第3話 初仕事

 私の住んでいた街から少し外れた郊外であるこの場所は、近くに山や海もあることからベットタウンとして近年人気が高いと、ニュース番組で取り上げられていた記憶がある。都会の酷い喧騒はなく、見渡す限り田園風景といった喉すぎることもない、いいとこどりのようなここら周辺が好まれるのはよく分かる気がする。

 朝七時半過ぎの現在は、丁度学生の登校時間とぶつかっている。そのため、和気藹々と談笑しながら歩く少年少女の姿も多い。


「着きましたよ、舟見さん」


 ぼんやりと移ろいゆく外の景色を眺めていたが、ある場所に来て突如車が止まった。そして運転手が、身体を捩って私に到着を告げる。

 言われて逆側に視線を移せば、広大な校庭にグラウンド、そして立派な西洋風の校舎と、実に広壮な学校であることが分かる。


「すいません。わざわざありがとうございました」

「いえいえ。お気をつけて」


 初老くらいの運転手の気遣いに背中を押されながら外に降り立つと、元気溌溂な明るい声が耳をつく。

 同じ『学校』だというのに、平均年齢がたった三つ低いだけでこうも違うものか……。

 僅かな間に感性が変わったのだなと、時の流れの儚さとノスタルジックを感じながら、校舎正面にある校門へと足を進めた。

 県立陽向崎ひなたざき中学校。

 一クラス約四十名の五クラス制、全校規模は六百名ほど。この地域周辺に住む子が生徒の多くを占めており、ボランティア活動を始めとした校外活動に力を入れているのが特徴。明るく活発な学生生活をモットーとする教育方針で、その一端は各生徒の表情を見ているだけでも垣間見ることができる。

 さて――。

 そんな中学校になぜ私が、それもこの学校指定の真新しい制服に袖を通しているのか。実際の所、私もまだ困惑しているところである。

 まさか、昨日の今日でSPMの仕事に当たることになるとは予想だにしていなかったのだから……。



 時は遡ること今朝の話だ。

 思えば昨晩、『細かいことは明日の朝に』と相模原さんには言われていたが、朝五時頃に起きて早々、一本の電話が入ったのである。

 朝早くに起きることに慣れているとはいえ、いつもより多少疲れが残っていたのか、眠気が強く残る。眠い目を擦りながらスマホを手に取ると、画面に表示されていたのは見たこともない電話番号だった。

 電話帳に記されていない人物からの電話というのは恐怖心が湧くものである。ごくりと固唾を嚥下した後、恐る恐る電話をとった。


「……もしもし」


 一先ず、一般的な対応を取って相手の出方を窺った。

 すると間髪入れず、思いもよらぬ人物の声が耳に入る。


『おはよう、舟見さん。よく眠れた?』


 寝起きにも優しい、柔らかな男の人の声。最も直近で耳にしていた声だったので、すぐに誰かが分かった。


「おはようございます、月城さん。おかげさまで」


 そう挨拶を返したはいいものの、私の頭の中には一つ疑問が生じていた。私はすぐさまそのことに触れ込む。


「どうして私の連絡先を?」

『高校の緊急連絡網っていうのがあったの覚えてる? あ、そうか……ごめん。仕事柄、予め把握しておいたから僕の方は知っていたけど、普通はそういう目的で使うものじゃないもんね……。昨日の夜のうちに電話番号教えておくべきだった』


 思えば昨晩、『何かあったら連絡して』と言ってくれていたが、私から月城さんに連絡する手段はなかったことを思い出す。結果的には一晩何も問題は起こらなかったが、月城さんは私も当然知っているものだと勘違いしていたが故に、あの時何も言わなかったのだろう。


「いえ、それはもう済んだことなので大丈夫です。それより、どうかされましたか?」

『あぁ、うん。電話、代わるね』


 私が本題へと話を戻すと、月城さんはそう言った。そして誰かと話す声が聞こえたかと思うと、瞬く間に電話が継がれた。


『もしもし、相模原です。おはよう、舟見さん』

「おはようございます」


 電話を継がれた先は相模原さんだった。どうやら月城さんは、私との中継役を担っていただけのようだ。


『早朝で、それも早速なんだけど、仕事をお願いしたいの』

「……仕事、ですか?」

『えぇ。ある中学校へ向かって欲しいの。そしてそこの生徒として、一人の生徒を救って欲しい』



 かくして、言われるがままにこの場所へと派遣されたわけである。

 現在、私が持っている情報はほんの僅か。

 救助対象は、一年三組の夕季光磨ゆうきこうまという男子生徒。私はどうやら、その一年三組に転入という形で潜入することになっているらしい。これに関しては、月城さんが私を助けるために潜入したのと同じ流れだ。

 そして今日の仕事は一生徒として転入し、まずはその夕季という生徒の様子を観察せよ、とのこと。

 相模原さんから伝えられたのは今のところこれだけ。故に、あまりに少ない情報を補うため、必死にスマホを駆使してこの地域や学校の情報を集めていたというわけである。

 正直、SPMに入って間もない私には右も左も分からない。

 何をすればいいのか全く分からないが、初日は何も知らなくても大丈夫だという相模原さんの判断なのか。それとも、むしろ余計なことを知らない分普通の学生らしく振舞えて、上手く中学生に扮することもできるかもしれないという策略の上なのか。

 その真相は分からずとも、今は課された仕事をしっかりと果すだけである。

 私は昨日まで通っていた高校へ向かうのと同じようにして、新たに通うこととなる学校の門をくぐった。



* * *



 朝の玄関はよく人と出会う場でもある。周りの生徒は、見つけた友達と元気のいい挨拶を交わし、談笑しながら教室へと向かっていく。


「……っと、ここかな」


 一年三組、出席番号は四十番。割り当てられた下駄箱を確認してから、私は靴を脱ぐ。そして予め持たされた内履きに履き替えると、外履きを持って下駄箱の扉に触れる。


「…………」


 あの環境からは解放されたと言うのに、やはり昨日の今日とあってはまだ記憶が新しい。故に、ほんの一瞬開けるのを躊躇ってしまう。それでも、今はもうそんなことを考える必要はないのだとかぶりを振り、靴をしまって校舎内に入っていった。

