えてくれる」と強調するが、神が人間にだけ許した『知覚』という御業の栄光に感謝することを求めない。司祭は「クローゼット(小さな密室)で瞑想するように」と言うが、イサクのように夕暮れの野原には行かせない」
しかし、ラスキンは別のところでこうも言っている。
「人間は、それぞれが人生の道を歩みながら、自分の働きに応じて選択することができる。自然のすべての声を喜びの歌に変えるか、または、自然の憐れみを枯らして恐ろしい非難の沈黙に変えるかを。私たちに対して、石を投げつけ、塵を揺り動かすかを」
私たちは皆、ヘンリー・テイラー卿のように「人生を振り返ると、失われた機会に満ちている」と認めるべきではないだろうか。
トーマス・ブラウン卿は次のように語っている。
「私は人を幻影としか思っていない。
だが、肉体によって可視化された情動を身にまとっている」
聖ベルナールに至っては、「自分を傷つけるものは何もない。自分が被った害は自分が背負うものであり、自分の過失以外には本当の被害者にはなり得ない」とまで語っている。
異教徒の教訓も、よく似た教えを説いている。
皇帝マルクス・アウレリウスは次のように語っている。
「神々は、人間が本当の悪に陥らないように、あらゆる手段を尽くした。
人を悪くしないものが、どうしてその人の人生を悪くするだろうか」
エピクテトスも同じようなことを語っている。
「もし、ある人が不幸ならその不幸は自分のせいだ。
神はすべての人が幸福になるように作られたのだから。
私はいつも起こることに満足している。
神の選択は、私が選択するよりも良いと思うからだ」
そしてまた、
「自分の思い通りにしたいと願わずに、起こることがそのまま起こるようにと願えば、静かな人生の流れを手に入れることができる。もしあなたが他人のものを欲しがるなら、あなたは自分のものを失うのだ」
しかし、聖ベルナールほどの高みまで行ける人は、ほとんどいないだろう。
私たちは、痛み、病気、不安、喪失、思いやりのなさ、失敗、愛する人の冷淡さなどに苦しまずにいられない。怒りの言葉で、どれほど多くの一日が暗く沈んでいったことだろう。
ヘーゲルは、1806年10月14日にイエナで『精神現象学』を書き上げたというが、その時、彼の周りで起こっていた戦いのことは何も知らなかった。
マシュー・アーノルドは、「人間は天体に学ぶべきものがあるのではないか」と語っている。
「周囲の静寂に惑わされず
目に映る光景に心を奪われることもない
星々は自分たちの外にないものを求めず
愛、娯楽、共感に身をゆだねる」
「自分自身に縛られて、
神がなさる業がどんな状態かを観察することもない
神は自分の仕事に全力を注いでおられるから、
ご覧のように、力強い生命を獲得している」
確かにその通りだ。
「人は自分自身の星である。
私たちの行為も、私たちの天使も、
善くも悪くも」
「悪事を働こうとする群衆に従うより、
ポンペイの柱のように堂々と立ち、
誠実な一人でいるべきだ」(トーマス・ブラウン)[6]
しかし、多くの人にとって「孤立」自体が最大の苦痛だ。
なぜなら、心とは「他の土地から切り離された島ではなく、他の土地に結合する大陸」だからだ。[7]
もし、自分自身を周りから切り離して、人の苦悩に共感しないなら、幸せを共有することもできず、得るものよりもはるかに多くのものを失うだろう。
共感や共有を避けて、冷たい利己主義という鎖の甲冑で自分自身を縛り付けるなら、人生の最も偉大で純粋な喜びから遠ざかることになる。痛みに対して無感覚になれば、幸福の可能性も失う。
さらに、人が「悪・不幸」と呼ぶものの多くは、本当は「善の偽装」かもしれない。
「理不尽な逆境のせいにして軽率に喧嘩をするが、
逆境に結びついた慈悲を見過ごしてはならない」[8]
快楽と苦痛は、プルタークが言うように、肉体と精神を結びつける
痛みは危険を知らせる警鐘で、人がこの世に存在するために必要なものだ。感情が発する警鐘がなければ、私たちを取り巻く恩恵はすぐに、そして必然的に致命的なものとなるだろう。
