理不尽の救世主

木崎 浅黄

第1話 たった一歩先

 ――あの時全力で走っていれば良かった。

 ――あの時あんなことを言わなければ良かった。



 誰だって後悔の一つや二つはしたことがあるだろう。

 後悔というものは、誰だってできればしたくないものである。故に、人々は後悔が残らないよう、一瞬一瞬に全力、最善を尽くそうと心掛けている。

 ただ、後悔はその先に繋がる反省材料になるという側面も併せ持つ。

『悔しさをバネに』と言われるように、人は後悔から得た学び、或いはその感情そのものを今後の糧へと変換する。後悔することは必ずしもマイナスなことではないのである。

 だが、そんな後悔や懺悔というものは、自分が直接的に関与しているからこそ起きるもの。

『あの時全力で走っていれば良かった』のも、『あの時あんなことを言わなければ良かった』のも自分なのだ。言い換えれば、望まなかった結果に繋がった原因が自身にあるからこそ、後悔という感情が芽生えてくる、ということ。

 ならば、望まぬ結果を生んだ原因が自分にないのだとすれば。



 人はそれを〈理不尽〉と呼んだ。



* * *



「行ってきます」


 玄関口から告げた言葉は、物音一つしない静かな廊下に寂しく響く。皮肉にも、返事として返って来たのは外から聞こえる小鳥の囀りであった。

 この家には私以外にもう一人、母親が住んでいる。

 先程、私が母の部屋前まで朝食を届けに行ったが、中からは物音一つしなかった。おそらくまだ眠っていることだろう。


『行ってらっしゃい』


 私の言葉とセットであるこの言葉が返ってきたのは、もう随分昔のことに感じる。それだけ私は、会話が飛び交わない孤独で虚しい暮らしに慣れてしまったのだ。

 親しい人の声が聞けることの嬉しさや暖かさを知ってしまっている分、知らない人よりも辛いかもしれない。過去に耽る度、恋しい思いが胸をざわつかせる。

 けれど、どうしようもなかった。

 父が幼い頃に亡くなってしまったことも、父の死によるショックと自身を取り巻く環境故に、母が体と精神を酷く壊してしまったことも、私にはどうしようもないことだった。訪れるべくして訪れた宿命で、後悔なんてしようもない。

 どれだけ望もうと願おうと、結果は変わらない。それが今以前――過去というものであると知っていても。


『もしも――』


 ふとした時に、そう思ってしまうのである。



* * *



 五月九日。世間が賑やかしいゴールデンウィークも明けた月曜日。

 空は生憎の曇り模様であった。昨日までの五月晴れから一転して、灰色の分厚い雲が広く覆い被さっている。

 家から高校までの通学路にある街路樹の桜並木も、そんな天候の影響を受けてかなり物寂しい。鮮やかな桃色の花弁を散らして茂ってきた青葉も、日を浴びれば爽やかに見え、自然ならではの優しい植物の香りがいつも心を和ませてくれるのだが、今日に限っては影を潜めていた。

 陰った木々を眺めながら歩いた先、目的地が近づくにつれて気分は段々と落ち込んでいく。きっと今日も、華々しい高校生活とはまるで対極な今日の空模様のような出来事ばかりが続くのだろう。前へと進める足が段々と重たくなる錯覚に陥っていた。

 だが、どんなに歩みが鈍くてもいつかは辿り着いてしまうものである。校舎前にあるご立派な校門をくぐり、くすんだ赤銅色のタイルが敷き詰められた校庭を進めば、あっという間に玄関である。

 重たい溜息を吐きながら、教室へ向かうために下駄箱の取っ手にゆっくりと手をかけた。


「…………」


 溜息の正体――嫌な予感は見事に的中してしまった。

 取っ手を伝って、中から外へと向かう圧力が感じ取れる。いや、どちらかと言えば違和感に近いだろう。それ故に私の手は引くのを止めて硬直してしまった。

 この違和感の正体――すなわちこの中身や、この先起こるだろうこともおおよその検討がついている。しかしながら、ここを開けなければ上履きは取り出せない。私は諦めたように再度大きく息を吐くと、半歩ほど後ろに下がってから取っ手を勢い良く引いた。

 案の定、中からは異物がたくさん溢れ出てきて、雪崩のように足元に転がり落ちる。紙を丸めただけの紙屑が自分の下駄箱の領域いっぱいを埋め尽くしており、それらを掻き分けるようにしてようやく上履きに手をかけた。