 長く地域に愛されてきた歴史のある学校だが、校舎の外見も内装も極めて美しい。情報によれば、この校舎は最近建て直されたばかりらしい。床にしても窓にしても、まるで劣化した様子が見られなかった。

 そんな風に新たな校舎内を見やりながら歩いて目指すのは、校舎一階北側にある『職員会議室』という場所。玄関は南端に位置するので、ここから目指せば突き当りにあたる。

 その名の通り、普段は職員会議に使用する場所なのだろう。私がかつて通っていた中学にも高校にも似たようなものがあった。

 だが、そういった特殊な教室というのは、基本的に立ち入る機会はない。あるとすれば、決まって悪事を働いた後に呼び出される時だろう。であれば、私は呼び出されてしまうような悪行を犯してしまったのか、と言えば当然違うわけで、あくまでも仕事関連の話をするとのことだった。

『詳しいことは少しずつ教えていく』と、今朝相模原さんが言っていたが、こういった学校への潜入の場合は事前に一部教師に対して話をつけているらしい。要するに、この任務において事情を知る教師は協力者ということになり、私はその事前打ち合わせに出向くことになっている。

 程なくして目的の場所に辿り着く。すぐ隣は職員室ということもあり、ここら一帯はやけに森閑としている。内履きと綺麗に磨かれた床が擦れる、キュッという音ですら出すのを憚れるような緊張感で満ちていた。

 その空気感に飲まれてか、私は少し緊張しつつ職員会議室の扉をノックする。すると、既に待機していたのか、「どうぞー」とすぐに返事があった。


「失礼します」


 横開きの扉をスライドさせて中に入る。

 絵に描いたような、長机と椅子が整然と並ぶ室内の大きさは教室一個分より少し小さいくらい。窓際の一席に座る若々しい男性は優しく微笑み、「どうぞ、お座りください」と、向かい側の席を指したので、私は軽く会釈してから着席する。

 まるで何かの面接をしているような構図に自然と肩に力が入るが、それを見てか、正面に座る男性は再び微笑みかけた。


「朝早くから申し訳ございません。私、一年学年主任の松院春樹しょういんはるきと申します。本日からどうぞよろしくお願いします、舟見帆乃花さん――いえ、南波架乃みなみかのさん」


 自己紹介をし、軽く頭を下げる松院先生に対し、私も頭を下げて応じる。

 松院先生の言った南波架乃という名前は、ここでの私の名前だ。本来は仕事の度に本人が考えるようだが、今回は時間もなかったので相模原さんが決めたとのこと。

 また、今回の仕事にあたっては偽名だけでなく、変装も行っている。

 相模原さんの友達の店だという美容院にて、普段はストレートでセミロングの髪にエクステをつけ、毛先にカールがかかったロングヘアにしてもらった。随分と朝早くから連絡が来た理由はどうやらこのためだったらしく、つい先ほど美容院を出てから学校に向かっていた。


「早速ではありますが、本題に入らせていただきます。南波さんは、彼についてどのくらいお話を伺っていますか?」

「いえ。実はあまり知らなくて……」


 SPMとしては本来、ある程度調べて知っているべきなのだろう。だからと言ってここで嘘を吐くのは、仕事の目的を考えれば得策とは言えない。

 私の正直すぎる回答に、松院先生は呆れるどころかニコッと笑みを浮かべると、「分かりました」と言って手元のファイルを繰る。そしてその中にあった資料を手に取って、説明を始めた。


「一年三組、夕季光磨。彼はとても真面目で正義感のある優しい子なのですが、それ故にいじめに巻き込まれる形になってしまいまして」

「巻き込まれた……?」

「強い正義感からか、他の子がいじめられている現場に遭遇した際、止めに入ったそうです。結果、その場こそ凌げたものの、次の日からは彼がいじめの対象となってしまって。幸いにもいじめの対象が移ったことで、彼が助けようとしていた子がいじめられることはなくなったとのことですが、彼自身はかなり酷いいじめを受けているようです」

「そうですか……」


 その話は自分の時と重なるものがある。もしあの時、私を助けたのが月城さんではなかったら、きっと同様のことが起こっていたに違いない。

 夕季という生徒の行動は褒められるべき英断だと思う。

 困っている人がいても、自分に害が及ぶ恐れがあると判断した場合、きっと多くの人が横を素通りして見なかったものとする。人間というのは自分自身が最も可愛く尊く、あらゆる面で自分に利益を優先し、被る損失を避けて通ろうとする生き物だ。

 それでも彼は、そこで一歩を踏み出した――にもかかわらず、彼は却って酷い仕打ちを受けているという。酷く理不尽な話で、不憫で居た堪れない気持ちが傷心を蝕む。

 もし私があの時、誰かに助けを求めてしまっていたなら、助けを求められた誰かがそんな理不尽を被らなければならなかった。自ら辛酸を嘗め続けて知り尽くした理不尽の苦しみを誰かにそれを押し付けて、自分だけが助かる。それが嫌だからこそ、私は最後まで助けを求めなかった。

 一方で、夕季という生徒はどういう思いで今回踏み切ったのだろうか。

 こうなることを覚悟の上だったのか、或いはそうではなかったのか……。


「実情をもっと詳らかにすることもできますが、今回はこの辺りで。実際に目で見た方が、より正しく情報を得られると思いますので」

「そうですね。分かりました」


 百聞は一見に如かず。ここで具に聞いていくこともできただろうが、自分の目で確かめ、情報を収集した方がより確かだ。

 松院先生は取り出した資料をファイルに戻すと、静かに起立する。


「もうしばらくすると担任の先生が迎えに来られると思いますので、少々お待ちください。それでは改めて、よろしくお願いします」


 深々とお辞儀をすると、綺麗な姿勢で歩いて出口に向かう。その際に甘酸っぱい柑橘の香水の香りがこちらまで漂ってきた。所作や立ち振る舞いによく似合う、スタイリッシュな香りだ。

