第6話 見えていなかったもの
翌朝、一限開始十五分前の教室に広がっている風景は変わらない。
騒めいた賑やかしい生徒たち。
朝日差し込む暖かな窓側の席。
そして、隣の席が空席なことも――。
けれど私は、昨日までとは違って期待感をもって、来るべき時を待っていた。
「今日も休み?」
てくてくこちらに歩み寄る明光寺は、空いた席を見つめてそう尋ねる。
単純な興味や心配も当然あるのだろうが、おそらく学級委員長として思うところも強いのか、彼女と話す際にはよく彼の話題が持ち上がる。こういう人が一人、クラスにいるだけでもこの先のことを考えると心強かった。
「どうだろうね……。私はそろそろ来ると思うけど」
「その予感の根拠は一体どこから……?」
不思議そうに彼女は首を傾げながら、視線を教室の後ろ側の扉に移す。私もつられて同じ場所を見やった。
すると――。
「あ、ほんとに来たっ!」
ガラガラと扉を開き、教室内に一歩踏み出したのは、隣の席の生徒――夕季光磨の姿であった。
彼が最後に学校に来ていたあの日、私は彼がいじめられている現場の声を聞いてしまった。その後、トイレから出てきた彼は私と鉢合わせ、私に見られたくない現場を見られてしまったと思い込み、翌日からは姿を現さなくなった。
そう――。
彼はあくまでも私がいじめられていることを知ってしまったと思い込んだだけであって、実際にそうであると確認したわけじゃない。本当に偶然、その場所を通りかかっただけかもしれない。
だから私は昨日、何も見てない聞いていないという体を装い、彼にあえて『お大事に』と口にした――風邪と勘違いしているように嘘をついたのである。
一見怜悧な機転を利かせた策にも見えるが、実際は単純かつ初歩的で稚拙な誑かしに過ぎない。だけどこれが、ものすごく大きな効果を発揮した。
私の嘘により彼が陥るであろう思考を読むと、二つのパターンが考えられる。
――いじめの現場を見られていないと知り、学校を休んでいた理由が解消されたので復帰する。
――本当にいじめの現場を見ていなかったのか、私に確認する目的で復帰する。
いずれにせよ、これで彼には学校に戻る大義名分が出来上がったことになる。これこそが、私が彼の登校を確信していた大きな根拠であった。
学校に来るのはこれが約一週間ぶり。
小学校の頃にインフルエンザで同期間休んだ経験から身に覚えがあるが、今回も漏れなく久々の登場に周りの視線が集まる。けれど、それを恥ずかしがったり嫌がったりする素振りはまるで見せず、堂々とこちらに向かって歩いてきた。
目の下はほんの少し腫れていて、身体は心なしか全体的に細くなったように見えた。
「おはよう」
私が目を見て挨拶をすると、昨日の出来事の気まずさなのか、それとも元から持っていた羞恥心なのか目線を逸らす。そしてそのまま、静かに席に腰を下ろす。
「久しぶりだね~、夕季くん!」
「あ、うん……」
明光寺は気さくに夕季に声をかけたが、対する夕季の方は少し対応に困っている。
思えば、こんな風に夕季が話しかけられているのを見たことがなかった。
『周りから突出している分浮いてしまっているところもあって、いじめに遭う前からあまり友達もいなかったようです。決して嫌われていたわけではないようですが、少し距離を取られているように見受けれらました』
かつて松院先生はこう言っていたが、どうも明光寺は例外のようだ。
一見、能天気な性格の明光寺だが、決して無神経なわけではない。その証拠に、彼がなぜ休んでいたのかについてはあえて触れていない。
私が転校してきた時にいち早く声をかけてくれたり、すぐに仲間の輪に入れてくれたりしたことからも分かるように、彼女の行動理念の根幹には『協調』の二文字がある。そんな彼女のおかげで、ほんの少し夕季の緊張感が解れたようにも見えた。
