第8話 救いと呪いは紙一重

 賑やかしい声が随分と遠くに聞こえるのは、会場との間に校舎の壁があるからだ。

 東側校舎裏に人気は一切ない。蔦屋祭の会場ではない上、元よりこの場所に人通りがないためだ。


「……話ってなんですか?」


 重々しい様相、上目遣いで桐花は問う。


「今日って何の日か分かるか?」


 分かりきった問い。極めて愚問だと自覚した上で彼女に尋ねる。


「蔦屋祭です」


 要領を得ないながらも、真正面から桐花は回答する。深読みしない辺り、実に彼女らしいと思う。


「だよな。でもそれなら、なんで勉強してたんだ?」


 まるで説教をするような言い方に、ほんの少しだけ桐花が身体を引いた気がした。


「シフトまで時間があったので……」

「そっか」


 桐花は語尾を萎ませて答えた。

 だが、その空き時間を必ずしも勉強に充てる必要はない。むしろ、勉強を忘れて楽しんで欲しいという学校祭を開催する目的から考えると、しない方が適切とも言える。

 であれば、なぜ彼女が勉強をしているのか。

 それは彼女と出会った日に、彼女自身が言っていた。


『私は普通じゃないんです。普通じゃないからこうしていないといけないんです』

『同じ努力をして人に劣るなら、人が努力をしていない間も努力しないと追いつけないんですよ』


 人が勉強をしているときはもちろん、していない間もやらなければ追いつかない。故に蔦屋祭であっても彼女は勉強していた。

 彼女と出会った時から、ずっとそうだった。

 出会った日の翌日。前日と同様に勉強を教えることとなり、桐花は一度図書室へ、俺は特別教室へそれぞれ向かい、先に着いた俺は彼女の到着を待っていた。そうしてしばらくして現れた彼女の手に握られていた英単語帳。なぜ持っているか問うも、彼女は視線を英単語帳から外さず、勉強しているためだと答えるのみ。図書室から特別教室までの僅かな時間であっても、彼女は勉強を怠らなかった。その日の帰りも同様で、歩きながらも視線は単語帳に釘付けだった。

 偶然彼女と購買で遭遇し、中庭で一緒に昼食をとっていた時もそうだ。昼食を食べながら急遽勉強会することになったが、彼女はその際になぜか、中間考査の答案用紙を持っていた。今思えばそれも、移動中に復習したりするためだったのだろう。



 桐花燈佳という少女がどういう少女なのか、俺は未だに全く知らない。

 俺の知る彼女は、勤勉で向上心を持ち、目標を常に見据える人間――だったはずが、今はそうではなくなってしまったから。

 一生懸命努力する姿はどれも美しいものとばかり思っていた。当時の俺が、現状に満足してしまっていたが故、余計に。

 けれど、今はもうそう思わない。


「勉強に対してそこまで真摯なのは、桐花自身の意志以外にも理由があるのか?」


 突如として問うたその内容に、彼女からの返答はなかった。顔を俯かせ、その表情は全く読み取れない。

『Yes』か『No』で答える問いにおいての沈黙が意味することは二つ。肯定か分からないかだけ。

 けれどこれは彼女自身しか知りえない、裏を返せば彼女の中に必ず答えがある問い。

 すなわち――。


「……そうか」


 本当なら、もっと早く気付いてあげるべきだった。


『私は普通じゃないんです。普通じゃないからこうしていないといけないんです』

『同じ努力をして人に劣るなら、人が努力をしていない間も努力しないと追いつけないんですよ』


 これらの言葉には、二重の意味が潜んでいた。

 俺はずっとこの言葉が、『自分で自分に強いている』という意味だとばかり思っていた。だからこそ、彼女のそんな姿に感銘を受けた。

 だけど、俺の知らない彼女を知って――桐花の母親から教えてもらってからは変わった。時折見せる純粋無垢な笑みこそが本当の彼女の姿だと。ずっとずっとずっと、彼女は自分自身を押し殺し続けていたのだ。

