第6話・森の魔女

「はぁ……」


 真新しい調度品が並ぶ執務室で、ジョセフは大きな溜め息をついた。領主補佐としての仕事も板についてきて、ようやく手に入れた自分専用の仕事部屋。二階の居住区から運んで来た物もいくつかあるが、そのほとんどは新しく誂えられ、まだ馴染みが無く落ち着かない。


 部屋の隅には秘書兼護衛のアロンが控え、従者用の机で書類の確認をしている。彼の耳にもジョセフの溜め息は届いているはずだが、呆れ顔で聞こえないフリを通しているようだった。幼い頃からジョセフに付いているアロンは、主君の挙動には慣れきっている。


 ――もう三ヶ月は別邸に行けてはいない……。ベルの顔を、一目見るだけでもいいのに……。


 捌いても捌いても山積みにされる書類。夕刻に終わらせた仕事も、翌朝にはまた執務机の上に積み上げられている。外に出ても、視察と報告を繰り返す毎日。

 護衛騎士に交じって剣術の稽古をしている時が一番気楽だと感じるなんて、鍛錬嫌いだった自分には考えられないことだ。


 アナベルの傍で過ごす、静かで穏やかな時間が恋しい。もし従姉妹が以前と同じように離れに住んでいたら、ほんの数分の空き時間でも会いに行けたのに。

 けれど今、ベルがいるのは魔獣の生息する森の奥深く。ジョセフの力量では一人でふらりと訪れることができる場所ではない。別邸には先触れを出した上で、護衛を付けて、馬も用意する必要がある。


 生まれた時から同じ敷地内にいて、いつでも会える存在だと思っていたから、いきなり遠くなった距離にどうすることもできない。

 何かと用事を作っては森を訪ねていられたのは最初の頃だけ。ベルが森の魔女に弟子入りして一年が経った時には、ジョセフ自身も父の職務に見習いという形で同行させられることが多くなった。


「私が父上の跡を継いだのは25の時だ。だから、20を過ぎた頃には一通りの仕事を身に付けておくつもりでいなさい」


 特に短命な家系という訳ではないが、上に立つ者がしっかり育っていなければ迷惑を被るのは領民だ。代々築き上げてきた信頼を、息子の代で失う訳にはいかない。そして父はジョセフに向かって囁いた。


「目の前の職務を誠実にこなしていれば、惚れた女もちゃんと振り向いてくれるというものだ」


 かつてのセリーナもそうだった、とグラン領主は息子へ向かってほくそ笑んで見せた。その時から明らかにジョセフの顔つきが変わったと、夕食後の晩酌時にゾースがご機嫌で妻に語っていたことをジョセフ本人は知らない。


 父親の思惑通りにジョセフが領の運営に深く携わるようになった頃、アナベルも祖母である森の魔女に弟子入りしてから6年の月日の流れを感じていた。


「今日は解熱薬と傷薬ね。そろそろ薬草が足りなくなりそうだわ」

「そんなに多くはないですから、私一人で大丈夫よ。お婆様はお休みになって下さい」

「あら、そう? では発注だけ終えたら、戻らせてもらうわねぇ」


 別邸の一階にある作業部屋で、作業台の引き出しから注文書を出すと、老魔女は持っていた杖を傍に立て掛けてから、丸椅子に腰を下ろしてペンを走らせる。自分達で採取できない薬草は商会や薬店を通じて街から取り寄せていた。壁際の棚に積み上げた麻袋に入った薬草の在庫を確認しつつ、足りない分を書き足していく。


 ここ最近、祖母から感じる魔力量が明らかに減っていた。杖で身体を支えながらしか歩けなくなっても調薬は続けていたが、今の魔女から感じる力ではロクな薬は作れなくなっているはずだ。それは本人も自覚しているのだろう、持っていたペンを置くと、魔女は申し訳なさげに愛弟子へと告げる。


「近い内に、私は本邸へ帰らせてもらうわね。ここにいては、皆に余計な迷惑を掛けてしまうから」

「……お婆様?」

「今日からは、あなたが森の魔女を名乗りなさい。ベルなら大丈夫よ」


 驚き顔の孫娘を傍に呼び寄せると、腕を伸ばしてそっと抱き締める。薬魔女の独り立ちに18という歳は決して若過ぎることはない。自分の持つ知識と技法を全て教え切ることができたことが、心底喜ばしい。

 一時は、森の魔女は自分の代で終いだと諦めていたのに……。


「あなたの活躍を、いつでも見守っているわ」


 そう言って中心街にある本邸へと居を戻した老魔女は、本邸に住む家族に見送られながら、ひと月も経たない内に穏やかに息を引き取った。

 その悲報を別邸にいるアナベルは早駆けの通達で知らされたが、作業部屋で一人、その日の納品分の調薬作業を黙々とこなして過ごした。


 とても穏やかで静かな老魔女を思い浮かべるような、優しい日差しが心地よい日。老魔女の葬儀は近しい者達だけで粛々と執り行われた。前領主夫人という立場もあり、参列を希望する領民も多かったが、生前の故人の希望もあって中央街の広場に献花台を設けるだけに留められた。


「ベル……」


 喪服の上に祖母の形見のローブを羽織っているアナベルの姿を、ジョセフは遠巻きに見つめていた。王都から駆け付けた伯父夫妻に支えられるように墓石の前に佇んでいる従姉妹は、以前に会った時より少し痩せたようにも見えた。儚さの中に憂いを感じ、完全に見惚れてしまっていた。こんな時に不謹慎だとジョセフは首を振って邪な気持ちを振り払う。


 幼い頃から肉親と離れて暮らしていたアナベルのことを、老魔女は誰よりも気に掛けていたように思う。彼女に薬作りを教え始めたのも、ベルが少しでも気晴らしできればという心遣いからだったのかもしれない。


 伯父達が到着するまで、ベルの元に付いていてあげたかったが、領主補佐の立場が邪魔をしてそれは叶わなかった。仕方ないとは分かっていたが、本気で悔しかった。婚約の関係が続いていたら、彼女が辛い時に職務を放棄して駆け付けても許されただろうが、今の自分はただの従兄弟だ。


 ――ベルにとって、一番の支えでありたいと思うのは、そんなにもいけないことなんだろうか?

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