 そうして松院先生が姿を消してからものの五分ほどして、私は迎えに来た担任の女教師とともに一年三組へと向かった。



* * *



 午前八時二十分。

 他のクラスはまだざわついていたものの、一年三組の中だけは際立って静かだった。一限開始前だが、転校生を紹介するための時間を設けていたからだろう。

 ポツンと、まるで何かの罰で廊下に出されているような状況で立ち尽くすことしばらく。何やら前紹介をしていたらしい担任が、ようやく扉を開けた。


「お待たせしてしまってごめんなさいね。中にどうぞ、南波さん」


 私はその合図で、初めて一年三組の中に入る。どこかに転入、転校するという経験がない私にとっては凄く不思議な感覚で、少し体が強張っているのを感じた。

 教卓の横にて私が立ち止まったのを確認すると、担任は改めて私の紹介をする。


「今日からこの学校に転入することになった、南波架乃さんです」


 言って、担任は私にアイコンタクトを取る。自己紹介をしろ、という言外の意図を汲み取り、私は口を開く。


「南波架乃です。今日からよろしくお願いします」


 全く当たり障りのない、不愛想で抑揚のない平坦な挨拶。出だしとして失敗にも見えるが、これは私の意図した通りであった。

 潜入という形をとっている以上、注目を浴びることは避けなければならない。相模原さんからそう教わったわけではないが、私の唯一知るSPMのやり方――月城さんは少なくともそれを心掛けていたように思う。故に、あえて特徴のない挨拶をして印象を薄くすることだけに徹したのだ。


「それじゃあ南波さんは……、あそこの空いてる席に座ってね」

「はい」


 淡々と歩き、担任が指示した窓側最後列の席に着くと、そっと腰を下ろす。


「それじゃあこのまま、一限の先生に繋ぐから静かに待っててね」


 私が着席したのを確認した担任はそう言って、踵の高めな靴を鳴らしながら教室を後にした。その後は若干空気が弛緩したものの、きちんと言いつけを守っているのか煩くする生徒の姿はない。

 私はこのタイミングで改めてクラス全体を見渡す。座席は横八列、縦五列。私を含めて四十人のクラスだ。

 さて、今回の対象はどこにいるのだろうかと思い、今度は生徒一人一人に着目してみる。

 しかし、風貌に関する情報を貰えていないので、単純な目視だけで見つけ出すのは不可能に近い。いじめを受けているということから、孤立している生徒を探すことで検討をつける手段もあるが、誰も席を立たない今はそれも難しいだろう。せめて特徴の一つくらいは尋ねておくべきだったと、今になって悔やむ。

 したがって、捜索は一限終わってからだろうか。そう思っていた時、巡らせていた視線が私の近く――隣の席でピタリと止まる。

 その男子生徒は姿勢を正し、きちんと机に向かっていた。そんな彼の風采自体には別段違和感は抱かない。

 けれど、その視線の先にあるノートに目線が釘付けになる。ページの端が酷く皴になっていて、所々破れている。若干ふやけて歪んでいるような部分もあった。

『夕季』という苗字、五月中旬という時期。仮に席順が五十音順で、これまで席替えをしていない可能性を考慮するなら、対象である彼が隣の席である可能性も十二分にある。

 別にこれが検討外れでも、隣の席という口実でどうとでも誤魔化しが利く。私は意を決して、声をかけてみることにした。


「そのノート、どうしたの?」


 周りのあまり煩くしてはならない雰囲気に合わせて、小声で囁くように尋ねる。すると隣の彼は、話しかけられたことに少し驚いた様子で私の方を見やる。

 どちらかと言えば中性的でかなりの童顔。年齢を考慮しても、周りに比べては幼さが残る顔つきだと思う。けれど、その中にはどこか大人びたオーラも感じられ、他の生徒とは違う何かが感じ取れた。


「別に」


 一瞬合った視線を即座に視線を外し、彼は突き放すように短く応答する。同時に、開いていたノートをバタンと閉じた。


「単に落としただけ」


 つれない態度からてっきり答えてくれないと思っていたが、彼は最後にそう付け加えた。


『落としただけ』


 とは言え、それでは説明のつかないほどの有様だった。何かしら人為的なものが作用している可能性が高いように思える。


「…………そっか」


 私はそれ以上、何も追求しなかった。これ以上深追いしても、真実を教えてくれるような気はしなかったし、事を荒立てて変な印象をつけられても困るからだ。

 けれど、元の目的自体は達せられていた。

 彼が閉じたノートの表表紙――そこにはこう記されていたのである。

『一年三組、夕季光磨』――と。



* * *



 転校して初日、最初の授業である一限は数学だった。

 しかし、何とも退屈であった。

 それもそのはず。『数学』とはいっても、ついこの間まで『算数』をやっていた生徒たちの授業だ。担当教師の腕が悪いとか、そういう話をする以前の問題で、やっている内容があまりにも初歩的過ぎて授業を受けている気分にすらならないのである。

 故に私は、途中から完全に別の方向へ集中力を傾けた。それはもちろん、隣の夕季に対してである。

 彼は終始、集中力を途切れさせなかった。常々教師の話すことに耳を傾け、板書も欠かさない。真面目な生徒であると話していた松院先生の言っていた通りの真面目さ――勤勉さが垣間見えた。

 そんな風に観察を続けることしばらくして、ようやく一限の終わりを告げるチャイムが鳴った。今度こそ彼とじっくり話せるチャンスだろうかと思っていたが、私は肝心なことを忘れていた。


「南波さん、だったよね? 私、三組の学級委員長をしてる明光寺朱莉みょうこうじあかりって言うの。よろしくね!」


 気付けば、学級委員長だという前髪ぱっつんのふんわりショートヘアの彼女を含めたクラスメイトが数人、私の周りに集まってきていた。

 転校生といえば、転校からしばらくは注目の的になるものである。

 男子だったなら話は少し違うのだろうが、女子の場合は大半、こうして早々に寄ってたかられる。そうして気づけば連絡先交換しようとなったり、帰りに遊びに出かけようとなったりする。私の中学時代に転校してきた女子生徒がそうだったなと、周りを囲まれてから初めて思い出したが、時すでに遅しだ。

 SPMの仕事をしている関係上、これはとても都合が悪い。偽名や変装をしている時点で、これらがバレるリスクも伴うし、対象である夕季に割ける時間を減らしてしまうこともなりかねない。