 蘭先生がかつて言っていたことの意味が、今なら嫌でも分かってしまう。


『つまり、それが生徒の望む未来へと導くものでなければ――』


 桐花は元より、このまま続く先にある未来を望んでいなかった。だから、それを知っている蘭先生は、あえて勉強を教えない方法を取ろうとしていたのだと思う。


「酢漿さんには……、いえ、酢漿さんだからこそ、お話させてください」


 今もなお、顔を俯かせたままの桐花。けれどその声は、いつよりも寂し気で痛々しさが肌で感じられた。

 これまでずっと自分のことを頑なに話そうとしなかった桐花が、自ら打ち明けようとしていること。一言一句聞き逃さないくらいまで、彼女の声に耳を立てる。


「小学校の頃、私はいじめられていました。『眼鏡をかけているのに勉強できないこと』で、酷く馬鹿にされることが多かったんです」


 彼女は現在、眼鏡をかけていない。

 彼女の私物を届けに行った際、彼女が眼鏡をかけているのを見て初めて視力が悪いことを知った。その際彼女は、家では眼鏡をかけて、外ではコンタクトだと打ち明けていた。そんな風に使い分けている理由の一つが、このいじめにあったに違いない。

 彼女がかけている眼鏡はあくまでも矯正器具だ。それと勉強の出来には何の因果関係もないというのに、『眼鏡をかけている人は勉強ができる』という世間的なイメージがあるため、このようないじめに繋がったのだろう。


「悔しかったです。人と同じように勉強をしても、思うように成績が伸びない自分に。でも、そんな私に父が言ってくれました。『それならば人より何倍も努力すればいい』と」


 言って桐花は、胸ポケットからペンを取り出す。


「覚えていますか? このシャーペン。その時、父がくれたものです」


 もちろん覚えている。届けに行った私物、それこそがこの少し古びた白色のシャーペン。当時も彼女は父から貰ったものだと言っていたが、その経緯を聞くのは初めてだ。


「父は大学教授を務めるほど、頭がいいんです。だから私は、一つの願掛けとして今の今までこれを使い続けてきました。……いえ。きっと縛られてきたんですね」

「縛られて……、!」


 わなわなと、シャーペンを握る手が震えていた。そしてその手に、ポツリと雫が滴る。


「どこまで頑張ればいいのか、分からなくなったんです。だから私は、どんな時間であってもできる限り勉強するようになって、それでも結果が出ないからまた増やして……。『人より何倍も勉強すればいい』という言葉が耳から離れませんでした」


 結果が出ないから勉強する。

 求めた結果が出ないから勉強時間を増やす。

 それでも足りないから――。

 そんな悪循環を作り出した原因こそ、彼女の救いの言葉になっていた『人より何倍も努力すればいい』という言葉。当時一度救われているからこそ、何度も何度もその言葉に縋り続けて依存し、結果、自分で自分を追い詰めていった。それが本当の彼女の上に形成された、今の彼女の姿。

 その人を形成する要素となるものは、元から持っているものとその人を取り巻く環境だ。あらゆることに興味を抱かず、表情の変化も薄く、どこか距離感を感じる話し方も、全ての原因が悪循環の影響を受けたからなのかもしれない。


「……ごめん」

「どうして、どうして酢漿さんが謝るんですか」

「桐花は覚えてないかもしれない。けど俺は、初めて会った日、君をさらに追い詰めるようなことをした」


 あの日。俺は自分の努力が褒められたものではないと言っていた桐花に、もっと胸を張ってやればいいと助言をした。あの時、既に予兆があったにもかかわらず、それに気づかなかった俺の最悪の行動。少しは胸を張っていいんじゃないかと、彼女を励ましたのだ。

 結果、彼女はもう少し頑張ろうと、さらに勉強に打ち込んでいくきっかけとなった。苦しんでいる彼女をさらに苦しめるような、そんな追い打ちをかけてしまった。


「桐花の家でもそうだ。俺は……」


 勉強方法を変えれば前進できると、彼女にした助言も――。

 一度のみならず、二度も俺は判断を誤った。


「どうしてそんなこと言うんですか」


 俺の声を遮る彼女の語気は、いつもより何倍も強い。


「違いますよ……。違います、違うんです!」


 徐々に声を荒らげ、はっきり桐花はそれを否定した。こんな風に感情を剥き出しにする様を見るのは初めてだ。


「私は酢漿さんに出会ったからこそ、自分で気付けたんです。自分が何を求めているのか、これから先どうしたいのか、それをもう一度考えるきっかけをくださったのは酢漿さんです」