心身が発する警鐘について深く考えたことのない人は、体の奥深くにある内臓が最も敏感だという印象を抱いているが、これは正反対だ。肉体と内臓は痛みを感じる必要がないため、健康である限り比較的無感覚だ。
(3)悪(不幸)の中にある幸せ
私たちはよく「悪の起源」について語るが、悪とは何だろうか。
苦悩と試練について、大抵の場合「結果的に良いものだ」と話すが、苦悩と試練自体が良いものかもしれないとはほとんど考えない。
苦悩と試練は知恵を与えてくれる。
人間は経験するからこそ、教訓という知恵を得られるのだ。人を神々と同じように、経験なしに理解できるようにしない限り、他にどのような方法で教訓を学ぶのだろうか。
人が経験することはすべて、一見すると悪に見えることさえ、その人にとっては最善なのかもしれない。少なくとも、習慣的な言葉の意味において、悪というものはない。
実際、「谷は丘にいるときに最もよく見つかる」[9]し、「大きな利益を感じるには、小さな損害を知らなければならない」[10]と言うではないか。
たとえ望みがすべて手に入らないように見えても、フィリカヤのソネット(十四行の抒情詩)をリー・ハントが美しく翻訳したように、多くの人がこう感じるだろう。
「高貴にして無限なる神の摂理は
人のニーズを見つめる仕事をしている。
人の祈りを聞き入れ、望みを叶えてくれる。
人の権利と思われることを否定しても
人に求めさせるために否定するか、または、
否定していると見せかけ、否定しながら許可してしまう」
その一方で、「神が絶え間なく干渉している」という考えを受け入れない人は、宇宙の法則は全体として一般的な幸福のために働くと信じて喜ぶだろう。
「悲しみ(Grief)とは、喜びのように、
荘厳で、平穏で、穏やかであるべきだ
確認し、清め、高め、自由にする
小さな悩みを解決する力を持ち
偉大な考え、重大な考え、
最後まで続く考えを称える」(オーブリー・ド・ヴィア)[11]
人生のすべてを幸福にすることは不可能だとしても、苦悩・試練という重りを天秤の片側に置けばバランスを確保できる。
不幸に見える出来事でさえ、勇気を出して向き合えば、しばしば良い方向に転じる。セネカは、「災い転じて福となす。大きな廃墟がより大きな栄光の道を開く」と述べている。
例えば、ヘルムホルツが科学の世界に入ったのは、病気がきっかけだった。
1841年、秋の休暇中に腸チフスで倒れて病院で過ごしたおかげで、顕微鏡を手に入れることができた。当時のヘルツホルムは学生だったので、医療費を自己負担しないで看護を受けられた。回復したときには少ない財源の中から貯金を手に入れた。
また、カステラールは次のように語っている。
「サヴォナローラは、別の環境にいたら間違いなく良き夫、優しい父になっただろう。その代わり、歴史に名を残すこともなく、時間の砂や人間の魂に深い痕跡を刻むこともなかっただろう。しかし、不幸が訪れて、彼の心を砕き、悲しみの中にある魂に特徴的な憂鬱を与えた。サヴォナローラの額を茨の冠で囲んだ悲しみは、不滅の輝きを花開かせた。彼の希望は愛した女性に釘付けとなり、彼の人生は彼女を手に入れるためにあった。彼女の家族がついに彼を拒絶したとき——ある者は彼の職業を理由に、ある者は彼の人柄を理由に——彼に死が降りかかったと考えたが、本当は不滅だった。」
(※)ジロラモ・サヴォナローラ:ドミニコ会修道士。フィレンツェで教会の腐敗とメディチ家の独裁を告発する演説をおこない、イタリア戦争に乗じて実権を掌握するが、教皇に破門され火刑に処される。
とはいえ、悪の存在を完全に否定することは不可能だ。
長い間、悪は人間を刺激してきた。未開人は「悪霊がいる」と仮定して諸問題を解決する。古代ギリシャ人は、人間の不幸は神々の反感や嫉妬に大きく起因すると考えた。人間に対して、一方は友好的でもう一方は敵対的な、正反対の二つの神の原理を想像した。
