『 細 氷 』17才のダイヤモンドダスト

飛鳥世一・M.Misha

『 細 氷 』17才のダイヤモンドダスト

 昭和××年1月××日

 深夜二十一時三十分。


 北緯四十三度に位置する小さな町のバス停。一人の若く美しい女が降り立つ。バスが若く美しい女を運んできたのだ。

バスは雪が堆積したバス停に若く美しい女を吐き出すと、二十一時半の深夜だというのにガラガラというけたたましいエンジン音を響かせ走りだす。降車客はこの若く美しい女ただ一人だった。もちろん乗車する客などはいない。

タイヤに巻かれたチェーン。所々に露出したアスファルトを噛む音が深夜の町にコダマする。

「チャイチャイチュリチュリ……チャイチュリ」と。時折バスのテールランプ、ブレーキ灯が後ろ髪を引かれたようにその赤い明かりをともす。パク……パクッと。

「こんな時間にこんな所で降りるのか」ブレーキ灯の点滅はそう云っているように思えた。


 若く美しい女は取り残されたようにバス停に佇んでいる。

白いEMBAのヤッケに千鳥格子のキュロットスカート。ロングブーツ。白と紺、赤の毛糸の帽子には雪の結晶柄が編みこまれていた。肩下十五センチまで伸びているであろうストレートロングの髪が三日月の明かりを浴びて艶めいている。雪明りと相まったそれは、深夜、寝入りばなの町に相応しく思えた。

 若く美しい女はバス停の前で革手袋をはめた右手を鼻と口の前に持ってゆくと振ってみせる。手を振っているように見えた。一瞬隠れているのがバレたのか。そう思ったがバスが残した排気ガスに噎せ返ったであろうことが見て取れた。


 寒冷地特有のバス停は掘立小屋を思わせるほどの粗末な造りだった。

髪の毛をアップにし割烹着を着け鍋の中からカレーを取り出すおばさんの看板が錆びつき劣化したのだろうか、時おり吹き上げる風にあおられガシャンバシャンと哭いていた。強いつむじが粉雪を巻き上げ深夜の町を奔放に行き交う。

 俺は掘立小屋バス停の陰にいた。

 所々破れたバス停の壁の穴から若く美しい女を見ていた。盗み見ているのではない。脅かしてやろう。が、俺の目論見は経験したことの無いような胸の高鳴りを前に頓挫した。期待と不安が交錯した。今夜、これからのことに思いを向けるだけで氷柱は灼熱をともないその先端からは溶けた雫をあふれさせる。

 除雪車でも通った後なのだろうか。道路わきには堆く(うずたかく)雪が寄せら、若く美しい女は除雪された後であろう雪に黒く滲んだ軽油と灯油の混合排気ガス特有の痕跡をみつけると、黒く煤けた雪を足で覆い隠すように掻きならしていた。


「カヤ……」

 若く美しい女がバス停に降り立ってから三分とは経っていなかっただろう。俺はその女の名前を呼ぶ。女は元林茅野十七歳、高校二年生のクラスメートだ。

「もう……、こうくん、寒い~すんごいシバレルね」

 茅野は驚くわけでもなく嬉しそうに俺の顔をみた。が、その目元は赤く腫れあがり、ふたえの大きくエキゾチックな輝きを湛えていたであろう瞳は充血をみせている。若く美しい女の泣き顔というものを見たことは無かった俺はそのあまりの美しさを目の当たりに言葉を失っていた。

【カヤ、おまえ帰るべきだったよ。バスに乗り遅れたから今日は帰るね……そう電話を入れれば済んだはずなんだ。それで今まで通りだったはずなんだ。今まで通りお前の親友、俺の彼女のメグの彼氏のままで居られたはずなのに】