「そんなことは……」

「あるんですよ。酢漿さんと一緒にいると、意志とは別に自然と笑ってしまうことが何度もありました。その笑顔の訳が知りたくて、ずっと考えて、そして気づいたんです。きっと私は、酢漿さんと一緒にいることを楽しんでいたんだなって」


 思い返してみれば、彼女が時折、いつもとは違う表情を見せることがあった。その違和感の理由を俺はずっと探し、その答えを桐花の母親に教えてもらった。

 …………。

 桐花、今なんて――。


「今日も楽しかったです。本当に楽しかったです!」


 初めて聞けた彼女の本心。

 彼女はどう思っているかを尋ねても、本心で言っているのかなんてこれまでほとんど分からなかった。

 だけど今の彼女の表情を見れば、それが心の底から出たものだということは分かる。

 不思議な感覚だった。頭の中がぼんやりとして、目頭が熱くなってきた。思わず、天を仰いでしまう。

 あぁ……。

 俺はきっと、ずっと、彼女がどう思っているか知りたかったんだろう。

 だから、彼女が心の内の衝動を抑えきれなくなって笑顔を見せたように、俺もこうして涙が瞳を濡らしているんだろう。

 けれど泣くには時期尚早すぎる。檻に囚われた姫を救い出さんとする勇者が、彼女と再会しただけで泣いているようなもの。檻の外で幸せな暮らしを手に入れるまで――彼女の努力が実るその時までは、決して泣いてはいけない。

 だから俺は、必死に抗って涙を押し殺し、彼女の方を再度見つめた。

 彼女もまたそのことには気づいているのか、安堵も何も見せないまま空を見上げていた。


「ですが、私にはもう分からないんです。この先、どうしていくべきか。例え、これまで通りを続けるのが辛くても、それが結果的には今の立ち位置に繋ぎとめていた命綱かもしれないですから」


 彼女は自分自身でこれまでの行いの間違いを見つけ、この先それを正していけば問題は解決する。一見、そう見える現状だが、それならば彼女の表情はもっと明るいだろう。

 彼女が指摘する点は、俺が彼女にこれまでなかなか言い出せなかった理由と同様のもの。すなわち、ここで勉強時間を減らしてしまえば、今の位置すら維持できないのではないかという点である。

 いくら勉強方法を効率化したとしても、これまでの圧倒的なまでの勉強量を減らした上で成績を伸ばせるかどうかは、正直保証ができない。

 これまでのやり方を変えるということは、現状を打破する突破口になりえるのと同時に、現状から滑落する落とし穴になりかねないという二律背反の部分がある。故に人は変化を恐れるのだ。

 例えば中学から高校に進学する際、仲のいい友達と一緒のところにあえて行くというのは、その友達と喧嘩別れするといった例外を除き、これまでと似たような時間が流れることを保証してくれている。ただ一方で、知り合いの誰もいないところへの進学は、これまでのイメージを刷新できる――いわゆる高校デビューが可能というメリットの一方、つてがないことで誰一人として仲良くなれない可能性もある。

 そういった変化への不安に駆られ、変化に踏み出せない人もいる。

 桐花は今、その不安と自らの気持ちの狭間で悩んでいるのだ。



 彼女にかけるべき言葉をずっと見繕い続けていた俺は、ずっと口を噤んだまま。桐花もまた、そんな俺の様子から何も言わずにいた。

 校舎奥の方から聞こえる声が反響して輪郭がぼやけて聞こえてくる。それが分かるほど、この校舎裏は、二人の間には空白の時間が流れていた。

 二度の過ちが、俺を慎重にさせていた。たった一言であっても、それは人を拘束する言葉にも、解放する言葉にもなりえるから。そして――。

 いや、俺はずっと何を考えていたのだろう。本当はもっと前から結論は出ていたのに。


『自分の思ってることは直接、真っ直ぐに伝える方が相手に伝わるから。それが謝罪であっても、そうじゃなくても』


 稲垣にそう言われた時にはもう、自分の意志は固まっていたはずだ。

 それについさっき、自分にされたから分かるじゃないか。

 自分の思いを真っ直ぐに伝えることの大切さを。


「今の桐花を繋ぎとめている命綱は、これまでずっとそのペンが握り続けきたんだよ。細くて小さな、杭としては心許ないそのペンが。そしてもう、今にも折れそうになってる」


 あの日、あのペンを間近で見たから知っている。傷が入って、中のバネが弱まりつつあったペンは、彼女が貰った日からの時間の長さを示していて。そうして徐々に劣化していくとともに、彼女を縛る力は風化してきた。