(人間の)行動の自由は、悪の存在を含んでいるように思われる。
人間全般に善悪を選択する権限があるとすれば、その選択は多くの場合、私たち一人ひとりの「小さな選択」に依存しているはずだ。物事の本質において、2足す2が5になることはあり得ない。
エピクテトスは、ユピテル(ローマ神話の神、ゼウス)が人間に次のように語りかけると想像している。
「もし、人の肉体と財産を損害から解放することが可能ならば、
私はそうしただろう。
不可能だから、私は自分の一部を人に与えた」
この「神性」というギフトは、人が賢く使うためにある。
実際、それは人にとって最も貴重な宝物だ。
「魂とは、あなたが持っている他のすべてのものよりもずっと良いものだ。
なぜなら、賢いあなたが、自分の持っている最も貴重なものを、
軽率に、不注意に、ないがしろにして、
滅びさせるとは思えないからだ」(エピクテトス)[12]
たとえ悪を完全に避けられないとしても、人生が善であるか有用であるか、悪であるか無用であるかだけでなく、「幸福か不幸か」は、私たち自身の力によるところが大きく、自分自身に大きくかかっていることは間違いない。
「愚者を不幸から解放するのは時間だけだが、
理性は賢者を不幸から解放する」(エピクテトス)[13]
過去に「自分自身の力だけで、自分自身のみを完全に破滅させた者」は一人もいない。私たちは自分自身の支配者ではないにせよ、少なくともほとんど創造主に等しい。
多くの人間が、大きな悲しみや病気・死別を経験する。
だが、むしろ、人生の晴れ間を曇らせるのは、小さな「日々の死」だ。
悩みの多くは、それ自体はささいなもので、簡単に避けることができるかもしれない。
愚かな喧嘩や誤解がなければ、一般的にどれほど幸せな家庭を築くことができるだろう!
屁理屈をこねたり、機嫌を損ねたりするのは、ほとんど自分自身のせいだ。
また、これは簡単なことではないし、その必要もないが……、他人の気まぐれや不機嫌に振り回されて自分が不幸になることも簡単ではないが許そう。
苦しみの大半は、実際に落ち度がなかったとしても、少なくとも無知や軽率さによって自分自身がもたらしたものだ。
人間はあまりにも頻繁に、一瞬の快楽だけを考え、引き換えに人生の幸福を犠牲にしている。トラブルの方からやってくることは比較的少なく、自分からトラブルに近づき、そのために人生を浪費している。
ラ・ブリュイエールは「人は、人生をみじめにするために人生の大半を費やしている」と語り、ゲーテもまた次のように語っている。
「哀れな人間は、いつの時代も
虚栄心を蒔き、絶望を刈り取る」
悪・不幸を予期して、多くの苦しみを味わうだけではない。「ノアは洪水の苦難の中で長い年月を過ごし、エルサレムは包囲される前にエレミヤに奪われた」というように、人間は起きるかどうか分からない災難を予期して、しばしば大いに悩む。私たちはベストを尽くして、冷静にその結果を待つべきだ。よく過労で倒れたという話を聞くが、十中八九、心配や不安が原因でそうなる。
ルソーは「道徳的な悪(不幸)とは、犯罪を除き、すべて心の中の意見で、自分自身に依存している。その解決策は、時間か死だ」と語っている。
「人の救済は、しばしば自分自身の中にあり、
人はそれを天に帰す(天のおかげだと考える)」(シェイクスピア)[14]
(4)不幸から自分を守るために
ただし、ここまでの話は大人に限られる。子供の場合は違う。
一般的に「子供時代は幸せだ」といわれるが、私はそれは間違いだと思う。
とはいえ、子供とは、しばしば過剰に心配をしたり、過敏に反応するものだ。
人間は人間らしくあるべきで、自分の運命を支配するべきなのに、子供は周りの大人に支配されている。
偉大な馬の調教師ミスター・レアリーは、怒りの言葉が馬の脈拍を一分間に十回も上昇させると語っている。
ならば、子供はどうだろう。大人たちの怒りが子供にどんな影響を与えるかを、どうか考えてみてほしい!
