第7話 あの時と今

 自室のカーテンを開けて外を望むと、雲の切れ間から差し込む朝日がやけに眩しく、私は思わず目を細める。すると、目が軽く痙攣するようにヒクヒクし出した。

 昨日の勉強会後、溜まっていた疲労を癒そうと一度はベットに入ったのだ。そうして目を瞑ったのだが、意識はやけに冴えていて眠りに落ちない。ずっとずっと、夕季を救い出す作戦のことを考えようとする頭は止まることがなく、不意に想起されるあのシーンが一晩中頭から離れなかった。

 しかし、それだけ長く考えたはずなのに、まるで成果が挙げられていない。相模原さんが言っていたように、頭の中で空回りを起こしていた。昨日の疲労も思考を妨げていて、勉強会時に摂取した糖分から得たエネルギーもとっくに底を尽いてしまったらしい。

 だったら割り切って寝てしまえばいい――でも、意識は落ちてくれなかった。

 疲労回復のために眠ろうにも寝れず、起きている間に考えようにも疲労で纏まらない。そのジレンマとの格闘中も当然時間は過ぎていくわけで、遂にはカーテンの隙間から光が漏れてくる。その朝の訪れとともに私は眠るのを諦め、今に至っている。

 ただ無為に夜を跨ぎ、現在時刻が午前六時。登校時間は確実に迫りつつある。


「っ……」


 私は頭を抱え、悶え苦しむようにその場に蹲る。そして部屋の壁にもたれかかり、溜息を吐くとともに天井を見上げた。

 昨日彼は、私がいじめの問題に関わって欲しくないということを明言した上で、いじめの詳細を赤裸々に語っていたことからも分かるが、私がこの件に関して直接的なすることは望ましくない。するとしても、それは最終手段にすべきだ。

 故に、直接的ではない――間接的な方法での解決策を練る必要があった。

 とは言え、いじめは現在も続いている。彼自身もできる限りいじめを受けないよう気を付けているとは言っていたが、私がいじめの現場に立ち会ってしまったように全てを回避できるわけじゃない。その度精神的苦痛を覚え、場合によっては暴力等によって身体にも害が及ぶ恐れがある。私自身が身を持ってその体験をしている以上、絶対にそんな目に遭わせるわけにはいかない。

 しかしながら、早急かつ間接的に対処する策が簡単に思いつくなら、こんなことにはなっていない。元から潜入任務であった以上、対処方法については常々練ってはいたのだが、今に至るまで決行に至れるような策は生まれていない。

 室内の壁かけ時計の針が刻む音は、刻一刻と時間が進んでいることを嫌でも突きつけてくる。

 それによる焦りと自分への苛立ちが、一刻みごとに募っていく。

 懸かっているものが重い分だけ、一挙手一投足にプレッシャーがかかる。

 起こり得る最悪を想起するだけで、呼吸も荒くなり歯軋りが止まらない。


「――そっか…………」


 カーテンの閉まった暗がりの部屋。外とは隔絶された箱の中で、きっと昨日見たような慟哭が日常的に響き続けていたんだ。

 たった一週間、されど一週間。

 私が拙いばかりに、彼をそんなにも長い間檻の中に閉じ込めて、辛い思いを強いてしまっていたのだと気づく。

 そして昨日の帰り際だって、きっと彼は辛いままなのに、できる限り心配させたくないといつも通りを装うとしていた。

 私は一体どれだけ、あんなに小さくて儚い彼に過酷なことばかり強いてしまっているのだろう……。救助対象だというのに、彼を谷底に突き落とすようなそんな残虐行為ばかり働いていた自分に頗る嫌悪感を抱く。