 だからこそ、今しかないのだ。ここを逃せば、命綱が切れて助からない。彼女を救うことが叶わなくなる。

 俺は彼女との距離を詰め、正面で向き合う。そして、彼女が胸の前でずっと手にしていたペンに手をかけ、それを取り上げた。


「だから、その役目を俺にさせて欲しい」


 そして、使い古された杭を回収するようにして、俺はそのペンを自らの胸ポケットにしまった。

 杭としては全くもって、俺なんて心細いかもしれない。

 咲楽のように芯がしっかりしているわけでもないし、泰史ほど気を遣えるわけでもない。

 それでも、そうありたいという気持ちは強かった。


「俺も……。ずっと楽しかった」

「……っ」


 桐花は顔を俯かせ、しばらく黙り込んだまま立ち尽くしていた。

 俺はただ、彼女からの次の言葉を待つ。

 けれど。


「……すいません」


 そう切り出した桐花はそれ以上何も言わず、突然走り出した。


「桐花!」


 呼び止めにも彼女は応じることなく、そのまま角を曲がって姿は見えなくなる。

 俺は少し遅れて、彼女を追うようにして走り出す。


「っ……」


 走りながら、この自分の行動が正しいのかが分からなかった。ほとんど衝動的に彼女を追いかけていた。



 追いかけてどうするんだよ。

 理由を問い詰める? それとも説得するのか?

 断られたやつにそんな資格あるのかよ……。



 分からない。それでも今足を止めたなら――杭のない状態で手放したら、それで本当の終わりだと思ったから。

 だから俺の足は、決して止まらない。



* * *



 時刻は午後一時すぎ。西側校舎一階の、三年A組周辺。


「一体どこに……」


 ここまで一直線に来たため、俺は一度足を止めて息を整える。膝に手をつきながら周りを見通すが、人の多い校舎内――特にこの場所からは先々が見通せない。

 桐花はおそらく、この学校の敷地内にいるだろう。だが、これだけ範囲の広い鬼ごっこは、明らかに逃げる方が有利。追いかける側が一人では無理ゲーだった。


「あれ? 朔翔?」


 俺の背中側から声をかけてきたのは、両手いっぱいに食べ物や紙袋を持った泰史だった。


「そういや、稲垣とは会えたのか? ……ってか、俺は桐花さんと一緒いられるよう便宜を図ったはずだけどなぁ。なんで桐花さんいないわけ?」

「悪い。説明の手間が省けて助かった。その桐花を探してんだよ」

「え? どういうこと?」

「説明してる暇がない。二階から上探してくれないか。俺は一階と校舎の外探すから」

「ちょっ、朔翔!?」


 そう言って俺は泰史を置き去りにし、少し乳酸が溜まりつつある足を再び動かして三年F組側へと走り出す。

 困惑していた泰史だが、空気を読む能力に長けてることから、あの説明だけでもなんとかしてくれるに違いない。いや、今はそう信じるしかなかった。


「どこ行ったんだよ……、桐花」


 人混み故、いくら走ってもあまり前に進むことができない。なんとか間を縫うようにして進みF組の横を通過したが、彼女の影はなかった。

 それでもその足のまま北側の廊下を通り、ある場所の前に立った。


「可能性として高いのはここだけど……」


 図書室。

 そこは、かつて彼女が良く利用していた勉強スポットであり、今日最初に彼女と遭遇した場所でもあった。そのため、最も可能性が高いと睨んでいたのだが、扉を開けて中を探索しても彼女の姿はなかった。

 再び、北側廊下に戻り、東側廊下に向かって走っていく。

 途中、西側の喧騒が遠退いていくと、校舎の外――中庭の方からマイクを通じて声が聞こえてくる。咲楽が昨年参加したミスコンの開催は午後二時からだが、今は何をやっているのだろうか。

