第8話 全ての真実

 暁子との再会を果たした日から数日。陽向崎中学校の一年三組は、いつにも増して姦しい。朝は静かという定石はまるで通用しないほど、どこかしこで話声が聞こえていた。

 その訳はとある噂話の真偽を巡って会話をしている生徒が多いからのようで、私が席について早々、近くでそれについて話す生徒の声が耳に入ってくる。


「夕季がさ、いじめられている生徒を救ったって噂知ってるか?」

「知らない知らない。どういうこと?」

「それがさ――」


 夕季が行ったことの真実を知る生徒は、私や松院先生、いじめから救い出された生徒など、ごくごく限られていたはずだった。だが、突如としてその話が噂として出回り始め、現在ピークを迎えている。

 そして当の本人である隣の席の夕季は、この予想だにしなかった事態に驚きつつ、照れたように目線を伏せている。


「どういうことだよ……」


 夕季はポツリと、私に聞こえるギリギリの小さな声で呟いた。

 私はあえて聞かなかったふりをして静かに席を立ち、そのまま教室を出ていく。そして最後に、扉の小窓から中を覗いて彼の様子を再度伺った。

 すると、この噂の真偽を知りたがっている生徒たちが一斉に彼を囲み始める。彼はそれに一時困惑しつつも、半分諦めて応対しているようだ。

 私はそれをしっかり確認し、静かに教室を後にした。



* * *



 先日、暁子との再会を果たしたことも大きく起因しているのだろう。この場所に立つと、これまで起きてきたことが頭の中を駆け巡る。

 暁子との別れを告げた場所、月城さんに救われた場所。

 陽向崎中学校の屋上から見る景色は、高校の屋上から見えるそれとは少し違うけれど、懐かしい感覚を思い起こさせる。


「これで良かったのかな……」


 フェンスに前屈みにもたれかかり、そんな風に嘆く。


「求められた結果に対して、そのアプローチは決して一つではない。どこか数学と似た部分がありますね」

「松院先生……」


 私の呟きを拾って聞いたのだろうか。松院先生はそう言いながら、こちらへ一歩、二歩と歩み寄る。

 それはかつての誰かと似た所作で、その相貌もある人と近似できる。


「いえ、月城さん」


 そう口にすると、松院先生――否、月城さんは目を丸めたと同時に、「バレてたかぁ」と若干残念そうに髪に手を触れる。そして私を救ったあの日と同様に、鬘を外して見せた。

 今回の彼は化粧をしていたらしく、いつもの月城さんとは肌感が微妙に異なる。鬘を外した今でも、いつもとは少し違った雰囲気があった。

 月城さんは私がちゃんと確認したのを見て、再び鬘を被り直す。分かった上で見ていればさすがにそうだと分かるが、知らなければやはり早々気付かないだろうなと感じる。


「気付いたのはほんの数日前のことです。それまでは全くでした」


 彼は私の横に並ぶようにして立ち、同じようにして外の景色を眺める。


「先日私の家を訪れた際、月城さんは私にさり気なくヒントを与えましたよね。ニュートンの万有引力に関する逸話を持ち出したのは、今回私がとった策のキーとなりました」

「さぁどうだろう。偶然かもしれないよ?」


 彼はとぼけたように言うが、私が彼の変装を暴けたのには他の要素も絡んでいる。


「確かに、それだけでは確信とはなりません。あくまでそう疑うに至る一つのきっかけに過ぎませんでした。ですがその仮定を基に振り返った場合、様々な疑問の辻褄が合うんです」


 月城さんにとって私は、SPMの任務の救助対象。そしてそれが依然継続されていることは、暁子に会いに向かう朝、車の中で本人の口から語られていた。

 それを前提に過去を振り返って最初に思い当たったのが、夕季の家を一度訪れた後に向かったショッピングモールでの出来事だ。

 彼は相模原さんのお遣いを頼まれていたからということで、ショッピングモールの中のとあるクレーンゲームをすることになった。だがそのお遣いは『紅茶に合う甘いお菓子を買う』というものであり、わざわざクレーンゲームをプレイする必要などまるでなかったはずだ。それがずっと違和感として残っていた。