若者が未熟さゆえに、過度の心配をするのは仕方ない。
だが、それは克服しなければならない危険な性質でもある。
「嵐の恐怖は、主に応接間や船室で強く感じる」(エマーソン)[15]
「想像上の悪」または「問題を引き起こすきっかけ」から身を守るために、人はしばしば現実の苦しみを味わう。
エピクロスは「少しも満足できない人は、何をしても満足できない」と語っている。人間はしばしば「満足できないことを理由に労働する」が、セネカいわく「使う以上のものは必要以上であり、重荷でしかない」。[16]
人間の多くは、膨大な量の無駄な悩みを抱えている。
いわば不必要な重荷を背負って、人生の旅をしているのだ。[17]
フランシス・ベーコンは「貨物列車が長くなるほど、翼が短くなる」と表現している。
あの楽しい童話『鏡の国のアリス』では、白の騎士が旅立ちの際に、夜中にネズミに襲われたときのためにネズミ捕りを、ハチの群れに出くわしたときのために養蜂箱など、さまざまなものを積み込んだと描写している。
ハーンは『カッパーマイン川河口への旅』の中で、探検を始めて数日後にインディアンの一団に出くわして、持ち物を大量に奪われた。しかし、ハーンは「荷物の重さがかなり軽くなったので、翌日からの旅はずっと楽になった」と言ってのける。哲学的な道具もインディアンに壊されたことを付け加えておくが、これは間違いなく探検の邪魔になるものだ。
皇帝マルクス・アウレリウスは、賢明にも「あなたを煩悩へ導くあらゆる機会に、『これは不幸ではない。気高く耐えることは幸運だ』という原則を思い出せ」と説いている。
怒りは、怒りを誘発した出来事以上に害を及ぼす。
人は、怒ったり悩んだりした出来事そのものよりも、心の中で引き起こされた怒りや悩みによって、さらに大きな苦しみを受けている。他人の喧嘩や家族の争いに巻き込まれて心を乱されることを、ほとんどの人が許容している。
とはいえ、大抵の場合、人は自分の非を指摘されることを苦にすべきではない。
もし、批判が正当なら警告を歓迎すべきだし、批判が理不尽なら、なぜ私たちを苦しめることを許さなければならないのだろうか。
不幸が起きたときに、それを嘆き悲しむことでさらに不幸を悪化させてしまう。奴隷出身の哲学者エピクテトスは次のように語っている。
「私は死ぬが、悲しみながら死ななければならないのか。
私は鎖に繋がれているが、嘆かなければならないのか。
私は当てもなく流浪しているが、明るく満ち足りて流浪してはいけないのか。
「今度はおまえを牢獄に閉じ込めてやる」だって?
おまえこそ何を言っているんだ。
私の体を牢獄に閉じ込めても、私の心はゼウスでも倒すことはできない」
幸福になれない理由は、大抵の場合、自分自身に原因がある。
ソクラテスは、三十人の暴君が支配する時代に生きた。エピクテトスは哀れな奴隷だが、私たちは彼からどれほど多くのギフトを得たことか!
エピクテトスは「どうしてそんなことができるのか」と語っている。
「何も持たず、丸裸で、家もなく、火もなく、汚く、
奴隷も故郷も持たない人が、当てもなく流浪する人生を送る。
どうしてそんなことができるのだろうか。
見よ、神はそれが可能であることを示すために人を遣わされた。
町もなく、家もなく、財産もなく、奴隷もなく、地面に寝ている私を見よ。
妻もなく、子供もなく、テントさえなく、
ただ天と地と、粗末な顔があるだけだ。
私は何を欲しているのか。悲しくないのか。恐くないのか。自由はないのか。
私が望みを果たせずにいるのを見た者はいるか。
神を呪ったことがあるか。人を呪ったことがあるか。
私が悲しい表情を浮かべているのを見たことがあるか。
あなたたちが恐れ敬う人たちに、私はどのように接してきただろうか。
私は彼らを奴隷のように扱ってはいないだろうか。
私を見るとき、誰が自分の王と主人を見たように思わないだろうか」
感謝すべきことがどれほどあるかを考えてみてほしい。
多数の人間が、日常的に与えられている多くの恩恵に感謝していないが、ミヒャエル・アンジェロいわく、「小さなことが完璧を生むが、完璧さとは小さいことではない」のだ。
ありふれているから忘れてしまう。
ミスター・ペイターがよく述べているように、一人ひとりが、