 マイナスがマイナスを呼ぶ連鎖的な思考によって、私の頭の中は次第に真っ白な空間に成り果てつつあった。

 それはまるで、死を身近に実感した時のあの時のよう――。



『ピーンポーン』



 そんな鐘の音で、私の中にあった靄が一時的にスッと晴れ、遠ざかっていた意識が戻ってきた。

 こんな朝早いのもかかわらず、どうやらインターホンが鳴ったらしい。この家に来てから初めて聞いた音色だった。

 私は壁に手をつきながら立ち上がり、目を瞑って大きく息を吐く。冷静になれていることを確認し、呼び出しに応じるようにして玄関に向かった。

 扉の覗き穴からそっと訪問者の姿を眇める。その刹那、私は扉の施錠を解き、すぐさま扉を押し開けた。


「……どうしたんですか、こんな時間に」


 全く意味が分からなかった。


「やっぱり起きてた」


 このことをまるで予期していたかのように、全てお見通しだと言わんばかりに。

 よく見る私服姿に袖を通した月城さんはそう言ってにこやかに微笑んだ。背後に落ちる朝日の光のおかげで、その笑顔はどこか神々しさすら纏って見える。

 私は裸足のまま靴を履くと、そのまま扉の外に出た。


「やっぱりって、どういう……?」

「昨日の様子から、まぁこうなるかなって。俺も経験あったし」

「月城さんが、ですか?」

「僕がどういう風に見えてるか知らないけど、僕も最初から上手くできたわけじゃなかったしね」


 人間誰しも完璧じゃない。さしも月城さんといえども、私同様に眠れぬ夜があったらしい。彼の表情を見ていると、それが慰めでも何でもない事実だということは分かる。


「考えて考えて捻り出そうとしても、案外それでは出て来ないものだよ。斬新なアイディアは意図していない、ふとした瞬間に訪れるものでね。例えば、ニュートンが落ちるリンゴを見て万有引力の法則を見つけ出した話に代表されるようにね」

「ですが、その話を始めとした逸話って、大半嘘だって聞いたことありますよ。ガリレオが『それでも地球はまわっている』って言った話も作り話みたいですし」

「さすが舟見さん。ちゃんとその辺の知識も持ってたか」


 どうやら知った上で試すようにこの例を持ち出したのだろう。そして半分くらいは私がこう答えることを見越していたのか月城さんはそこまで驚くような様子もなく、少し嬉しそうに笑っていた。


「こういう雑学、私は結構好きなんですよ。高校の時、先生が独り言みたいに話してたのを興味深く聞いてたので偶々覚えていただけです。……それで、どうしてこんな話を?」

「きっとこれから先、考えようとすればするほどど壺に嵌る。だから気分転換を提案しに来たんだ。とは言っても、これから少しでも眠るつもりだったなら断ってくれても構わないんだけど、どうする?」

「いえ。どの道起きているつもりでしたので」

「そっか。それなら学校に行く支度して、駐車場の僕の車の所で合流でいい?」

「分かりました」


 私がそう言うとすぐに、「それじゃあまた後で」と言い残し、彼は一足先にこの場を後にした。

 部屋に戻り、思いっきりカーテンを開けて日光を取り入れる。充溢していたはずの重苦しい空気感が浄化されていくように、朝の明るさで上書きされる。

 正直、月城さんの提案は有難かった。ずっとここで一人、無い知恵を絞るよりかは、彼の言っていたように少し気を休めるくらいの方がいいのかもしれない。

 だが一つ、彼の提案には引っかかる点がある。なぜ学校の支度をしなければならないのか、という点だ。

 合流場所が駐車場であることから、一旦SPMから離れるのは確かだが、一限開始まではまだ二時間以上もある。気分転換のドライブをするのだとしても、その後戻ってきて支度する余裕はあるはず。考え得るのは、それが難しい――少々遠出をするという可能性である。

 しかしながら、実際に月城さんに聞くまでははっきりしないことだ。私はその疑問を一旦胸の中にしまい込み、支度を急ピッチで進めた。



* * *



 月城さんが家を訪ねて来てから約十分後。

 支度を終え、SPMの事務所の隣にある駐車場までやって来た。

 私より先に向かったこともあって、待機していた月城さんは車の中にいた。私が助手席に乗り込んでシートベルトを着用したのを確認すると、月城さんは車を発進させる。


「あの、一つ確認いいですか?」

「うん?」

「どこに行くつもりなんですか?」


 早速先ほどの疑問に触れた私だったが、彼は直截に答えることはなかった。


「それは秘密。ただ言えることがあるとすれば、今やってるのはかつて相模原さんがしてくれたことでもある、ってことかな?」


 言われてみれば、こういうことは実に相模原さんがしそうなことである。

 しかしながら、なぜ秘密にする必要があるのかは甚だ疑問だった。どの道行き先は分かるというのに、わざわざ隠す必要はあるのだろうか……。

 追及することもできたのだろうが、逆に月城さんが秘密にするには何かしらの理由があるのだろうとも思える。故に私はあえて何も言わず、車内にはしばらく静かな時間が続いた。