 いや、そんなことに耳を傾けている場合でも、頭のリソースを割いている場合でもない。何よりも足を動かすことだけ考えろ。

 そうして俺は、ロの字型の校舎を時計回りで回っていった。




「くそっ……」


 場所は一階、西側廊下の南側。かなりの距離を走ったこともあって、俺は早歩きに探索方法を変えていた。その分、見落としがないように念入りに教室内を見渡していく。

 だが、最も可能性の高かった図書室にいなかったことから、一階にはいないとみてもいいだろう。

 この場所から南側廊下を進んだ先には、俺が泰史と鉢合わせた場所がすぐ近くにある。その間、俺や桐花には縁のない教室や部室が並んでいて、可能性は低く感じていた。

 となると、二階より上を探している泰史の連絡を待ちつつ、今度は外を見るべきか。そんな風にこの先を見通しながら、廊下の角に差し掛かる。

 ふと、頭を過った。

 ここの丁度真上である三階で、ばったり遭遇した日のことを。

 今思えば、本当にどうかしていたと思う。「本当にそれでいいのか」と問い詰めるべきは。自分自身だったじゃないか。

 そんな後悔滲む中、曲がり角を曲がった時だ。こんな偶然があるものかと、少し目を疑った。目線の先、南側廊下の中央付近。中庭の見える窓側で、彼女――蘭藍子は静かに外を眺めていた。

 俺はそっと歩み寄り、桐花の行先に心当たりがないか尋ねるつもりで声をかけた。


「中庭で何かやってるんですか?」


 問えば、蘭先生は声の主を確認することもなく答える。きっと声だけで分かってしまったのだろう。


「蔦屋生の主張よ」


『蔦屋生の主張』とは、ある生徒が思っていることを打ち明けたり、何か目標に対して宣言したり、好きな人に告白したりと、個人が多くの人の前で主張するイベントのこと。毎年やっていると聞いたことはあるが、昨年はe-sports部に入り浸っていたこともあり、このイベントを目にするのは初めてだった。


「さ~て、次の方どうぞ!」


 中庭東側に用意されているステージ上で進行役の人がそう言うと、観客たちの視線が一斉に移った。

 その先――西側校舎三階に出っ張るように作られたバルコニーには、これから主張するであろう人が一人立っていた。

 どうやら俺と蘭先生のいるこの場所は、このイベントにおける特等席に近いようで、主張者がとても見やすい。おかげでここからは、その人が誰なのかもはっきりと見える。

 黄金色の長髪。今日は後ろで結われておらず、サラサラとした髪は吹き付ける風で靡いていた。

 彼女は近くにいた人にマイクを手渡されたがそれを拒むと、一歩前進して大きな息を吸い込んだ。


「二年F組、桜美咲楽です。冬のウィンターカップ予選では絶対に優勝して、全国に行きます!」


 澄んだ声はマイクなしでも良く響き、多くの人に届いたのだろう。観衆からは大きな拍手と応援の声が上がっていた。俺もそれに合わせて拍手を送る。

 それにしても、この後ミスコンも控えているというのに、忙しい奴だなぁ……。


「そしてもう一つ!」


 てっきり、終わったものとばかり思っていた咲楽の主張だが、その一言で再び観客たちが耳を澄ます。


「次のテストも絶対、一位になる!」


 これに対して再び拍手が上がるが、どうにもこれは誰かさんに向けられたもののような気がしてならない。その事情を知っているクラス担任、蘭先生はクスクスと笑いながら俺を小馬鹿にしてくる。