 俺は茅野をほんの少しだけ恨んでいた。


 真冬の寝入りばなの町は数分と待つまでもなく空気が凍る速度をはやめる。茅野のまつげが白く凍りはじめていた。

「カヤ、お前のまつげ折れるぞ……」俺はそう云いながら自分の右腕をまくり上げると、腕の内側を茅野の目元に近づけ「早く目をつけろ」と促した。茅野は目を閉じると腕を両手で捧げ持ち自分の目に当てた。

「ありがとう……、溶けたとけた」そう云うと目を腕に押し当てたままゴシゴシッと 左右に振り大きく鼻をすすって星空を見上げる。

「こっちまで来ると星が綺麗だね」

「悪かったな、田舎で」

 茅野は頬を伝う溶けた水滴を皮のスキー手袋の背で拭いとりながら笑ってみせた。

【ヤバイなぁこれ、最悪のピンチだろ、若い女の泣き顔って初めてみたけど、なまらめんこい。あぶらっこ過ぎるだろ。あの泣き顔みせたあとにニコってするのは反則だべ】

 俺の頭の中では奇跡とも呼べる印象をもって若く美しい女の泣き顔と笑顔はその存在を刻んだ瞬間となった。

木村浩介十七歳の俺は北緯四十三度の地方都市のはずれに住んでおり、この夜、急遽自宅に来ることが決まった元林茅野をバス停まで迎えに来たのだった。

二人の吐く息が凍る。

中空を漂い、ときに絡まり合いながら……

重さを感じさせるようにそれは凍りついた雪の上に堕ちる。

月明かりの下、キラキラと輝きながら。


北緯四十三度の地方都市のはずれにある町。

時刻は深夜二十一時三十九分だった。


                ■


 自宅の電話が両親不在の静まり返った茶の間で鳴る。両親は母方の実家をたずねたようであり今晩は帰らないとの書き置きが残されていた。「にいちゃん。電話ぁ」階下から弟・雄二の声が告げる。

 俺は反射的に壁掛け時計に一瞥をくれた。「五時過ぎ……誰ヨ……」万年布団に横たえた体を起こすと茶の間への降りすがら「誰ヨ」と雄二に聞く。

「知らねえけど、女の人」雄二は面倒くさそうに返事をしてみせた。

【メグか……】寝ぼけた頭の中、相手を特定しようとする考えだけが逡巡。俺は電話台からやにわに電話を手にすると「もしもし」と声にした。

「こうくん?わたしカヤ。今喋っても大丈夫?」電話はクラスメートでメグの親友の茅野からのものだった。

「大丈夫だけど……、カヤ、おまえ今外か?」外を走る車の音やクラクションの音、パトカーの走り抜ける音が受話器越しに聞こえる。

「うん……バスターミナルの公衆電話からなの」

「急ぐのか? 自宅に帰ってからかけてくれてもいいぞ。どうせ今日は両親もいないし。おまえ帰る途中じゃないのか?」

「ありがとう、じゃぁ、三十分ぐらいあとにもう一度かけるね」

「お~」そういうと俺は電話を置いた。


【なんだ……カヤから直接電話なんかかかったことは今まで一度もなかった。メグに電話をしておくか、いや、ひょっとしたら修一との間で何かあったんじゃないのか。話が彼氏がらみだから仲の良い俺にまず電話をして来たとすると、カヤからメグに話をするのを待つのが筋だろ】

 茶の間でミカンを喰いながらテレビを見ていた雄二が「メグちゃん?」おあいそなのだろうそう訊ねる。「いや、双子の片割れ……カヤだった」そうは言ったものの雄二はカヤのことまでは知らない。

 

 メグとカヤは双子のように似ていると学校でも評判だった。カヤは育ちの良いお嬢様タイプ。メグは平均的な家庭で大切に育てられたごく普通の真面目な女の子だ。二人は中学の時からの親友であり、俺はメグと付き合っていた。付き合いも九カ月を数えるまでになっていた俺たちは、一周年には一泊で温泉にでも行こうという計画を立てるほど仲も良かった。