 しかしながら、クレーンゲームと言えば一つ連想されることがある。

 私は夕季と駅前に出かけた時にもクレーンゲームを行っていた。私は月城さんとクレーンゲームを行った時にそのことを思い出し、夕季の幼げな様子から突飛な策を発案。結果、夕季を学校に復帰させることに成功していた。

 つまり月城さんは、私と夕季がクレーンゲームをしていたことを知っていた上で、あえてクレーンゲームをさせた。そして私がこの案を思いつくよう誘導したのではないかという、疑惑が生じるのである。前提である月城さんが私の監視を継続していたという仮定とも見事に合致していることから、この可能性は大きいと見られた。

 一方で、このことは松院先生が月城さんであると断定する要素にはならない。あくまで、月城さんがずっと私をサポートしていたことを示す一つの出来事に過ぎないのだ。

 そして次に思い起こされたのが、この場所で夕季のことを聞いた時のこと。

 あの時は、夕季がいじめを見られてしまったと思って逃げ出してしまった後であったが、彼のことを全て見通したように冷静な判断で私を屋上へと連れ出していた。そして彼の周りの環境や、正確すぎるほど細かく語られた彼の内面、そして考え得るこの先の動き方を語る松院先生は、明らかに他の先生とは一線を画していた。

 そうして、ここまで情報を知り尽くしている人と言う点で思い起こされたのが月城さんであり、二人が同一人物なのではないかと疑うことになった。

 ただそれでも、まだ確信に至らない。確定とするためのはっきりとした証左がどこにもないのだ。

 私はこの考えに至った経緯を事細かに月城さんに話したが、当然このことについて追及される。


「――なるほどね。さすがは舟見さんだ。でも、どうして僕が松院先生であると結論付けられたの?」


 そう問われた私は右手人差し指で、ある場所を指し示す。

 それは人間における五感のうちの一つを司る、顔面中央部に位置するところ。


「鼻です」

「鼻?」

「私、鼻がいいんです」


 私には嗅覚が人より優れている自信があった。ここまで特に役立った記憶はないが、今回は大活躍だった。


「すごく簡単な話ですよ。大人を演出するためなのか、松院先生は柑橘系の香水をつけていました。香水に関しては女子の中でもよく話題になる種なので最低限の知識は持っていますが、香水にはノートというものがあります。トップノート、ミドルノート、ラストノートに大きく三つで分類され、それぞれ香りが違います。例えば今や、初めて職員会議室で会った時の香りはトップノートで、かつてこの場所で話をしたときはミドルノートです」


 こういったことは通常、学校で習うようなものではない。

 加えて、自分の好きなものもまともには買えない事情を抱えた私にとって香水は贅沢品であり、本来はほぼ未知の品に近いはずだった。

 けれど、このことを楽し気に教えてくれた人がいた。――暁子だ。

 暁子との他愛もない話の中で、彼女は香水を始めとしたお洒落の品について色々教えてくれたのである。まさか、こんなところで役立つなんてその時は思っていなかったけれど。


「また、香水の持続時間は長いものでも約七時間ほどとされています。その時間は丁度、学校にいる時間とほぼ一致していて、おそらく月城さんは学校を離れるタイミングくらいで綺麗に消える計算をしていたんじゃないですか?」


 彼は問いかけても、首肯することも首を横に振ることもない。だが、おそらくそうなのだ。

 わざわざそんなことをしなければならなかったのは、月城さんとして私と接する際に香りを消すため、かつ学校でいつ私と遭遇しても香水の香りが鼻を衝くようにするためだろう。


「つまり本来、月城さんは迎えの際には匂いが消えているという想定をしていた。そして万が一にもバレないよう、車の中には香りの強い別の匂いの芳香剤を置いていた。SPMに行く際に初めて乗った時には無かった芳香剤を」


 まるで探偵が犯人を追い詰めるかのような口調で、ありのままに事実を連ねていく。


「しかしながら、その誤魔化しも私相手には機能していませんでした。芳香剤とは別の、違和感のある微かな香りがどこかから漂っていたんです。その匂いの特定まではつきませんでしたが、これが一度も直接嗅いだことのない香水の微かなラストノートだったなら説明が付きます。全くの別の匂いを置くのではなく、ラストノートに似た系統の芳香剤であったなら、それこそ一切区別がつかなかったと思います」