 かといって、これを軽くあしらうのも難しいことは分かっている。邪魔だといって突き放しては悪い印象がついてしまい、回りまわって任務に影響が出かねない。

 故に私がすべきことは、丁度中立になるくらいに振舞うこと。


「うん。よろしくね、明光寺さん。そしてみんなも」


 好感度を上げ過ぎず、下げ過ぎない立ち回りで、任務達成までの間やり過ごすしかないのだ。

 ただ、特別気を遣う必要がない分マシだと思った。

 自分の本心を偽り、仮面を作って偽の自分を演出することには慣れているのだから。



 結局、集まった生徒たちと話の花を咲かせている内に、大切な休み時間はあっという間に過ぎて二限に突入。そして同様に三限、四限と過ぎていく。お昼は一緒に弁当を食べようと誘われて校庭に行き、淡々と一日の終わりが近づいていた。

 そして迎えた放課後。周りの生徒が部活に行くなり帰宅するなりし始める中、明光寺は一目散に私の方へと駆け寄ってきた。


「ねぇねぇ、南波さん。歓迎会したいから一緒にカラオケ行こっ!」


 学級委員長という立場もあるのだろう。明光寺は私に気を遣って、そうした催しをセッティングしてくれたらしい。その心優しさは身に染みるものがあるが、今回は断ろうと思う。

 というのも、さすがにこのまま帰っては今日の成果が物足りないと感じていたからである。好意を寄せてくれているので邪険にしたくはなかったが、おかげ様で本日の仕事の収穫はからっきしなのだ。

 故に私は途中からあえて全て要件を飲むことで、ここで断るための布石としてきた。

 私は申し訳なさそうな表情を浮かべる。


「ごめん。ちょっと転校したばかりでちょっと用事があるから……」

「そっか~、残念。そういうことなら仕方ないよね」

「ほんとごめんね? せっかく誘ってもらったのに」

「ううん、気にしないで大丈夫だよ。それじゃ、また明日ね!」

「うん」


 事情を察してくれたのか、彼女は気を悪くした様子も見せず早々に私の元から去っていった。その振舞い方が心の中の申し訳なさを増幅させていたが、私は切り替えのために大きく息を吐く。

 そしてようやく隣に視線を向けた――が。


「…………え?」


 なんと、隣の席にいたはずの彼は既にもぬけの殻であった。横にかけられていた鞄もないので、どうやら私が話している間に帰ってしまったらしい。

 だとすれば、彼はまだそう遠くには行っていないはず。私は早急に帰り支度を整えると、走って彼を追った。

 しかし、一年三組から玄関までの間に彼の姿はなかった。

 私は自らの下駄箱の前で膝に手を尽き、乱れた息を整えつつ溜息も吐いた。


「今日は諦めよう……」


 あくまでも今日は初日。彼が隣の席であることと、彼の人間性の一端を知れただけでも大きすぎる収穫とポジティブに捉えておこう。

 だだ、明光寺の誘いを断ってしまったのは少し痛手だ。できることなら、来たるべきその時まで布石として残しておきたかった。

 そんな後悔に苛まれつつも、私は一人玄関を後にした。



* * *



 転校初日の学校を終え、登校時のように車に乗せられてSPMまで戻ってきた私は、その足で委員長室を訪れた。


「失礼します」

「どうぞ」


 扉を開けて中に入ると、大きなデスクの前に座る相模原さんが体を起こす。しかしすぐに、目を疑うように瞬きを繰り返し、大仰に首を傾げた。


「……誰?」

「……舟見です」

「あぁ! 舟見さんね、お帰りなさい」


 なぜ私と気づかなかったのかは、おおよそこの見た目のせいだろう。

 髪の長さを変えるだけでも人の印象は大きく変わってしまうものである。故に髪を切った時にはイメージチェンジした――『イメチェンした』などと言われるのだ。実際、私も美容室で自分の姿を見たときは一体どこの誰なんだと錯覚した。


「学校はどうだった?」

「そうですね……。少し不思議な感じでしたが、大丈夫だと思います」

「良かったわ」


 相模原さんは少しほっとしたように息を吐くと、散らかっていた資料やファイルに触れながら、机の上を軽く整理し始めた。


「舟見さん、今から時間大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

「じゃあ今からSPMについてのちゃんとした説明会するから、そこの椅子に腰かけて待ってて。多分そのうち、朧希くんも来ると思から」

「分かりました」


 私は言われた通り、昨日座った場所と同じ部屋中央の椅子に腰かけた。

 そうしてしばらく待っている内に相模原さんは一通り整理を済ませたのか、席を立って部屋の隅にあるティーセットに触れる。


「舟見さん、紅茶は飲める? 飲めなかったらコーヒーとか緑茶もあるけど」

「紅茶で大丈夫です。すみません、わざわざ」

「いいのよ。きっとこの後長くなると思うから」


 言って相模原さんはテキパキと紅茶を淹れていく。その所作はかなり手慣れており、この部屋に設置されていることから、普段もこうして淹れているのだろう。そうして淹れ終えたティーカップをソーサーに乗せ、私の目の前のテーブルに置く。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 私は冷めないうちに、と思いソーサーごと手に持って膝の上に乗せる。そしてカップを口元に近づけた時、ハーブティーの芳醇な香りが鼻を突き抜けていく。決して安物でないことは、この一嗅ぎで確信に変わる。

 火傷しないようそっと口に含むと、確かな奥深さと甘みが感じられた。あまり銘柄には詳しくないが、想像よりも遥かにいい代物なのかもしれないと考察しながら、私はすっかり堪能していた。

 一方で、対面に座った相模原さんはどうやらミルクティーのようだ。少々見た目が白すぎる気もするが、マドラーで軽く混ぜた後にそっと口をつける。とても丁寧で、麗しい嗜みに少し見取れてしまった。

 そんな最中、部屋の扉がノックされる。


「どうぞ」


 相模原さんがカップを置いてそう答えると、すぐに扉が開かれた。


「すいません、遅れました」


 月城さんはそう言ってこちらへとやってくる。白のTシャツにベージュのベーシックなズボン。胸元には昨日と同じシルバーリングのネックレス。やはり彼にはカジュアルな服装がよく似つく。


「お疲れ様、朧希くん。座って座って」

「ありがとうございます」


 相模原さんは再び立ち上がり、月城さん用の紅茶の支度に入る。先ほど月城さんの分まで淹れなかったのは、淹れたてを振舞うためだろうか。だとすれば、何と繊細な気遣いができる女性なのだろう。