 そんな俺たちの付き合いは学校の先生たちの間でも公認の関係となっていたのだが、その理由がふざけたものであり、俺がメグと付き合うなら俺の矯正になるという思惑がはたらいていたと担任から聞かされたことがあった。そういう意味においては担任達の思惑は的を得ていたといえる。たしかに俺の私生活は矯正された。

 折も折、メグの兄のお嫁さんが勤めるスーパーの食料品売り場でのアルバイト募集の話しを聞きつけたメグが俺にバイトを勧めた。

「こうくん、バイトするなら手伝って欲しいって、義姉が云っているけどどうする?」と。そんなことから俺は学校帰りに自宅とは遥かに反対方向のスーパーでアルバイトをするようになっていた。メグの家はバイト先からも近かった。俺は頻繁にメグの家に出入りをするようになった。建築関係の自営業を営んでいたメグの両親からも「こうくん」と呼ばれ、随分可愛がられ時折泊まるようにすらなっていたほどだった。メグの両親は俺たちの交際を温かく見守ってくれていたようだ。               


 時計の針が夜の六時を指す少し前。茶の間の電話が鳴った。

「もしもし、木村ですけど」

「こうくん?カヤ……、ごめんね何回も」

「なんもよ、したっけ、どしたのよ」

「あのね、修ちゃんと別れたの。こうくん仲良かったでしょ。だから伝えておこうと思って……」茅野の言葉からは、俺が修から何か聞いていないか確かめたい思惑も感じられた。

【やっぱり。あれこれ電話をして詮索しなくて良かった】俺はそう思った。電話口の茅野は既に泣いていた。

 茅野の話しでは、冬の羊の放牧風景を眺めに行きたいと云い出した茅野は、修はと市街地にある有名な展望台公園へと行ったらしい。どうやらそこで修が切り出したようだった。なんでも、好きな女のが出来たから別れようと。


 俺は気がかりを茅野に訊ねた「んで、おまえ、メグには話したのか?」と。

「まだ……。明日にでも云うかもしんないけど、整理つかないっしょまだ」

「だべなぁ……。で俺になにか出来ることあるのか……」

「はなし聞いてほしいだけ。分かってくれるの多分こうくんとメグしかいないし」

「…… チョット寒くて遠いけど来るか?」

「いいの?行っても」カヤの返事に戸惑う様子は見られなかった。むしろそう云われることを待っていたようにすら感じられた。

【そりゃぁ今日の今のことだ、独りでは居たくないよな……】

「いいよ。両親もいないし俺もまだ飯食ってないから、カヤが来たら何か作ってやるよ」

 俺はそこまでを告げると、バスに乗る直前に電話を貰えるように伝えると受話器を置いた。受話器を置くと急にブルブルッとした震えが俺の体を貫く。まるで電気が走ったような痺れ、震えだった。【はぁ? バッカじゃねぇの何妄想してんのよ、あり得ねぇし】一瞬よぎった妄想が背徳の二文字を伴っていたことには気付けた。


 弟の雄二は今晩も友人の中杉の家に遊びに行くと云っていたことを思い出す。頭の中で考えることと口に出す言葉、体のバランスがまったくおかしなことになってきていることには気づかない。

 俺は茶の間の物入れから掃除機を取り出すと二階に持って上がり部屋の窓を開け放し掃除機をかけた。煙草くさい部屋はとても十七歳の部屋ではなかった。ブラバスのオードトワレを部屋中にふる。

 壁に設えられた本棚には学校の教科書と参考書、それだけが俺の身分が高校生であることを担保していた。あとは正常な高校生が読むことは無いであろう週間宝石と書かれた厚さ3センチほどの小説集が本棚を埋めている。 

