第2話 SPM

 暗雲から降りしきる強い雨脚が、教室の窓の外一面に広がる。予感はしていたが、私たちが屋上を離れてすぐ、雨が降り出していた。


「ここなの? その、ついてきて欲しい場所って」


 彼の後を追うようにしばらく歩いて辿り着いたのは、私たちの教室だった。

 現時点では誰一人居残っていないしめやかな教室――ここが彼の連れて来たかった場所なのだろうか。不思議に思って尋ねると、彼はニコッと笑う。


「ううん。ここに来たのは帰り支度するためだよ」


 その回答が意味することは、『ついてきて欲しい所』というのが学校の外にあるということである。ここに来た訳に合点がいった私は、彼に合わせるようにして支度を進めた。


「あ、そうそう。置き勉とかはしない方がいいよ」

「……元から私はしてないけど、どうして?」

「それについては追々話すから。とりあえず、忘れ物はないようにね」


 話の要領を得ないが、後からちゃんと説明してくれると言うのだから今は言う通りにしておこう。と言っても、いじめが始まるようになって以降、教科書を隠されたり汚されたりする可能性があったため、近頃は全て持ち帰るようにしている。普段通りに鞄に詰め込むと、チャックを閉めて支度を済ませた。


「それじゃあ行こうか」


 ほぼ同じタイミングで準備を終えたらしい彼にそう促され、私たちは教室を後にした。



 二人で歩く廊下は物寂しく、雨音と雫を弾く窓の桟の音が耳朶を打つ。不気味さと気まずさ漂う雰囲気を嫌い、私は彼に話しかける。


「そう言えば君の名前って……えっと何だっけ?」

「え、酷いなぁ~。クラスメイトの名前を覚えていないだなんて」

「ごめん……」


 このことは彼が特別印象の薄い生徒だったということもあるが、私自身あまり他人に興味を持たないようにしていたことに起因したものである。

 私の謝罪の言葉に対して、彼は少しおどけて言葉を続けた。


「冗談冗談。別に気にしてないから安心して。僕の名前はかげ……じゃなかった、月城朧希つきしろろうき。よろしくね、舟見帆乃花ほのかさん」

「こちらこそよろしく、月城君」


 彼が転校して来てクラスメイトとなってから約一月。今更過ぎる自己紹介をしている間に階段を降りきると、玄関前に辿り着く。


「そういえば今日の朝、大変だったね」

「……朝?」

「ここで後片付けに追われてたでしょ? 終わり際に偶然見かけちゃって……」

「あぁ、うん。別に大したことじゃないから」


 今日の朝。私の下駄箱には紙屑が詰め込まれていて、開けた瞬間、雪崩のように足元を転がった。もちろん面倒事には変わりないけれど、靴が履けない状態になっていたり、入っていたものが砂埃とかでなかっただけ良かったと思う。

 朝と同様にして下駄箱に手をかけてみると、あの時のような圧力も違和感も感じ取れなかった。安心して下駄箱を開き、何事もなく外履きに履き替えると、鞄から折り畳み傘を取り出して外へと出る。

 窓越しで見てもかなりの大降りだと思っていたが、こうして目の当たりにするとよく分かる。大きめの雨粒がコンクリートの地面で力強く撥ね、水飛沫を立てていた。

 折り畳み傘を展開し、雨の中に一歩踏み入れると、本来は感じない雨粒の質量を感じる。ここまで強い雨も久々だろう。雨特有のツンとしたカルキのような臭いも、心なしか強い気がする。

 さて、こんな雨の中でどこに行くつもりだというのか。そう思って一足先に出た私は、クルッと回って月城君の方を振り向く。


「月城君、傘は?」


 すると彼は、傘を持たず空を恨めしそうに見上げ、その場に立ち尽くしていた。

 予報では曇りだったものの、夕方には雨が降るかもと、今朝天気予報士が言っていたことを思い出す。事実私も、常に持ち合わせている折り畳み傘がなければ、この土砂降りの中を濡れて帰らなければならなかった。