 一方月城さんは、テーブルの四辺のうち、私から見て右側の席にゆっくり腰を下ろす。


「お疲れ様です、月城さん」

「うん、ありがとう。舟見さんもお疲れ様。大変だったでしょ?」

「いえ。そうでもないです」

「そっか」


 そんな会話をしている内に、相模原さんが淹れたての紅茶が入ったカップをを月城さんの前に置く。

 そして再び相模原さんが席に着いたところで、彼女の言っていた説明会がスタートする。


「それじゃあ、SPMの説明から入りましょうか」

「お願いします」

「まずSPMの概略についてね。SPMはSuicide-Prevention Measuresの略称、つまり自殺防止対策委員会は、理不尽な理由から自殺に追い込まれてしまう人々を救うために発足された組織よ。ここまでは舟見さんも何となく知っているわよね」

「はい」

「舟見さんの時や今回の夕季くんのように、学校の生徒を対象とするときもあるけど、社会人の人たちも対象になることが多いわ。ただ、変装とかをしないといけない関係上、学校関連を扱える人間は限られてくるの。かなり急で申し訳なかったけど、舟見さんがいきなり中学に派遣された理由はこれが大きいわ」


 確かに、誰もが中学生として潜入することはできないだろう。

 成長過程である彼らに扮装するには、ある程度体格であったり雰囲気であったりが似通っている必要がある。必然的に、彼らと年齢が近い――若い人間が適切となる。


「あの、一ついいですか?」


 だが、ここで一つ疑問が生じるのである。私は手を挙げて、説明を一旦停止させる。


「うん。何かしら?」

「わざわざ潜入する目的ってなんですか? それと、わざわざ中学生にならずとも、先生として潜入すればいいようにも思えるのですが……」


 変装や偽名を用いる潜入には、当然リスクが付き纏う。それに、潜入するにしても教師として潜入した方が、指導という名目で少なからず対処はしやすいように思えた。

 仮に教師であれば、今日のように勝手に帰られてしまうこともないし、他の生徒に邪魔される心配もないはずなのだ。


「いい質問ね」


 相模原さんはミルクティーを再び口に含むと、私の質問に丁寧に答えていく。


「まず、潜入する必要性ね。確かに潜入というのには手間もかかるし、バレたときには面倒事になってしまう。けど、内側でなければ知り得ないこともあるのよ。例えば、学校ではどんな性格で、どんな人と関わって、どう過ごしているのか、みたいな情報ね。一般に用いるカウンセリング手法では中々伝わり辛いものも、実際に目にすることで把握することができる。これが強みね」


 確かに、カウンセリングだけでは難しい部分もあるのだろう。

 相談する側の口頭説明でどこまで詳細に語れるかはその人次第だし、それをどこまで理解できるかもカウンセラー次第。それよりも実際に自分の目で確かめた方が、より確実で適切な対処が可能になる。


「補足すると、例えば舟見さんのように、誰にも打ち明けられない事情から背負い込み続けるしかない人も存在する。そういった人たちは当然、誰にも相談しないわけだから、カウンセリングでは対処できない。その人が打ち明けたくない、打ち明けられないという状況を把握するためにも、潜入しての対処は必要だと僕は思うよ」


 相模原さんの説明に対する月城さんの補足は実に的を射ていた。

 実際、もし月城さんがいなければ、私は誰にも打ち明けないままだっただろう。そしていつか、屋上からの一歩を踏み出していたかもしれない。


「そしてなぜ先生として潜入しないのかについては、より対等な関係性の方が悩みや苦しみを吐露しやすくなるからよ。残念ながら、教師と生徒には確たる一線が敷かれていて、生徒側から教師に悩みを打ち明けたりするのにはハードルが高いという人も多いというのが現状だわ。それに比べて対等な同じ生徒なら、例え友達とまでいかなくとも、この人なら共感してくれるのではないか、理解してくれるのではないかという気持ちが生まれやすいと私は考えているわ」


 勉強していて分からない問題が出て来た時、多くの人は身近な友達に尋ねるという選択を優先的に取り、教師に頼る選択は最終手段とする。それは、より質問しやすいという気安さから来ているものだ。

 同様に、悩みを打ち明ける際にも、より打ち明けやすい人に打ち明けるものだ。その際教師というのは、同じ生徒同士に比べればハードルが高くなるという相模原さんの説明はすんなりと理解に結びついた。