「なるほど……。これは一本取られたなぁ」


 彼は額を抑えて一瞬空を仰ぐ。隣から見える彼の横顔は、悪戯がバレてしまった時の少年のような楽しそうなものだった。

 さすがの月城さんとはいえ完璧ではない。それは前に気づかされたことだが、いくら何でも鼻がいいなんて些細な情報は耳に入らなかったのだろう。

 今回の件は、彼が完璧に大人な教師である『松院先生』という人物を演じようとしたからこそ出てきた綻びであり、裏を返せばそれだけ任務に対して真摯であるということも窺える一幕だった。一人の先輩として、さらに尊敬度が深まった気がする。


「最初から私を手助けするつもりだったんですか?」

「舟見さんからすると入って早々の仕事だったからね。元々相模原さんもそれを前提にここへ派遣したんだ」

「それってどういう……?」

「一見、何も知らない人をいきなり重い任務に充てたように見えて、ある程度計算がなされてたんだ。夕季君は元々は僕の救助対象だったんだけど、相模原さんも言っていたように学生としての潜入は難しくてね。定期的に動向を聞いたり、直接見に行ったりはしてたんだけど、そんな時に舟見さんがSPMに所属することになった。だから僕ができる限りのサポートをしつつ、急ではあったけれどここに派遣することにしたんだ」


 月城さんの身長は百七十センチ中盤。中学一年生の身長にしては高すぎるのである。

 一方で女性である私の身長は百六十センチ。男性とは違って平均身長の差は案外僅かであり、実際潜入している際にもそのことで怪しまれることはなかった。

 SPM所属から間もなくの任務。内容が重たい故に、子供を谷から突き落とすような状態ではあったが、未熟な部分はある程度把握した上で、月城さんがカバーする算段を立てていたのだろう。

 まだまだ、月城さんに対して問いたいことは山のようにあった。

 けれど、その一つ一つを順々に尋ねようと頭の中を整理していた時だ。

 再び屋上の扉が開かれる。


「…………」


 私も月城さんも、その方向に目をやると、何も言わずこちらを見つめる夕季の姿があった。真っ直ぐに私の目を見つつ、不服そうな表情を浮かべている。その表情の理由は分かっていたので、私は月城さんに目線で合図を送る。


「それでは私は仕事がありますので、先に失礼しますね」


 夕季の前ではあくまで一人の教師――松院先生を演じていなければならない。月城さんは声や仕草を偽ってそう告げると、夕季に目もくれずそのまま屋上から姿を消した。

 静謐な屋上に、私と夕季のたった二人。

 張り詰めた緊張感の中、夕季は一歩、また一歩と距離を詰めながら問う。


「あの話を流したのは、お前なんだろ?」


 ――あの話?

 そんな風にしてとぼけ、最後の最後まで真実を濁すこともできたし、きっとその方がSPMの任務としてはより適切なのだろう。

 でも、彼の確信を得たような鋭い目線の前では嘘がつけないなと思った。そうだと言わない限り、きっとこの場から、この学校から去れない。できる限り、心残りは残さないようにしたかった。

 だから私は軽く微笑んで問いに応じる。


「そうだよ。私は君がいじめられていた生徒を助けたという噂――基、真実をおおびらかにした」

「なんでそんなことを……」

「君が受けているいじめの、最大の抑止力になるからだよ」

「……え?」


 要領を得ない様子で、夕季は調子の外れた声を漏らした。



* * *



 遡ること数日。暁子との再会、そして別れの後のことだ。

 月城さんに学校に向かうようお願いしてすぐ、私はとある人に一通のメッセージを送信した。


『相談したいことがあるんだけど、よかったら今日の朝聞いてもらえないかな?』



「おはよう、南波さん!」


 他に誰もいない教室で一人待っていた中、静寂を切り裂くような溌溂とした挨拶を口にした少女。


「おはよう明光寺さん。ごめんね、こんな急なお願いしちゃって」

「ううん。大丈夫だよ!」


 一年三組学級委員長、明光寺朱莉。

 クラス内では抜群の信頼感を勝ち得ているムードメーカーであり、他クラス他学年ともパイプを持つほどの人格者。フワッと揺れるショートヘアで端正な顔立ちな彼女は、男女問わずの人気を博する。

