雑多な怨みごと

朱明

雑多な怨みごと


 さっきの喧嘩が頭の中でまだこだまして、青く澄み切った晴れ空でさえ俺の心は腹立たしく感じてしまう。次第に歩くスピードも速くなり、とっとと家に帰ろう、そう考えていた時だった。

「お兄さん。この壺あげるよ」

 小綺麗な格好の三十代後半に見える男が手のひらサイズの小さな壺を差し出してきた。

「俺は今腹が立ってるんだ。本当に気分悪いから話しかけないでくれ」

 半分怒鳴りつけるかのように言い捨てて歩き出そうとすると、男が俺の腕を掴んできた。

「丁度いい。この壺を握ってみてくれ」

 そう言う男の目はなぜか目を合わせているのに合っていないかのごとく感じられた。もはや操られているかのようにその壺を手に取った。

「ほら、壊れることなんてないから。思いっきりグッと握ってくれ」

 社会人になってから一度もここまで強く力を込めたことは無かった。固い感触が手に伝わる。爪が手に食い込んでくる。数秒間握っていたが、特に何も起こることはなく手を開いた。

「何ともないじゃないですか」

 そう笑いながら手から視線を移すと、もう男はいなかった。辺りを見回しても誰もいない。

「なにがあったってんだ……」

 手に乗った壺を見つめながらぼやいた。しかし、ふと気づいた。

 笑っていた?殺してやりたいほどに怒っていたはずなのに嘘のようにそんな感情は消え失せていた。この壺のおかげ?いや、そんなことがある訳が無い。壺を握るだけで怒りがなくなるなんて馬鹿な話、夢物語もいい所だ。しかし、もし実際にそうであるとするならば……


 本当だった。あれから上司の無意味な説教にも、顧客のクレームも、通勤電車の臭いおっさんにも一切気に触れることがなくなった。毎日が清々しい。人間が怒りなんて感情を持っていなければ争いなんて起こらないし、悲劇が生まれることもないんだと実感させられた。

 俺は常に機嫌がよく、周りからの評判も上がった。彼女と喧嘩することもなくなった。

 全てが上手く行っている。この壺のおかげだ。これさえあればこの先も人間関係に困ることは無い。壺さえあれば……


「あんたって人間の心も持ち合わせてないのね」

 彼女と一緒にランチをしているといきなり彼女が立ち上がって怒り出した。周りの視線もあり、おれは訳も分からないままなんとか彼女をなだめようとした。しかし彼女は俺を軽蔑したように見つめて言い捨てた。

「マジ、サイテー」

 彼女は机に千円札を一枚置いて店を出て行ってしまった。机の下で握る手が強くなった。

「いきなりなんだってんだよ……」

 水を一口啜って苦笑しながら首を振った。


 彼女だけじゃなかった。日に日に同僚から距離を感じるようになり、話している時も皆の目は俺を軽蔑していた。

 腹は立たなかった。それでも俺は笑っていた。いや、笑うしか無かった。しかし、俺とは真逆に周囲は俺に腹を立てるようになった。

 何故アイツらは怒っているんだ。何が気に食わないんだ。分からない。

 何をされたら怒るかなんて、もはや俺には考えもつかなくなっていた。

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