 そんな静寂はSPMを出てから二十分も続いていたが、自ら思わず出してしまった驚きの声で破られることとなる。


「ここって……」


 あの当時は、外の暗さと理解不能な状況で混乱していて景色なんてまるで見ていなかったから、こうして実際にその場所付近に来るまではまるで気付きやしなかった。

 車窓から眺められる景色は、どれも私が最もよく知る街並みの風景。生まれてから約十六年の月日で見慣れた、故郷の姿。一度外に身を置いたからか、それはとても特別な景色に見える。

 でもそれはきっと、しばらく戻らない――いや、戻れない場所と化してしまったと自分で理解していたからなのだろう。依然として自宅はここにあるとしても、しばらくここに戻れない確たる理由があった。



 月城さんが連れて来た場所。それは少し前まで時間を過ごしていた、まだ記憶に新しい少し古びた校舎――私の母校である高校であった。

 月城さんは学校近くの路肩に車を止める。


「連れて来たかった場所はここだよ」

「どうして…………」


 私にはなぜここに連れ出されたのか理解できなかった。

 私にとってここはいじめを受けた場所であり、苦い時間を過ごしてきた所だ。そんな地から外へと連れ出してくれた張本人であるはずの月城さんが、どうして嫌と分かるようなことをしたのか――。

 先ほど、わざわざ『秘密』とはぐらかした理由がここにあったことはすぐにでも分かった。私が嫌な思いをすると分かっていた上で、私にこれを阻止させないためだ。

 彼の観察眼の鋭さや計画性の高さというのは、味方にすれば最強な武器。しかし一方で、敵に回してしまえば成す術がないのだなと感じてしまう。かつて、身が凍えてしまうのではないかと錯覚するほどの凍てつくオーラを滲ませ、私をいじめていた杏奈という生徒を撃退したあの一幕が想起された。


「僕はあの日、君をここから救い出した。けど、それで全てが救われたわけじゃない」


 月城さんは窓の外から校舎を見つめてそう語る。窓に僅かに反射して映る表情は、かなり重々しい。分かってはいたけれど、彼のその表情が私に対して嫌がらせをしようとなどしていないことは瞬時に把握できた。


「どういうことですか」


 直截に尋ねると、彼は赤裸々かつ淡々と語る。


「君はかつて、学校一の好青年とも言われた男子生徒に告白され、それを断ったことがきっかけでいじめられることとなった。自分が身を置く家の事情や、自分の気持ちと向き合った上で出した結論だったはずなのに、酷く理不尽な仕打ちを受けた。それでも君は絶対に抵抗も反抗も反論も行わず、誰一人として助けすら求めなかったよね」


 彼の語っているのは、私がSPMに来る前の経緯。

 あの日、彼自身が私の自殺を阻止した時既に分かっていたけれど、彼はいじめの全貌を一切誤りなく知り尽くしていた。

 だから、彼に対しては隠し事がまるで通用しない。


「そこには様々な要因が絡んでいるけれど、そのうちの一つにはある少女が関係していた」

「…………どう、して、それを」

港暁子みなときょうこ。いじめを受けるようになる前まで君の友達であり、君が自ら距離を置いてまで守ろうとした女子生徒――」



* * *



 今から一年前。私がまだ高校に入って間もない頃の話。

 決して余裕のない暮らしをしていた当時の私は、周りから浮き過ぎないよう注意しつつも人との距離を取るようにしていた。そのため決して嫌われていたとか、ハブられていたわけではなかったけれど、学校では一人でいることが多かった。

 入学してからしばらく経ち、周りの人間関係が構築され始めた頃。私も学校での過ごし方に慣れ、一人でいることが当たり前の日常として定着しつつあったところに、彼女は突然現れた。

 その日は偶然、早めに学校に来ていて周りの生徒はほぼおらず、私は勉強しながら一限開始を待っていた。


「舟見さん、だったよね?」


 そんな時、私に話しかけてきた少女。茶色のさらっとした長髪に花柄の髪飾りをつけた可愛らしく、元気溌溂でとても快活。彼女の大まかな人間性と彼女がクラスメイトであるという情報は知りつつも、それ以外は何も知らず面識もない。