「ふふっ、いい気味」


 下駄箱の影から漏れる女子生徒たちの嘲笑。これの実行犯たちだろう。

 どうしようもない陰湿な悪戯、一般にいじめと呼ぶ類。はっきり言って稚拙極まりない行為だ。

 そんなことが約半月も続いているのだが、その発端は先月にまで遡る。



 四月中旬の早朝、まだ人気の少ない教室でのことだ。


「聞いたよ聞いたよ! 舟見ふなみさんって、あの沖合おきあい君に告白されたんでしょ!?」


 嬉々として尋ねてきた彼女が、どこからその情報を得たのかは分からない。

 しかしながら、私が同学年の男子である沖合聡司(そうじ)に告白されたというのは紛れもない事実であった。故に否定の言葉も返さず、私はただ黙って視線を意図的に合わせずにいた。

 彼女が『沖合君』と表現したのは、彼がこの学校随一の好青年と称されていたからである。学業成績はもちろんのこと、清爽なルックスや頗る誠実な性格から学年問わず人気を博しており、校内での知名度は抜群に高い。

 だからこそ、そんな彼のお眼鏡に叶ったとなれば、必然的に興味や関心の目線が私にも伝播してしまう。取り分け、色恋沙汰を好む女子高校生にとっては格好の餌食である。


「それでそれで!?」


 私の沈黙を肯定と受け取った彼女は、身勝手に話を先へと進める。彼女の興味は当然、その告白に対する返答だろう。

 はっきり言って目の前の彼女は、私の友達でも何でもない。野次馬のごとく、この話に飛び乗った人間のうちの一人に過ぎなかった。だから何も、この問いに答える必要はなかったし、どの道どこからか聞きつけるのだろう。

 ――前日の告白のことがすぐさま飛び回ったように。


「私は断ったよ」


 端的に結論を口にすると、彼女はゴルゴンの眼に晒されたかのようにピタリと動きを止める。そうして直後、素早く瞬きを繰り返した。


「え……? ごめん、聞き間違えかなぁ?」

「ま、そういうことだから」


 これ以上、彼女と話すことなんて何もない。私はそう言って席を立つと、静かにその場を立ち去った。



 結局このことは瞬く間に知れ渡ることとなる。その日のうちにどこかしこでその話題を耳にし、私は注目の目線に晒された。それはもちろん、決していい意味ではなく。

 これに対し人一倍思うところがあったのが、沖合聡司を特に好ましく思っていた生徒たち――すなわち熱狂的なファンであった。その人たちの一部がこうして直接的な攻撃を仕掛けてきている。

 当然、このような仕打ちを受けることに対して良い気分にはならない。けれどその反面で、これは止むを得ないものだと受け入れている自分もいた。だから私は本人たちには何一つ反論も反抗もせず、淡々と紙屑を拾いながら後片づけを行っている。

 そう。これもどうしようもない、避けようのないことだった。


『彼の告白を受ければよかったのに』


 私の様子を見て、無責任にもそう口にする生徒もいる。

 私は彼に対して恋愛感情もなければ、ほとんど面識もなかった。加えて、家庭事情も相まってとても真っ当な交際はできないだろうし、何よりそういった恋愛欲求の一つもなかった。そんな中で、自分がこういった被害を受けたくないからという理由で自らの気持ちを押し殺し、付き合うという判断を下したくはなかった。――彼もまた、そういう交際は望んでいなかっただろう。

 それに何より、どの道こうなる運命だったのである。

 仮に告白を受けていたとして、彼女たちはどう思うだろうか。彼女たちの中で神格化された沖合聡司をシンボル的存在とする掟がある以上、当然それを踏み躙られたという憤りでいっぱいになっただろう。そして、それを引き起こした張本人である私を酷く非難したに違いない。

 結局、どう答えようと結論は同じだ。だからこそ私は仕方ないと潔く割り切り、その時その時をどう乗り越えていくかだけを考えるようにしていた。

 全ての紙屑を回収してゴミ箱に入れ終えた頃には、玄関に着いてから早十分が経過していた。授業に遅れなかっただけ良かったなと思いながら、私は再び教室を目指した。



* * *



 あの日からずっと、一時も心は休まらない。

 例えそれが授業中であれ、昼休みであれ四方八方から視線を感じるし、こそこそと話す声全てが自分のことなのではないかと錯覚する。それでも、目の前の授業や昼食そのものだけに集中するよう心掛け、何とか自分の気を紛らわせる。そんな風にして、これまでずっと乗り越えてきたのだ。