「まさかここまで強くなるとはね……。とはいえ、短い距離だけだしね」

「…………え?」


 聞き間違えでもしたのだろう。

 強い雨音で搔き消され、随分近い距離にいるはずの彼の声が良く聞こえなかった。


「ついてきて」

「ちょっ……、月城君!?」


 彼はいきなり、傘を差さずに雨の中を走り出した。

『ついてきて』という言葉は辛うじて聞き取れていたので、私は懸命に彼の後を追いかける。

 走らなくても言ってくれれば貸してあげたというのに、わざわざ濡れるようなことしなくても……。すぐさま傘に入れてあげたいところなのだが、傘を差しながら走っているせいで彼には全然追いつかない。呼び止めようとしても、雨のせいで声はまるで届かない。

 一体いつまでいたちごっこ状態が続くのかと思っていたところで、先を行く彼の走るスピードが急激に減速し、遂には足を止めた。

 辿り着いたのは校舎の横にある教師用の駐車場。色とりどり、多種多様の車が停車していたのだが、その内の一台――白い普通車の隣で彼は立ち止まり、私の到着を待っていた。


「ちょ……、ちょっと月城君?」


 走って切れた息を整えながら彼の行動の訳を尋ねたが、彼はまるでお構いなしだ。


「ごめん、今開けるね」

「……開けるって、一体何を?」


 答えるより早いか、彼はポケットから車のキーを取り出すと、ロックを解除して運転席に乗り込んでいく――。


「えっ……?」


 当然、私は困惑していた。

 確認するまでもないが、私も彼もまだ高校二年生。なおかつ、ここは高校の駐車場だ。彼の行動がいかに奇異なことかなど、もはや言うまでもない。

 しかし彼は、相変わらず泰然さを崩すことはなく、ブレーキを踏みながらエンジンをかけた。


「どうしたの? 早く乗って乗って」


 サイドウィンドウを開け、乗るように促す彼はどうやら至って正気のよう。

 けれど、違反行為であることは確かなのだ。私はあまりにも平然とやってのける彼に呆然自失としていたが、一生徒としてその違反に加担するわけにはいかない。ここはきちんと咎めるべきだ。


「何してるの、月城君!」

「何って、車に乗ってエンジンかけただけだけど?」

「それがダメなんだって!」

「とにかく早く乗って乗って。雨に濡れちゃうし」


 ここでいつまでも問答を繰り返していても埒が明かない。私は一時的に、あくまで仕方なく、彼の言うことに従って助手席に乗車する。


「あの……、これって……」


 一体何から追及したものかと聞きあぐねていると、彼はサイドブレーキを外し、ギアをパーキングからドライブギアに入れる。忽ち、運転のための準備が整ってしまう。


「シートベルトしてね」


 そう言われて思わず、反射的にシートベルトをしてしまったのが最後のトリガーとなってしまった。彼は遂に、車を発進させたのである。

 そもそも、私たちの年齢では普通免許の取得は不可能。故にこれは、校則違反を通り越し、完全に無免許運転――れっきとした犯罪行為をしていることになる。いち早く止めなければならなかったが、運転中である今、無理に止めようとすれば却って危険だ。私は互いの安全面を最優先し、一旦様子を注視することにした。