 寧ろ教科書や参考書より週刊宝石の方が多いということに大人たちが気付いたら何某かの病気を疑ったかもしれない。

「2ミリ5ミリだな。まぁ掃除機かけて、客布団一組と毛布だけ用意しとくか。流石に灰皿ぐらい洗っておくか。なんか、ジュースあったべか?」台所に据え付けられた冷蔵庫の脇には炭酸飲料数種類が箱に入れられ積まれていた。

 二階の自室にコーラとグラスを持ち込み、コーラはベランダの発泡スチロールの箱に放り込む。


 時計を見ると時刻は二十時を表示していた。

 階下から雄二の声が「にいちゃぁん、行ってくるわ」と響く。

「悪いことすんなよ。」一応兄らしい一言を告げるのだが、この期に及んでは今一つ説得力に欠けていると思えた。心の内を読んだかのように雄二は「にいちゃんもね」と返す。「るせぇ、るせえ、早くいけ」「じゃぁねぇ」

 さて、これで落ち着けるのか。今のうちに風呂でも入っておくか。なぜ風呂に入ろうとする自分が居るのかに頭は向けない。既に思考がサル化していた。風呂場へと歩みを進めた途端、茶の間の電話が鳴る。電話は母親からのものだった。

 あたり前の会話しかない「ご飯は食べたのか」「雄二は何してる」「火の始末だけは気をつけろ」毎度刺激を受けることの無い色気も艶もない言葉だけが繰り返される。そのたびに俺は【うちのお袋はなんのために小説を読んでいるのか、文学的センスの欠片もない】そう思うことが常となっていた。

「なぁんもねぇよ、はい、じゃぁゆっくりしてチョウダイ」俺はそう告げると電話を置いた。

 電話を置くとすぐに電話が鳴る。

【うるせぇなぁ】

「はぁい!なによ!」言葉がぞんざいになる。

「えっコウクン? メグだけど、今、まずかった?」

 電話はメグからのものだった。俺は慌てて母親から電話があったことを伝え、またかかってきたものと勘違いをしたことを告げた。茶の間の時計は既に二十時二十分を指していた。メグとの電話は一時間に及ぶことが珍しくはなかった。「なんの用よ」と聞くことはできない。いや、そもそもこのタイミングで電話が来るということに俺は不安をおぼえた。

【俺は云うべきなのか。でも、カヤがメグに伝えていなかったとするとどうなる。カヤの立場がおかしなことにならないか? いや、カヤがメグに伝えていたとして、俺がメグにそのことを今云わなかったとしたら……、いや違う。カヤはメグに今夜のことは絶対に云っていない。(根拠に乏しい面妖な自信と思考の方向性に不調和を覗かせていることには気づかない) 従ってメグはカヤが来ることは知らない。てことは俺はどうなる?】俺はメグとの電話をしながら、とうとう問題の本質に辿り着いた。それはこの時点で抜き差しならないことに進展を見ることが約束された瞬間となったのだが、サル化した俺はこの期に及んですら楽観的に構えていた。

「メグ、風呂が沸いたから風呂に入ってくるかなぁ」嘘をつく。メグはなんの疑いも持たず「うん、また明日ねェ」と明るく告げると電話を切った。

 

時計の針は二十時四十分を指していた。


               ■


【これは……ひょっとして俺はピンチじゃないのか。まてまて、おかしいって。なんで俺がピンチになるんだよ。カヤが修と別れてその別れ話に付き合って、メグの親友のカヤの話しを聞くだけの俺がなんでピンチなんだ】サル化した俺はこの期に及んでさえ本質と向き合うことを避け、"不条理感"を弄んでいるに過ぎないことには目をつむた。


 電話の呼び出し音が響く。時計を見ると二十時五十三分。

「こうくん、かやだけど、五十五分のバスに乗るね、じゃぁバスもう出るから切るね、したっけあとで」茅野は用件だけを云い残すと一方的に電話を切った。俺は時計を見ながら到着時間を割り出す。