 そして今日も放課後を迎える。

 さて帰ろうかと、席を立とうとした時だった。

 これで今日は終わり、解放されるものだとばかり思っていた自分が甘かったと思う。突然現れた女子生徒が三人、私の席の周りを囲い、退路を塞ぐ。


「あのさぁ、舟見。ちょ~っと付き合ってくんないかなぁ?」


 金髪で軽くウェーブのかかった長髪、長身の彼女は私を見下ろすようにして言いながら、親指で廊下の方を指した。

 彼女の言葉とは裏腹に、平穏で終わるような付き合いでないことは察しがつく。その彼女の連れである、裾を折って極端に短いスカートを穿く黒髪ショートと切れ目で厚化粧の茶髪の女子二人が、少し遠巻きからニタニタと見下すように笑っていた。

 そんな中、「そんなのお断りだ」と言いたい気持ちは胸の中に留め、私は口を真一文字にして沈黙を保つ。


「ほら立てよ…………。なぁ!」


 それを見て制服の肩口を乱暴に掴み、私を立ち上がらせると、彼女は半ば強引に外へと連れ出しにかかる。それを補佐するように他の二人も加わっていて抵抗することもできず、仕方なく彼女の言いなりになるしかなかった。



 そうして連れられて来たのは、おそらく学校内で最も人目につかない場所――校舎裏。と外とを隔てる二メートル強の校舎の高い壁が織りなす日当たりの悪さで、空気は淀んでジメジメとしている。僅かな風に乗って肌に触れるとどうも気色が悪いし、雑草のような酷く青臭い匂いが不快極まりない。

 彼女たちがこんないかにも良からぬ予感が漂う場所に拉致した目的など、もはや考えるまでもなかった。


「なんでテメェみたいのが沖合君に告白されんだよ。こんな不細工で不愛想なやつがさぁ~」


 三人の内、リーダー格らしい金髪の彼女は、私の肩を小突くようにして壁に押しやりながら、どんどん詰め寄ってくる。睨みを利かせて見下す視線には、かなりの威圧感があった。