 私が彼女と出会った、転校初日。彼女は誰もよりも早く私の所へと歩み寄り、クラスに馴染めるよう気遣いを働かせた。それを機に、彼女と特に仲がいい女子グループの輪の中に入ることとなったが、おかげで彼女の人間性は夕季の次に把握できていた。


「それで、相談って?」


 彼女は自分の席に荷物を下ろし、淡々と歩み寄りながら尋ねる。そして私の席の隣――夕季の席に腰を下ろし、私の表情を窺った。

 かつて夕季が休んでいた際も、良くこうして隣で話したものだ。


「相談というか、ちょっとお願いに近いことなんだけどいいかな?」

「うん。私にできることだったら、何でも協力させて」


 彼女は人の頼みを断らない。

 教師に『これを運んで』と頼まれても嫌な顔せずにむしろ喜んで引き受け、周りの生徒から『宿題見せて』と狡いお願いをされたとしても、「しょうがないなぁ」なんて言ってノートを貸してしまう。

 今回もそうだ。直前であったのだから後回しにする権利だってあったのに、一切そこには言及せずこの場に現れた。


『他人の幸せが自分の幸せ』


 明光寺の中にある根幹的な理念は暁子のものとほぼ同じだ。かつて私のために、と動いてくれた暁子の表情と、彼女の笑顔はよく似ていた。

 だからこそ私は、適切な距離感を保っていかなくてはならない中で、ある程度距離を詰めてしまったのだと思う。こうして彼女に、作戦の一端を担わせることになるくらい――。


「夕季君のことなんだけど――」


 そう切り出した私は、ベールに包まれていた夕季の真実を語った。もちろん、SPMの存在がバレないよう、あくまで一年三組南波架乃としてである。

 知られざる話を聞いていた明光寺の見せる反応は、初めて聞いたにしては薄い。そう言うと聞こえが悪いが、これは彼女がある程度夕季という人物の輪郭を掴めていたことを再度裏付けたことにもなる。

 彼女は元より、夕季光磨を心配していた数少ない人物の一人である。

 彼が登校していない期間、それこそこうして夕季の席に座って話をしていた際の彼女は、良く夕季のことを話題に挙げていた。


『夕季君どうしたんだろうね?』

『もう一週間くらい? 風邪だって言ってるけど心配だなぁ……』

『一度くらいお見舞いに行った方がいいかな?』


 クラス委員長として、そして一人の人間として。夕季光磨から距離を置く人もいるという中で、彼女は常々気にかけていた。

 ――だからこそ、頼めるのは彼女しかいないとも思った。



「夕季君のことは分かったよ。でも、それをどうして私に?」


 首傾げる明光寺に、私は一つのお願いをした。


「その話を噂として流すことはできないかな?」


 噂――それは大半、マイナス的な意味を孕むものである。

 かつて私が聞いた、『沖合聡司には好きな人がいるらしい』というようなものを初めとして、大抵はエビデンスも存在しない譫言であり、聞き耳を立てる必要なんてないものだ。

 でも、そんな『噂』を、私は夕季光磨を救い出す策の最大のキーとして据えた。


「噂として流す? でもその話って事実なんでしょ?」


 おそらく私のお願いの意図は伝わったのだろう。彼女が触れた点は、『なぜ流すのか』ではなく、『なぜ流すのか』であった。

 彼女の言うことは至極真っ当である。真実であることをわざわざ信憑性が低く捉えらえる噂として流布する必要性などまるでない。

 しかしながら、今回に関しては噂でなければならない明確な理由がある。


「噂の形で流せば、それが誰の元から発信されたのかという点はぼかすことができるっていうのは分かるよね?」

「うん」

「夕季君自身は直接誰かに助けてもらうことを望んでいないけど、それは自分のいじめに巻き込まれてほしくないから。つまりは、いじめている人たちが噂の出所に気付かないようにすればその心配もない。だから、噂の出所を曖昧にしておく必要があるの」