「じゃ、私はそろそろ席に戻るね」
一言挨拶できただけで満足したのか、それとも一限開始が近いからなのか。彼女は切り揃った前髪を愉快に揺らしながら自分の席に戻っていった。
「あのさ……」
ようやく二人きりの会話ができる状況になり、何かを言い出そうとする夕季だったが、私はほぼ同時に彼にとある提案を持ち出す。
「放課後、一緒に勉強しない?」
「…………は?」
松院先生が与えてくれた機会を活用し、ようやく今に至っているが、あくまでほぼ振り出しに戻ったに過ぎない。その先に進むための第一歩として、まずはこれまで通り少しずつ歩み寄っていき、彼がいじめについてのことを自ら打ち明けてくれることを期待して待つ。これが、私の中で打ち出した今後の方針である。
もしこれから先、彼の正義感や強い部分を尊重しつつ、徐々に解消していくのを待つという松院先生の提案に乗っかるとしても、彼から聞けるいじめの内情を知っておいて損はない。なぜなら、知りえなかった情報によって、より適切でスピーディーな解決法を導けるかもしれないからだ。
彼は私の提言の直前、一瞬何か言おうとしていた。それでも一先ず、後で聞けばいいとして話を進めていくことにする。
「ずっと休んでいたでしょ? だからその時のノートとか貸してあげるし、せっかくだから分からない所とか教えるよ」
「べ、別にそんなの要らないから。自分でやるし、大体転校してきたばかりだから大変なんじゃないの、その……進み具合とか違うだろうし」
私からの気遣いに対して遠慮しつつも、私を気遣う言葉。彼らしさが滲み出していた。
そんな優しさを無碍にするようで少々忍びないが、ここは断るしかない。
「それなら大丈夫だよ」
何せ、そもそもの転校元が高校なんでね……。教えられることはないかな。
「あっそ。それならいいけど」
「うん。だから全然気にしないでいいよ。こう見えても私、勉強得意だから」
「そう言う奴って大体頭良くない気がするけど」
「まぁいいのいいの。とりあえず放課後、ここでやろっか」
私はそう言って無理矢理言い包めたものの、まだ彼は何か言いたげにぶつぶつと聞こえない大きさで何か呟いていた。しかしそれは、一限担当の教師が扉を開く音で良く聞こえなかった。
* * *
四限の理科の授業が終わり、各々昼食タイムに入っていくお昼時。私たちは実験授業で移動教室だったため、クラスメイトたちがぞろぞろと自教室に戻っていく。
「ふぅ……」
溜まった疲労を吐き出すように、私は大きく息を吐き出す。そうして皆が帰っていく中で一人、木製の簡易的な椅子に座ったまま突っ伏した。
いくら内容が簡単で大して頭を酷使しなくて済むとはいえ、周りの生徒の能力を鑑みて同じくらいになるよう演技するというのは極めて神経を摺り減らす作業である。水溶液の濃度を指定通りになるよう、溶かす物質の質量を測る作業なんかより、何倍も繊細な作業だったと思う。
ただ、他の授業と比較すると、この授業は相当マシな部類だ。普段の理科こそ座学だが、今回のように『自分たちでやる』授業というのは、分かりきったことをつらつらとノートに綴っていく単純作業と比べればまだ面白い。故に、体育や芸術といった授業は、他の授業の中でオアシスのような存在であった。
とはいえ、ベースである他の授業は砂漠のように何もありはしないわけで、まさに焼石に水といったところだろうか。この四限が始まる前の三つの授業で、かなりの疲弊が積み重なっていた。
「お疲れ様~……って、どしたの?」
理科担当の教師も既に去り、ほとんどの生徒が去ってしまった中では私の光景が異様に見えたのだろう。明光寺の声が背中側から聞こえてくる。
「あ~そうか、お腹が空いてるんだよね!」
私は何も言っていないが、現在の時間帯から勝手に納得した彼女は、私の肩に手をかけて強引に起こしにかかる。