【カヤ……、云えねえよなぁやっぱり来るなとは。そりゃあ云えねぇだろ。なんだか嬉しそうにしてたしなぁ。聞いてほしいよなぁやっぱり。だけど、一番の問題は二人でメグに何も言っていないことだろう。カヤ、おまえどうするつもりなんだよ今夜のこと。メグに秘密にするつもりなのかよ。おいおい待てマテ、俺は客布団を用意したよな、いやこれはダメだ。取り敢えず客布団だけ雄二の部屋に移動しよう。チョットこれはさすがにおかしい】俺は平常心をとうの昔に失っていた。舞い上がりテンパっていた。既に背徳感は俺の思考を鈍らせ俺の背中を押している。


 俺は二階に上がると客布団を雄二の部屋に運んだまでは良かったものの、自分の布団のシーツと布団カバーは真新しいものへと変え、部屋の隅にたたんで置いたのだった。空気の入れ替えをすべく開け放っておいた窓からは夜の凍てついた空気が流れ込んでいた。

【俺……、やっぱ誘ったのは俺なんだろうなぁ。ただ、二人とも簡単に考え過ぎていたよな。聞いてほしい聞いてやりたい、たったそれだけのこと。あいつとの間に何もなかったとしても、たぶん、二人ともメグには云えないだろう。きっとカヤも今夜のことは二人だけの話しにしておいて欲しいと言うだろう】

 結論を先送りにし、脳が勝手に正常な判断を放棄したに過ぎなく、快楽という都合の良い可能性が残された方を選択をしたに過ぎなかったことには目を瞑ったままだ。


【でも、話を聞いてやってバスに乗せて返せばいいんだろう。簡単なことだ。これで最悪のピンチは回避できるだろう。そうだ最終のバスを調べておこう。最終バスは二十二時三十五分って、なんだよ一時間しか話せないのか。まぁ仕方が無いか。一応、最初にカヤには伝えておこう】

 もしも茅野にバスの時間を聞かれた時には答えられるように用意しておくのが最善であり、最終のバス時刻を事前に伝えておくことがルールのように思えた。

 俺は、入念に茅野を迎え入れる準備を整えながら、起きていないことについて様々な角度から一人反省会を催していたのである。

 

 時計に目をやると時刻は二十一時二十分を指していた。


             ■

 

 北緯四十三度の地方都市。それも街はずれの小さな町の夜は早い。特に冬場の夜の訪れは一層と早い。二十一時三十分は既に深夜時間帯であり町を歩く者もまばらであり行き交う車もほとんど無いのが当たり前の景色だ。

 元林茅野をバス停まで迎えに来た俺は茅野の前に立つと自らの右腕を捲り上げ、白く凍りはじめた茅野のまつげの前まで差し出した……「ありがとう、溶けたとけた」

 夜の空を見上げ弦月をともなった星たちを二人で眺める。不思議だった。メグとでさえこんな景色は見たことはない。二人の距離はこれまでで一番近い。二人の吐く息は月明かりを受けキラキラと輝きながら宙を舞う。絡み合い惹かれ合い憑いては離れを繰り返し次第に地面に堕ちてい行く。

「ダイヤモンドダストって云うんだよね」茅野が言葉にする。

「よく知ってるなぁ、日本語だと細氷って云うんだ」俺は茅野の言葉をあたためるように「さいひょう」と言葉にした。

「さいひょう? はじめて聞いたよ」そう云うと茅野は俺の顔をニコニコしながら見ていた。

 湿度を抱えた空気が冷やされ霞みはじめる。凍ったそれは月明かりに映しだされキラキラと光り輝いていた。

「寒いから家いくべし。腹減ったろう。俺もまだご飯食べてないからご飯食べよう。チャーハンとスープだけど作ったから」

「こうくん自分で作ったの?凄いね。メグから聞いていたけど、こうくん料理するんだよって……」

「簡単なものだけな……」

 肩を並べて歩いていると茅野がブーツを滑らせ転びそうになる。俺は反射的に腕を取り茅野の体を支えた。俺は茅野の手を握った。強くそっと。茅野の手は戸惑うように俺の手に委ねられていた。自ら握り返すことは無い。