「言われて納得しました。ありがとうございます」

「それなら良かったわ。説明、続けても大丈夫かしら?」

「お願いします」


 確認をとり、相模原さんは一呼吸おいてから先ほどの説明を続ける。


「SPMは潜入という手法をとってるけれど、あくまでも学校の一部関係者には予め話しをつけて行っているの。だから今日も、先生か誰かとお話ししたでしょ?」

「はい。始めに学年主任の先生と少しお話させていただきました」

「何か都合が悪くなった際にはその先生に報告するといいわ。生徒だけではどうにもできない際、必ず手を貸してくれると思うから」

「分かりました」

「とまぁ、説明はこんなものかしら。あと、救助の方法はそれぞれに一任しているから、基本的には舟見さん次第だけど、困った時には遠慮せず相談してね」


 相模原さんは一通りの説明を終え、最後に笑みを溢すと、目の前のミルクティーを飲み干す。それを見て、月城さんが相模原さんに向き合う。


「相模原さん、後は僕の出番ってことでいいですかね?」

「うん、あとは任せたわ。私はちょっと用事があるから、先に失礼するわね。カップとかはそのままにしておいてもいいから」

「分かりました」


 相模原さんは時計に目をやりながら、少し慌てたように席を立つ。そうしてすぐに、相模原さんは少々慌ただしく委員長室から去っていった。



 静かになった委員長室に、ソーサーとカップがぶつかるコツンと軽い音が良く響く。気づけばあっという間に紅茶を飲み干してしまっていた。

 もう少し飲みたかったなと名残惜しい余韻に浸りながら空いたカップを眺めていると、月城さんが尋ねる。


「舟見さん、本当に大丈夫? ここに来たばっかりでいきなり仕事だったし、疲れてないかなって心配だよ」

「いえ。学校に通っているという点ではこれまでと変わらないので、そこまでです」

「それならいいんだけど……。無理だけはしないようにね」


 ほっと一安心という様子で月城さんは息を吐き、柔らかな笑みを溢す。


「もし仕事中に問題とか起きたら、相模原さんとか、後は仕事のことを知っている学校の人とかに相談するといいよ。もちろん、僕でよければいつでも聞くし」

「はい。その時はよろしくお願いします」


 これまではどんな困難も全て、自分で解決しなければならなかったけれど、今はそうじゃないんだなと改めて感じる。これまでの苦しみの分だけ、そのありがたさが身に染みた。


「それでね、一応今から勉強会するつもりなんだけど……」

「勉強会、ですか?」


 勉強会とはどういう意味なのか、と首を傾げて問うと、彼は滔々と説明する。


「うん。この先転校して復学するにしてもしないにしても、将来のことを考えた時には高校の勉強、止めない方がいいと思うんだ。最終的にはっきり決断できるその日までは、どっちもやっていく感じでね。とはいっても、今日は僕が担当して、以降は相模原さん担当になるかな。教えるのは相模原さんの方が数段上手だし」

「いいんですか? そんなことまでしてもらって」


 昨日、相模原さんは『存分に甘えるといい』と優しい言葉をかけてくれた。けれど、どこまでも親切なその優しさに甘えてもいいのかと、まだ自分の心が素直になりきれない。


「確かにSPMの本質から考えれば、一見管轄外にも捉えられるけど、大切なのは救った後なんだ。その人がまた、望んだ明るい未来を歩んでいけるよう送り返すまでが僕らの仕事だよ」


 朗らかな月城さんの笑みの前では、もう断ることの方が申し訳なくなってくる。頭の中から『遠慮』の二文字がスッと消えていった。


「ありがとうございます」


 深く深く頭を下げて感謝の意を伝えると、月城さんは膝に手を付けて勢いよく席を立つ。


「それじゃ、準備するから少し待ってて」


 そしてそう言うと、彼はどことなく軽い足取りで委員長室を一旦後にする。

 私は先程まで飲んでいた紅茶がもたらした、心地よくて優しい暖かさの余韻に浸りながら、彼の帰りを待った。



* * *



 任務二日目。朝八時、一年三組の教室には段々と生徒が集まってくる。

 一限開始時刻は午前八時半。それまで何をして時間を潰そうかと、ぼんやりと窓の外を眺めながら考えていた。

 できることなら、昨晩月城さんとやった勉強の復習、もしくは今日から相模原さんとやるであろう所の予習をしたいところではある。

 だが、場所が場所だ。

 中学一年生が高校二年生の勉強をやっているのを見られるわけにはいかない。数字の正負の勉強をやっているはずなのに極形式を解いているなど、どう考えても異端だろう。

 では、今回の仕事における対象――夕季の身辺調査……と行きたいところだが、不用意に彼の名前を口にして聞き込みしたりなどするのは、この年頃の生徒の場合は不適切だろう。異性の話を出せばすぐに恋愛に直結させたがるませた中学生相手では極めて悪手だと思う。

 結局、彼の情報を得るためには彼と直接やり取りをするのが一番だ。だが、肝心の夕季はまだ登校していない。故に私は、手持ち無沙汰で暇を持て余しているのである。

 一体いつまでこうして無為に時間を過ごしていればいいのだろうか。早く来ないかな、と思いつつ視線を教室内に移した時。


「うわっ! びっくりしたぁ」


 目の前に大きな背中が映り、思わず大きな声を出してしまう。


「……何?」


 むくっと体勢を起こし、不機嫌そうに私の顔を見たのは夕季だった。ぼーっとしていた内に隣の席に着いていたらしく、既に机の横には鞄がかけられていた。

 相も変わらずぶっきらぼうで、ものすごく機嫌が悪そう。加えて目力が強いこともあって、私は少し気圧されながら先ほどみっともない声を上げた理由を口にする。


「いや、振り向いたら近くにいたからさ……」

「あっそ。別に、筆箱落としただけだし」


 彼は素っ気なく回答しながら自分の席に戻り、それっきりこちらを見向きもしなくなった。

 ただでさえ声をかけるハードルが高めだというのに、ちょっと面倒に思われてしまったとなると再び話しかけるのは難しい。

 ……いや、そもそも彼は中学一年生だ。ついこの間まで小学生だった青二才だぞ。年が四つも離れているというのに、どうして臆する必要があるんだ? 少しくらいこちらが強めに出てもそんなに怖くない……はずだ。

 脳内で怯えていた自分を無理矢理鼓舞した私は、意を決して再度声をかけに出る。


「あ、あのさ、夕季くん」

「……ん?」

「今日、一緒に帰らない?」

「はぁぁぁ!?」


 貫いていた仏頂面は見る影もなく崩壊した。身を引きながら吃驚した後、若干頬を赤らめる夕季。

 私はその反応を見てようやく、自分が何をやってしまったのかに気付いてしまう。


「…………ぁ」


 強めに出ようというのが大いに裏目に出てしまった。

 実は今日、とある作戦を実行しようと考えていた。そのために彼と一緒に帰る状況を作らなければならなかったのだが、これではいくら何でも直球勝負すぎる。関係性がほぼないに等しいこの状況でいきなり中坊がそんな誘いを受ければ、当然別の意味に捉えかねないだろう。


「いや……、あの、別に深い意味は、ないんだけどね?」


 と、こちらは必死にフォローしようと試みるが、時すでに遅しのようだ。


「べ、別にいいけど」


 さらに恥じらい満載の様子で、いじらしく返す夕季。

 うぅ……。自分が蒔いた種だけど、こっちまで恥ずかしくなるから止めて欲しい……。

 思春期の男女の初々しいやり取りを展開してしまったが、結果的には目的を達成している。この機を逃す手はないだろう。

 夕季はそれ以来、完全に視線を逸らしてしまい、気を紛らわせるように一限の用意に入っていく。けれどその横顔中央――耳は真っ赤で、動揺が全く隠しきれていない。

 なんだか弟の面倒を見ているような気分だ……。



* * *



 教室の外――グラウンドにて、部活に精を出す生徒の姿がある。ついこの間まで高校生だった私には何も特別な光景ではないが、聞こえてくる声の高さや張り、身体のシルエットの小ささには依然として違和感が拭えない。