お腹が空いて力が出ない、なんてどこぞのヒーローじゃああるまいし……。
やれやれと思いつつ仕方なく体勢を起こすと、ひょいと立ち上がる。
「戻ろっか」
「うん。早くお弁当食べよ!」
そう言って彼女はステップを踏みながら、理科実験室の出口へと向かっていく。
――まただ。
ふとした時に、彼女の姿を別の彼女と重ね合わせてしまう。
ありもしない世界線を妄想してしまう自分がいる。
もし、理不尽がなかったならば。
そう考えてしまういつもの癖が、どうしても好きになれない。
「ほら行くよ!」
振り向いて私に手を振る明光寺。
一緒に戻るつもりで声をかけておきながら、足並みを合わせず先に行ったのはどこのどいつだ。
そんなことを心の中で思いつつ、私は彼女の方へと歩き出した。
* * *
放課後。高校と違って居残る生徒も少なく、教室内から他の生徒が掃けていくまでにそう時間はかからなかった。
一年三組の教室内は、私と夕季光磨だけが取り残されたように席に座ったままである。
「はい、これ」
約束していた通り、私はまず数学のノートを夕季に差し出す。
授業が退屈だとはいえども、当然ながら惰眠を貪るわけにはいかない。半分暇潰しくらいの感覚で取っていたノートだったが、思いがけない所で役立った。
彼はぼそり、「ありがと」と呟きつつ、その教科書を受け取った。そうして自分のノートの横に並べて置く。
「あ、それ……」
つい目に入った光景に、思わず言葉を漏らす。
私のノートの横にある彼のノート――それは、彼と会った初日に見たやけにボロボロのノートであった。あの日から随分な時間が経過しているはずなのに今も替えのノートを用意しておらず、今回もそんなことはお構いなしとばかりに写し始めていた。
「このノートのこと……なら、ちゃんと後で話す」
私はその言葉を聞いて少しばかり驚いた。
『単に落としただけ』
かつてこのことを尋ねた際、彼はそう言っていた。
けれど今回の言いようを見るに、当時の私が抱いていた違和感は当たっていたのではないかと思う。その真相については、実際に彼から聞くまでは分からないけれど。
そして同時にこのことが、あの日から確実に距離を近づけていることを裏付けている。随分と遠回りしてしまったようだけれど、着実に進んでいたのだなと暖かな嬉しい気持ちが心の中を覆いつくしていた。
ノートの取り方はその人の個性が色濃く反映されるものである。
黒一色でただ写経のように板書する人もいれば、自分さえ分かってしまえばそれでいいと殴り書きになっている人もいる。蛍光ペン等まで駆使してまるで絵のような彩りに富んだノートづくりをする人、空いたスペースに落書きする人など、ノートの取り方というのはまさに十人十色である。
故に、『沢山色分けしたから分かりやすい』とその人が思っていても、見る人が見れば『目がチカチカして見辛い』ということだってあるし、『要点を分かりやすく纏めた』ノートも、人によっては『纏められすぎていて意味が分からない』なんてこともある。
つまり、私の中では『誰が読んで分かるようなノート』になっていると思っていても、夕季がどう感じるかは別問題ということ。ましてや、『全て既知だから』ということで端折っている部分も多々あったので、私は時折言葉で補足しながら彼が写すのを見守っていた。
そうして順番に各教科映し終えた頃。遠くの空がほんのり朱色に染まり始め、時間帯はすっかり夕方に差し掛かっていた。彼は凝った首、肩、背中を解すように、グルグルと頭を回しながら伸びをする。
「お疲れ様」
「ほんと疲れた……」
と、夕季は愚痴がましく漏らしてはいるが、こうして全て写し終えるまでは弱音一つ吐かず、黙々と写していた。それは彼の集中力の良さなのか、それとも少なからず私には感謝して気遣っていたのか。言葉にしないから、その真意は分からないけれど。