 だがそんな心配は他所に、彼の運転は危険とは程遠かった。

 きちんと左右の安全確認もしているのはもちろん、一つ一つの所作を見るに免許保持者さながらの運転技術だ。


「さ~てと……。どこから話したものかね」


 学校を出て最初の交差点。信号待ちにて、彼は実に呑気に呟いた。

 一瞬、その運転技術に安心して忘れてしまっていたが、私はここでようやく我に返る。すぐさま慌てて、運転を止めるよう言葉を捲し立てる。


「そ、それより早くどこかに車を止めないと!」

「どうして?」

「いくら運転できるからって、無免許運転なんてダメだよ!」

「いや? 免許は持ってるけど」

「はい……?」


 そう言って月城君は、ポケットから取り出した自分の財布を私に差し出した。それも、高校生が持っているには不相応の、ハイブランドな革製の長財布である。


「……えっと、これは?」

「その中に免許証入ってるから」


 言われた通り、私は彼の財布の中身を調べ始める。人様の財布を漁るのは何か悪いことをしているような気分にもなったが、問題の品は思いの外早く見つかった。


「嘘……」


 私は手にした免許証を見ながら、唖然とした。

 当たり前だ。法律上、普通免許の取得は十八歳以上と定められているのだから。

 けれどその免許証は間違いなく本物で、顔写真も彼のもの。どこにも偽造した箇所なんてなくて……。


「ちょっと……、待ってよ……」


 いや、たった一か所だけ、不可解な部分があった。

 免許証の上部に記された生年月日。それは、私たち高校二年生では有り得ない年を指していた。


「月城君って……」

「あ、ごめん。言ってなかったね。僕の年齢は二十歳だよ」


 同じクラスの生徒。たったそれだけで彼の年齢を疑いはしなかった。

 年齢が近いからと言われればそれまでだが、見た目も雰囲気も、高校生と言わると誰も違和感を抱かなかったに違いない。


「そう、だった……ん


 私はようやく、肩の荷を下ろして後ろにもたれかかる。少なくとも、無免許運転を黙認したことによる共犯の罪は避けられたのだ。

 目の前の信号が青になると、再び車は発進する。改めて彼の動作を見れば、免許を持っていたことには納得もいく。


「どうしてその二十歳のやつが、二年の春になって転入してきたのか。てっきり聞いてくるかなと思ってたけど」


 彼は視線を進行方向に向けたままそう呟く。それはまさに、今私が疑問に思っていたことで、やはり心を読まれているようなこの感覚がどうも擽ったい。


「自分の事情を詮索されていい気分にならないことは、私自身が一番よく知っていますから」

「そっか……。やはり君は人への配慮に長けているね。でもどの道、このことは話しておかないといけないから」


 そう言うと彼は、ゆっくりと語り始める。


「世の中っていうのは理不尽なものだよ。自分は何一つ悪いことをしていなくても、他者から悪いように映れば悪意の対象になってしまう。今回の舟見さんの件にしてもそうだけど、どうしようもない理不尽に揉まれ、酷く苦しむ人は大勢いてね。結果、自ら命を絶つ人が後を絶たない。僕らはそんな人たちを一人でも救うために日々仕事をしているんだ」


 車は高校周辺の住宅地を抜け、郊外へと出た。

 あまり自分の住んでいる場所の外の事を知らない私には、これが一体どこへ向かっているのかは予測もつかない。だから、目的地に関する考察などすることはなく、ただ彼の言葉に耳を傾けていた。

 一方彼は変わらず淡々と、話を続けていく。


「その過程で、直接現場に潜入することが多くてね。けど、さすがにそのまま潜入というわけにもいかないから、色々と策を講じているわけだけど……。それも追々知ることになるかな。簡潔に言えば、僕はその過程で舟見さんのことをたくさん調べた。舟見さんにとって不快なことだということは百も承知の上での行動、それは申し訳ないと思ってる」