 私はこれまで通り、ある程度の距離感を確保しつつも無視せず対応した。


「……私に何か?」

「私は港暁子。良かったら舟見さんとお友達になりたいなって思ったんだけど、どうかな?」


 助走は一切なしで距離を詰めてくる彼女に、私は思わず身構えてしまった。

 ただ、このまま怯えていてはきっと押し切られてしまう。彼女の人当りの良さを知っているからこそ、上手く言葉にしないといけないと思った。


「ごめん、私は…………」

「知ってるよ。舟見さんが何かしらの事情を持ってることは」

「えっ……?」


 彼女は思いがけないことを口にした。

 面識もないどころか、私の事情に関しては周りの誰にも話していない。決して知りえないはずで、隠してきたこと故に驚きが隠せない。

 そんな私の表情を見てか、彼女はおどけながら先ほどの言葉に補足を加える。


「まぁでも、その内容までは知らないよ? 傍から見てそうなのかなって思っただけだから」

「でもそれなら……」


 それなら私が友達を作りたがらないことも知っているはず。にもかかわらず、最初からそこに大きく踏み込んできた彼女の言動には疑問符が浮かぶ。


「羨ましそうに見てたから」


 彼女は私の言葉を制して疑問に答えた。

 普段、一人でいることが多い私は、時折教室を見渡すことがあった。談笑していたり、遊びの予定を立てたり、勉強を教えあったり。楽しそうに笑う彼ら彼女らの姿に嫉妬してしまうような立場でも、私は幸せそうな様子をただ眺めている時間が好きだった。

 ――鮮やかに彩られた青春の中に私はいられない。

 私のような事情を抱えていない彼らにはせめて、私の分まで幸せな時間を過ごしていて欲しい。当時の私はそんな目線で彼らを見ていた。

 そしてその目線こそ、港暁子が別のニュアンスに取った原因そのものである。


「違うよ」


 私は彼女の言葉を真っ向から否定する。

 中学途中で母が床に伏せがちになって以降、私には彼ら彼女らと同じようにはいられないことを自覚した。

 そして当時既に、私の中では割り切っていた。これは仕方のないことであると。

 羨ましいなんて、いつかその場所に行けたらなんて気持ちはなかった。


「そっか。舟見さんがそう言うならそうなのかもだけど、その涙こそ舟見さんの本心だと私は思うな」


 そう思っていたはずなのに、深層心理では違っていた。

 彼女の言うように、意思に反して頬を伝う涙は自分の理不尽や運命を恨む、悔しさの表れ。ずっと押し殺し、我慢して積み重なって来たものだ。


「舟見さんの事情は私には分からない。そしてそれを聞き出そうと思ってるわけでもないの。ただ、舟見さんが望んでいるものを少しだけでも掴ませてあげれたらなって思うからさ」


 彼女は満面の笑みを浮かべ、私の頬に優しく触れる。同時に、滴りかける涙の雫を指で軽く拭った。


「私たち、いい友達になれないかな?」



 そうして私たちは友達となった。

 ただ、一般に指す友達とは少し違い、彼女と話すのはほぼ学校の時だけに限られた。それも大半が朝の時間と昼食の時間という短い時間であった。

 放課後は決して遊びに出かけたりすることもない。それは私が母の看病で早く帰らないといけないためであり、これまで友達を作ってこなかった最大の理由でもあった。

 それでも彼女は「どうして遊びにいけないの?」とか問うこともなければ、強引に誘ったりすることもなくて、あくまで私の事情を最優先にしつつ寄り添ってくれた。


「暁子、最近香水変えた?」

「うん、そうなの! 他の人、誰も気づいてくれなかったのによく分かったね」

「私、鼻が良いから細かい匂いの変化とかに敏感で」

「なるほどね~。好きな匂いとかあったりする?」

「好きな匂い、か。あんまり考えたこともなかったけど、強いて言えば柑橘……かな?」

「柑橘系なら確か、家に未使用の香水余ってた気がするなぁ……。明日持ってくるから、気に入ったらそのまま貰ってよ」

「えっいいの? 香水なんて高いんじゃ……?」

「気にしなくても大丈夫だよ。私がプレゼントしたいだけだし、帆乃花もお洒落を楽しも?」

「ありがとう。大切に使うね!」


 これまでできなかった、こんな女子高生らしいやり取りも何度交わしただろうか。

 私を取り巻く事情そのものは変わらずたくさんの我慢が強いられる環境でも、彼女との時間はかけがえのないもので、そうして過ごしていく時間は心地が良かった。母の状態が良くなく私に当たられてしまう日であったとしても、その時その瞬間だけはあらゆることを忘れられた。

 ――けれど、そんな日々は一年も続かなかった。

 冬が終わりに差し掛かり、間もなく春を迎えようとしていたある日のこと。そのきっかけとなったのは、ある話声を耳にしたことから始まる。


「――沖合君、好きな人いるらしいよ」

「あの沖合君が!?」


 その日最後の授業が終わり、帰宅の途に就こうとしていた私が、玄関で靴を履き替えるために外履きに手をかけた時。ロッカーの高い壁の奥から、女子生徒二人の声が聞こえてきた。