「二位以下に対する大胆な宣戦布告ね。その実、主に二位に向けられてると思うけど」

「そうですね」


 まったくやってくれたな……、咲楽。こうも大胆不敵にやられると、次のテストでは負けていられない。

 ……って、今はそれどころじゃない。


「それで、何か用事があったのでしょう? さっきまで多少息が荒かった辺り、急ぎの用事じゃなかったの?」


 そう問う蘭先生はまるでエスパーかと思った。視線はずっと中庭に向いていたというのに、どうしてそんなところまで把握しているのだろうか。


「……ってのは悪戯が過ぎたわ。実際はさっき、小紫君と出くわしたから全部知ってるんだけど」

「……そうですか」


 この人は本当、何を考えているのか読めたものじゃないな。彼女に対する不満を覚えつつ、改めて要件を伝える。


「桐花の行き先に心当たりとかありませんか?」

「いいえ」

「そうですか。では自分はこの辺……、で――」


 行方を知らないなら、これ以上ここに長居している場合ではない。そうして蘭先生の元から離れようとした時だった。

 視界の先、西側校舎三階のバルコニーに見える女子生徒の姿。まさか、有り得ないと一瞬思ったが見間違うわけもない。


「なんであそこに桐花が……」

「なんで、ねぇ。そりゃまぁ、蔦屋生の主張に参加するため、なんて答えは言うまでもなくて、問題はなんで参加しようとしているのか、ってことよね」


 俺の様子を見てそう分析する蘭先生だが、その蘭先生も予想外の行動に目を丸めていた。

 蔦屋生の主張は、元よりエントリーされている人以外の参加も認められている――いわゆる飛び込み参加が可能だ。彼女が元々エントリーしていたという可能性は極めて低いこと、ステージ周辺のざわついた様子から、これが飛び込み参加であることはすぐに分かった。


「おっとここで、飛び込み参加の生徒が来たということで、続きましてはその生徒さんにお願いしたいと思います。ではお願いします!」


 進行役が臨機応変に対応して見せると、再び視線は主張者の方へと集まる。

 今から「何をやってんだ」だの、「何のつもりだよ」だの言いに行くにはあまりにも遅すぎる。行方知れずから一転して場所が分かっている今、無理に彼女の方へ行くよりは、その彼女が何を主張しようとしているのかを見守る方がいいだろう。

 俺はそうして、彼女の方へと改めて視線を向けた。

 進行役に振られた桐花は、マイクを手にして一歩前に出た。その表情にはどこか緊張の色も見える。


「二年A組の桐花燈佳です」


 そう自己紹介する桐花の声は、マイクを通していることにより聞こえやすさはあっても、声色の暗さに会場がざわざわと音を立てる。

 それもそのはず。

 この『蔦屋生の主張』における醍醐味は、主張者が声を張って勢いよく主張するところにある。

 さっきの咲楽のように目標を宣言したり、愛を告白したりするなど、ここで主張する内容は何もプラスに限っているわけではなく、中には「ふざけんなこの野郎!」などといった怒りの声などマイナスの内容もある。ただそれでも、それを笑い飛ばしたり、会場と一体になって盛り上がるのがこのイベントの楽しいところで、今の桐花のような静かで暗雲立ち込める始まり方に違和感を覚えるのは当然だった。

 それでも、桐花は雰囲気に飲み込まれてだんまりしたりすることはない。おそらく用意していただろう言葉を話し始めた。


「私はずっとずっと、周りの皆さんを避けてきました。自分勝手に突き放してしまったことを、まずは謝らせてください」


 桐花は深々と頭を下げた。これもまた異例中の異例で、雰囲気は一気に落ち込み、冷めていく。校舎内の喧騒さすらも飲み込んだ。

 しばらくの間を取り、桐花は頭を上げて話を続けた。


「自分の置かれた状況を嫌って、努力を重ねても結果が出ない中、私は段々と大切なものを見失ってしまいました。それでもそんな私を救ってくれた方がいて、だから私はここにいます」