 六限が終わり、迎えた放課後。昨日のこともあったので、明光寺をはじめとした女子たちには予め断りを入れたが、そろそろこの手を使うのも限界かもしれない。彼女たちの好意を無碍にしないためにも、次回以降は作戦を変えるべきだろう。

 それはともかく、この後迎える仕事に集中できる体勢は万全に整えた。


「あのさ」


 帰り支度を整えた隣の夕季は先に席を立ち、私に声をかける。


「先に行っててもいい?」

「……どういうこと?」


 これから一緒に帰るというのに、なぜ先に行く必要があるのだろうか。純粋な疑問をぶつけると、夕季は今朝と同様頬を赤く染める。


「だ、だってさ、あんまり見られたくないし……」

「……うん。分かった」


 きっと夕季からすれば、見られたことがきっかけで持て囃されたりするのが恥ずかしいくらいのニュアンスだったのだろう。特に中学生というのは、そういうのが多かった記憶がある。

 けれど今の私には別のニュアンスにも取れて、それがかつての嫌な思い出を連想させた。だから、取り繕ったとしても「そんなの気にする必要はない」なんて言えなかった。


「じゃ、校門で待ってる」


 夕季は私の了承を経て、そそくさと教室を先に出ていった。私はそれを見送ってから、机に突っ伏して目を瞑る。

 月城さんがあの時救ってくれたから、今私はここにいる。当時のことはもう過去で、水に流してしまってもいいと分かっているけれど。それでも当時、真綿で首を締められるようにつけられた心の傷だけは、水に流せるほど簡単には消えてくれないのだと改めて感じた。

 私は気持ちを落ち着かせ、身体を起こすと静かに大きく息を吐く。教室内にかけられた時計を見れば、現在午後五時を迎えようとしている。

 彼がここを出てから十分に時間が経ったことを確認した私は、合流場所の校門へと向かった。



 夏至が一月先まで近づいている五月の中旬故か、この時間帯でもまだ空は明るい。ほんの少し、夜が近づいていることが分かる薄灰色の靄がかかっているようにも見えるが、彼を家に帰さなければならない時間まではまだまだ長い。

 徐に校門付近を見回しながら向かえば、校門を出て少し離れたところで夕季の姿を見つけた。夕季の策が功を奏したのかどうかは分からないが、ここ周辺に生徒の姿はほとんどない。


「それじゃ、行こっか」


 フェンスに軽く背中を預けて待っていた夕季に声をかけると、軽く頷いて応え、私と並び歩いた。

 春の夕方に吹く優しい風に吹かれながら、校舎を背に住宅地へと入っていく。家の前の道路でボールを蹴って遊ぶ子供の姿や、ママチャリでどこかに出かける主婦を横目に、ただ真っ直ぐに進んでいく。


「家、この辺なの?」


 しばらく生活音だけだった空間を切るように、夕季が問い出す。だが、その視線は進行方向に向いたままで、どこか落ち着かなさそうだった。


「ううん」

「あ、そう……」


 気を利かせて話題を振ってくれたのかもしれないが、私が素直に答えてしまったがばかりに即頭打ちになってしまった。

 でも、仕方がないのだ。いかんせん、私の本当の家はここから遠いし、今住んでいる場所は一応会社の社宅だから口にもできない。

 きっと勇気を振り絞って気を遣ってくれたのだ。ここはその意図を汲み取って、彼の質問に合わせた問いを返す。


「夕季くんの家はどの辺なの?」

「今歩いてきた方向とは逆の方」

「そっか……。ごめんね、わざわざこっちまで来てもらって」

「……別に」


 夕季はそう言って完全にそっぽを向いてしまった。

 しかしながら、ぶっきらぼうで不愛想な割にはきちんと質問には答えてくれる。松院先生から聞いていた情報から推察できる性格とは少し対極の素振りばかりだが、こういう部分を見るとやはり性根は優しいのだろう。

 住宅地を十五分ほど歩くとようやく、今回(・・)の(・)目的地(・・・)が見えてきた。


「あのさ、本当に家はこっちなの?」


 さすがに何かおかしいと思ったのだろう。夕季が怪訝そうに私を睥睨する。

 それもそのはず。住宅地を抜けた先に見えて来たのは、駅前の街並みだ。

 林立したビルの側面には看板がずらりと縦に並び、奥の方に行けば行くほど人の姿が増えていく。そんな賑やかしい繁華街の中に家があるのか、と夕季は疑問に思ったのだ。


「ううん。違うよ?」


 私は少し煽るように微笑んでそう言うと、夕季は更に睨みを利かせる。


「はぁ? どういうことだよ」

「いやまぁ、せっかくだから遊びにいこっかなって」

「そんな話聞いてないんだけど」

「まぁ別にいいじゃん。せっかく来たんだし、遊んでいこうよ」

「いや、ちょっ……、引っ張んなよ!」


 私は渋っていた夕季の右袖を引っ張って、半ば強引に繁華街中心部へと小走りで向かった。



 今朝、私は確かに「一緒に帰ろう」とは口にした。けれど、その間の経路については何も明言していないのである。

 今回の目的はあくまでも、夕季光磨という人物を知ること。彼と一対一で話をするのも手段ではあるが、楽しく遊んでいるときの方が本心を露わにするのではないかという考えの元、考案した策だ。

 それに何より、彼が救助対象で酷いいじめに遭っているのだとすれば、こういった息抜きが少しでも自殺から遠ざけることになるかもしれない。SPMとして経験が浅いなりにも本来の目的を遂行しようと考えた私の、最大限知恵を振り絞った作戦であった。



* * *



 私にとってこの地は、どこもかも見知らぬ新天地だ。きっと、私の隣を歩く夕季は何度もここに訪れていて、大体の土地勘は持っているに違いない。

 今回の作戦を実行するにあたり、昨晩からネットであれこれ検索して知識は蓄えてきた。それでもあまりに付け焼刃なので、一本道を外れただけでどこがどこか分からなくなってしまいかねない。故に、本来は立場が逆なのかもしれないが、私がリードする形でとある場所へと向かう。