「ほ~んと調子乗ってるよね~」

「断るとかほんと有り得ない。沖合君が可哀想」


 連れの二人も同調し、立て続けに非難の声を浴びせにかかった。

 調子に乗ってるのも、有り得ないのも、可哀想なのも全部あなたたちの方――なんてことを口にしたところで、火に油を注ぐことにしかならない。

 愚痴は心の内に秘めて、今はできる限り平穏にやり過ごすことだけを考える。


「まぁまぁ、落ち着きな。要するにこの醜い面をもっと醜くしてやればいいんだろぉ?」

「わぁ~お、杏奈あんな天才じゃん?」


 杏奈という長身金髪ギャルの彼女が口にしたことこそ、ここに連れ出した理由である。

 人目も監視カメラもない。誰がやったという証拠の残らないこの場所であれば、多少乱暴を働こうがお咎めなしになる。彼女たちにとってこの場所は実に都合がいいのだ。


「そんじゃま、逃げないように頼むぜ?」


 杏奈の指示の元、他の二人は私が避けたり逃げたりしないよう腕を拘束する。一人ならまだしも、二人に腕の一本一本を押さえつけれれていてはもう避けようも逃げようもない。

 準備が整ったのを見た杏奈は、恍惚な笑みを浮かべながら腕を回し始める。

 思いっきり殴られたら、そんなの痛いに決まっている。

 青痣はいくつできるだろうか。

 骨も何本か折れてしまうかもしれない。

 想像を絶する痛みに苦悶する、未来の私の姿が想起された。

 それでも私は、この運命を受け容れるしかない。それが例え、理不尽なことであったとしても。

 私は全てを諦め、静かに目を瞑った。



「君たちはここで、一体何をしようとしているのかな?」



 不意に、そんな声がした。

 彼女たちのものではなく、男の人の少し低い声だ。

 私と彼女たち含めた四人以外誰もいなかったはずの校舎裏。思わず目を開けてその方向を見ると、そこには一人の男子生徒が凛然と佇んでいた。

 髪は男子にしては長く、かけている黒縁の眼鏡の約半分を前髪が覆っている。その少し特徴的な見た目から、彼の正体が分かった。

 彼は二年生になって最初の登校日、私のクラスに突如としてやってきた転校生だ。


「誰だよ、テメェは!」


 自らの縄張りに侵入された肉食動物のように、杏奈はガンを飛ばして威嚇する。けれど、彼はまるで屈することなく、一歩、また一歩。悠然とこちらへ歩み寄ってくる。

 新学年が始まってさほど月日が流れていないということもある。けれど、本来注目されやすい存在である転校生なのにやたら印象が薄かった。

 人畜無害で物静か。誰かと話しているところは愚か、いつも自分の席で本を読んでいる姿しか見たことがない。

 ごく僅かな情報が、私の中で大きな疑問を生んでいる。

 そんな彼がどうして――、と。


「僕が誰かなんてどうでもいいでしょう。それより、僕の質問に答えてくれないかな。質問に対して質問を返すのではなくてね」


 少し挑発的にとれる彼の言動に、杏奈は真っ向から対抗していく。


「そんなこと何でお前に言う必要あんだよ」

「僕には今からあなた方が暴行罪、或いは傷害罪、恐喝罪を働こうとしているようにしか見えなかったのでね。そんなことになれば、大事な将来が台無しになりかねない」

「はぁ? 何でテメェみたいな外野に将来の心配されなきゃなんねぇんだよ!?」


 着実に歩みを進めていた彼は、それを聞いて一気に杏奈との距離を詰める。

 二人の身長差はほとんどない。僅かに彼が上回っている程度。

 けれど、さっきまであんなに大きく威圧的に見えた彼女が、まるで小動物のように縮こまって見える。


「勘違いするなよ?」


 先ほどまでの優しい声音から一転。恐ろしく低く冷たいその声に、さすがの杏奈も肩をビクッと震わせた。傍から見ているだけの私ですら恐怖感を抱くほど、彼の出すオーラは酷く凍てついていた。


「端っから君らの心配なんかしちゃいないんだよ」

「だ、だったらなんなんだよ、お前……」


 杏奈にはもう、さっきまでの威勢はどこにもない。言葉で押し返そうにも、彼は一歩たりとも引こうとはせず、むしろさらに距離を詰めているようにすら見える。


「…………ちっ」


 さすがにこの状況では、彼に勝ち目がないと感じたのだろう。舌打ちした杏奈は両手で強く彼を突き放すと、そそくさとこの場から離脱していく。それに合わせて、私を拘束していた二人も杏奈の後を追うようにして姿を消した。

 そうしてこの校舎裏には私と彼のみが残され、辺りには元の静けさが帰ってきた。

 彼は突き飛ばされたことで少し乱れた服装を整えると、私には一瞥もくれず徐に校舎の方へと歩き出していく。


「……あの」


 私は彼を呼び止めようと声をかけた。

 間違いなく聞こえるほどの声量だったはず。けれど、彼はその呼びかけには応じることなく、そのまま静かに姿を消したのであった。

 たった一人取り残された私は、大きく息を吐きながら空を見上げる。

 相変わらず日の光一つ通さない暗い雲の様子は、今にも雨が降り出しそうだった。



 正直、助けて欲しくなかった。

 きっとこの件を機に、彼もまたいじめの対象に加えられてしまうだろう。

 仮に彼がそれを撥ね退けるほど強くても、それを覚悟の上で助けようとしたのだとしても、私は自分のことで誰かが傷つくことだけは避けたかった。

 だからあの時からずっと、誰にも助けて欲しいなんて言ってこなかったのに――。



* * *



 時刻は午後五時半頃。

 下校時刻になってから約一時間経っていることもあって、教室に残る生徒の姿も廊下を歩く生徒の姿もごく僅かである。多くの部活は月曜日が休みということもあり、普段なら聞こえるような金管楽器の音色も金属バットの高音も聞こえてくることはなく、私が歩く廊下も階段も静寂に満ちていた。

 校舎三階のさらに上、すなわち屋上は普段から解錠されている。お昼の時間帯には弁当を食べる場所として、放課後は吹奏楽の練習場所の一つとして用いられているが、おそらく今は誰もいない。