 月城さんの話を聞いて、まだぼんやりとはしているものの、見えてきたものもある。

 彼は私を救うために私の通う高校に転入――潜入し、私に干渉した。その際、私のことを調べていたからこそ、私の母親のことも知っていたのだろう。


「そう、ですか……」


 けれど、突然そんな話をされても理解が追い付かない。第一、彼はそんな私をどこへ連れ出そうとしているのだろう。

 高校から車を走らせて約二十分。自宅からは随分と離れ、備え付けのナビに示された時刻はもうすぐ午後七時を迎えようとしている。

 一体いつになれば家に帰れるのだろうか。そんな心配が頭を掠めていく中、車はある建物の敷地内へと侵入する。


「S、P、M……?」


 その敷地の前にあった小さな看板に刻まれた、アルファベット三文字。何かしらの略称でつけられた会社名か何かだろうか。

 そんなことを思案している内に、月城さんは駐車場に車を止め、ハンドルから手を放す。


「着いたよ」


 言われて助手席から降りてみると、すぐ目の前には白色の建造物があった。所謂豆腐建築、良く言えば極めてシンプルな建造物で、どういう場所なのかが一目では判断できない。


「とりあえず行こっか」

「はい」


 私は再び彼の背中を追い、その建物の中へと入っていった。



* * *



 入口は自動ドア、入ってすぐのフロアの床は白の大理石調。大きな会社のオフィスを連想させる高級感のある内装に目を奪われながら進んでいくと、月城さんはとある大きな扉の前で立ち止まった。

 扉上部には『委員長室』と書かれていることからも分かるが、その重々しい扉の先にはここのお偉いさんがいることには違いない。月城さんはコンコンと三度ノックをし、『失礼します』という言葉とともに扉を押し開けた。


「戻りました、相模原さがみはらさん」

「遅くまでお疲れ様、朧希くん」


 そんなありふれた会話を交わすと、月城さんが『相模原さん』と呼んでいた女性が私の存在に気付く。


「こんばんは、舟見帆乃花さん。待ってたわ」


 ほんのり赤みがかかった髪は背中の辺りまで伸び、大人の色気を漂わせる体のラインは、女性の理想形に近い。優しそうな声色もまた、彼女の魅力に繋がっている気がした。


「あの……、ここは一体?」


 素朴な疑問を彼女に投げかけると、彼女は少し驚いたように小首を捻った。


「あら。朧希くんから説明受けてなかったのかしら?」

「あ、えっと……」


 彼女はどうやら私に問うたようだが、言い淀んでいる私の様子を見て月城さんが代弁する。


「一応軽く説明はしましたが、詳細に関しては直属の上司に任せるのがセオリーかなと思いましたので。僕はあくまで彼女の担当に過ぎませんし」

「それもそうね。分かった、後は私が引き受けるわ。朧希くんは一旦上がって大丈夫よ」

「了解です」


 月城さんは最後に会釈をすると、静かに引き上げていく。


「それじゃ、また後で」


 私の横を通る際にそう言い残し、彼はそのまま委員長室から出ていった。

 扉がバタンと閉まったのを見て、相模原さんは話を続ける。


「大変、だったわね。色々」


 少し憐れむように、彼女はそう呟く。その言い草から察するに、月城さんと同様、私のことをある程度知っているのだろう。


「立っての話もなんだし、座って話しましょうか」


 相模原さんはそう言って室内のソファに腰を下ろすと、対極のソファを指して着席を促す。見るからにフカフカのソファに静かに座ると、彼女は大きく息を吐いた。


「さっきの質問に答えるなら、ここはSPMスパンという組織の本部よ。組織というと何だか胡散臭く聞こえるかもしれないけど、ちゃんとした組織だから安心して」


 そう言って胸ポケットから取り出したのは、なんと警察手帳だった。現物を見たのは初めてだが、おそらく本物なのだろう。


「月城さんが言っていました。『僕たちは理不尽に揉まれて自殺してしまう人を一人でも救う仕事をしている』のだと。そしてそれが事実だろうということは身をもって体験したので、この組織のことを疑っているわけではありません」