 繁華街中央、駅の正面に立つ大きなアミューズメント施設。近くにはカラオケ店やパチンコ店などがあって、ジャンジャカジャンジャカ騒々しい中、多くの人が行き交う。私たちはその大型アミューズメント施設に入り、すぐ近くにあったクレーンゲームコーナーに足を踏み入れた。

 こういったところに最後に来たのは、丁度夕季くらいの年頃の時だったと思う。当時の友達とお小遣いを握り締めて、必死の思いでぬいぐるみをとったっけ。今思えば、スタッフさんの忖度ありきだったと思うけど……。

 それから五年近く経っているが、筐体の構造や外見も当時とさほど変わりはない。ラインナップはぬいぐるみやお菓子、フィギュアなど目白押しでついつい目移りしてしまう。

 あれこれ見回っていてはいつまでも始まらないので、私は適当な場所で足を止める。商品はお菓子の詰め合わせで、どうやら掴むというより少しずつ手前にずらして落とすタイプらしい。


「それじゃ、これにしよっと」

「……?」


 完全に連れ回される形で混乱しているのか、無言のまま首を傾げ、様子を見守る夕季。

 私はとりあえず百円を投入しようと硬貨を握った。しかし、どうも手が震えて投入できない。この仕事にあたって使用するお金は全て経費になると聞いてはいるが、これまでの百円の価値とどうも釣り合わないゲームを前に躊躇いが生じていたのだ。

 確かに百円で景品が取れたなら、そこそこ採算は合っている。でも一回で必ずとれる保証もないし、むきになって十回挑んでも取れないなんてざらな気がする。いくらゲーム性で楽しいという付加価値があったとしても、さすがに見合わないような……。

 などと、これまでの節約生活故に染み付いた超貧乏性で、硬貨一枚投下できない様子を見てどう思ったのかは分からないが、夕季は一歩前に出る。


「俺、やろっか?」


 そして、そう言って私の方に手を差し出す。

 私はそれを見てついつい百円を手渡したが、何だか違和感が禁じ得ない。なんで私、素直にお金渡してるんだろ……?

 そんなことをよそに、夕季は一切躊躇なく百円を入れる。

 軽快な電子音が鳴り響く中、夕季は二つのボタンを駆使してクレーンを所定の位置へと動かしていく。そして思い通りの場所に辿り着いたのか、確定ボタンを手のひらで叩くように押した。

 ピロピロピロと鳴りながらクレーンは下がり、商品であるお菓子詰め合わせの箱を掴みにかかるが、あまりにも非力で商品はその場からビクとも動かなかった。

 いや、分かってはいる。これで取れてしまったらどう考えても儲けはでない。だからクレーンのアームの強さに設定を施しているのだろう。

 しかしながら、夕季はほぼ完璧な操作をしていただけにショックは大きいようで。分かりやすくしょぼくれていた。


「あぁくそっ……」


 目の色からして本気でやっていたのは分かっていたので、なんだか可哀想な気持ちになってしまった。

 仕方がない……。ここは私が敵を討つしかないらしい。ここで取れなければ溝に賽銭したような気分で終わってしまうが、逆に次でとれば全てがチャラになって商品も手に入るのだ。

 私は何も言わず、財布から次の一枚を取り出して投下する。しばらく項垂れていた夕季だったが、投下時の効果音でそのことに気付いたらしい。


「無理だよ。見てたでしょ?」


 確かに夕季の言う通り、正直取れる気はしない。このゲームに精通しているわけでもないので、確実性の高い方法や裏技を知っているわけでもない。

 何より、任務で使ったお金は経費扱いにすると相模原さんが言っていた以上、取り返そうとする必要もないのである。

 でも――。



 私はそれから、連続で硬貨を投下し続けた。何度アームが掴み損ねても、何も持たず商品受け取り口の真上まで移動する寂しいアームの様子を目の当たりにしても、決して諦めることなく。

 そうして試行回数は二十回目に差し掛かった。経費だからとは言えども、さすがにこれ以上は良心は痛むし、古傷が疼くだけだ。ラストとはっきりと決め、これまでの十九回で培った経験を基に慎重にボタンを操作する。そして――。


「と、とれた~!」


 ガランガランと、商品が受け取り口に落ちる音、「おめでとうございます」という機械的な音声が鳴る。

 正直奇跡かなんかだと思った。けど一度冷静になってしまうと、上限金額設定とかあったのかもしれないと頭を過る。アームの閉じる際の力が強かったからこそ成し得た結果だろう。

 一方の夕季は一度目を丸めた後、自分のことのように嬉しそうだった。


「マジか。すごっ!」


 あぁ、そうだった……。

 また大切なことを忘れていたが、彼はまだ中学一年生。小学校を卒業したばかりだ。だから、つけてはならない商売の裏事情的な知識もない、純真な心の持ち主なんだろう。


「これ、あげよっか?」


 私はそう言って取れた商品を彼に差し出してみる。

 この詰め合わせの中身の多くは甘めのものばかり。お菓子なら九十パーセントカカオのチョコレートや抹茶系統のものが好きな私には少々口に合わないのだ。それなら、美味しく食べられる人にあげた方がいい。

 だが、夕季は先程の純粋さは何処へ。極めて大人的で日本人的な振る舞いをする。


「いや、いいよ。取ったのは俺じゃないし、お金も出してないし」


 素直になればいいのにな、と思いつつ、私は折衷案を提示する。


「だったら一緒に食べよっか」

「……分かった」


 すると、またいつもの思春期の男子中学生らしい反応で答えてそっぽを向いた。

 それにしても、今日の私はいつもの私らしくない。夕季が取れなくて悔しそうなのを見て代わりに意地でも取ってあげようとしたり、何気なく取ったものをあげたくなったり……。

 やはりどうも、夕季には弟っぽさが禁じ得ない。

 純真な部分を持ちながら、どことなく大人っぽさに憧れて背伸びして。

 もしかしたら彼のそんな部分が、いじめを肩代わりする勇気に繋がったのか。

 その真偽は分からないが、そんな考察もできるくらいには夕季がどんな人物か知れたような気がする。

 まだ慣れないSPMの仕事。こんな風に一見遊んでいるようにしか見えないながらも、きちんと仕事はできているのではないだろうか。

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