茅野のブーツがまた滑る。今度は茅野が俺の手を強く握った。


 鍵を開け玄関に入ると茶の間へと続く扉を開ける。

「あったかーい」

「寒かったべ、少し暖かさに慣れるまでこれ使っておけ」俺は用意しておいたタオルケットを茅野のひざ元に投げかけた。

「チョットスープ温めて来るわ」そういうと俺は茶の間の時計を見る。 

 既に時刻は二十一時五十分を指していた。

「カヤ……もしもお前が嫌でなければ泊っていくか。最終のバスまであと四十分しかないし。お前の家の方が問題なければ俺は泊っても大丈夫だぞ」

 俺はスープに火を入れながら言葉にした。

【おい、誰が喋ってんだよ! 俺かよ、俺が喋ってんのかよ……】


「泊ってもいいかなぁ。家には友達の家に泊まりに行ってくるって言って出てきたし。朝早くのバスで帰って着替えして学校に行くつもりだったし」俺のチャーハンを温める手が震える。

「凄いねぇ~本当になれてるね」茅野の声が俺の真後ろでする。後ろから覗き込んだ茅野の甘い匂いが俺の肩口から漂う。

「食うぞ(くっちまうぞ ! !)」俺はそう云うと、茶の間のソファーからタオルケットを取り茅野に渡した。茅野はタオルケットで足元を巻くように包み込むとスープを両手で包み込みフーフーと息を吹きかけ冷ましながら飲んでいた。

 温まってきたせいなのだろう。外ではあんなに赤くなっていた目元の赤みが取れ、茅野の顔は真っ白で柔らかく艶めいて見えた。

【こんなにマジマジとカヤの顔を見たことは無かったなぁ】俺は茅野の左目の端、下のところに大きめな黒子があるのをみとめた。

【カヤ……、お前のその黒子は泣き黒子って云うんだぞ。大丈夫かお前】 

 俺はチャーハンを頬張りながら他愛のない話を茅野に振る。茅野の笑顔は美しかった。育ちが良いせいなのだろう食事の仕方も品が良かった。

「なんか不思議な感じ」茅野がスープを手に持ちながら言葉にする。俺は返す言葉に窮していた。何を言葉として発したとしても下心を見透かされそうに思えた。

「カヤ、多かったら残せよ。遠慮しなくていいから残せ残せ」箸の進みが遅い茅野に残すことを促す。

「うん、体も温まったよ。チャーハンはごめんだけど多いから残すね」

「気にするな。まぁ、不思議っちゃぁ不思議だよな。俺、カヤの顔をこんなに間近で見た記憶もなかったし。今、初めてゆっくり見てる」

【何言ってんだ俺。ゆっくり見ないことが普通だべや】

「だよねぇ、カヤもおんなじ。同じクラスに居てもそんなに近くで見ることも無いし、まして男子じゃそんなに見れないし。修だって最初の頃はカヤの顔チャンと見てくれなかったもん。でも女の子って顔を見ていてほしいのよ。色んなことに気付いてほしいから。でもね、修はダメだったなぁ」