 直接的介入を望まないなら間接的に。屁理屈とも言える論理かもしれない。


「でも結局は噂だからって、みんな信じないかもしれないよ?」

「明光寺さんは自分のこと、もっと良く知るべきだよ。みんな、心から明光寺のこと信頼してる。私もそうだからこそ、こうやって頼みたいと思ったの」


 噂は出所も証左も不明瞭だからこそ信憑性が低い。

 しかし一方で、信頼度の高い人間が発した場合にはほぼ事実として拡散される。信憑性は信頼性によって上書きすることが可能なのだ。

 私がSPMに来た日、相模原さんは私の母親が実は救助対象で入院させることになったと告げた。けれど私は、そのことを実際に目の当たりにしたわけではなかった。それでも信じられたのは、彼女が私を助けてくれた月城さんの信頼する人物であり、信頼できると確信を持ったからだ。

 すなわち、信憑性を左右するのは話す人の信頼性が高いか否かである。したがって今回の策では、明光寺のような人物ほど適当な人物は他にいない。


「そっか……。うん、分かったよ」


 彼女はきちんと頭の中を整理上で了承し、席を立つ。


「夕季君、いい人なんだろうなって私信じてたから、南波さんの話聞いて信じてて良かったなって思ったんだ。でもだからこそ、いじめられているなんて可哀想だし、私も助けてあげたいの」