 一度は家に帰ろうと教室に戻ったのだ。

 けれど今は、一人きりになりたい気分だった。ただただ静かに何をすることもなく、何も考えることもなく。

 屋上の入り口から屋上に出ると、湿り気のある風が髪や制服を靡かせる。地上よりも強く吹き付ける風が少々肌寒い。

 静かで、誰からの視線にも晒されない解放感に満ちた屋上には、やはり人の姿はない。入口から無心のまま真っ直ぐ歩き、私は落下防止用のフェンスの前に立った。


「こんなに綺麗だったんだ……」


 屋上に来たことはあるが、こうしてまじまじと屋上から景色を望んだのは初めてだった。

 天候の悪さなど感じさせないほど雄大で、圧巻な眺望。近くには住宅地、その奥には街の中心部にあるビル群、さらに奥にはほんの僅か海も見える。きっと天気が良ければ、日の光が海面で反射して煌めいて見えたのだろう。

 あらゆることを忘れさせてくれるような景色を見ながら羽を伸ばすと、先ほどまであったはずのモヤモヤとした気持ちがスッと軽くなっていく。登山先から見る壮大な景色を見て、達成感とともに晴れやかな気持ちでいっぱいになった時の感覚ととても良く似ていた。

 けれど、その二つには大きな差異が存在した。どちらも高い所からの景色には変わりないが、明確に足場の状況が違うのである。

 ふと足元を見下ろすと同時に、突如頭の中を過る思考。


「あと一歩、前に踏み出したら――」


 無論、フェンスがその境界線として隔ててはいる。それでも三十センチメートル先には今立っている位置と同じ高さの地面がなく、見下ろす先約二十メートルも下に地上が存在するのである。地面が連続している山とはその一点で大きく異なっていた。

 そんな当たり前の事実を再確認して、私が何を思ったのかは分からない。隔てたフェンスが視界を遮っていたわけでもないのだ。

 不思議と沸き立った気持ちが、私の体を動した。フェンスの上部に手をかけると、勢いよくフェンスを飛び越える。

 屋上の境界線の上に今、私は立っていた。

 胸が高鳴り、呼吸が弾む。恐怖心なのか好奇心なのか、それがもう分からない。

 けれど一つ実感した。思いの外、死の存在は身近にあるのだと。


『あと一歩、前に踏み出したら――』


 自分が踏み出した後の仮定が無意味だと知りながらも、あれこれとあるかもしれない未来が脳内に映し出されていく。

 そんな時――またも突然だった。


『ガチャッ…………』


 誰もいないはずの屋上。自分の背後からドアノブを捻る音が聞こえた。

 それから数歩ほどこちらに近づく足音が、静かな屋上では良く響く。きっと私のことが見えているだろうにまたも平然と、その足音はまるで廊下を歩いているかのように一定のリズムを刻んでいた。



「君はここで、一体何をしようとしているのかな?」



 その問いはつい先ほど聞いたばかりだ。その声色もまだ、印象強く頭の中に残っている。

 故に声の主が誰かなど尋ねることもなく、背後を振り返ることもせず、ただ素直に問いに応じる。


「さぁね……。私にもよく分かんないかな。もしかしたら、あらゆることを投げ捨てたいっていう心の叫びかもしれないね」


 肩を竦めるようにして諧謔を口にするが、実際に口にしてみて初めて気付く。私はあらゆること全て、清算してしまうことを望んでいたのではないかと。

 立て続けに起こる理不尽に対して、文字通り目を瞑る唯一の手段。そうしてもう楽になりたいと、心の奥底では願っていて、それが私を動かしたのだろうか。ほぼ無意識的にこの位置に立った私には、自分の行動原理が分からない。


「けど、君にはそれができない」


 彼は何かを見透かしたようにそう言い放った。

 私は否定も肯定もせず、確信めいて口にする彼にその根拠を問う。


「どうしてそう思うの?」

「君は人に対しての情が深すぎるから。特に母親に対して」

「…………」


 有り得ない言葉を口にする彼に、私は完全に言葉を失った。

 ほんの一月前に転校してきたクラスメイト。面識はなく、初めて関わったのはつい先ほど。加えて、初めての会話は今だ。そんな彼がなぜ、私の家庭事情を知っているだろう。

 大切な人にすら最後まで話さなかなかった、その情報を。


「だから君は、そこからの一歩が絶対に踏み出せない」


 彼は繰り返し、そう言い放つ。決して語気を強めたりもせず、淡々と。


「それはどうだろうね。私は君が思っているほどいい人なんかじゃないから」

「例えそうだとしても、君は絶対に踏み出せない」

「――そっか」


 私は改めて足元を見下ろす。

 本当に一歩、いや半歩踏み出せば。もしくは、突風に煽られて体勢を崩したなら。

 そんな一目で危険と分かる位置で私が何を考えていたのか察した上でも、彼は決して力づくで止めに来ようとはしない。私が踏み出さない、踏み出せないと確信し、少し遠くからただ見守っているだけだった。