「そう。それなら良かったわ」

「ですが、それならなぜ私はここに連れて来られたのですか?」


 自殺を未然に防ぐのが仕事。だとすれば、この組織の――月城さんの仕事は達せられているわけで、わざわざ私をここに連れてくる必要はないようにも思えた。

 相模原さんは嫣然とした笑みを浮かべ、静かに告げる。


「これからに目を向けたとき、あなたにとって相応しい場所。それがここだからよ」


 彼女はゆっくりと腰を上げると、私の方に歩み寄った。その際、フワッと薔薇のような甘い香りが鼻腔を擽る。

 そして彼女は私を見下ろし、そっと手を差し出した。


「ようこそ、舟見さん。今日からよろしくね」


 ついつい手を取りたくなるような、優しい微笑み。けれど、薔薇には棘があるように、この手を取るには早計だと思った。だから一度拳を握り締め、確認を入れる。


「それはつまり、私は今後ここの一員になると?」

「そこできちんと牽制するあたり流石ね。あなたの言う通り、私はあなたをここの一員として迎え入れようと思っているの」

「……意味が分からないです。私はただの一端の高校生に過ぎません。そんな私がここに相応しいとした根拠は何ですか?」


 彼女の説明を聞いても、何一つ目的が分からなかった。

 それもそのはず。彼女はおそらく、あえて説明をぼかしているのだ。私の質問に対しての回答は不自然すぎるくらい核心を避けられていて、肝心のことには全く触れられていなかった。その手法は、何か私を騙そうとしているようにもとれる。

 少し口調を強めたこともあってか、彼女は困ったように目を伏せ、肩を竦めた。


「……分かったわ。きちんと話をしましょうか。ただ、あなたにとっては少し辛いことを言うことになるけれど、それでもいいのかしら」

「はい」


 彼女の確認に、私は二つ返事で承諾する。

 相模原さんはそれを見て、再び自分の席に戻って腰を下ろす。そして改めて、こちらを真っすぐ見つめた。

 もう回りくどいことはなしだと言わんばかりに、彼女の目の色が変わっている。


「さっき、私は高校生だと言ったわね。だけど、あなたがあの高校に通い続けることは極めて困難だわ」

「…………っ」

「きっと、心の内では分かっているはずよ。いじめに対していくら屈さず耐え忍び続けても、回数を重ねるほどエスカレートしていく一方だと」


 相模原さんにこうも直截に言われれば、屋上で一度目を瞑ろうとした明日以降がはっきりと見えてくる。

 そうだ。

 結局、いくら月城さんがあんな風に撃退したところで、彼女たちが私への敵意を失くすわけじゃない。むしろ、さらなる敵意をもってあらゆる攻撃をしてくるに違いない。今回未遂に終わった暴行や、それ以上のことも――。


「朧希くんに付きっ切りでサポートしてもらう手段もあるけれど、それではもう普通の高校生活からは乖離する一方。そして第一、あなたの優しさがそれを許さない」


 今日のように月城さんが色々対策を講じてくれれば、実害は避けられるかもしれない。けれど、私一人のことで彼に迷惑をかけてしまうことが堪らず嫌だ。ずっとそうして、私は誰にも助けを請わなかったのだから。


「根幹であるいじめの根絶にも幾多の問題を抱えているわ。教師陣から言えることにも限りはあるし、何より確たる証拠がなければ精々厳重注意止まりにしかならない」


 ならばいじめを止めてしまえばいい――そう解決方法を転換したいところだが、彼女の言う通りそれも決して容易ではない。厳重注意をしたところで、七つの大罪に数えられる『嫉妬』という強い感情はそう易々と消えたりなんかしないだろう。

 それに、退学処分のような重たい処罰を受けないようなラインを攻めてくるのだとしたら、いじめの根絶なんてほぼ不可能とも言えるだろう。


「それにね。きっとあなたは、心配もしているのでしょう?」


 少し表情を柔らかくし、首を傾げるようにして口にした相模原さんの言葉に、私は驚かされた。

 絶対に知りえないはずのことなのだ。

 私が彼――沖合聡司のことまで心配していたことなんて。

 まるですべて見透かしたようなその澄んだ色素の薄い双眸は、一体どこまで私のことを見通しているのだろうか。


「だから、あなたがあそこに通い続けるべきではないと私たちは判断したのよ」


 彼女は、そうまとめて結論付けた。

 今思えば、月城さんが『置き勉をするな』とわざわざ言った理由は、二度と戻ってこないからだったのだろう。既にあの時点で、私が戻れないことに気が付いていたのだ。


「……ですが、それなら転校するという手段もあります。どうして相模原さんは、私にとってここが相応しいと?」


 あの学校に居続けることは、彼女の言う通り確かに難しいのだろう。

 だからと言って、すぐにここに来るべきとは普通ならない。私が口にしたように、まず真っ先に『転校』という選択肢が浮上するからだ。

 確かに、私の家庭事情を鑑みると転校は現実的ではない。父親は既に他界、母親はとても働きに出られず、母の貯金と親戚からの援助を受けて切り盛りしている状況で、制服や教科書等、転校するための費用を捻出するのは難しい。