 その話を聞いて、桐花が突然俺の元から去っていった理由が推察できて、彼女に対して思っていたことがどんどん消えていく。

 観衆はいつしか彼女の話に聞き入っていた。その詳細が分かる人間がごく限られていても、きっと彼女の思いが声を通して、言動を通して伝わっているのだろう。


「そんな彼に、一言言いたいことがあります。答えは直接聞かせてください」


 言って桐花はマイクを口元から話すと、大きく息を吸い込んだ。

 これまでずっと溜め込んできた思いを、全て吐き出すようにして口にする。


「私と一緒に、お化け屋敷に行ってください!」

「――ふふっ」


 あぁ、もう笑うしかないだろ、こんなの。

『蔦屋生の主張』らしい主張を聞いた観衆は、桐花の大きな声に対してか、賞賛の拍手をもって称えていた。

 きっと意味を正しく認識している人なんて、この場には僅かしかいない。

 ずっとずっと自分を殺して縛られ続けた彼女が、こんな大きな場で自分の意思を言葉に、表情に出したその意味を――。


「君は一つ、答えを出したのね」


 そう言う蘭先生は、その意味を理解している内の一人。満足げにそっと瞼を閉じる。


「はい。これが僕の答えです。そして、僕の間違いでした」


 自分の置かれている立ち位置から落とされないよう、誰よりも努力を続ける彼女を救うために出した今の答え。

 成績を上げるためには勉強をもって対処する。それが当時出した俺の答えだった。

 でも、それと相反する方法を持つ蘭先生との対立をきっかけに、桐花のことを知っていく度に感じた違和感から、まるで誘導されるようにして今の答えに辿り着いた。


『私がこういう行動をするのには訳があるの。その訳を君自身で見つけ出せたなら、きっとその時君の解法は私と同じになるから』


 今ならこの言葉の意味が分かる。

 俺はあの時、桐花のことをまだ良く知らなかった。担任ではないとはいえ、少なくとも半年間英語を担当してきた蘭先生の方が知っているのは当然のことで、だからこそあの時、既に確信できていたのだ。

 ただ一つ。問題解決に向かっている今だからこそ、明確にしておきたい点があった。


「どうして先生は、答えに気づいていたのに、自分からは何も行動しなかったんですか」


 当時、まだ答えを知らなかった俺とは違い、蘭先生は既に導き出していた。きっと蘭先生であれば、より早く、よりスマートに解決できたかもしれない。苦しんでいたことを知っているなら、なぜ自ら動かなかったのかが不思議で仕方がない。

 俺が率直に問うと、蘭先生はゆっくりと目を開け、俺を見て言う。


「そうね。それじゃあ、答え合わせの時間」


 ニカッと笑うと、彼女は経緯を口にした。


「君たちは色んな面で真反対だけど、決して相容れない関係性じゃない。むしろお互い、自分の持たないものを持っていることに憧れた、いい関係性だと私は思う。君たちが勉強している様子を初めて見たとき、きっと君に任せることがお互いのためになるんじゃないかってその時感じてね。まぁ簡潔に言うなら、救いたい対象が二人だったってことよ」


 言って蘭先生はポンっと俺の頭に手を乗せて微笑んだ。

 でも、その笑みはほんの僅かな時間で、萎んでいくのと同時に乗せられていた手が静かに離れていく。


「……正直、不安な部分、心苦しい部分はたくさんあったわ。君自身で考え、答えを出せるよう、私は君にできる限り非協力的な立場を貫き通さなければならなかったから」


 実に蘭先生らしい考え方だと思った。

 中間考査の時に仕込まれた巧妙な策。勉強の本質を見誤っている生徒を見極めるために用いた『問五』は、生徒がなぜ点数を取れなかったのかを考えさせる効果もあった。そうして理由を自ら考え、行動に移して勉強の本質を知っていく。

 彼女は、少し回りくどい策を敷きつつ、生徒自身に考えさせるような教育方針を持っていた。いわゆる自主性を尊重するのが彼女のやり方なのだ。

 今回――桐花の件も同様だった。

 あえて俺と桐花に対して直接的なことを言わず、あくまで生徒間できっかけを作り、それぞれが解決のために考えるよう図ったのだ。

 結果、現状維持で満足していた俺は、常に向上心を持ち続け、努力を怠らない桐花との接触をきっかけに考え方が変わり、これまで勉強だけに縛られ続けてきた桐花は、俺との接触をきっかけに自分の本心に気がついた。

 答えを与えることはとても簡単なことだ。けど、それでは与えられた側に考える機会を与えられない。実際のテストでは、自ら考えて答えを導く必要がある以上、答えをただ与えるのは無意味に等しい。

 俺が桐花に勉強を教える際に心掛けていたことでもあり、蘭先生の教育方針にはすごく納得できた。彼女があんな風に対立姿勢を見せ、自らヒールを演じて見せたのも、彼女の策略のうちだったのだ。


「自分の教育理念を崩すべきか否かまで考えたときもあったくらいよ。君たちを思っての行動だったとしても、君たちが傷つくのを見て傷心しないわけがない。ずっと苦しかったわ。……だからこそ、本当に辿り着いてくれてよかった」


 蘭先生はほっとした表情でそっと空を仰ぐ。その姿はまるで、生徒の前では見せてはいけない一面を隠すような、そんな仕草にも見えた。


「正直、思うところがなかったと言えば嘘になります。進路相談の時、いいこと言ってたのが台無しになるくらいには」

「……案外容赦ないのね、酢漿君」

「けど、こうして本当のことが聞けた今は、蘭先生の行動に合点がいきました。だから――」


 俺はそっと後ろに一歩下がると、姿勢を真っすぐにし、深く頭を下げた。

 非礼を詫びるため――そして、蘭先生に対する感謝の意を示すために。


「本当に、ありがとうございました」


 その言葉を受けて、蘭先生がどういう表情を浮かべているのかは目視できない以上分からない。けれど、「顔を上げて」という彼女の声が、どこか嬉しそうに、照れているように聞こえた。