 如何せん、女子の話声というのはよく響くものだ。別に興味もなかったし、対して聞き耳を立てようとしたわけじゃないのに、その内容は不思議と入ってくる。


「まぁ噂でしかないんだけどね? なんか、一組のえっとなんだっけ……。舟見、みたいな名前の子だったと思うんだけど」

「舟見? 誰それ」


 でも、その名前を聞いて外履きを履こうと伸ばした足を止める。

 どうしてそこで私の名前が出てくるのか。その疑問は、自ずと聞き耳を立てさせた。


「私も誰かよくわかってないんだけどさ、名前も知らないってことはどうせパッとしない子でしょ? だからなんか納得もいかなくてさ」

「あくまで噂なんだよね? だったら大丈夫だって」

「そっか、そうだよね! そんなわけないよね!」


 当時から沖合聡司は一目置かれる存在であり、シンボル的な扱いを受けていた。神格化され過ぎているが故に、まさか彼がそんな名も知れない一人の女子生徒のことが好きなはずなんてないと、誰もが思っていて。そしてまた、当の私すらもそう思っていた。

 世の大抵の噂というのは嘘八百で、信憑性の欠片もない。まるで思い当たる節もないどころか、私には彼との面識も接点も皆無だ。

 だから彼女たちがそうしていたように、その時の私も聞かなかったこととして聞き流した。



 けれどこれを発端に、どこかしこで同様の噂が聞かれるようになった。おかげで、この真相を確かめるために詰めてくる人が多く現れるようになる。


「あんた、彼を誑かしたり、唆したりなんてしてないでしょうね?」

「してないよ」

「そんなわけないでしょ? コソコソ見えないところで一人出し抜こうなんて、そんなの絶対に許されないから」

「ちょっと、もういいでしょ!」


 私を詰めに来た女子生徒を引き剝がすように、暁子は私とその生徒の間に割って入る。すると、惨めったらしく最後に舌打ちをしてその女子生徒はその場を離れていった。


「大丈夫? 帆乃花」

「うん、大丈夫だよ。いつもありがとね」

「お礼なんていらないよ。友達なんだから」


 そう言って彼女は、いつも笑顔を見せて安心させようとしてくれた。おかげで、当時の私が今の夕季のように苦しむこともなく済んでいた。

 でも、そんな日々はいつまで経っても終わりが来ない。

 まるで犯罪を犯したかのように責め立てられ、事実を述べてもそれを誰にも信じてもらえない。事情から仕方なく距離感を置いていたことが裏目に出て、信頼性のなさにより私の身の潔白はいつまで経っても証明されなかった。

 それでも、その度に暁子は私の身を案じてくれた。

 それが私にとって唯一の救いであったけれど、友達として何もできない歯痒さを抱いてしまっていたり、自らを取り巻く環境すらも悪化したりなど、少なからず彼女も傷ついていた。そのことが酷く胸を痛めつけていて、いじめそのものよりも余程辛かった。