 だが、決して不可能なことでもなかった。

 故に彼女が転校の提案より先に、この場所の一員こそ相応しいとした確たる根拠が知りたかった。


「あなたの経験、そしてその優しさは多くの人を救えるわ。特に私たちが救いたいとする人たちをね」


 優しい声音で相模原さんは告げていく。


「扱うものがあらゆるものより重たいこの仕事だけど、ずっと誰かを守ろうとしてきたあなたにはそういった人たちに寄り添える力があるのよ」

「…………っ」


 包み込むようなその優しさが、ずっと守ってきた心の檻を解けさせていく。

 絶対にしてはいけないことだからと、張ってきた気が緩んでいく。


「誰かが傷つかないようにと、誰も頼らず、弱音も吐かなかった。そういう事情から全てを甘んじて受け入れるしかなかったことすら、誰にも打ち明けられない。そんな人たちが世の中にはたくさんいるけれど、そういった人たちの気持ちを理解できるあなたは、誰よりも寄り添うことができる」


 理解して欲しくても理解されるわけにはいかない状況だったから、こうして初めて理解されたことが嬉しくて、ありがたくて。

 ずっとずっと、見せてはいけないからと作り上げられた大きな堰がついに切られ、視界が水面のようにぼやけて揺れていく。その奥で、彼女が立ち上がってこちらに近づいてくるのが微かに確認できた。

 そうして彼女がそっと私の頭に手を置いた瞬間――私の瞳から、雫が零れる。それを皮切りに、何滴も何滴も流れ落ちた。


「…………頑張ったわね。ずっとずっと、よく頑張ったわ」


 認めて欲しくて、褒めて欲しくてやってきたわけじゃないけど、その言葉が心をさらに揺れ動かしていく。

 たった二人しかいない部屋中に、私の慟哭はしばらくの間響き続けていた。



* * *



 あれから一体どのくらい泣き続けたのか分からない。

 途中からはもう相模原さんの声も聞こえないほど、これまで溜め続けた気持ちを吐き続けていて、ようやく落ち着いた頃には彼女の姿が消えていた。

 私はそっと天井を仰ぎ、涙を制服の袖で軽く拭う。我ながら酷い顔をしているのだろうなと苦笑を漏らしていると、部屋の扉が開かれた。


「もう、大丈夫かしら」


 タオル片手に声をかけたのは相模原さんだった。私はすぐに立ち上がり、頭を下げる。


「……すいませんでした。醜い所を見せてしまって」

「いいのよ。泣きたいときには泣くのが一番だから」


 そう言って彼女は持っていた純白のタオルを差し出す。


「ありがとうございます」


 きちんとお礼を言った上で、私はありがたく受け取って改めて顔を拭う。綺麗に拭い終わってから、私は改めて話を切り出した。


「……あの、相模原さん」

「何かしら?」


 相模原さんは仕事用の大きなデスクの前に置かれたレザーチェアに深く腰掛けながら問い返す。


「私、そろそろ帰らないといけないのですが」


 部屋に掲げられた時計を見れば、時刻はもう八時を迎えていた。ブラインドの隙間から覗く外の景色はとっくに真っ暗である。

 家にいる母親の心配もあるが、まだ未成年である以上、あまり帰るのが遅いのは好ましくない。故にそのような発言をしたのだが、彼女は目を皿にして驚いた。


「うそっ……。もしかして、朧希くんから聞いてなかった?」


 何を、と尋ねようとした時、再び委員長室の扉が開かれた。


「その話も相模原さんからするのが適切だと思いまして。それに関する担当は僕じゃないですから」


 言いながらこちらへと向かって来るのは、高校の制服から着替えた月城さんだった。ベージュで薄手のシャツに黒のテーパードパンツと、爽やかさな印象を持つ彼にはカジュアルな服装が良く似合っている。胸元には大きめのシルバーリングネックレスが、部屋の照明を反射して煌めいていた。