「さっきの話、聞いてもいいかな? ノートのことについて」
私はそうして、先ほど後回しにされた話題を掘り起こす。
夕季は静かに体重を後ろ側にかけながら椅子を二本の足だけで立たせ、天井を仰ぐ。
「あの日……、俺が最後に学校に来た日だけじゃない。俺はずっと前からいじめられてるんだ」
これは言われるまでもなく知っていた事実であったけれど、私は驚いた。
昨日の出来事を経て、彼が陥る思考を読んだ私が出したのは、二つのパターンだった。けれどどうやら、そこには無かった三つ目だったらしい。
――いじめを見ていようと見ていなかろうと、自分が休んでいた本当の理由を打ち明ける。
それはおそらく、私が勘違いしていたということに対して、そのままにしておくことの罪悪感を覚えたからだろう。
心配を、迷惑をかけたくないから知られたくなかった夕季だが、自分にとって都合のいい勘違いを勘違いのままにしては置けなかった。彼の正義感の強さの象徴とも言える一幕だ。
こうなることを期待していた私ではあったが、まさかここまで早く自ら打ち明けてくれるなんて想定外だ。おそらく、彼が想定した通りの驚いた表情が顔に出ているのだろう。彼は滔々と言葉を続けた。
「そうなったきっかけは、入学したばっかりの頃。別に友達でも知り合いでもなかった男子が一人、ある奴らに都合よく雑用させられているところを俺は見たんだ。その時はまだ、ほんの小さな嫌がらせ程度に過ぎなかったし、その男子とあいつらの関係が分からなかったから何もしなかった」
先ほどまで一定だった表情と声に、突如として怒りと憎しみが混じり出す。浮いていた椅子の足がガッと強く音を立てて着地した。
「けどしばらくしたある時に、俺はそいつが一人泣いてるのを見かけたんだ。その時はもう最悪の気分だった。初めて見たときに自分が行動していれば辛い目に遭わなくて済んだんじゃないかって。それで俺は彼を慰めるよりも先に、いじめてた奴らに文句を言いに行ったんだ。……そしたらそれ以降、今度は俺がその標的になった」
いじめをしていた彼らに、そして自らにも向いていた怒りの感情はすぐに、悔しさへと変換されていく。彼の声は段々と湿り気を帯びていく。
「……情けない、よな。だから、誰にも見られたくはなかったし、このことも知ってほしくなかった……。嫌な気持ちにもさせたくなかった……!」
そんな気持ちがあることを私は知っていたけれど、こうして思いを真っすぐに伝えられて気づいたこともある。
私が彼を駅前に連れ出したあの日のこと。
彼がわざわざ学校前で合流するよう提案したあの時、私は彼に思春期故の恥じらいがあったからだとばかり思っていた。でも今思えばあの時からずっと、私をこの件から遠ざけようとしていたのではないだろうか。校内で一緒にいる所を見られて、私までいじめの対象にならないような配慮も含まれていたんじゃないだろうか。
そんな優しい彼が、誰も傷つかないように過ごしてきた彼が、立派過ぎる正義感を持つ彼が――机に顔を伏せ、泣き崩れた。筆舌し難いほど痛々しいその姿は、もう見るに堪えなかった。
傷つけたくない――かつての自分が抱いたその気持ちが分かるからこそ余計に、彼の姿が古傷を抉ってこようとする。
彼は既に、想定していたものより遥かに深い傷を負ってしまっている。私の前で半分掠れた慟哭を漏らす様が、それを物語っていた。いつ精神が崩壊してしまっても、絶対に超えてはならない一線に向かってしまっても決しておかしくない。
私は号哭する彼に寄り添うようにそっと席を立って寄り添い、背中をゆっくり摩りながら彼が落ち着くのを静かに待つ。
そうして幾許かの時間をおいて、少しずつ嗚咽も収まってきた。そのタイミングを見計らって、私は囁くように感謝の言葉をかけた。
「ありがとう。私のためにたくさん考えて、悩んでくれて」