 そして遂に、この先起こり得る最悪の末路が脳裏を過ることとなる。

 その日は、一学年最後の日である修了式の日であった。

 三月も下旬とはいえ、依然として冬の寒々しさが残る風は、頬に当たると凍てつくように刺激する。特に、遮るもの一つないこの屋上は、一段とその風が強く感じられた。

 したがって、必然的にこの屋上は誰も寄り付かない場所であり、極めて森閑な空間。特に朝間となれば、校舎内から聞こえてくる生徒の声すら聞こえてこないほど静かであった。


「帆乃花、こんなとこに連れて来てどうしたの? 早く中に戻ろうよ」


 暁子は寒そうに腕を摩りながら、一歩二歩と私の方へと歩み寄る。

 普段なら、私たちにとってゆっくり話せる貴重な時間だ。誰もいない静かな教室で、何気ない話に花を咲かせる、花の女子高生らしい時間を過ごせてきたのだろう。

 だけど、そんな日々はもう終わりだから――。


「ごめん、暁子。この関係は今日で終わりね」


 私は彼女がいつもそうしてくれたように、安心させるような優し気な笑みを浮かべたつもりだけど、彼女にはどう見えていたのか分からない。

 けれど反応を見る限り、私は上手く笑えていなかったようだ。


「……どうして?」


 悲し気に首を傾げる暁子の表情が、心をぎゅっと締め付けてくる。

 彼女が与えてくれた幸せで優しい時間。一体どれほど救われてきたのか分からない。感謝なんてしてもしきれない。

 だから本当はそんな日々がずっと続いてほしかった。二年に上がっても、三年に上がっても、それこそ卒業してから先も。

 でも、そんな時間は既に瓦解していることにも気付いていた。私のことを最優先にしてくれた彼女が、私のせいで大変な目に遭うようになったから。

 きっと彼女は言うのだろう。

『友達だから』って。

 けれど私はもう、その関係性であることで彼女が傷つくのには耐えられないし、何よりこの先はもっと傷つくことになるかもしれない。

 そう。私はこの時既に、噂が本当であることも、彼が告白してくるであろうこともある程度計算に入れていたのである。

 だから私が下した決断というのは、彼女との関係をフラットにしてしまうこと。

 私がこれから先被るであろう痛みや苦しみを受けなくて済むように。

 そして、彼女がこの先幸せでいてくれるように。


「新学期、同じクラスになってもならなくても。私たちはもう、友達じゃない。ただの同学年の生徒」


 彼女がこの先苦しくならないように、と思うからこうしているはずなのに。いや、だからこそ胸が痛くて痛くて、今にも張り裂けそうで。

 本当に我儘すぎる、自分勝手すぎる。

 自分の都合を全て飲み込んでまで私の傍にいてくれたのに、その都合で突き放すなんて最低最悪だと思う。

 それでもそうするしかないなんて……。

 人はこれを『理不尽』と呼ぶのだろう――。


「今までありがとう、暁子」


 今度こそ、上手く笑えただろうか。

 さっきみたいに、彼女の反応を見て確かめたかったけど、涙で曇って上手く見えなかった。

 ――さようなら。

 心の中で届かない別れの言葉を呟いて、私は静かに屋上を後にした。



* * *



 そうして私は港暁子との縁を切り、赤の他人の関係性に戻った。

 突然で理解し難い展開だったはずなのに、それ以降彼女は一度だって私の前に現れなかった。

 最後の最後まで、彼女は私の都合を優先してくれたのだろうか。だとしたら、なんて惜しい友達を失くしてしまったたのだろうか。

 そして、その決断を下した私の方は月城さんに救われてSPMに身を置くこととなり、現在に至る。

 私のことをよく知る月城さんだからこそ、私に一つ心残りがあることも見抜いていた。この話を持ち出したのはそのためだろう。


「僕は舟見さんを救い出すことで、舟見さんに後悔が残るであろうことも全て計算に入れていたんだ。だからこそ、ここに連れて来たんだよ」

「ここに連れて来て……どうするんですか」


 午前七時。これだけ朝早い時間帯では、まだ生徒が学校に来ていない。

 当然、件の暁子もここにはいない。

 けれど彼は表情一つ変えることなく、平然と言葉を続けた。


「舟見さんが学校を辞めたと知って以降、彼女は必ずこの時間帯に登校している」

「なんでそんなことを月城さんが知ってるんですか……!?」


 私は反射的に疑問をぶつけたが、月城さんは笑って平然と答えた。


「僕の救助対象は舟見さんだった。ただ、相模原さんが最たる例であるように、救った後も仕事の範疇だからね。舟見さんの心残りを解消するのもまた、仕事ってことだよ。それに半分、僕のせいでもある」

「で、でも……!」


 半分自分のせい。

 それはすなわち、SPMに連れて行ったことで元通りになる機会を奪ってしまったから。でも、救ってもらった月城さんには今でも感謝の気持ちしかないし、それを自分のせいだと思って欲しくはない。これを招いたのは全て、自分のせいなのだから。

 そんな風に反駁しようとする私の言葉を遮ったのは、視線の前を覆う彼の左手だった。


「待った。丁度来たみたいだよ」


 月城さんの視線はバックミラーに向かっている。だが、こちらからでは彼の見ているものが見えないので、私は思いっきり身を捩って後ろを振り返った。

 学校の敷地に沿って湾曲した道の先、僅かに人らしき姿があるのが見える。

 だが…………。


「なんであれが暁子だって分かるんですか……」

「この時間帯に来る生徒なんて彼女くらいだからね」


 その人との距離は百メートル以上も離れていて、シルエット等から何となく彼女らしいなとは推測できるものの、彼にそう言われていなければそれも分からなかったであろう程遠いのである。それでも彼がそうであると断定できるのは、それだけきちんと情報を集めているからだ。