 私はそんな彼の初めて見る服装をまじまじと見てしまっていたが、自分の顔面が酷い有様になっていることを思い出し、咄嗟に視線を相模原さんへと移した。


「まぁ、それはそうだけど……。彼女にとっては大切なことだし、話しておいた方がよかったんじゃないかしら?」

「ですが、僕は細かい実情までは知れてないので。中途半端に適当なことを言うより、正確な情報を後から聞いた方がいいでしょう」

「……あの、一体どういう話なんですか? その、私にとって大切な話って」


 本人を差し置いて話し続ける二人の会話を遮るように、私は尋ねた。


「この組織の実情をここ以外の人間に明かすわけにはいかないから、ずっとあなたには言ってこなかったけれど……」


 すると相模原さんはそう切り出したが、言い出し辛そうに言葉を切る。それでも彼女は、きちんと私の目を見てとある事実を告げた。


「あなたの母親も私たちの救助対象なのよ」

「…………その話、本当なんですか?」


 衝撃的な告白に、一瞬身体が硬直した。

 相模原さんの言うように知りようがなかったとはいえ、驚かずにはいられなかった。


「えぇ。担当者はあなたに相対しないよう、登校中に何度も様子を窺っていたみたいだけど、様々なことを鑑みて入院させるという話になってね。だから今日の昼頃から、うちと協力関係にある大きな病院に移されているの」

「そう、だったんですね……。ですが、少し安心しました。きっと私では、母親にできることは限られていて、本当の救いにはなってあげられませんでしたから」

「舟見さん……」


 父が亡くなってから、私が母を支えてあげなければと思っていた。

 けれど、優しい母は「そんな心配はいらない」と言って、いつも私のことを優先してくれて。その優しさに甘えてしまったのかもしれない。

 気づかぬうちに母は酷く衰弱してしまって、いつしか縋るようにして酒に溺れていった。弱みをもっと見せてくれたらよかったのにそうしなかったのは、娘である私を心配させたくなかったからなのだろう。私が周りに対し、決して弱音を吐かなかったように。

 ――こんなところで、本当に親子なんだなと思いたくなかった。

 私はそっと立ち上がる。


「私はここの方に――月城さんに助けられました。ですからどうか、母も救ってあげてください。お願いします」


 そして深く深く、二人に向かって頭を下げた。

 自らを救い出してもらいながら、なおかつ母親まで救ってもらう。そんな烏滸がましさから、二人にはまるで頭が上がらない。


「大丈夫。私が保証するわ」

「絶対に助けてくれるから。絶対にね」

「ありがとうございます……」


 私は再度、深々とお辞儀をして感謝を伝えた。

 今はもう、彼女たちを信頼して任せることしかできない。そんな自分の無力さが歯痒かったけれど、それでも母のためを思うならこれが最善策だと思う。


「――それで話は戻るけどね」


 つい脱線してしまっていた話のレールを相模原さんが半ば強引に引き戻す。


「あなたがあの家にわざわざ帰る必要はなくなったの」

「でも私の家はあそこしか……」


 言うが早いか、相模原さんは少し屈んで机の引き出しを開ける。その中から何かを摘まみ上げ、顔の横に掲げた。

 その物の正体は『鍵』。何の変哲もない、鉛色の小さな鍵だった。


「わざわざ少し離れた場所からここに来るのは不便でしょう? 時間もお金もかかるわ。だから、SPMにある社宅の一室を用意したの。元々は私の親戚が管理していた築年数も浅い物件でね、住むに不便はないと思うわ」