 そう云う茅野の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

【メグ……ごめん俺はヤバいかもしれない。俺は今夜きっとカヤを抱く】

「上に行こうか」俺がそう告げるとカヤはそれに従った。


 部屋のストーブに火を入れると窓を少しだけ開け俺は煙草に火をつけた。

「こうくん……、私にも一本ちょうだい」正直驚いた。カヤの口から煙草を求める言葉が出るとは思わなかった。俺は無言のまま煙草とライターを茅野に手渡した。

 驚いたことに茅野は煙草を吸いなれており、噎せ返ることも無く手に持つ煙草をくゆらせる姿も胴に入ったものだった。

「煙草、吸いなれてるなぁ」

「ウフッ。時々ね。時々……三年目ぐらいかな」

 俺は笑うことしか出来ずにいた。「メグは知っているのか」危なく口を衝きそうになる言葉を飲み込む。換気のために開けた窓から雪が入り込み始めていた。

「雪降ってきたな……」

「ほんとだ」

 机の前の椅子に座った俺を横切るように机に手を置き、身を乗り出した茅野は窓の外の雪を見た。茅野の指には煙草は無かった。俺の膝が茅野の膝上あたりに触れている。【無理だべ…… カヤ】俺は回転式の灰皿で煙草の火を潰すように消すと後ろから茅野を抱きしめた。茅野は抵抗をみせなかった。自ら体を開き俺の首にしがみ付くと胸に顔をうずめる。俺は椅子に座ると茅野を俺の足の上、横向きに座らせ自分の鼻を使いながら茅野のこめかみ辺りをツンツンする。茅野の顔が上がり俺を見る。 

 俺たちは鼻と鼻で挨拶を交わすと唇を重ねた。

 頬に茅野の涙が伝わり流れ落ちていくのが感じられた。首に回した茅野の腕に力が入った。茅野を抱きしめたその手に力を籠める。茅野は「はっ」と一度口を外すと自分のおでこを俺のおでこに寄せた。二人の唇の間にはキラキラと輝く絹糸が雫をともない繋がっていた。どちらからともなく再び唇を重ねる。お互いの舌を求めあいそれぞれの口腔を彷徨う。茅野の舌はときに宙を舞った。まだ馴れていないのだろう。それでも茅野は懸命だった。絡み合い惹かれ合い憑いては離れを繰り返す。

「男の人って……、好きでもない子と出来るの?」


 俺の部屋の時計は二十二時三十分を過ぎたところだった。

 最終のバスは時おりブレーキ灯を灯しながら走り出した頃だろう。むき出しになったアスファルトを傷つけ削るように「チャイチャイチュリチュリ……チャイチュリ」と深夜の町にコダマを響かせ。

 

                 ■


 朝を迎えるころ。茅野の躰は俺に馴染んでいた。乳首を優しく噛むだけで首をのけぞらせデコルテを露に嘆いてみせた。花弁に指を這わせ秘芯の包みに触れるだけでとめどない潤いが真新しいシーツを濡らした。"もう駄目"と何度啼いただろう。そのたびに茅野は俺の首や背中に回した手に力を込めた。

 膝頭をあまく噛み、脹脛を優しく噛みながら足の指を含み舌を這わせた。搾りたてのレモンのような刺激を伴う若い潤いも朝には無味無臭に近くなっていた。


 朝七時前。茅野はバス乗って帰って行った。俺も茅野もどちらからもメグのことは口には出さなかった。それが当然であるかのように、どちらからも名前は出さなかった。

 その日から三日後の夕方。俺はメグに全てを打ち明け謝った。

 次の日俺は学校で茅野に告げた。メグに全てを打ち明けたことを。

「ェエーっ! バッカじゃなぁい、なんで云うかなぁ」

【あ~、そうかぁ。俺はバカなんだ。多分、救いようが無いほどの馬鹿なのだろう】俺はそう気付いた。あまりにも遅かった。

 ただ俺の中の"なにか"はこの日死んだ。たしかに絶望と共に死んだ。

 幼な過ぎたのか。バカだったのか。愚かだったのか。無知だったのか。死んだものは生き返らない。どうでも良かった。

それから数日後、俺は学校を退学した。

 細氷が春の雨に変わる前に。

 俺の時計はあれ以来、時間を刻むことをやめてしまったままであることだけは確かなのだ。


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『 細 氷 』17才のダイヤモンドダスト 飛鳥世一・M.Misha @yoich_azuka

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