 やはりSPMの先輩としては遠く及ばない人だなと、己の未熟さに打ちひしがれつつも、私はドアノブに手をかける。


「すいません、月城さん。少しだけ、時間いただけますか」


 その言葉に対し、彼は安心したように首肯する。


「僕は念のためここから離れておくよ。終わったらここから離れたところで合流するから、また連絡してね」

「分かりました」


 私が車を降りてすぐ、月城さんはそのまま真っ直ぐ車を走らせ、私は一人学校の前に残される。そうしてすぐ、近くの電柱に背中を預けて空を仰ぎ見た。

 あの屋上で別れてから二か月の月日。それまではこの時間帯、毎日のように話していたはずなのに――胸の鼓動が早くなる。友達と話す安心感とは、もうすっかりかけ離れていた。

 懐かしさと嬉しさ、罪悪感と気まずさ。対極の気持ちが入り混じる独特の緊張感で、彼女の方を向けないまま、たなびく雲を眺めて荒く息をする。

 そうしてゆっくり、目を瞑った時だ。

 パタパタと靴を忙しく鳴らす音が、徐々に近づいてくる。朝の静けさの中、他に遮る音は何もなく、ただ足音だけを良く響かせていた。

 そうしてしばらくして、その音がピタリと止まる。同時に、よく通る透明感のある声で私の名前が呼ばれる。


「帆乃花!」


 私はそれを聞いて、いやほとんど聞く前から彼女の方に走り出していた。

 気持ちばかり先走って途中転びそうになりながらも、私は彼女に縋りつくように抱き着いた。友達であった頃でも、こんなことをしたことはなかった。


「ごめん、暁子……。本当にごめん」


 彼女は私を慰めるようにして頭に手を乗せると、髪を優しく撫でた。髪に触れられたことも、当時は一度もなかった。


「ううん。分かってるよ、何かしら事情があったってこと。私から離れたことも、学校を辞めちゃったことも、全部全部ね」

「なんで……、なんで暁子はそこまで私を信じられるの?」


 お世辞にも、私は暁子の信頼を勝ち得られたとは言えない。自分の都合ばかり押しとおして、中々暁子の都合や本心を聞いてあげられなくて。それでも彼女はいつだって笑ってくれて、「大丈夫だよ」って言ってくれた。

 彼女には私を責める権利があるはずなのに、「信じていたから」と全く責めなかった。そのことが不思議で仕方がなかった。


「まぁでも、屋上であんな風に言われた時は正直、どうしてって思ったよ? ただ、二年生に上がってすぐに告白の噂が流れて、私気づいちゃった。帆乃花は、私がこの件に巻き込まれないように遠ざけてくれたんだよね?」