 言われて顔を上げると、彼女は身を捩って視線を逸らしていた。


「その言葉をもらうにはまだ早いのよ」


 それは照れ隠しの言葉かもしれないけれど、その通りだった。

 彼女を救う。その目的はまだ果たされたわけじゃなく、ようやく突破口が見えたに過ぎないのだから。


「先生、自分そろそろ行きますね」


 そう告げると、少し驚いたようにこちらを振り向いたが、思い出したようにうんうんと頷く。


「……あぁ。そういえば、デートのお誘いを貰ってたんだったわね」

「ここでも遠回しに棘を刺してくるのやめてくださいよ」

「まぁ、人は相手に自分の持っていない部分を求めるとか言うからね」

「……? 何の話をしてるのか分からないんですけど」

「分からないなら分からないで構わないわ。だから気にしないで。それより早く行った行った!」


 蘭先生は道を譲るようにして窓側によると、最後にニコッと微笑む。


「頑張ってね」


 その言葉にはどうも色んな意味が孕んでいそうだけど、今はとりあえずいい風に受け取っておく。


「では、失礼します」


 俺は軽く会釈すると、小走りで桐花の元へと向かった。



* * *



 走り出して二、三分。

 西側校舎三階の片端――A組は大盛況となっており、先ほどまでいたF組前と同様の様相が展開されていた。

 その長蛇の列付近をうろうろと歩いて桐花を探したが、その姿は見当たらなかった。

 そもそも、彼女は直接返事を聞かせて欲しいとまでは言ったものの、その集合場所を口にしていない。野次馬が来るかもしれないだとか、そういった細かい配慮があったのかどうかは定かではないが、偶然鉢合わせる可能性は低いように思う。

 最も可能性が高かったであろうこの場所にいなかったので、俺は別の方法に切り替えることにした。先ほどは絶対に応じないだろうと、はなっから選択肢から外していた手段だ。

 スマホを手に取り、彼女の電話番号に電話を掛ける。そうしながらも、F組の方に歩きながら捜索を続ける。


「……」


 一回目、二回目、三回目と呼び出し音が続く。

 彼女にとっての携帯ポジションは、これまでずっと単語帳だった。故に、携帯電話にもかかわらず携帯していないのではないかという疑念すら生じ始める。

 四、五……。

 固唾を飲み、ただ彼女からの応答を待つ。

 六、七――、そして八回目のコールがなると同時に、人だかりで埋まっていた視界が開けた。


「桐花……!」


 F組の隣――階段の前。おそらく俺を探していたであろう桐花と出くわした。

 まさか最も可能性の低い、偶然の遭遇が起きるとは思ってもおらず、俺も桐花も驚くように目くばせした。


「すいません、酢漿さん……」


 でもすぐに、桐花は申し訳なさから視線を落とし、表情には影が下りる。


「なんで謝るんだよ。あんな風にみんなの前で言うことが、これまでの否定になる。だから桐花は『蔦屋祭の主張』に参加したんだろ?」


 本心を内に秘め、あらゆることを勉強に費やすのがこれまで彼女が縛られ続けてきたポリシーで、蔦屋祭の一つのイベントに参加し、自らの本心を晒すことがその否定になる。彼女はそうして、決意を固めたかったのだろう。


「それに、桐花の気持ちはちゃんと受け取ったから」


 俺は桐花の手を静かにとった。その行動の意味が分からなかったのだろう桐花は、顔を上げて俺を不思議そうに見つめていた。


「行くんだろ? お化け屋敷」


 その言葉でようやく意味を理解したのか、彼女は顔を少し赤らめつつ。


「はい!」


 彼女が見せた笑顔は、これまでのどんな笑顔よりも輝いて見えた。

 あくまで見えたのは突破口には過ぎなくても。

 それでもこの笑顔は、正しい道を進んだのではないだろうかと思わせるには本当に十分で。

 俺の表情も、彼女に釣られて自然と綻んでいたのであった。

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