「まさか、そこまでして頂かなくても!」


 いくら何でもここまで手厚いサービスを受けることには酷く抵抗があった。狼狽しながらも私は遠慮しようとしたのだが、彼女は静かに首を横に振った。


「いいのよ。今後ここでやっていく以上、それくらいの福利厚生を受ける権利は十分にあるもの。だから……」


 彼女はそう言って私のところまでやってくると、私の手を優しく取り、そっと鍵を握らせた。


「あらゆる面で存分に甘えるといいわ。これまでそうしてこなかった分」


 まるで世話好きなお姉さんのような人だと思った。自分に姉妹はいないけれど、もしいたらこんな感じだったのだろうか。

 優しさには甘えてはいけない。

 そうやって長いからか、やはり抵抗感もあったけれど――。


「ありがとうございます!」


 私はその思い遣りに、限りなく満面の笑みで応えた。


「それじゃあ、今日はここまでにしましょうか。細かいことは明日の朝に伝えるから、今日はゆっくり休んでね。あとは朧希くん、任せたわ」

「了解です。それじゃ部屋まで案内するから、ついてきて」


 月城さんはそういって一足先に外へと向かう。私は最後にもう一度、感謝の意を込めて相模原さんに会釈して、委員長室を後にした。



 先ほど、ここまで来た道とは逆の方面――建物裏手の方へと歩いていく。

 廊下の窓から外を見れば、もう雨はすっかり上がっていて、綺麗な満月が姿を現していた。夜の時間帯ということもあり、二人の足音はやたらと響く。


「いい人だったでしょ? 相模原さん」


 歩きながら、月城さんは気さくに尋ねる。


「はい。本当に……とても」

「彼女はここのトップである以前に、ここの創設者でもあってね。本当に人格者だと思うよ」

「そうですね」


 見た目からして、きっと相模原さんはかなり若い。だからこそ、余計に凄いと思う。

 一つの組織を作り上げて統率し、苦しみから人を救う。決して簡単にできることでないことは、未熟な私にだって理解できた。

 いつか、あんな人になれるのだろうか。

 朧気に将来のことを考えていると、渡り廊下で繋がれた別棟へと辿り着く。相模原さんが言っていたように、その建物は二階建てのアパートらしい外装であった。


「一応社宅って銘打ってるけど、普通に自宅の一室感覚で使ってもらって大丈夫だから。特に門限とか、決められたルールもないし、ゆっくり羽を伸ばしてね」


 月城さんから簡単な説明を受けていると、『一〇五号室』前で立ち止まった。


「ここが舟見さんの部屋だよ」


 外装からも分かっていたが、扉の綺麗な塗装を見る限り、本当に建てられてからの日は浅いのだろう。加えて角部屋という好条件も相まって、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 私はゆっくりと渡されていた鍵を挿し込み、ドアノブを下ろして引いた。

 問題なく開かれた部屋の中は、照明を点けてないので暗がりではあったが、埃っぽさも古めかしさも感じさせない。しっかりと清掃が行き届いているみたいだ。


「それじゃあ僕はこれで。何かあったら連絡してね」


 案内という役割を全うし、踵を返す月城さんを私は呼び止める。


「待ってください」


 彼はすぐに立ち止まって振り向く。長めの髪がふわりと揺れた。


「本当に今日はありがとうございました。いえ、これまでずっと、私のために……」

「ううん。僕は当たり前のことをしただけだから。ここ、SPMの一員としてね」


 彼は爽やかに微笑んで見せる。月明かりに照らされて、その表情はとても柔らかく映った。


「それに、これからは同じここの一員だよ。だから、これからもよろしく舟見さん」

「はい! よろしくお願いします、月城さん」


 彼は再びにこやかに笑ってみせると、くるりと反転して来た道を引き返していく。

 一つ一つの動作も、今の後ろ姿も、彼の行動全てが様になって見える。特に月夜の元では、どこか儚さも纏って美しかった。

 私はその背中が遠くになるのを見届けると、新たなる自宅に足を踏み入れた。

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