 でもそれこそが、彼の取った私を救うための一策。

 ――本当にこの人は、私のことをよく知っている。


「はぁ~あ。そろそろ雨が降り出しそうだし、帰ろっかなぁ」


 私はくるりと振り返ると、再び軽々とフェンスを乗り越える。けれど着地した瞬間、膝には一切力が入らず、そのまま膝から地面に崩れ落ちた。

 彼はそれを見てか、ようやく私の方へ歩み寄ってくる。


「……本当にここまで全て分かった上だったの?」

「君の情の深さは足枷にも命綱にもなる。そのくらい、君の持つ情が深いということは既に知っていたからね」


 彼がとった行動は、一般には有り得ない行為だった。多く、人はこのようなケースに出くわしたなら、警察を呼ぶなり助けを呼ぶなり自分で助けようとするなり、何かしら直接的なアクションを起こすものだ。

 だが、彼は見える所では何もしなかった。それこそが、私にとっては最も痛い手法だと彼は把握していたのである。

 ――もし私が飛び降りてしまえば、彼は私を救えなかったと責任を感じてしまうのではないか。

 そんな思考がほんの一瞬でも過った時点で、私の中にあった「一歩踏み出す」という選択肢は消えてしまっていた。

 そしておそらく、母親の話を持ち出したのもこのための布石。『なぜそんなことを知っているのか』と、彼に対しての興味を抱かせる。少しでも成功の確率を上げるために。

 心の奥底まで見透かされ、掌握されているような手段を取られてしまった私は、もう笑うしかなかった。酷く乾いた笑いが込み上げる。


「あなたは一体何者なの……?」


 私の実情を把握している彼に対しての興味こそが彼の思惑通りだと分かっていながら、そうして純粋な疑問を投げかける。今日の一連の出来事を鑑みると、もうただの転校生、ただの一男子生徒という認識には収まらないのだ。


「そうだね……。一体どこから説明したものか分からないけれど……」


 彼は若干苦笑いを浮かべると、右手でそっと自分の長い髪に触れる。そうして軽く撫でたと思った瞬間、彼は突然クシャっと髪を鷲掴み、力任せに引っ張った。

 髪を力づくで引っ張るなんて、一体どれほど痛いことか。

 想像を絶する痛みを想起して思わず目を瞑ってしまったが、何一つ悲鳴も上がらなかったことが気になり、しばらくしてゆっくりと目を開ける。


「…………?」


 全体的に短くなった髪の質感は先ほどまでとは違ってさらっとしていて、風が吹く度柔らかく揺れる。依然として前髪は長めだがそれは若干目にかかる程度であり、眼鏡も外されていることでキリっとした目が顕わになった。

 かの沖合聡司にも負けず劣らずの好青年。明らかにこれまでとの印象とはかけ離れていて、別人かと疑うレベルになった。

 そんな困惑の様子が顔に出てしまっていたのか、彼は楽しそうに笑みを溢す。


「今の今まで疑わなかったでしょ? こういうの得意なんだよね~」


 言って、手に持っている鬘と眼鏡を掲げて見せる。よくよく見てみれば、その眼鏡は度が入っておらず、伊達眼鏡であったことに気づく。


「あ、ごめん。肝心なこと話してなかったね」


 彼は私の問いに答え切れていないことに気付いたようで、屋上の地面に膝をつく私にゆっくりと手を差し出した。


「僕は君を救い出すためにやって来た救世主だよ」


 何とも胡散臭い言い方に加え、この変装や私の個人的な事情を知っていることもあって、私は胡乱気な目線を投げる。

 どこからどこまでが真実なのか、建前なのか。それはまだ、僅かな時間だけでは把握しきれないけれど。

 少なくとも、ここまで自分のことを的確かつ正確に理解していた彼には興味があった。

 私は彼から差し出された手をそっと取って立ち上がる。


「ついてきて欲しい所があるんだ」


 突如、そう言い出した彼は、屋上の出口へと歩き出す。

 私はその背中を静かに追いかけた。

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