「パンやワイン、果物やミルクなど、
これらのシンプルなギフトは、
日常生活のすべての手段に確実に属している。
身近なベールを取り払って、
それが低俗なものではないと思い出せば、
詩的で道徳的な意味を取り戻せるかもしれない」
イザーク・ウォルトンは次のように語っている。
「神から受けている祝福がありふれたものだからといって、神を大切にせず称賛しないようなことがあってはいけない。私たちが出会ってきた純真な笑いと喜びに対して、神を称賛することを忘れないようにしよう。目の見えない人は心地よい川や草原や花や泉を見るために何を捧げるだろうか。私たちは日々、このような祝福をたくさん享受している」
幸福、満足とは——、エピクロスいわく「それは大きな富ではなく、少ない欲求にある」という。
ただし、私たちが暮らすこの幸運な国(大英帝国)では、多くの欲求があっても、それが合理的ならすべて満たすことができる。
自然は人間の幸福に必要なものを惜しげもなく提供してくれる。
ラスキンは「穀物が育ち、花が咲き、農具に息を吹きかけたり、本を読んだり、考えたり、愛したり、祈ったりすること。これらは人間を幸せにするものだ」と語っている。
ジェレミー・テイラーは「私は盗賊の手に落ちてしまった」と語る。
「ではどうする。賊たちは、私から太陽と月、火と水、愛する妻と私を憐れむ多くの友、私を救ってくれる人を奪ったが、私はまだ話すことができる。賊たちは私の明るい表情、明るい精神、良心を奪っていない。喜びがこんなにあるのに、これらの喜びをすべて手放して、小さな茨の上に座ることを選ぶ者は、悲しみと憂いをこよなく愛しているのだ」
さらに、エピクテトスはこうだ。
「つれづれなるままに考えながら、太陽や月や星を見上げたり、大地や海を楽しんだりするとき、人は孤独でもなければ無力でもないのだ」 [18]
ルターが「楽園は全世界に適用できる」と語ったように、これ以上望むものがあるだろうか。
ミスター・グレッグは『エニグマ・オブ・ライフ(The Enigmas of Life)』で、「あらゆる種類の美」について次のように語っている。[19]
——あらゆる種類の美が、人間に与えられたホームに惜しみなく注がれた。
あらゆる感覚を魅了する美しさ、あらゆる味覚を満足させる味わい。
高貴で愛らしい形、華やかで複雑な色、甘美で繊細な香り、心地よく刺激的なハーモニー。
陽光の輝き、月光の淡いエリュシオン(楽園)の恵み。
湖、山、原生林、果てしない海。
ある半球では「年月を重ねた氷雪の静かな頂」を、
別の半球では「熱帯の豊かさの驚異」を。
夕焼けの静寂、嵐の威容。
あらゆるものが、人間が存在する場所に、限りなく豊富に与えられている。
人は、これらよりも精巧で完璧なものを想像したり、望んだりすることはできない。
人の感覚を楽しませるために用意されたものは、あふれんばかりの豊かさだ。
人の複雑な性質の他の要素についても同じだ。
若いイマジネーション(空想)の恍惚とした表情や、思考の世界の豊かな驚きに酔いしれたことのある人は、「知性が感覚と同じくらい豊かな恩恵を受けている」ことを告白してみないか。
人間の愛を……、その黎明期と頂点にある喜びにおいて、本当の意味で味わい、深く理解した者が「理解を超えた」幸福を神に感謝しないでいられるだろうか。
創造主は、愛する子供たちのために、楽しいことを考案することだけに熱中している。
そんな姿を想像したら、存在しない幸福は一つもないだろう——。
【追記・2023年5月16日】
電子書籍化につき、規約の都合上、第一部・本文の大半を非公開にしました。
見本代わりに、「#1 幸せになる使命 -THE DUTY OF HAPPINESS-」(このページ)を残しています。
第二部(次のページ))は続刊をリリースするまでカクヨムで掲載します。
なお、電子書籍版のタイトルは、『十九世紀の異端科学者はかく語る ダーウィンの愛弟子ラボックの思想と哲学 -The Pleasures of Life-』になります。
訳者序文として、「チャールズ・ダーウィンと愛弟子ジョン・ラボックの師弟関係」を書き下ろしています。
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