「別に……」
――お前のためじゃない。
いつもだったら言いそうな強がりも、込み上げる嗚咽で詰まって言葉が上手く出てこない。
私は彼の頭にそっと手を乗せて、優しく撫でた。
「本当にありがとね」
「……っ」
手のかかる小生意気でとても優しい弟を慰めるように、私は彼が落ち着きを取り戻すまでそうしていた。
* * *
あれからしばらくして普段通りの落ち着きを取り戻した彼から、私は様々なことを聞いた。
あのボロボロのノートはいじめによってされたものではなく、自らに対する怒りと涙によるものであるということ。
このいじめに関する全ての顛末を知る生徒は、いじめから助け出された男子生徒といじめを行っている三人くらいに限られていること。
そうして話を聞いているうちに、気づけば完全下校時刻を知らせる放送が鳴る。私も夕季も、それぞれ帰宅の準備を進めた。
「一人で帰れる?」
先ほどまで立てないほど酷い状況だった彼の身を案じての言葉だったが、彼は少しイラっとした表情を見せる。
「は? んなの当たり前だろ。小学生のガキみたいな扱いすんな」
「ちょっと前までそうだったんだから間違ってないでしょ」
「それを言うならお前もだろ」
「わ…………」
話の流れで思わず、「私は高校二年生なんだけど」なんて言葉を口に出しかけてしまった。これ以上ミスできないと、少々慌てながら脳をフル回転させる。
「わ?」
「わ~! 早くしないと先生に怒られる~」
「ならこんなとこで話してないで帰るぞ」
完全な棒読みのアドリブだったが、どうやら上手く誤魔化せたらしい。
私たちはそうして教室を後にすると、校門で別れてそれぞれ帰途に就いた。
校門からしばらく歩いていくと、路肩に停車していたとある車を見つける。その車の運転手もどうやらこちらに気づいたようで、ニコリと微笑んで手を振った。
「今日も迎えですか?」
「うん。まぁね」
車に乗り込みながら尋ねると、昨日同様迎え当番らしい月城さんはエンジンをかけ直す。そしてギアをドライブに入れ、アクセルペダルを踏んだ。
「今日の仕事はどうだった?」
「順調なようで、前途多難、ですかね……」
「何か困りごと?」
「……この先のことで少し」
夕季を救う任務は初め、拙いながらも上手く事が運んでいた。
少しずつ彼の人間性が見え始め、情報が集まりつつあったが、私の大きなミスによって最大のピンチを迎える。
彼は約一週間も学校に姿を見せず、打つ手に困っていたところを松院先生のアシストによって復帰まで漕ぎつけ、状況は振り出しに戻る。
そして今日、彼の正確な状況と、このいじめに関する重要な情報を手に入れた。これによって一見進行したように見えて、実は思いがけないかつてないほどのピンチに陥っているという事実が目の当たりとなる。
それは、彼の状態が思いの外深刻であり、いじめが終息を迎えるまで悠長に待つ手段が取れなくなったことだ。
できる限り早急に次の手を打ちたいが、彼は他人に直接助けてもらうことを望んでおらず、周りが自分のことで傷つくことを最も恐れている。前に松院先生が言っていたように、直接いじめを止めるよう言っても効果が薄いこともあるが、彼の気持ちを尊重するなら矢面に立っていじめを止める手段はとれない。
私が今すべきことは、できる限り早く彼の気持ちを尊重した解決策を練ることである。
これ以上、あんな胸が引き裂かれそうな痛々しい彼を見たくなかった。彼には年相応に、楽し気に笑って欲しいと願うから、頭の中をこれでもかとフル回転させる。
「あまり無理はしすぎないようにね」
彼は少し心配そうな双眸で前を見つめながら、そんな言葉をかけてくれた。
「はい……」
月城さんの言葉は釘差しでもある。
今最もやってはいけないことが、夕季に心配をかけてしまうこと。彼の傷心をさらに抉るようなことだけは、絶対に阻止しないといけない。