 そう言って彼女は自ら、この承諾が不承不承でないことを明らかにするよう本心を打ち明ける。本当に清い心の持ち主なんだなと改めて思う。


「頼ってくれてありがとう、南波さん。後は私に任せて!」


 ニパッと破顔し、サムズアップをして見せた彼女。

 こうして、最後の作戦が実行に移った。



 それから数日経った現在、陽向崎中学校の屋上。

 私は夕季にその件について詰られた。『あの話を流したのは、お前なんだろ?』と。

 夕季が唯一事実を打ち明けた私が噂の出所であると真っ先に疑うのは当然のこと。もちろんそこまで予測した上での行動であった。


「いじめられることはもうないよ」

「……」


 改めてそう言われ、初めて私のしたことの意味に気付いたのか、夕季光磨は少し気恥ずかしそうに顔を背ける。


「別に助けて欲しいとか、言ってない」

「その言葉、君が助けた生徒が言っていたとしても、君は同じように助けたでしょ?」

「っ……」


 彼は言葉を詰まらせた。彼が正義感を持っている以上、私の言葉への反駁はその正義感の否定になってしまうから。

 同時に、彼はこれまでの辛い出来事を思い出してか、身体を捩って表情を隠した。

 全てから解放されて泣きたくなる気持ちはよく分かる。だからすぐにでも一人にしてあげたかったけれど、その前に一つ言っておかなければならないことがある。


「それとごめん、夕季君。本当はもっと早く伝えておきたかったんだけど……」


 彼は零れそうになったものを押し留めながら再度私と向き合う。そして私の表情を見て驚いたのか、少し目を見開いた。

 全てが解決して喜ぶべき場面では決して見せないはずの、寂し気な笑み――。


「私ね、家庭の都合で転校することになったの。だから、ここに通えるのも今日までなんだ」


 彼を取り巻く理不尽を排除し、ようやく訪れた安息。

 これからの学校生活に対して希望を膨らませたいところだが、SPMの一員である私にとってはここら辺りが別れのタイミングであった。


「え……、待ってよ。今日までって、それって……」

「うん。だから、こうして話していられるのが最後になるかな」

「マジかよ……」


 まさに夕季の方が、これからの学校生活に期待していただろうから、それに水を差してしまったようでどうも申し訳なさが募る。

 突如、私の携帯から通知音が鳴った。静かな屋上には良く響いて、お互いの間に流れる気まずい静寂を断ち切った。通知音の正体はおそらく、月城さんからの連絡だろうと思う。


「ごめん。そろそろ行かなくっちゃ」


 私がそう切り出すと、落ち着かない様子で視線が定まらなかった夕季の視線が私に向かう。

 けれど、彼からの次の言葉はすぐに出てこない。かけるべき言葉を迷っているのだろう。何度も唇を噛んだり、固唾を飲んだり。必死に、言葉を紡ごうとしていた。

 そんな彼をちゃんと待っていることに本人も気付いていたのだろう。二度ほど咳ばらいをすると、遂に彼の口が開く。

 でも、全くの予想外だった。


「ありがとう」


 彼から、こんなにも真っ直ぐな言葉が聞けるなんて。

 さすがに恥じらいは抑えきれなかったみたいで頬はほんのり赤いけれど、きっといつもの彼なら言えなかった言葉なはずだ。

 今回の任務で彼を良く知ったからこそ、この言葉は本当に真っ直ぐに私へと届いていた。餞別にはあまりにも大きすぎるものを貰ってしまった。


「こちらこそありがとう。短い時間だったけど、本当に楽しかったよ!」


 お返しにと言わんばかりに、精一杯の笑顔を湛える。


「それじゃあ、もう行くね」


 そう伝え、彼の横を通ってゆっくりと屋上の出口へと歩みを進めていく。そして最後にもう一度振り返ろうとした時だった。


「またな、南波!」


 機先を制して告げられた別れの言葉。


「……!?」


 私はすぐさま振り返って、彼をもう一度見つめる。

 彼はしてやったり顔で笑みを浮かべ、私のことを見ていた。まさかここまで一度も私のことを名前で呼ばなかったのに、今更呼ぶなんて……。

 やられたな……と思いつつも、何だか暖かな気持ちが心を覆っていく。後ろ髪惹かれるような名残惜しさもあったけれど、私は最後の言葉を口にした。


「またね、夕季君」


 もう同じ過ちは二度と繰り返したくなかったから――。



* * *



 夕季光磨と別れ、荷物を取りまとめた私は学校近くで月城さんと合流した。


「ご苦労様、舟見さん」


 助手席に座る私を労う彼の服装はいつもとは違ってスーツ姿。つい先刻、彼と屋上で話した時と同じ格好であった。もう隠す必要がなくなったということでわざわざ着替えなかったのだろう。


「松院先生は定時上がりで大丈夫なんですか?」


 私があえて皮肉交じりに問うと、松院先生――基、月城さんはあははと苦笑いを浮かべる。


「僕はあくまで見せかけの教師に過ぎないからね」


 月城さんに言われてまた一つ気付かされる。

 私の勉強会が始めて行われた日のこと。担当だった月城さんが、「教えるのは苦手だけど」と言っていたのを思い出す。教員免許を持っている人からは絶対に出て来ない台詞だろう。

 おそらく彼の偽装は、教師っぽいけれど教師ではない教師。故に学年主任という絶妙に権限を持ってそうな立ち位置でありながら、一度も教壇に立った姿を見かけなかったのである。


「それにしても、舟見さんの作戦には驚かされたよ……。まさかこれにも気づいていたなんてね」


 月城さんはそう言って、私との間にある車用の芳香剤に手を触れる。今現在も車内は、そこから発される金木犀のような香りで充満している。

 そして同時に、やはり違和感として残る別の弱い匂い。ただ、この前よりも強く感じられることから推測するに、香水はスーツそのものに向けてつけられていたのだろう。


「そういえば月城さん、屋上で『求められた結果に対して、そのアプローチは決して一つではない』と仰ってましたよね。それはつまり、月城さんなら別の案を立てたということですか?」

「そうだね。それが望まれた結果に繋がるかは別問題として、仮に僕が救助するとなれば別のアプローチだったよ」

「私のやり方にはやはり色々問題があったのでしょうか?」


 様々なことを考慮した上で、限りなく最速で打てる手を打った。

 だがその一方で、このやり方はかなり強引であり、正直確実性には乏しいところもあった。噂として上手く回るかどうかが明光寺の伝え方次第でも変わっていただろうし、若干クラス内では疎外な位置にいた夕季の噂に対して、生徒たちがきちんと興味を持つかどうかは賭けの部分もあった。

 だからと言って別に、私が打った策そのものに後悔はなかった。

 単に先輩であり、私を救ってくれた人ならどうしていたのかと、興味本位から尋ねてみたかったのだ。


「いや、そうじゃないよ。僕が舟見さんの立場だった場合に立てた案が別案だというのは、あくまでも僕には到底思いつきもしない案だと思っただけだからね。自らの経験も元に、舟見さんは彼の今後の未来も含めてあの案を遂行した。僕や相模原さんが見込んでいた通り、いやそれ以上の結果を残したんじゃないかな?」


 さすがに月城さんは鋭い。

 あの案を実行したのには、彼の言う通り、長期的に見たメリットも含まれていた。

 彼が置かれていた状況というのは、クラス内では浮いている存在でありつつ、なおかついじめを受けていたという状況。いじめから生徒を救うような評価されるべき人間性を持つ人間としてはかなり不憫な状況だった。

 私は今回の最優先事項である彼を救うということを作戦の軸としつつも、相模原さんたちが私にしてくれているように、この先のことまでを考慮に入れていた。

 彼は今後、噂によって英雄としてしばらく持ち上げられる存在になる。人々は彼を見直し、自然と距離は近づいていく。人間関係が構築された状況とはいえども、入学からはまだ一か月と浅いこともあるので、ここからの再構築も可能だろう。


「ですが、これも全て月城さんが出したヒントのおかげに過ぎません。きっとそのサポートがなかったら……」


 今回の件。表立っての功績は薄くても、本当の立役者は彼である。

 私に夕季光磨の情報を提供し、私の犯したミスをカバー、この先どうしていくかの導線を引き、夕季との接触機会を与える。私に気分転換をさせると同時に、夕季を復学させる手段を思い起こさせる。

 そして、今回の案が浮かんだのだって彼のおかげだ。私の家の前にて嘘だと言われている逸話を持ち出す。過去の出来事を思い出させるために暁子と再会させる。

 今回の案は、これらをきっかけとして紡ぎあげたものに過ぎず、私は傀儡のように代わりにやっていたようなものに過ぎないと思っていた。


「僕は舟見さんが発案したものに修正を加え、実行部分を含めた残り全てを舟見さんに一任した。僕がやったのは本当に手助けに過ぎないし、発案も実行も舟見さんならそれは舟見さんの実績だよ。きっと相模原さんも褒めてくれるよ」

「……ありがとうございます」


 そうは言ってもらえたが、やはり素直には受け止めきれない。

 確かに結果だけを見れば、目的は達せられている。

 それでも今回の任務では、数多の未熟な点が見つかったし、救助対象であるはずの夕季から教えてもらったこともある。

 ここで満足せず、これから先に生かしていかなければならない。


「とにかく、お疲れ様。ここからしばらくはゆっくり休んで大丈夫だと思う。仕事が振られるまでは勉強会中心だね」

「分かりました。……あの、帰る前に寄って欲しい所があるのですが」

「寄って欲しい所?」



* * *



 夕季光磨の任務を終えたあの日から、一週間ほどが経過した。

 月城さん曰く、夕季光磨はその後一躍人気者となったらしく、いじめていた生徒たちは顰蹙を買ってかなり丸くなったそうだ。もうしばらくしたら、月城さんも観察の任務から外れるようで、それほど状況は改善したらしい。

 この功績は相模原さんに褒めちぎられることになった。ボーナスを出したいとまで言い出した相模原さんを止めるのは容易ではなく、最終的にはご飯に連れて行ってもらうことで手を打ってもらった。甘えてもいいと彼女は再三言っていたけれど、今回の任務内容を鑑みるととてもそんな気にはなれなかった。

 そうして間もなく六月に入ろうかという頃。私に新しい任務が入ったということで、相模原さんと月城さんのいる委員長室までやってきていた。


「長めの髪も好きだったんだけどなぁ~」


 顔を合わせて早々、相模原さんは残念そうにぼやく。

 月城さんと陽向崎中学から帰る際、私はお願いして美容室を訪れた。そうして私は任務期間中ずっとつけていたエクステを外し、元のセミロングヘアに戻したのである。

 いち早くそうしたかったのは、暁子と再会した際、


『でも私的にはやっぱり、セミロングの方が好きかなぁ』


 と言われていたからだ。実際、こうして元の長さに戻してみるとやはりしっくりくるもので、どことない安心感があった。

 美容院からの帰り道、この話を盗み聞きしていた月城さんには気を遣ってか、「やっぱりそっちの方がいいよ」と言ってもらえたが、相模原さんはどうもご不満らしい。あの日以来、会う度髪のことに触れられている気がする。


「まぁいいわ。それで今回の任務は――」



 相模原さんから詳細を伝えられた後、私は早々に委員長室を後にした。

 前回とは違い、今回からはきちんと計画を立ててから任務に挑める。決して流動的になるのでなく、ある程度道筋を立てておく方がいいだろう。加えて前回のミスを踏まえ、今回気を付けるべき点を纏めておく必要もあるだろう。

 だから私は一先ず自宅に戻ろうと、歩き出そうとした。


「戻るの?」


 すると、同じく委員長室を出た月城さんに呼び止められて振り返る。


「はい。今回の任務に向けてできることをしておこうかなと」

「そっか。ほんとマメだね」


 今回与えられた任務は前回とかなりケースが似ていた。

 場所は中学校であり、いじめに遭っている生徒が救助対象。違う点を挙げるとすれば、今回は女子生徒であるという所だろうか。

 同性として、より自分の強みが生かせるのではないか。そういった点についても順に洗い出していく必要があるだろう。


「月城さんは今回も私の所に……?」


 胡乱げな目線を月城さんに送ると、いつものニコニコ顔で「もうないから安心してよ」ときっぱり否定された。月城さんのことはちゃんと信頼したいところだけど、前例がある以上は疑わざるを得ないのだ。


「前回は舟見さんの初任務だったということ、元々受け持っていたことが重なってただけだからね。だから実質的には今回が舟見さんの本番になるのかな?」

「そうですね」


 彼の言う通り、前回までと違っている最大の点は彼の補助が一切ないということ。

 前回は要所要所で彼の担っていた役割が大きく、彼が松院先生というポジションにいなければさらにピンチを招いていたことは否定できない。

 だが今回はその後ろ盾もない。致命的なミスであれ、それは全て自分の責任。そして、自分でフォローしていく他ないのだ。その分、今回の任務にあたっては気合が入っている。


「あぁでも、別に協力しないわけじゃないからね。あくまでも僕らは同じSPMの一員。相談することも、時には助力し合うことも大切だよ?」

「はい」

「それに何より僕は――これから先も君の救世主だから。いつでも声かけてね」


 そう言って彼はくるりと体の向きを変える。


「これから任務ですか?」

「うん。今日はもう一件行っておきたいところがあってね」

「そうですか……。お疲れ様です」


 相変わらず多忙な人だ。彼は幾度と私を真面目だとかマメだとか言って褒めてくれるけれど、彼のせいでそれも霞んでしまう。


「そういうことだからごめん、もう行くね? お互い、今日はもう少し頑張ろう」

「はい!」


 月城さんは最後に笑顔を見せると、ゆったりと私の元から離れていく。

 何度も助けられた彼の大きな背中が徐々に遠退くのを見つめながら、私は最後にこう言った。


「行ってらっしゃい!」


 朝早く、出勤のために家を出る母親にかつてかけた言葉。

 いつしかその言葉は消えてしまい、『行ってきます』の言葉がただ虚しく響くだけの日々だったけれど――。


「行ってきます」


 月城さんは再び振り向いて手を振ると、今度こそ仕事へと向かった。



 かつてはどこにも居場所がなかった。

 学校にだって、家にだって、私はただ一人でいることを余儀なくされていた。

 でも今は、こうしてSPMの一員として居場所を持ち、その仕事にもやりがいを覚えている。

 かつては理不尽に塗れ続け、それでも、理不尽がなかったらどうなっていたのかという妄想を抱いていた。しかしながら、その理不尽がなかったらこの今には辿り着けていないのである。

 自分が理想とする人間や、やりがいのある仕事に出会えてなかったかもしれない。故に今では、自分の身に起こった理不尽に対する悲観をすることはなくなっていた。

 望まぬ結果を生んだ原因が自分にない場合――人はこれを『理不尽』と呼んでいる。

 一方で、その理不尽によってしか得られない未来も存在することを知った。これもまた理不尽の一つとも言えるかもしれない。

 だが、過去は未来によってのみ書き換えられるものだ。誰にも話したくない苦くて淡い青春も、楽しくて幸せな青春で上書きすれば笑い話に変換されるように、理不尽だってその先次第で変えられる。



 理不尽に押し潰されることなく、未来に希望や目標を持たせてあげたい。

 いつしか私を救った、救世主のように。

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理不尽の救世主 木崎 浅黄 @kizaki_asagi

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