 全てを許してくれるような言葉が、声音が、心残りで苦しかった自分の心を包み込んでくれる。

 ずっとずっと巻き起こり続けた理不尽の中で、初めて自分が報われた気がした。苦しくて、胸が引き裂かれるような思いの中でも突き通してきてよかったって、今初めて思えた。


「だから、何も言わないで学校を去っていったことにもちゃんと理由があったんだろうなって思ってたよ。とにかく、元気そうな姿見れたことが私は嬉しい」

「ごめん……」


 それでも、「私も嬉しい」って、それだけは言えず、ただただ謝ることしかできなかった。結局今回のことにしても、やはり彼女には何も打ち明けることができないからだ。

 どういう都合でここを去ったのか。そこにSPMという組織の事情が絡んでいる以上、それだけはできない。また彼女に話せないことが増えて、酷く悔しかった。


「それにしても帆乃花、どうしたのその髪」


 私はそう言われて彼女から離れ、自分の手で髪を手繰って確かめる。

 あぁ、そうか。

 思えば今回の潜入調査のためにエクステをつけている関係で、当時とはまるで髪型が違うのである。


「イメチェン、みたいな感じ」

「そっか。でも私的にはやっぱり、セミロングの方が好きかなぁ」


 彼女は当時の私を思い返して、懐かしむように嘆いた。

 髪はその人の印象を大きく作用する要素である。故に、髪型を変えるだけでもまるで別人のように見えることがある。

 実際、私が長髪になって初めて相模原さんに会った時には「誰?」と言われた。観察眼に長けた月城さんこそ一発で見抜いていたけれど、大抵の人は別人と判断するのだろう。

 それなのに彼女は――暁子は、少し遠くからでも私だと分かった。それはきっと、ほぼ毎日のように会って話をした、あの日々の長さによるものなのだろう。

 今はもう私たちは他人で、同じ学校の制服も来ていなければ、同級生ですらなくなってしまったけれど。あの時間は確かに存在していたのだという、大切な証。


「今日はどうしてここに?」

「ちょっとした用事で近くまで来てたんだ」

「そっか。じゃあ、偶然なのか~」


 彼女は偶然というけれど、今回は月城さんによる必然的な邂逅であり、そして今後はもう、その偶然は起こりえない。


「また奇跡的に逢えたらさ、今度は遊びに行けたらいいね!」

「うん」


 元気よく笑う表情の中に潜む、悲しい色。彼女が奇跡と言い換えたように、基本的には有り得ないと分かっているからこそ、あえて前向きに振舞っているのだろう。最後の最後まで気を遣わせてしまっている。

 私はそっと彼女の方に歩み寄ると、先ほどとは立場を逆転させて彼女をそっと優しく抱き寄せた。


「ねぇ、帆乃花」


 彼女と出会って初めてだと思う。その声は、常に元気溌溂な彼女に似つかわしくない、湿ったものだった。


「あの時言えなかったこと、言ってもいいかな?」

「うん」

「私の方こそ、ありがとう」

「……っ」


 暁子は静かに私の肩に手を置くと、そっと押して距離を取る。

 涙に濡れた頬を勢いよく拭うと、その雫がパッと撥ねて、朝日の光でキラリと輝いた。


「またね!」


 ニカッと笑う暁子の笑顔は、今まで見た笑顔の中で最も明るくて、同時に最も痛々しかった。でも、だからこそ痛烈に鮮烈に、ずっと記憶に残り続けるのだろう。


「うん。またね!」


 お返しにと言わんばかりに笑って見せると、暁子はほんの僅か驚いたような表情を浮かべたが、すぐにまた笑顔を見せた。そして小さく手を振って、私を送り出す。

 私はくるりと踵を返すと、すぐに彼女から離れるように歩き出した。

 もう過去は引き摺らないと、心に決めて――。



* * *



「お疲れ様」


 暁子と別れ、学校から離れた場所で再度月城さんと合流した私は、助手席に乗り込んだ。


「よかったの? あれで」

「『あれ』とは?」

「僕らは確かに潜入任務という仕事柄、秘匿すべきことは多い。でもだからと言って、人との交流を禁止しているわけでもない。言ってくれれば送迎だってするのに」

「……もしかして見てましたか?」

「ごめん。別に盗聴趣味があるわけじゃないけど、仕事柄、ね?」


 月城さんにとって私は依然として救助対象。故に、仕事というのを建前に私を観察していたのだろう。一体どの場所から私たちの会話を聞いていたのかというのは実に気になってしまうが……。

 私は先程彼が尋ねた、なぜ彼女との隔絶をそのままにしておいたのかという問いに真正面から答える。


「月城さんや他のSPMの方々に、私のプライベートまで付き合わせるわけにもいきませんし、少なくとも今はSPMの一員としてやっていくので精一杯ですから。それに……」


 あの当時からずっと、彼女にしてきた隠し事。そして今回、新たな隠し事を上塗りした。

 いくら彼女が私の事情を尊重してくれているからと言っても、彼女の本心では内側を晒してくれるのを望んでいるのだと思う。まさに、私が夕季に対してそうだったように。

 いつになればそんな日がやってくるのか、それは全く見当もつかない。

 けれど、全てを話せるようになった時、初めて彼女と本当の友達――否、その時には親友となれるのだろう。

 だからその時まで――。


「それに?」

「……いえ、何でもありません」

「そう?」


 月城さんは何だか意味ありげに微笑む。まるで全てお見通しだと言わんばかりだ。

 もしかしたら今からしようとしていること全て、彼の掌の上なのではないかと錯覚すら覚えるが、私は彼の名前を改めて呼んだ。


「月城さん」

「うん?」


 運転中故、彼は視線を前を向けたまま小首を傾げる。


「このまま学校に向かってもらえますか? できれば少し早めに」

「元から学校には向かってたけど、どうしたのいきなり」

「任務のことで、やっておきたいことがあるんです」


 私はそう言ってすぐさま、自らのスマホを開いた。

 私が中学校一年生だった当時なんて、スマホは高校からというのが定石だったけれど、今では小学生すら持っていると聞く。だから当然、中学一年生の彼ら彼女らも平然とメッセージでのやり取りをしている。

 私はスマホを淡々と操作すると、ここ最近最もやり取りの多かった人物に一通のメッセージを送った。

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