ここで自らを酷使することでの無理だけは禁物だった。
――とはいえ、時の流れに身を任せて、起死回生の名案が下りてくるのを待っているわけにもいかない。
その矛盾した状況の中、私の中には迷いもあった。
「ぼ~っとしてるけど、大丈夫?」
相模原さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。肩にかかっていた彼女の長い髪が、さらりと流れ落ちる。
「……あ、はい。大丈夫です」
「そう。それならいいんだけど……」
SPMに戻った私は、しばらくして委員長室を訪れていた。
私の言葉にまだ安心しきれないのか、相模原さんは紅茶を淹れ始ようと席を立つ。白いケトルのスイッチがカチッと押された。
「勉強会、もしあれだったら無理しなくてもいいのよ?」
「いえ大丈夫です、お休みにしてもらっていた分、取り戻さないといけませんし!」
彼女の優しい気遣いに、私は思わずブンブンと両手を振りながら言葉を捲し立てて反論した。
夕季が学校を休むようになってしばらくして、私はこの勉強会をお休みにしてもらっていた。
彼が学校に復帰したことを機に私の方から勉強会再会をお願いしたのだが、夕季の問題を考えるあまり、目の前の別の問題が何一つ頭に入ってこない。これでは休みにしていた当時と何ら変わりないと分かってはいたが、あの姿を一度見てしまった私には減り張りがなく、勉強の方に頭を切り替えられずにいる。
「熱心なのは良いことよ。勉強も仕事も。ただ、頑張りすぎや根詰めすぎというのは空回りの元になるの。……一先ず、休憩にしましょう?」
相模原さんは紅茶の淹れられたカップをソーサーに乗せ、私の前のテーブルに置く。
紅茶のお供としてなのか、ソーサーの隣には見覚えのあるチョコ菓子が添えられていた。
「それにしてもこんなお菓子、初めて見たわ。月城君もよくこんなお菓子知ってたわね」
相模原さんはそのお菓子を摘まみ上げ、物珍しそうにパッケージを矯めつ眇めつしている。
このお菓子は昨日、月城さんと行ったショッピングモールの中にあったクレーンゲームで取った景品だ。思えば、今相模原さんが言ったように、なぜ月城さんがこの限定お菓子があることを知っていたのかは依然として謎だった。
当の月城さんだが、私を送り届けた後すぐに「ちょっと仕事が残っているから」と、別の場所へと向かってしまい現在不在。このことはまた別の機会に聞こうと思う。
私は個包装のギザギザ部分から破り、袋ごと口元に近づけてお菓子だけを口にポイっと含んだ。
「……甘い」
私が好むお菓子は比較的苦く、渋いものばかりだ。一方で苦手なのはとろーり濃厚な、下に纏わりつくようなべったりとした甘さ。代表されるのはキャラメル、そして今食べたミルクチョコレート。
「そうかしら? 私はもっと甘くていいと思うけど」
と言いつつ、相模原さんはホイホイとお菓子を口に放り込み、至福そうに頬を緩めている。
確か、脳を動かすエネルギー源はブドウ糖――すなわち糖分だ。いつもなら私の好みに合わせたものを特別に用意していたはずの相模原さんがあえてこれをチョイスしたのは、私の様子を見ての気遣いだったのだろうか。
「これ美味しい~!」
今度は別のお菓子に手を伸ばした相模原さんは唸るように言葉を漏らすと、食べたお菓子がどんなものだったのか、空いた包装を手に取って確認している。ここから見るにミルクキャラメルのようで、単に甘党な彼女が気にせず手渡しただけだけなんじゃないかと思えてきた……。
そんな和やかなティータイムを挟んだ後、無事に勉強会は再開される。
プラシーボ効果もあるかもしれないが、補給した糖分のおかげでいつもよりも深く集中できた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます